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安倍元首相の「国葬」について考えるⅡ

 かつて織田信長が「本能寺の変」で明智光秀の手により倒された際、備中高松城を水攻
めで攻め落とし、毛利軍との間で講和を取り付けた羽柴秀吉が備中から京都に向けて全軍
とって返した話は、「中国大返し」として有名な話である。
 その結果、四国平定にあたっていた丹羽長秀、北陸を戦線にあった柴田勝家などの諸将
に先んじて、光秀軍を山崎で破り、さらに信長の葬儀を執り行ったことで、織田家の中で
存在を示し、発言権を高めたことが秀吉の天下統一につながったこともよく知られている。
 
 これまで見る限り、さまざまな場面で『~について検討する』と発言し、決断するまで
に時間がかかった岸田首相が、凶弾に倒れた安倍元首相の「国葬」を逝去から二週間も経
たない7月21日に閣議決定し、それを22日には早々と公表した折には「まるで跡目相続
を狙った秀吉のようだ」という感想を私は持ったものである。
ひょっとすると、岸田首相も秀吉のように葬儀を主催することで、いっそう“足場固め”
ができると踏んでいたのかも知れない。
 先に書いた通り、「法令にない」「国葬」という儀式を復活させてまで“祀り上げ”る
に相応しい為政者であったかどうか、評価が定まらない中で国会での議論も経ずに決定
してしまったことに大いに疑問を感じていたが、それは私一人ではなかったようだ。
 その証拠に当時は、国民の「国葬」への賛否は相半ばしていたのだ。
 そうであれば(反対意見が少なからずあれば)、「国葬」にすることを決定した合理
的な根拠をきちんと説明するために、議論を避けずに国会を開催すべきだったはずだ。
だが、残念ながらそれに値する説明は今日まで行われてはいない。

 その発表からほどなく、安倍元首相を殺害した山上容疑者の犯行の背景に「旧統一教会」
との関係があることが続々と報道されるに従って、国葬を否定的にとらえる声が大きく
なってきた。それは、一つには宗教という仮面をかぶった違法行為や不法行為を繰り返し
てきた団体と安倍元首相と深いつながりを持ってきたことやその団体の主張が安倍政治に
浅からぬ影響を与えてきたことに危険な匂いを感じったことに依るのだろう。
 さらにもう一つには、これまでの議員選出(地方も国会も)にかかわる選挙活動に於け
るボランティア活動と称したこの団体の“集票活動”が自民党の党勢に強い影響を及ぼし、
その結果岸田首相の言う『憲政史上最長の8年8ヶ月におよぶ』長期政権の実現に貢献し
たということが明るみに出て、民主主義の根幹である“民意”とは異なる政治が長期にわ
たって行われる事態を創り出してしまったのかも知れない、という疑義を抱く結果になっ
たことも原因としてあるのだろう。
 いずれにしても、岸田首相の言う国葬を催す理由の二つとも、すなわち“長期政権を保
った”ことと、“民主主義を守ること”のどちらもが正当な根拠とはなり得ないだろうと
いうことは明らかだ。

 そもそも民主主義の根幹にあるのは、少数意見や反対意見を尊重するという姿勢を前提
とした上で議論を重ね、よりよい解・より合理的な道筋を求めたり、国と国民の安全や利
益に向かう解決の手段を探ったりすることが肝要なはずだ。
 民主主義とは、そうした過程を経ることが大切なこととして求められる“面倒な”社会
体制なのだ。それを“面倒”だからと言って議論を避け、限られた人間だけで安易にモノ
ゴトを決定したり、異見を排除したり、聴く耳を持たなかったりするような政権が出現さ
せてしまうことがあれば、主権者である国民も“怠慢”“油断”があったとされても致し
方のないところであろう。
 そうした政権監視にあたって重要になるのは、『国民の知る権利』であり、そのために
正しく情報公開がなされなければならないのは言うまでもない。
 安倍政権時代には、さまざまな疑惑が発覚した際に、欺瞞や言い逃れ、証拠隠滅を図る
ように文書の改竄や黒塗りが行われ、国民(それは紛れもなく主権者たる存在だ)の知る
権利が軽んじられる場面がいくつも見受けられた。
 また、異論を排除しようとして国会の審議の場でろうことか首相自らが野次を飛ばした
り、選挙演説中に自らを批判する一部国民に対し『こんな人たちに負けるわけに行かない』
と有権者を分断するような発言をするなど、寛容さ(それが保守の理念だ)に欠ける言動
が頻繁に見受けられたことは記憶に新しい。
 このような民主主義に逆行するような人物 を“民主主義の殉教者”であるかのように
祀りあげることに、国民の多くが大いに違和感と疑問を抱き、否定的な姿勢を見せている
のが「国葬」に対する現在の状況だ。

 また、これまでの議論の中で、こうした事態が「宗教と政治のかかわり」という論点で
語られることも少なからずあったように見受けられるが、これは決して「宗教と政治」も
問題ではないし、「信教の自由」にかかわる問題でもない。それは、オウム真理教に対す
る法の裁きを見れば自明のことだ。違法行為や反社会的行為をすれば、それは当然取り締
まりや制裁の対象になるはずなのだ。
 ここは、そうした反社会的な行為をする(あるいはしてきた)団体と政治家(あるいは
政党)の間に存在する問題を問うているのであって、「宗教と政治」の問題や「信教の自
由」にかかわる問題として“すりかえて”論じるべきではないはずだ。

 党首である安倍氏自身がこの危うい団体と誰よりも深くかかわり、この国の政治を危う
い方向に導く舵取りをして来たことも明らかになってきた。
 安倍元首相の国葬を、政治的に利用したなどという指摘を受ける前に、自ら取り下げる
勇気をもって異なる葬儀のかたちを考えた方が、得策だと考えるのは私一人ではないはず
だし、「反対の声」はますます大きくなっていくに違いない。
それこそ「大英断」として国民に歓迎されるはずだ。

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安倍元総理の「国葬」について考える

 岸田文雄首相は、先日(7/14)、安倍氏の「国葬」を行う方針を示した。
 会見において岸田首相は、『憲政史上最長の8年8ヶ月にわたり、卓越したリーダー
シップと実行力をもって、厳しい内外情勢に直面する我が国のために、内閣総理大臣の
重責を担った』安倍氏の国葬を営むことを通じて、『わが国は暴力に屈せず、民主主義
を断固として守り抜く決意を示す』と強調した。

 長期間にわたって政権を担ったということが、吉田茂元首相以来行われてこなかった
「国葬」を執り行う理由となるということに少なからず疑問を抱かざるを得ない。
 そもそも吉田茂氏以来、首相経験者の「国葬」が行われなかったのは、現憲法施行の
際に、「現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」の規定によって失効して
いることによるのだ。
当時も法令にない「国葬」という形式で行うことに『そうするのなら、まず国会の議決
を経るべきだ』と疑義を唱える声が多かったと伝えられている。

 察するに、敗戦の灰燼から立ち直ったばかりの日本、民主国家として新たに生まれ変
わったばかりの日本にあって、「法治国家」の意味や「民主国家」のありようについて、
政権与党ばかりか野党も十分に認識し、これから“新しい国”を構築していくのだとい
う積極的で且つ慎重な姿勢を持っていたのだろう。
 そこでは戦前・戦中の反省に立って“まっとうな民主国家”として生まれ変わるため
に、国も国民も「よりよい社会」の実現をめざして真剣にかつ謙抑的・自制的に取り組
んでいたのであろうことが窺える。それが先に記した“法令にない「国葬」という形式
で行うことに『そうするのなら、まず国会の議決を経るべきだ』と疑義を唱える声が多
かった”という記録によくあらわれている。
 ここは、それにならって「国葬」という形式が民主国家にとって望ましいかどうかを
見極め、しっかりと国会で議論をすることが望ましいであろう。

 また、岸田首相の言う『わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意
を示す』という説明が「国葬」を行うこととどう結びつくのか、残念ながら私には理解
できない。「国葬」を行うことのどこが“民主主義に資する”のか、論理に飛躍があり
過ぎて腑に落ちないからだ。「法」に則ることを棚上げし、「人情」を優先して何とか
して(凶弾に倒れた為政者を)国をあげて慰霊したいのだ、という思いが先行し論理の
飛躍を生んでいるようにも思える。
 このような重大なことを国会での堂々の議論を経ずに、閣議で拙速とも思えるほどの
速さで決定してしまうというのも安倍氏の手法を「引き継ぐ」姿ということなのか。
 凶弾に倒れた死者にムチ打つつもりは毛頭ないし、テロまがいの殺人などあって良い
はずはない、ということを大前提にした上で、以下のように思うのだ。
 安倍氏を「国葬」で弔うことは、むしろ彼が在任中に行ってきたことに対する批判を
封じ、自由な発言や意見を重視するはずの「民主主義」を損なうおそれがある。
 ゆえに、ここは冷静かつ慎重な、そしてニュートラルな議論による葬儀の在り方を探
る必要があるのではないかと思われてならないのだ。

 各種メディアは、『安倍政治の功罪』という文言でこの政権が行ってきたことの総括
をしようとしているが、本当に『功』と言える部分がどれほどあったか、逆に『罪』の
面では列挙にいとまがないほど、民主政治としては好ましくない、ふさわしくない政権
ではなかったかと思えてならないというのが偽らざる感想だ。
 無恥ゆえの突破力を発揮して、“決め過ぎる政治”を展開し、戦後の政治家がいみじ
くも持っていた謙抑さとは対極の“法を無視(無法な)”した乱暴とも言える政権運営
が目につき、営々と築いてきた民主主義・民主国家のありようを劣化させてきた権力者
というのが彼に対する私の抜きがたい印象だ。
 その内容については、このブログの過去の記述で書いているので省くことにするが、
いくばくかの『功』があったにしても『罪』はそれを凌駕するほどに多く、とてものこ
と、「国葬」で国と国民あげて霊を弔うというほど“祀り上げ”るにふさわしい為政者、
民主国家、法治国家にあるべきリーダーだったとは思えない。
 結論的に言えば、この場合(たとえ志半ばで凶弾に倒れた人物を悼むにしても)「国葬」
には反対である。その理由については、稿を改めて考えたい。

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歴史から学ぼうとしない過ち3

 ロシアのプーチン大統領は、「特別軍事作戦」と称するウクライナ侵攻に関
して、第三国が積極的に介入した場合は「電光石火の素早い対抗措置を取る」
と再三にわたって発言している。『ロシアは他国にない兵器を持っており、必
要に応じて使う』という発言もしているが、それはつまり核兵器の使用も辞さ
ないということなのだろう。
 この状況を千載一遇の機会とするかのように、日本国内では“核共有論”を
唱えたり、防衛費の増額を真剣に論ずる向きが出てきた。
 戦前・戦中に強いノスタルジーを抱く勢力は、戦争に対する強い反省に立っ
て打ち立てられた平和憲法をも改正(悪?)しようとしているかのようにも見
受けられる。

 日本国憲法前文には
 『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想
  を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
  われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、
  専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社
  会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
  われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうち
  に生存する権利を有することを確認する。』
とあり、憲法9条には「戦争の放棄」と題して
 『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発
  動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手
  段としては、永久にこれを放棄する。』
と記されていることは、義務教育課程を修めた国民なら誰でも知っているはず
で、その内容が世界に誇るべき高邁な理想を謳っているものであることも知っ
ているはずだ。

 積極的平和主義と称して「戦える国」にすることを希求したのは安倍元総理
だが、今回の動きは“憲法の精神を無視”する彼の戦前・戦中への強いノスタ
ルジーに傾斜のかかった政策・振る舞いと重なって見える。彼は、専守防衛を
旨とする「自衛隊の存在」そのものが憲法と矛盾していると唱え、その矛盾を
解消するには自衛隊を軍隊として位置づけることの必要性を言い立ててきた。
 確かに武力を持ち、戦える能力を持ちながら「軍隊ではない」という性格を
持った自衛隊の存在は、どこかでスッキリしないものがあるように見受けられ
る。しかし、その活動が国際的な平和維持活動や国内に於ける災害時の救出・
救援・救護など、重要な働きを展開する“平和と安全のための任務”を柱とし
ているということで、国民はその矛盾を乗り越えて納得し受け容れ、存在を認
めているのだ。
 国民は決して「戦える国」とするための戦力として自衛隊を位置づけたいと
願ったり、そのために憲法改正をすべきだなどと希望しているわけではない。

 困ったことに、“戦争を知らなすぎる世代”は戦争の悲惨さ・残酷さ・愚か
しさについても(実感を伴った理解という意味で)“知らなすぎる”ために、
勇ましい言葉を吐く傾向がある。しかもそれを政権担当者がしてきたというこ
とは、「残念」の一語に尽きる。
 国の舵取りを担う政権担当者がすべきことは、人知の限りを尽くして民と国
の安全を図ることであろう。いたずらに国民を紛争に巻き込むことなど、あっ
てはならないはずだ。
 ロシアのウクライナ侵攻や中国による他国への進出などを口実に、日本を「戦
える国」にするという憲法に反することを臆面も無く主張したり、不都合だか
ら(矛盾を解消し“すっきり”させたいからという子どもじみた理由で)と言
って国家の基(もとい)である憲法を改めようとしたりすることなどは、政権
を司る人物としてはあるまじき言語道断の振る舞いだと言って良い。

 憲法で宣言している通り、国際間の紛争解決の手段に『武力を行使』しない
ということは、外交に於ける努力で成果を挙げることが第一義としてあるはず
で、そこに向かって汗をかくことが望まれる。
 いやしくも政治家となる以上、そして政権を担うことを自ら望んだ以上は、
自らの知性を磨き、知を存分に機能させ、一般国民には思いも寄らない巧みな
外交の手段を創出し、実現に向けて手腕を発揮し、紛争解決に導くため文字通
り“身を粉にして”一心に努めるだけの『覚悟』を持っているはずだ。
 その努力を棚上げし、戦後70年以上にわたって営々と築き上げてきた人権
を尊重する平和で安全な国づくりの方針と歴史を覆して「戦える国」への歩み
を進めるようなことは、決してあってはならないのだ。

 ここで話を変えたい。
 ロシアによるウクライナ侵攻は、国際的な深刻な食料危機や燃料危機をも引
き起こしている。とりわけそれが浮き彫りになったのは、この猛暑のさなかの
電力逼迫であろう。石油やガスが十分に確保できないこともあって電気料金も
値上がりし、さらに化石燃料だよりの発電所だけでは十分な電力供給が出来な
いという状況の中、エアコンの使用が欠かせない猛暑に見舞われ、逼迫の様子
が浮き彫りになったのは、つい数日前のことである。
 地球環境の保全に負荷をかけずに、安定的にエネルギーを供給するためにと
原発の再稼働を主張する向きもあるが、それはいかがなものかと思われてなら
ない。安全性の面からも、増え続ける核のゴミの処理をどうするかという問題
の面からも、原発の安易な再稼働に前のめりになるなどということはあっては
ならない。あの東日本大震災による原発事故により、住むところ、故郷を追わ
れ、帰りたくても帰れない人々が多数おいでになるのも、一旦事故が起これば
人間の手には負えない事態に陥るということは目に見えている。それは、ウク
ライナのチェルノブイリの現状からも十分に推測がつくはずだ。

 長い人間の歴史の中で先人が得た教訓、この数十年で私たちが体験した過ち
から得た強い反省などをベースにした展望こそ、よりよい社会を構築していく
エンジンとなるはずだ。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、その著書『精神の政治学』の
中で、「我々は未来に後ずさりして進んで行く」と言っている。
 中島岳志(東京工業大教授)は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの「湖
に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」という一
節が、このあり方をうまくとらえていると言う。
 手漕ぎのボートをまっすぐに進ませるためには、進むのと逆の方向を正視し
なくてはならないが、人間の時間の歩みもそれと同じで、過去を直視すること
によってこそ、まっすぐ前に進んでいくことができる。
それがヴァレリーの言葉の意味するところで、オルテガが言いたいことも、ま
ったく同じだろう、と言う。
 過去を直視したとき、そこに見えるのは「死者たちの風景」であり、死者た
ちの営為をじっくりと見ることによって初めて、私たちは未来に向けて前進し
ていくことができる。
 オルテガは、そのように過去や死者と向き合うことによってこそ未来をまな
ざすことができる、そういう構造を説いているのだと中島は言う。

 私たちは、先人の「失敗や犠牲」から得た英知や教え・理念と向き合いつつ、
それらを「我が事」として捉え、新しい事態に対処していくことで、望ましい
社会をコツコツと構築する努力を積み重ねて行かなければならないのだ。
 地道な努力を惜しみ、一刀両断するかのように「力に頼った解決」を図ろう
とするなどの安直な手段に頼るようでは、国民からも他国からも信頼を得るこ
となど出来そうもない。頼もしい国だという信頼を得られるのは、何と言って
も「歴史から学ぶ」「歴史の教えを無視しない」という姿勢を堅持するかどう
かに依るのだろうと強く思われてならない。

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安倍元総理死去に際して思うこと

 自民党の安倍元総理が、参院選の応援演説のため訪れた奈良県大和西大寺駅前での
演説中に午前11時半頃、背後から銃撃され、午後5時3分死亡した。
 この時代にこんな非道な暗殺事件と呼んでも良いような蛮行が行われると誰が想像
したであろうか。相手が誰であれ、自己の主義・主張と合わないからといって銃撃す
る、しかも民主主義の根幹をなす選挙活動のさなかに行われたということなどあって
はならないことである。
 一方的な暴力や蛮行によって相手をねじ伏せるということは、知性や理性を働かせ
て、互いに納得できる“よさに向かおう”とする理想的な社会、合理的な社会、生き
る喜びが実感できる社会・国づくりとは対極にあるもので、決して許されるものでは
ない。
 この襲撃事件が起きた直後から、報道各局のニュース番組で、こうした暴力的な行
いがあってはならないということを強調するためか、安倍元総理を“外交面で成果を
挙げた”とか“長期政権を保ち”“リーダーとしてその任を果たした”政治家であっ
た“希有な存在”な存在なのに惜しいということを報じる場面もあった。
 殺害することの非を断じることと、殺害された人物を惜しむあまり(ありもしなか
ったよさを列挙して)賞賛することは、別の次元のことだ。

 考えるまでもなく、安倍政権時代には、彼の時代錯誤な前時代への郷愁や民主主義
への無理解と誤認を背景にした非民主的な言動や対応による問題が続発し、政治と政
治家の劣化が著しく進行したものである。
 彼の政治行動と周囲の忖度により、職を追われた人や自ら生命を絶った人、汚職の
責任を身代わりのように負った人などがおり、いまだにそうした疑惑の解明もなされ
ないままというのが実態だ。
 一方的で身勝手な殺害行為によって、かけがえのない生命を絶たれた安倍元総理だ
が、その不条理な行為を断じることや死を悼むことと、安倍元総理の政治的な諸問題
から目をそらし、賞賛して伝えるということとは別の問題だと強く思われてならない
のだ。
 メディアにはニュートラルな立場から、より冷静・客観的に今回の殺害行為の事実
を報道するという姿勢こそ求められるはずだし、自らがそうした姿勢に徹しようとす
る報道理念を持つべきであろう。
 
 翻って思うことだが、いま私が最も怖れるのは、殺害された安倍元総理を悼む余り、
自民党に対する同情が強まり、国民の投票行動にある種のバイアスがかかるのではな
いかということだ。
 今回のロシアによるウクライナ侵攻で浮き彫りになったように、これからの難しい
時代の波の中で、どう舵取りをするかが国会に問われているのだ。
 そして参議院は衆議院での決議をしっかりと見据え、「良識の府」としての機能を
存分に果たすことが求められているのだ。ゆめゆめ知名度の高さや同情といった浮薄
な理由で投票行動を決定するということがないよう、自戒をこめて思っているところ
である。

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歴史から学ぼうとしない過ち2

 国連(国際連合)は、第二次世界大戦の反省に立って設けられた国際組織で
ある。その目的が○国際の平和と安全を維持すること、○諸国間の友好関係を
発展させること、○経済・社会・文化・人道的性質を持つ国際問題の解決及び、
人権と基本的自由の尊重の促進について、協力すること、○これらの目的を達
成するための諸国の行動について、中心となって調和を図ること、であること
は多くの人々に知られ、しかも納得と合意をもって迎えられていることは周知
のことである。
 そこでは、国際間で起こる諸問題について、“平和と安全”そして“人道”
を重視しつつ合意を図りながら“武力に依らない”解決の道筋を形成すること
が重要だとの考えがベースにある。

 国連憲章には、
 ○国際関係の規則や原則
 ○各加盟国の権利と義務
 ○目標達成のための行動指針
 ○国連の主要機関や手続き
の項目が規定されており、当然のことながら加盟国は、この憲章に定められた
目的や原則を受け容れた国で、その実現に受けて協働することが求められるは
ずだ。

 しかし残念なことに、近年自国主義、覇権主義さらには拡大主義とでも言う
べき姿勢をむき出しにし、他国民や他民族(自国民であっても)を差別したり
分断したりする国、そして指導者が出現し憲章に反する振る舞いが横行するよ
うになってしまった。
 ここで思い出されるのは、国際社会に於ける戦前日本の動きだ。先述のよう
に「国際連合」が組織されたのは、第二次世界大戦の反省に立って「国際間の
紛争解決に武力を用いることの愚かしさと怖ろしさ」を二度と繰り返してはな
らないという世界の強い認識に立ってのことだということである。
 大戦に突入してしまったのは、当時の国際連盟が破綻してしまったからであ
るが、その一因となったのは他でもない日本の国際連盟脱退である。
 その国際連盟の常任理事国として主要な役割を担っていた日本であったが、
1931年日本が満州国を占領し、満州国を建国。国際連盟が満州国の存続を認
めなかったことで1933年に日本は国際連盟を脱退したのだ。
 その後、ドイツ、ソ連、イタリアなどが続々と国際連盟を脱退し、第二次世
界大戦の勃発を国際連盟が阻止できなかった理由の一つだと考えられている。

 大戦当時から日本はアジア諸国への進出の大義名分として『大東亜共栄圏』
『八紘一宇』を掲げスローガンとしていたことは周知のことだ。
 『大東亜共栄圏』とは、文字通り東アジアの諸国が日本を核として共に繁栄
すべきだという考えのことであり、『八紘一宇』とは、四方四隅の国々、すな
わち全世界を天皇のもとに一つの家とするという意味である。
 当時の日本がアジア諸国に進出するにあたって、その侵攻を正当化するため
に、このような不遜な口実を設けていたということを考える時、まるで現在の
ロシアの姿と瓜二つだと言わざるを得ない。
 ロシアも『同胞をネオナチの虐待から救う』のだとして、ウクライナに侵攻
しているからだ。言うまでもなく、虐待の事実などないにもかかわらずだ。
 しかし、その同胞の国の子どもや老人を含めた無辜の市民を攻撃の対象とし
ていること、攻撃すべきでない学校や病院までも攻撃の対象とするなど、無法
で見境のない戦闘を仕掛けている姿からは同胞を“守る”という意思を見て取
ることはできまい。
 
 そして何よりも『大東亜共栄圏』『八紘一宇』をスローガンとした大戦前の
日本同様、自国の傘下に入ることが『栄え救われる道』だとする思い上がりに
充ちた不遜な構えにこそ、一個の独立国である他国への侵攻が身勝手な理不尽
さが表れているはずだ。どう言いつくろってみたところで、ロシアの行為は絵
に描いたような国連憲章違反だと言える。ましてやロシアは国連の国際の平和
と安全に主要な責任を持つの安全保障理事会の常任理事国(中国、フランス、
ロシア、イギリス、アメリカ)の一つである。
 そのロシアがこのような憲章違反を犯すという事態は、何よりも常任理事国
としての立場をわきまえない、そして国連の機能をないがしろにしているとい
う意味で国際社会に対する裏切り行為だと言って良い。

 かつて彼我の国力の差を度外視した無謀な戦争への道を進んだ結果、日本は
第二次世界大戦で敗戦を喫したが、その過程で自国民のみならず、アジア太平
洋諸国に於ける犠牲者二千万人以上という史上最大の惨害をもたらしたのだ。
いま「犠牲者二千万人以上」と書いたが、数字で表現してしまうとその実感が
薄れてしまうおそれがあるが、そこで失われたのは一人一人名前を持ち、かけ
がえのない人生を生きていた生身の人間なのだ。敵・味方の区別なく、本来失
われるべきでない命が“二千万人以上”であったことを考えると、戦争がもた
らす罪深さについて深い実感が湧くはずだ。

 かつていにしえの中国で『人ひとりを殺した男は死刑となる。だが、百万人
を殺した将軍は、かえって英雄として絶賛をあびる。この矛盾を黙って見過ご
してよいのか。この矛盾を成り立たせているものは何か、について考え、戦争
が本質的に殺人行為である』として、「非攻」を説いた墨子の言をまたずとも
21世紀の現在にあっても、「殺人行為」に“理”があるかのように一方的に戦
いを仕掛けるということに、長い人間の歴史から何を学んできたのか、と慨嘆
せざるを得ない。

 そうした歴史の反省に立って、国際的な平和と安定について深い認識と理解
を持つべきなのが、安全保障理事会の常任国なのではないかと強く思われて仕
方がないが、今のロシアはその対極にあるとしか思えず、それゆえに諸国から
の信頼を大いに損ない、信頼回復への道は遠いものになるに違いないだろうと
思うのだが、いかがであろうか。


=この稿続く=
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歴史から学ぼうとしない過ち

=歴史から学ぼうとしない過ち=

 『「天下の害」とは、大国が小国を攻める、大氏族が小氏族を痛めつける、
強者が弱者をいじめる、多数が少数をないがしろにする、えせ君子が人民をご
まかす、貴族が平民をさげすむなどのことである。
 また君主が横暴であること、臣下が不忠であること、親が愛情に欠けること、
子が孝養を尽くさぬこと、これも"天下の害〟である。
 まだある。武器を手にし、毒薬を仕込み、水攻め火攻めで、手段をえらばず
殺戮しあうこと、これも"天下の害〟である。』
 
 上に書かれた一文を読んで、まるで現在私たちが目にしている“ウクライナ
で行われていること”の問題点を指摘し、断じているようだという感想を持つ
のは、私一人ではあるまい。
 この文章は、中国先秦時代の思想家、墨子の残したものである。
 その生没年などは定かではないが、墨子が活動したのは孔子よりも後、孟子
よりも前のことだと考えられている。
 そんな時代の人物が、非人道的な他国への侵攻を行い、戦闘員ではない一般
市民に対しても攻撃をしかけ、圧倒的な武力で制圧しようとする「蛮行」ある
いは「暴挙」による問題を的確に指摘しているのだ。
 驚くと同時に、人間は長い歴史の中で何度同じ過ちを繰り返せば良いのかと
慨嘆を禁じ得ない。

 周知のように墨子は、「非攻」を説いた人物である。
 人ひとりを殺した男は死刑となる。だが、百万人を殺した将軍は、かえって
英雄として絶賛をあびる。この矛盾を黙って見過ごしてよいのか。この矛盾を
成り立たせているものは何か、について考え、戦争が本質的に殺人行為である
ことを論証し、戦争こそが最大の不義であることを力説し、論じるだけではな
く東奔西走し各国に働きかけたのだと言われている。

 戦争は避けるべきだ、と説いたのは墨子だけではない。「兵法」でおなじみ
の孫子も基本的に「戦わないことが最善」と説いている。
 『孫子曰わく、兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。
  察せざるべからざるなり。』(孫子はいう。戦争とは国家の大事である。
人々の生死がかかる場であり、国の存亡にかかわる手段であるから、よくよく
熟慮しなければならない。)

 仮に武力で相手に勝利し、征服したとしても将来に禍根を残すことになる。
 だから、戦いは極力避けるべきであり、外交交渉などに知惠の限りを尽くし、
協議を推し進め、衝突を避けることこそ「最善なのだ」という考えをベースに
「兵法」を論じていたことがわかる。
 
 今般のロシアによるウクライナ侵攻では、プーチン大統領が当初から『ウク
ライナにいるネオナチによる、かつてのソ連の同胞を守る』ための侵攻だと主
張しているが、ロシア軍の振る舞いを見ていると、「どちらがナチか」と首を
かしげざるを得ない。“同胞を守る”ために“同胞に銃口を向け”ること、ネ
オナチとは到底思えない一般市民(しかも老若男女を問わず)を殺害し、あろ
うことか学校や病院までも標的にした爆撃をするなどという見境のない、そし
て見当違いな戦略や戦闘ぶりを見て、全世界の人々が納得するはずも、できよ
うはずもあるまい。

 この侵攻が始まった当初から、プーチン大統領が前時代の亡霊(ヒトラーや
スターリン)の蘇った姿であるかのようにしか見えないのだが、それは彼がめ
ざそうとしている(であろう)ことがかつて独裁者として君臨した彼らの行動
原理と重なって見えるからであろう。
 度重なるプロパガンダで国民の目を“真実”からそらせ、不都合な情報は報
道規制をかけて目につかないようにし、返す刀で相手国に“非がある”かのよ
うに装うと同時に、宰相である自分が「国と国民を守護」しているのだと喧伝
するという古典的な手法で自らの権力体制を維持し、自らの意に添わない者は
排除するという生きる者の権利を度外視して扱おうとする前時代的な姿勢から
は、現代にふさわしい国の指導者のそれとはとてものこと思えるものではない。
 考えてみれば、プーチン大統領は諜報機関の出身で、「探知」「謀略」「人心
操作」に優れた人物なのだろうと想像がつく。そして、一方ではその「謀略」
の為ならば、他人の生命を奪うことにも何の痛痒も感じないという冷酷な人物
なのだろうという想像もつく。

 ウクライナはかつてソ連邦の一員だったとは言え、今は独立した民主国家で
ある。どんな理由があろうとも、他国が内政干渉をするなどということがあっ
てはならないし、軍隊を侵攻させ武力を背景に一方的に国の在り方を変えさせ
ようとすることなどしてはいけないことだ。ましてロシアは国連の常任理事国
でもある。自らが首謀者となって国際秩序を混乱させるなどもってのほかの事
ではないか。
 このようなことでは、以降ロシアを信頼できる国家であると認める人は少な
くなるであろうし、プーチン氏も悪いモデルとして歴史に名を残すことになる
のではないだろうか。

=この稿続く=

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こんなものを作ってみました

こんなものを作ってみました。

○谷川俊太郎の詩による小さな混声合唱組曲
http://chorfrid.starfree.jp/tani/tani.html


○映像と音楽による「言葉のない詩集」
http://chorfrid.starfree.jp/poem/poem.html

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暴走と逆走の挙げ句に

 菅総理が次期総裁選挙への不出馬を表明した。あまりの「私利・私欲」、そ
して人事権を盾に権力をふるうことに執着する“自分のための政治”への姿勢
等々が露呈し、市民からの信頼を失ってしまったことに依るのであろう。
 どうみても深遠な知性に根ざす見識や常識、危機を回避するための想像力や
懐の深い人間観、先見性に基づく幅広い世界観など、国のリーダーとして持つ
ことが望まれる「知力と人間力」を欠いたこの人物の姿が、信頼できる姿では
ないこと、遠く隔たったものであることが白日の下にさらされてしまったから
ではないかと思われてならない。

 菅政権の発足からの一年は、コロナ禍をどう乗り越えるかが政府にも市民に
も問われた一年であった。問いを解決するには、何よりもその問いに真っ正面
から向き合い、不都合な真実にも耳を貸し、科学的な予測や判断に立って対策
を立て、結果を検証しつつさらに次の対策を施していくことが必要だ。
 理系の科学であれ人文系の科学であれ、はたまた社会系や医系の科学であれ、
学問に対する研究の姿勢はそうした“問いに対する謙虚な”態度に尽きる。
 ところが、学問を軽んじる安倍・菅と続く政権からは、そのような態度は窺
えず、むしろ独善と独断に立つ“問いへの真摯な構え”からは大きく乖離した
浅慮としか思えない姿ばかりが目についたというのが偽らざる感想だ。

 以前にもこのブログに書いたことであるが、「学問」とは、“問いに対する
正解、答え”を教わって“覚える”ことではない。それは“問うことを学ぶ”
ことであり、そこで培った力や構えを生かして“問い”に対するよりよい答え
を粘り強く見いだすことのできる人間として自らを育てていくことである。
 今次の新型コロナウィルスは、そしてその多様な変異株には未知の部分も多
く、対処に世界中が苦慮している。だからこそ一層、問いに対して真っ正面か
ら向き合う科学的な態度で対峙していくことが肝要であるにもかかわらず、科
学を無視した楽観的かつ独断的な姿勢は慎むべきであるはずだが、この一年間
の政府の対応は残念ながらそのようなものではなかった、と言って良い。

 ビル・ボールディング(デューク大学フュークアスクール・オブ・ビジネス
学長)は、「リーダーにはIQとEQだけでなくDQが必要である」と説く。
 IQは「知能指数」、EQは「心の知能指数」であることは周知のことであ
ろう。彼が言うには、リーダーには加えてDQ(良識指数)が必要だという。
 EQ(心の知能指数)は、他人と自分の感情を理解し、いわば共感できるこ
とによって、それに基づいた行動をとろうとする能力や態度である。
 しかし、と彼は言う。『他人の感情に気づいたり、共感を抱いたりすること
は、思いやりや品性があることとは違う。EQを利用して、人を都合よく操る
こともありうる。EQの高い人が、正しいことをするとは限らないのだ』と。

 以下引用である。『良識指数(DQ)は、EQを一歩進めたものだ。DQが
高いということは、社員や同僚に共感するだけでなく、彼らの力になりたいと
純粋に願っていることを意味する。職場の全員にとってポジティブなことをや
ろうとし、全員がリスペクトされ、大切にされていると感じられるようにする。
DQは、人を正当に扱うことを重視するのだ。』
 
 翻って考えてみよう。その三つの指数のうち、菅総理が高く持っているもの
はどれであろう。残念ながら、官房長官時代を含めてこれまでの振る舞いから
察するに、合格点を見いだせるものがなさそうである。共感や納得を伴って、
信頼できると思えた政策が見つからないからだ。
 さらに、多くの国民が“尊重され大切にされている”と心底実感できるよう
な施策も見いだすことができないのだ。
 一方で、良識を疑うような“説明に事欠く”施策、納得の行かないチグハグ
あるいは筋違いで行き当たりばったりとしか思えない施策などは枚挙にいとま
が無い程にある。
 リーダーとして備えることが望まれる三つの指数が示す能力や態度が不十分
であるにもかかわらず、権力をいたずらに乱用し、服従を迫る態度からは、こ
の人物が国や国民のために自らを捨てても責任をもって舵を取り、努めるとい
う姿は窺えない。政権の座に就いたのも、大きな展望があってのことではなく、
単に“権力をふるって”“自己の権勢を誇り”たいというだけのことだったの
ではないかと思われてならないのだ。
 いやしくも政治を志すのであれば、中学生や高校生程度の「公民」や「憲法」
についての知識を常識程度には持っていても良いだろうと思えるのだが、国会
を軽視したり、三権分立を無視するかの如き姿勢からは、それさえも満足でき
るようなものではなかったように見受けられる。
 
 政治家として自己を高める、深める、磨くといったことを棚上げする一方で
奸計と呼んでも良いような企みや策を弄することには長けていることに、国民
の多くが気づいてしまったのだ。しかも、言論の府に身を置く国会議員であり
ながら、言葉にも内容にも説得力がない、さらに議論を避けようとする姿勢に
もリーダーとしての資質を疑うようになってしまったことは疑いようがない。
 議論を避ける、そして多くの懸念に耳を貸さず、GoToキャンペーンや五
輪の開催を強行する姿勢に、なお一層の不信感が募り、それが「この首相のも
とでは衆議院選挙が戦えない」という与党議員の危機感につながり、首相から
距離を置く動きや反発が高まったことが首相自身の“総裁選不出馬”という判
断をもたらしたのであろう。

 この一年間の動きと総理辞任の動きを見ると、私には次のような光景が思い
浮かぶ。
 それは、急な下りの坂道で対向車線を逆走し、しかもブレーキとアクセルを
踏み違えて止まることを知らず、猛スピードで対向車線のガードレールに衝突
し自爆するという光景だ。
 己の力量を過大評価し、己の策に溺れ、己の政権維持だけに執着した挙げ句
の退陣としか思えないが、この一年間、さらには前安倍政権から屋台骨として
活動してきたことを考えると、この数年間に及ぶ安倍・菅がもたらした政治の
崩壊と劣化についての責任、強権的な政治によって国民を危難に陥れた責任は
重大で、まさに“人災”と言って良いが、こうした非常識かつ勘違いに充ちた
人物を総理・総裁として選出した政権与党の自由民主党の責任も問われなけれ
ばなるまい。
 与党議員として、安倍・菅両氏の“自爆事故”だと言ってヒトゴトのように
責任逃れができる立場ではないのだ。いずれ近いうちに衆議院議員選挙が催さ
れるが、私たちが主権者として政治にかかわる権利を行使できる唯一の機会で
あるその選挙に於いて、どういう選挙行動をするかも問われていることは疑い
ようがない。
 
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露呈した政治の愚かしさ

 「やはり」と言うべきか「当然の帰結」というべきか、五輪開催が最終的に
決定されてから、国内の感染者数増加に歯止めがかからない。一方では緊急事
態宣言を発出しておきながら、バブルで海外からの五輪関係者を囲い込み、国
民との接触を抑え込むから「安全・安心」だと注意喚起とは対極の“弛緩”を
促すような働きかけをしてきたことが、直接・間接的に人の動きを作り出して
きた結果がこの状況だ。
しかもそうした安全を担保するための水際対策も、入国後の移動監視も、実効
性に乏しい“穴だらけ”のザルのようなものであることが明らかになった。
 先述のように、「危機管理」とは“最悪の事態”を想定して、微に入り細に
わたって検討・検証し、文字通り“水も洩らさぬ”態勢を整えることを目指す
ことが求められるが、楽観的な現政権は大まかな、いわば粗雑な態勢づくりで
世界的な困窮事態下での“お祭り騒ぎ”の開催に前のめりになってきたのだ。
 
 現政権がこれまでに見せてきた我々から見れば“ちぐはぐ”、“お門違い”と思わ
れる施策は、何よりも科学的な情報や学問的な知見を軽視したり無視し
たりして、自らの打算や利権に目を奪われ、見るべきものを見失ってしまった
ことに依るだろうと思われてならない。
 それがまた、この五輪開催に突き進んだ姿勢でも窺える。
 いつぞやは、『東京オリンピックの開催をめぐって、菅総理大臣はアメリカ
の有力紙ウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューで「やめることは、
いちばん簡単なこと、楽なことだ」としたうえで「挑戦するのが政府の役割だ」
と強調しました』と報じられた。
 世界各国から参加する選手をはじめ五輪関係者、そして国内選手はおろか日
本国民の生命を守ることが優先されるべきであるにもかかわらず、それをカタ
にして“挑戦する”というのだ。そしてそれこそが政府の“役割”だという。
認識違いも甚だしいと言わざるを得ない。何のために人々の生命を危険にさら
してまで、そして何に挑戦しようというのだろうか。

 挑戦したいのは、落ち込んでしまった政権への支持率が、五輪の祝祭気分で
盛り上がればそれにつれて上がるだろうという期待があったからだろう。
 だが、それはどこまでも総理の個人的な願望でしかない。この政権のしてき
たことを振り返ってみると、どう見てもこの為政者の私利私欲のためのもので
しかないように思われてならない。
 日本学術会議の任命拒否問題にしても、後手後手のコロナ対応にしても、ま
た自身の長男による「東北新社の官僚接待」の問題への対応、そしてコロナ禍
に於けるGoToキャンペーンという誤った政策、そして今回の五輪開催強行に
しても、真摯な説明や納得の行く論理的な説明がなされない、つまりは「説明」
してしまえば民主社会の為政者として“世の理解”が得られないことをわかっ
ているからこその『不説明の態度』であることが明らかに透けて見えるからだ。
 
 さて、オリンピックは世人の不安と危惧をよそに“安心・安全”だとばかり
強行開催され、閉会を迎えた。終わってみれば、案の定コロナの感染者数は日
を追うごとに急激なカーブを描いて拡大し、専門家からは『もはや手の施しよ
うがない』と言われるほどの危機的な状況に陥ってしまった。
 感染拡大と五輪の開催は無関係だと政府は言い募るが、そんなことはあるま
い。間接的に国民の危機感を緩め、五輪をやっているほどだから街なかを出歩
いても支障はないだろうとか、間近で声援を送るために沿道で密集することに
ためらいを感じなくなってしまうとか、ひいてはの選手の活躍や勝利を祝って
(あるいはそれを名目にして)屋外で酒盛りをすることに躊躇しなくなるなど
の「緩み」を生ましめることにつながってしまったことは疑いようがない。

 五輪の競技は、そもそも国家間の力を競うものではない。まして獲得したメ
ダルの数を競うものでもない。選手一人ひとりが、自分の力の限りを遺憾なく
発揮して、互いに磨いてきた技や力量を認め合い称え合って、フェアプレイの
精神を全世界に向けて伝えていくという姿が近代五輪の趣旨に他ならない。
 にもかかわらず五輪の期間中、日本の各マスメディアはこぞって各国のメダ
ル獲得数ランキングを伝え、金メダルの獲得数が過去最大になったなどという
ことまで報じていた。国家間の競争ではないことを承知してのことかどうかは
不明であるが、そのこと自体、五輪憲章の理念とは遠く隔たった態度であるこ
とは明白である。
 であるにもかかわらず、あろうことか我が国の総理は金メダルを獲得した選
手に祝福の電話までしたという。それはつまるところ選手の活躍を賞賛するこ
とで、大会の成功をアピールし、「コロナ禍でも開催して良かった」という気
分を国民の間に広め、政権への評価が上向くことを期待したのだろうことは、
容易に想像がつく。
こうした理非をわきまえない浮かれた姿勢を開催国のリーダーが示したという
ことについては、国民の一人として残念と言う他はない。

 どう考えても、「国民を守る」ということよりも、自身の保身と権力の維持
とその権力を振るうことの方に関心が向いてしまっているとしか思えない。
科学的な知見を軽視し、さして根拠があるとは思えない独断と楽観的なものの
見方に拘泥し、ニュートラルな考えに立つ舵取りが出来ない人物であることが、
このコロナ禍に於ける対処の仕方で分かりすぎる程に明白になった。
 展望がないから多くの人に納得してもらえるようには語れないし、理解して
もらえるような説得力のある説明もできない、さらに自分で語っている内容を
きちんとした理解できているとも思えない話し方などから窺えるのは、国難と
言って良いこの困難な状況下に於けるリーダーとして相応しい人物なのかとい
うこと。悲しくも残念なことだが、こうしたことが明らかになったこと、そし
てそれを良い方向に持っていくための「見直す」契機と機会が与えられたこと
を唯一の福音と捉えて、私たち国民は方向転換を目指すべきであろう。
 
 人間は“失敗”から学ぶことが多い。成功体験から学ぶことも多いが、成功
体験はともするとその成功にすがってしまいがちだ。
しかし、失敗の体験は自ずと「自己変革」や「知的体系の再構築」に迫られる
ことから「変われるチャンス」とすることができる。
 それは自らの近々の体験に限らない。先人の歴史上の“失敗”も含めての話
だが、それゆえに歴史に学ばない社会、あるいは学べないリーダーが、国民の
信頼を得て、確かな方向を模索し、自らが「責任と覚悟」を以て確かな歩みを
進めることなど期待できようはずがなく、期待すべきでもない。
 何よりも“独断”ではなく(学びをベースにした)確かな“知見”に基づい
た見識豊かな“眼力”をベースとした舵取りの力と構えが不可欠なはずだ。
 
 結論的なことを言えば、このコロナ感染拡大を食い止めるために案出された
様々な対策が効果を上げないのは、政府が国民の“信頼”を失わせるものでし
かなかったことによる。
 すなわち、総理がリーダーとしての「資質や能力」に欠けていることを自ら
露呈してしまったことが、国民の“信頼”を失わせた最大の要因であり、感染
の拡大を食い止められない状態に陥る現在の状況を生んだのも感染拡大を防止
するとして案出された様々な対策に国民が納得できないという“不信感”が根
底にあるからだ。
 そして、その“不信感”が生じる背景にあるのは、質問や疑問に“真摯に”
答えようとしない“不誠実”な態度、危機意識が希薄そうな“楽観的な言動”、
そして何より恫喝的な姿勢を駆使しての専制的な政治手法など、国民の多くが
「好ましい」、「頼もしい」とは決して思えない姿勢が浮き彫りになるばかり
だからであろう。
 
 自分たちと同じ地面に立ち、自分たちと同じモノゴトを見つめながらも国民
にとって、ひいては国の充実にとって“より望ましい方向”を高い視座から指
し示し『共に向かおう、築こう』と導いてくれる“頼もしい”為政者とは対極
の姿しか見えないことに落胆し、気持ちが離れてしまった結果が支持率の低下
に表れているに他ならない。

 落胆の始まりは、総理が「自助、共助、公助」を政治目標として掲げたこと
であろう。それがベースにあったからだろう。コロナ感染の第五波に襲われ、
医療体制の逼迫が現実のものとなった時に、中等症以下の患者は、宿泊療養か
自宅療養を基本とするという方針を打ち出したのだ。これは各方面からの反対
で撤回されたが、“国が責任を以て民を救う”ことを放棄し、国民は自力で治
癒すべき、すなわち“自助”の精神で平癒に向かえ、と言わんばかりの転換と
して受け止められたものだ。多くの国民が『このコロナ禍のさなかに五輪を開
催すべきではない』と懸念を表明したにもかかわらず、開催を強行し、その挙
げ句に感染拡大を招いてしまったことを棚に上げ、一時でも『自宅療養で自ら
を助けよ』と表明したことに、多くの国民は憤りを感じたはずだ。

 現政権が発足してからほぼ一年が経とうとしている。その間に菅総理が、そ
して菅政権が見せてきた綻びや歓迎できない事態に、驚き、呆れ、嘆き、イヤ
な気配を感じ取っている国民は少なくないはずだ。
 つづめて言ってしまえば、前時代的な専制君主のような為政者をこそ「自己
の目指す姿」としていることが透けて見えるからこそ、しかも多くの国民から
見れば“その任に耐えない”“能力に不相応な”望みに過ぎないと判明してし
まったことが、そうした「現政権観」を作り上げているのだと言える。
そしてその「現政権観」は的外れなものではないと言えるであろう。

 ここで私たちは立ち止まって考えるべきである。『他にかわる政党がない』
とか『自分の一票では無力だ』などという消極的な理由で政治参加の唯一権利
を疎かにしたり、放棄したりせずに、政権を担うべき政党をしっかりと選択す
べきだということを。
 この国難に際してのことだ。まっとうな政治で国を立て直していくために、
私たち国民が政治に参加できる唯一のチャンスを大切に行使して行きたいもの
だと痛感するばかりである。

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オリ・パラ開催の是非を問う

 コロナウィルスの変異株による感染が拡大し、パンデミックの怖れがあるに
もかかわらず、オリ・パラを開催するかどうかの議論は影をひそめ、いつの間
にか大会を有観客で行うか無観客で行うかを議論するようになったかと思えば、
それも棚上げにして観客数を何人にするかといった具合に、なし崩し的に
開催に向けて動き出してしまったようである。
 
 事前合宿で訪れたアフリカのウガンダの選手9人のうちの一人が感染者であ
ることが判明したにも拘わらず、空港検疫で濃厚接触者の検査・指定もせずに
大阪泉佐野市に移動させてしまったと報じられた。しかも検疫では、事前合宿
をする市の保健所で濃厚接触者の検査をしてしかるべき対応をすべきだと考え
ていたという。
 これが政府の言う「安全」を確実にするための「水際対策」ということだと
すれば、まるで水漏れがしても致し方のないザルのような“緩い水際対策”と
しか言いようがあるまい。「水際対策」とは、「水も漏らさぬ万全の手立て」
を構築し、危険な要因を排除し食い止めることに他ならないはずだ。
 たった9人の選手団ですらこの有様だ。これからその比ではないほど数多く
のアスリート、大会関係者、メディア関係者が続々と入国してくるのだ。
本当に“確実”に“水際”で食い止めることなどできるのであろうか。
素朴な疑問を抱かざるを得ないし、そうできると政府もIOCもJOC考えて
いるとすれば、余りにも楽観的だと断じざるを得ない。
 
 そもそも、水際対策を万全にと考えるのであれば、詳細にわたる緻密な計画
が必要であるにも拘わらず、それが出来ていなかったとすれば、それはリスク
を想定することが出来ていなかった「想像力の欠如」を露呈したものだ、とい
うことになる。不思議でならないのは、『リスクを避けるために有効なこれだ
けの手を打った』という具体的で根拠の確かな説明もなしに『安全だ』という
主張を繰り返すだけの空虚な訴えが“通ってしまった”ことだ。
 根拠のない気合いで大会を強行しようとする姿勢は、まるで連合国軍を相手
に無謀な戦争を仕掛け、幾多の兵士や国民を犠牲にし、惨敗するに至った先の
大戦を思い起こさせる。
 その開戦時には、大正デモクラシーを経験した市民でさえ、まるで熱に浮か
されたように快哉を叫び、日の丸の小旗を振って沸き立ったと言われている。
 政府とJOCは、どんなにオリ・パラの開催に反対しても、いったん大会が
行われ日本の選手が活躍すれば、(あの開戦時と同じように)国民は沸き立ち、
開催して良かったと思い、ひいては政権の支持率浮揚に大いに貢献するだろう
という期待を持っているのであろう。

 だが、従来のコロナウィルスだけでなく、デルタ型の変異ウィルスが感染の
多くを占めるようになり、感染者の増大はさらに新たな変異株の出現が起きる
ことも予想される。
 そうなれば、日本国民だけではなく、各国のアスリート、大会関係者、さら
に報道関係者がそれを自国に持ち帰って蔓延にいっそう拍車がかかるであろう
ことは想像に難くない。
 聞けば、既に入国している関係者の中には、ホテル付近のコンビニやレスト
ランなどに自由に出入りしているというし、公共の交通機関を利用して活発に
移動しているというではないか。
 それは入国者の行動管理をアプリその他で徹底するという方針が、有名無実
なものでしかないということの証左だ。こんなことで管理することは不可能だ
ろうという筆者の予想は、的外れではなかったと見ている。

 どこからどう見ても、政府の言う「安全」が心許ないものでしかないように
見受けられて仕方がない。本日(6月30日)夕刻の報道で、東京の新規感染
者数が714人、死者が3人と報じられた。
700人を超えたのは5月26日の743人以来のことだ。
感染者が前の週の同じ日に比べて増えたのは11日連続となったという。
都内の直近1週間の人口10万人当たりの新規感染者数は約25.5人となり、
緊急事態宣言を発出する目安の一つである「ステージ4」相当の基準となる
25人を超えたとのことだ。
 厚労省で開かれた専門家の会合では、都内の今後の感染状況のシミュレーシ
ョンが報告され、それによると、「まん延防止措置」の効果が不十分な場合、
インド型ウイルスの影響が少なかったとしても、来月中旬には一日の感染者数
が1000人を超える可能性があるし、五輪期間中に人出がさらに増加した場合、
感染者の数は来月下旬には一日2000人を超えると試算していると報じられた。
何をもってして『安全な大会』と胸を張れるのか、理解に苦しむばかりである。

 世界各国に新たな変異株を野放図に持ち帰らさないために、そして確かな判
断を下して『人類にとって歴史に残る素晴らしい開催取りやめ』をしたオリ・
パラとして記憶されるものにできる良い機会だ。少なくても人類を危機に陥ら
せる“イチかバチかの賭け”を、日本国内の政治的な思惑でする愚行は絶対に
避けるべきだ。オリンピック精神の発露は、そんなギャンブルとは無縁のもの
だし、最も遠い対極にあるものだと考えるからである。

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