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民主国家の危機6

 ここまで書いてきたところで、東京五輪にまつわる騒動が起きてしまった。
 森義朗組織委員会会長の女性蔑視発言が取り沙汰され、国内外から批判の
声があがり、辞任に追い込まれるという事態とその後の様子である。
 女性を蔑んだ覚えはないというが、オリンピック憲章には『人種、肌の色、
性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会
的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差
別も受けることなく』と明記されていて、多様性を尊重すべきだとする理念
が掲げられているのだ。
 こうした理念を実現するための全世界にわたる意志的な動きこそが重要で、
その頂点として開催されるのが、オリンピック大会だという認識を地球規模
で持つことこそ望まれているのだ。
 いやしくも「組織委員会の会長」であれば、そのような認識をベースとし
て持っていることが当然であろう。ご本人は“ウケねらい”の冗談のつもり
でつい言ってしまったことかも知れないが、まるで朱子学を奉じた江戸期の
男尊女卑社会の人間を彷彿とさせる物言いに驚き呆れるばかりである。
 会長を辞任する際の会見で見せた未練気な様子からも、「多様性を認め尊
重する」ということについて心底理解しているようには思えなかった。

 多くの人が違和感と反感を覚えたのは、『女性がたくさん入っている理事
会は時間がかかる』という発言、その一方で評価する女性理事を評価する際
に語られた『わきまえておられる』という発言であろう。
 しかし意見を戦わせて、合意形成を図りよりよいものを構築しようとすれ
ば時間がかかることは当然のことで致し方がないはずである。
 民主主義とは“めんどう”なものなのだ。意見を出し尽くして誰もが納得
できる結論を得るということを前提にしているのが民主主義なのだ。だから
『たとえ多数決で決まっても少数意見があったことを尊重する』という姿勢
が重要なのだ。“めんどう”で安易に決め過ぎないことこそ大切だということ
が民主社会を深化させる上での暗黙の了解事項なのだ。
 議事の上すべりな進行を妨げないように“わきまえて”意見表明すること
を自ら抑制することが優先されれば、もうそれだけで民主主義の前提が崩れ
てしまうのだ。
 民主主義を標榜する日本をリードすべき総理大臣まで務めた人間であれば、
そうしたことについての理解は十分になされていて良いはずだが、どうやら
そうではなかったらしいことが窺える。

 森会長は、つまり女性蔑視につながる発言、民主主義に反するような発言
という二つの意味で認識過誤をしているということが言える。
 しかも、もっと言えばそれらの発言が五輪憲章の最も重要な理念に反する
もので、その発言が一般人からではなく東京オリンピック・パラリンピック
を統括する「組織委員会長」の口で語られたものであるということが、世界
の人々から『どういうことだ』『日本でオリンピックをして大丈夫なのか』
と疑念と不信感を抱かせることにつながってしまったのだ。
 
 さらに驚くことに、自ら会長職を退くにあたって、組織委員会の評議員を
務める川淵三郎氏に密かに就任要請をしたという。自らの責任をとってその
任を退く本人が、後任者を指名するという組織を無視するかのような振る舞
いは、どうした心根から生じるのだろう。
 推測するに、公平で透明性のある決定過程を視野の外に置き、「根回し」
をすることで、自分にとって都合の良い結論に導くためのカビの生えたよう
な古色蒼然とした手法に慣れてしまい、感覚が鈍化してしまったということ
なのではないだろうか。
 さすがに組織からも「密室政治」との批判がなされ、改めて候補者検討委
員会が設置され、選定方法や候補者の検討に入ったという。
見るところ、最後の最後まで批判されているいずれの内容についても、良識
をもってまっとうな理解がなされていなかったのではないかと思われてなら
ない事態である。

 この度の東京五輪にまつわる混乱や新型コロナの「収束が見えない」感染
拡大の景色は、現在の日本が抱える多くの実情と課題を明らかにしてくれた
ようである。

=この稿続く=

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民主国家の危機5

 暮れから新年にかけて、『勝負の三週間』と言い立て、さらに『真剣勝負
の三週間』を過ぎても、一向に新型コロナ感染拡大が収まらず、とうとう
1/8~2/7の期間を埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の一都三県に、さら
に1/14~2/7まで栃木県、岐阜県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、福岡
県に緊急事態宣言を発出した。
また、その他の県でも独自に緊急事態宣言を出す動きも出ている。
 
 一方で、菅政権の支持率は、毎日新聞と社会調査研究センターが16日に
行った調査によると33%、不支持率が57%と不支持率が大きく上回ったと
伝えられている。
 この政権のコロナ感染拡大に対する対応に対する不満や不信、さらに危機
管理能力に対する不信感が如実に表れているのだろうと思われる。

 しかし緊急事態宣言が発出され、不要不急の外出を避けるよう要請が出た
後も、首都圏の人出は昨年春の緊急事態宣言時に比べると、減少するどころ
か増加傾向にあるという。
 当然と言えば当然のことかも知れない。コロナに対する危機感が麻痺した
り、緊張感が緩んだりしているのだろう。あるいは政府の自粛要請そのもの
に『人との接触を避けることが確かに大切だ』と納得でき、今は外出を控え
て感染拡大を食い止める動きを起こさなければなるまいと強く思えない状況
にあるのかも知れない。
もちろん、自分たちは若いし、感染してもさほど深刻な状態になることはあ
るまい、という油断も生まれているのかも知れない。
 
 こうした油断や麻痺、緩みがどこから生まれたかと言えば、政府が推し進
めたGoToキャンペーンにあることは火を見るよりも明らかだ。
 多額の予算を注ぎ込み、観光地に行け、外食に出向けと国民の背中を押し、
医学の専門家から懸念が表明されてもおかまいなく、感染が拡大して批判が
集中し、支持率が下がるまで一向に停止に踏み切ろうとしなかったことが、
国民をして『出かけても良いのだ』、『外食をしても良いのだ』という気分
にさせてしまったのだ。
 ところが、予断を許さない感染拡大が起きた途端、手のひらを返すように
(地域を限定してではあるが)緊急事態宣言を発出し、しまいには要請に応
じない対象には“罰則を”などと軽々しく子どもじみた稚拙な対策を口にし
始める始末である、

 一般市民や事業者、病院などを罰則という強制的な手段で従わせようとす
るのが、お門違いであると認識できていないのだろう。菅総理は、官房長官
時代から官僚の人事を握ること、つまり政権にとって不都合な官僚を冷遇し
従わせてきた人物である。民主国家にとって、それが望ましいことでないの
は論を待たないが、その同じ手法と論理でコロナ対策をしていこうとしてる
かのようである。
 私は永年教職に携わってきた人間であるが、この風景は学校現場でよく目
にした光景を想起させる。
 児童・生徒は、学級会や児童会(生徒会)などで、話し合ったことが守れ
ないクラスメートがいたりすると、安易に罰を加えれば良かろうと結論づけ
ようとしたものだ。
 なぜ決まりを守れないか、話し合いで決定したことがらを守って自らを律
した方が自らにとって“良いことだ”と思ってもらえるように、周りの自分
たちに何ができるか、何をしてあげられるか、とその子の立場に立って考え
ることを放棄し、罰で“縛る”ことをまず考えるのだ。罰則で“縛って”も、
その子の成長や変容に寄与できないことに気づかず、安直に手っ取り早く問
題を解決できる術(すべ)として、罰則をと主張するのであった。

 現政権の持ち出した罰則を伴う法案についての報道に接して、まず第一に
思い浮かべたのは、上のような様子であり、何と子どもじみた、浅薄なことを、
という呆れた思いである。
 罰則をと言うなら、まずは政権側にこそ課されるべきであろう。
 先述のように、今次の感染拡大を招いたのはGoToキャンペーンに固執し
た失政やその後の後手後手の弥縫策とも言える失策、対応の迷走、危機管理
の甘さなどが要因だと考えられるからである。
 自らの失政や失策を棚にあげて責任を他に転嫁するかのような振る舞いは
『国民の安全と安心を』と公言するリーダーにあるまじき行為である。

 感染拡大を抑えるためには、まず外出を控え、他との接触を避け、無自覚
に大声で会話することを避けるなどのことが必要なはずだ。緊急事態宣言の
効果は、その点にこそあるはずだ。国民の多くが政府の説明に納得し、進ん
で“そうしよう”“そうしなければならない”と思い、自己の行動を積極的
に抑制する方向に向かうには、政府とりわけリーダーとしての菅総理の説得
力を持った呼びかけが必要であろう。
 そして、(ここからが大切なことだが)そのためには、これまでの自らの
失政について謝罪し、その失策を挽回すべく具体的に、そして詳細に練った
対策を示し、国民が納得でき得心の行く真摯な説明をすべきなのだ。
 
 今は全世界が同じ危難に、しかも解決の道筋が不透明な難問に立ち向かっ
ている時だ。ウィルスとの戦いに様々に知惠を絞って挑もうとしているので
あって、正解の見通せない混乱のさなかなのだ。
判断ミスもあるかも知れないし、善かれと思ったことが逆に効果をもたらさ
ないということもあるかも知れない。しかし、この一年間の新型コロナウィ
ルスとの戦いで学んだこと、わかったことも少なくないはずだ。
 その経験を通して、国として失策をおかしてしまったということがあれば
それを衷心から反省し、その失敗を生かすべき戦略を立て直すという姿勢を
もって国民に説明をすることが肝要だ。
 リーダーというのは、その覚悟をもってことにあたる責任を負った人間で
あるはずだ。ドイツのメルケル首相の言葉が国民の胸に響き、改めて戦いに
挑む構えを共有できているというのも、そうした覚悟と何よりも自らを真摯
に見つめ、科学的な目で省みる眼力をもって語りかける為政者としての構え
を貫いていることにあるはずだ。それが国民にもよくわかり、信頼できると
いう思いを強くするからこそ、彼女の呼びかけを受け容れることができるに
違いないと私は見ている。

 と思って見ていたのだが、昨日の(久々に開かれた、遅すぎる)国会での
施政方針演説を聞いて、大いに落胆した。

=この稿続く=

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民主国家の危機4

 つい先頃、あるテレビ報道で『このスマホ料金の値下げは、菅総理の目玉政
策の一つ』だと報じられていた。これが目玉政策?と我が耳を疑わざるを得な
かった。目玉政策というのは、もっと大所高所から、この国の行方をどうする
か、といった視座から論じられるべきことであって、このような些末なことは、
その具現化のための柱の一つとして掲げられるべきことのはずだ。
 どうやらこの菅首相という人物は、国の舵取りを(彼自身の言葉を借りて言
えば)“俯瞰的・総合的”に立案できる人物ではなく、眼前の細かなことがら
を処理していくといったこととしか見えていないように思われる。
 鷹や鷲のような視力をもって天空から地上を見下ろせる存在ではなく、リス
やウサギのように地上を動き回って眼前のエサを捕食するような、視野の狭い
存在のように見受けられるのだ。
つまりはリーダーではなく、仕事士なのかも知れない。これでは国の舵取りと
いう大きな責任が伴う任務は果たせないであろう。
 
 しかし、“些細・些末”なこととは言え、油断は禁物である。
 先述の通り、世の歓心を買うことのできそうなスマホ料金の値下げによって、
支持率のアップを狙おうという意図が透けて見えるが、その先にあるのは国民
を丸裸にしようということではないかと思われるのが、強い権限を持ったデジ
タル庁の新設、マイナンバーカードとスマホを紐付けた国民の個人情報の把握
とそれによる国民の管理・統制にあることが透けて見えるからである。
 個人にとっても便利な手段だとして、買い物のみならず行政手続きもスマホ
で可能になった中国では、あらゆる個人情報が国に必要以上に補足され、思想・
信条までもが国家に管理されている。それと同様のことが我が国でも行われ
ようとしているのだ。
 マイナンバーカードの発行数が20パーセントと普及しないことに業を煮や
した政府が様々なこととヒモづけ、マイナンバーカードがなければ“不便”を
かこつという状況を作り出したいと考えてのことだというのは明白である。

 マイナンバーカードが普及しないのは、その政策の陰にある得体の知れない
怖れを多くの国民が感じとっているからに違いない。そこで窮余の一策として
浮かび上がったのが、スマホとの連携でもたらされる“手軽で便利”という誘
い文句なのだろう。
 私は、個人で持つコンピュータが「マイコン」と呼ばれた時代からコンピュ
ータに関わって来て、ほぼ40年間その便利さを享受してきた。そして、その
一方で不安定さ信用の置けなさといった負の面も痛感してきた。
 とりわけ、インターネットという世界をカバーできるネット通信が誰にでも
開かれ、容易にできるようになった時代からは、セキュリティー上の安心を保
つということが大きな命題となり、一つ間違えば情報が暴かれ、拡散してしま
うという事態が出現してしまった。
のどかにその便利さを享受できる時代ではなくなってしまったのだ。

 スマホやタブレット・パソコンを駆使して作業をする者には、その危うさを
承知した上で可能な限りの対策を施し、万が一クラッシュしてデータが失われ
てしまうことも覚悟し、その対策を講じて使うことが求められる。
 それゆえ大事なデータの扱いをうかうかと他人任せにすることなど、絶対に
したくはないし、してはいけないと考えているはずだ。
 ましてやデジタル庁で扱おうとするデータは、大切な個人情報そのものだ。
呑気ににそれらを(どのように管理されるかわからない)他人に手渡すなど、
とてもできそうにない。誰がネットワークに入り込んで情報を盗み出されるか
知れたものではないのだ。
 二重・三重の意味で、デジタル庁に強い権限を持たせ、国民の情報を一括し
て管理されるなどということには強い恐怖を覚える。何かことが起きた時に、
どのように責任をとってくれるというのだろうか。

 責任と言えば、コロナ騒ぎの中、無謀にもGoToキャンペーンにこだわり、
せっかく収まりかけた感染拡大をいっそう広げ、今や医療崩壊の危機が叫ば
れるような事態を引き起こしたにもかかわらず、その責任をとろうとせず、
具体的で有効な対策についてリーダー自身が自らの口で、自らの言葉で説明
したり訴えたりしないのも「無責任の極み」だ。今次の第三波は、抗しきれ
ない力に依るものではなく、まさに政権が引き起こした人災だからだ。
 『経済をまわす』と主張してGoToキャンペーンを止めようとしなかった
のは、「人が移動しても感染を広げない」という分科会の意見を背景にして
いるようだが、春に緊急事態宣言が出され、自粛生活をして人の動きが少な
くなった時には、感染の広がりが抑えられた経緯がある。その経験に基づけ
ば、「人の動きの抑制」が「感染拡大の抑制」につながると考えるのが自然
ではないか。
 しかも、その当時から気温と湿度が高い夏場はウィルスの動きを抑えられ
るが、冬場はそうはいかないだろうと指摘されていたはずだ。
 7月に少し下火になってきたと見るや、前倒ししてGoToキャンペーンで
人の動きを後押しし、奨励して感染者数が増加しているにもかかわらず、寒
冷期に入っても停止しようとしなかったことが、急速な感染拡大を招いたと
いうことは火を見るより明らかだ。

 ここに一冊の本がある。『日本史の探偵手帳(文春文庫)』という本だ。
著者は『武士の家計簿』などの著作でお馴染みの歴史学者の磯田道史氏。
この『日本史の探偵手帳』が出版されたのは、二年近く前の2019年1月で
ある。つまり、奇しくも新型コロナの騒ぎが始まる一年ほど前に書かれた
ものである。その中に今回のGoToキャンペーン強行を彷彿とさせる興味
深い一文がある。以下引用する。

 『自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は、誰も
  前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしてい
  る。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っ
  ていない。満州事変から敗戦に至る日本は、例えるならば、運転手が
  よそ見をして、ハンドルから手を放していたために崖から海に転落し
  ていった車に見える。運転手として、国のハンドルを切り、ブレーキ
  を踏まなければならなかったのは誰か?それは戦前のエリートにほか
  ならない。政治家や官僚、軍人たちである。』
 
 多くの人が移動し、その多くの人が接触すれば感染拡大の怖れがあるこ
と、しかも気温と湿度が低下する季節を迎えればウィルスが活性化すると
指摘されていながら、“経済をまわす”ことに目を奪われ、キャンペーン
を強く推進した状況とダブって見えるのが、ここに書かれた無謀な開戦時
から敗戦への模様だ。
 その結果、第三波に襲われ、『勝負の三週間』とかけ声をかけた一方で、
何ら有効な手を打たなかった政権の無策が、さらに感染拡大をもたらし、
ついには医療崩壊の危機が叫ばれる状況まで招いてしまった。
 多くの国民に物見遊山に出かけよ、と背中を押し、“油断”“緩み”の
気分を醸成させてしまったことへの責任は大きいはずだ。

=この稿続く=

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民主国家の危機3

 アメリカでは大統領選でバイデン氏が接戦州を制し、次期大統領になるこ
とがほぼ決まったが、トランプ氏が選挙に不正があったなどの不満を口にし、
訴訟を起こす等して抵抗しているようだ。民主的な選挙によって選出された
大統領が、民主制度をベースで支える選挙の結果に子どもじみた不満を言い
立てるなど、あってはならない醜態をさらしている。
 そもそも今回の選挙で圧倒的な多数の支持を得られなかったのは、これま
で4年間で自らが招いた「国民の分断、排除」にあり、“トランプ大統領で
はない方が良い”という「穏やかさと協調を求める民意」にあるのではないか。

 アメリカと言えば、民主主義のお手本たらんとする自由と権利の国として
(子ども心にも)私たちの目に映ってきた国であった。
 ところがトランプ政権下の4年間で、「自国主義」を言い立て、他国とは
対立の姿勢を窺わせ、国連人権理事会やWHOからの脱退表明をするなど、
国際機関を敵視したり弱体化に向かわせる姿勢を強め、国際協調とはほど遠
い分断をはかり、戦後世界が営々と築いてきた仕組み、すなわち「望ましい
世界のありよう」を求め探るための組織から背を向ける国にしてしまった感
がある。
 そして今回の大統領選で露呈してしまった「潔さの欠如」「引き際の悪さ」
など、「名誉ある撤退」という言葉を知らぬかのような、“己れ”しか見てい
ない悪あがきをするリーダーの姿は、滑稽な愚か者のようである。
 これが大国アメリカを4年にわたって強気の舵取りをしてきた大統領の姿
かと思うと驚き・呆れるばかりであるが、それはトランプ氏が政治に通暁し、
民主主義について熟知した人物ではなく、一企業家、経営者でしかないこと
から致し方のないことと、多少同情する気持ちも起きる。
しかし、この人物が大統領という強い権限を持ってしまったために、世界に
大小様々な影響を及ぼしてしまったことを考えると、そうした同情は無用な
ことであるに違いない。

 アメリカのこの4年間で見せた『民主国家としてのあるまじき姿』を他国
のことと笑ってばかりはいられない。
 日本でも同様に、政治による“分断と排除”がじわじわと進行し、気がつ
けば、法の精神を無視し、法そのものを軽視し、民主主義の柱である国民の
自由と権利が損なわれる政権の振る舞いが常態化しつつあるからだ。
 
 そうした振る舞いの典型が、日本学術会議の会員任命拒否の問題だ。
 日本学術会議法では、
 第17条で「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又
       は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣
       府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものと
       する。」
と記され、さらに
 第7条2項で「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理
       大臣が任命する。」
とも定められている。
 さて、問題は第7条の“推薦に基づいて”の文言をどう解釈するかという
ことだが、法律の専門家も科学技術に詳しい文部科学省のある幹部も「『に
基づいて』は、国家公務員なら誰でも習う基礎用語。よほどの事情がなければ、推薦どおりに任命しなければならないはずだ」と指摘している。
 つまり、学術会議から推薦された会員を首相は“そのまま”任命しなけれ
ばならない、という解釈が通常で、任命を拒否すれば“裁量権の逸脱”にあ
たるという基準が示された例もあるという。
 昭和58年の参議院文教委員会で、当時の中曽根首相も「学会やら或いは
学術集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にす
ぎません。従って、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているような
もので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば ”と答えてい
るのもそうした事情からなはずだ。
すなわち法に照らして考えれば、今回の任命拒否という行為は明らかな違法
行為だと言えるのだ。

 野党ヒアリングが行われ、その条文についての解釈変更があったのかを問
われた際に、内閣府と内閣法制局は『解釈を変えてない』と答弁している。
 だが“必ずそうしなければいけないというわけではない”から“形式的な”
任命ではなく、“実質的な任命”を行って良いのだとも答えている。
 つまり、「法律にはこう書いてあるが、必ずそうしなければならないとい
うわけではない」という論理が平然と語られているのだ。
 このような無茶な論理が通るのであれば、法を無視して好き勝手に何でも
できてしまうはずで、もはや法治国家とは呼べなくなってしまう。
 このような一般法の解釈を変えるのであれば、国会に法律を出して十分に
審議し、策定するという作業が必要なはずだが、内閣だけで法の解釈を変え
てしまうというのは、立法府を無視・軽視・ないがしろにする国民に対する
背信行為だと言って良い。
 
 そうした違法なと思える“6人の会員の任命拒否”をしたことについて、
首相から納得の行く説明はこれまでなされていない。“総合的・俯瞰的な活
動(これも意味不明な文言だが)”を推進する為に、年齢や出身、大学など
の“多様性の確保”が念頭にあったと繰り返したり、“閉鎖的で既得権益の
よう”になっているとの学術会議批判も飛び出した。
しかし、その具体的な内容・根拠については事実誤認であったり、『説明は
さし控える』と語られなかったりした経緯がある。
 
 また、任命を拒んだ6人のうち5人は名前も知らず、著作などを読んだこ
ともなかったという。想像するに、任命を拒否された6人の研究者の研究内
容はおろか研究実績なども知らないのだろう。にもかかわらず、会員に任命
しない(あるいはできない)というのは、研究に対する冒涜であり、学問を
軽視する国の姿勢を打ち出したものと言って良い。科学技術立国を標榜して
いながら、このように研究を蔑むとはどういうことであろう。
 日本学術会議は政府所管の組織ではあるが、法的に独立を保障された組織
である。学術会議法第三条に“独立”と記されているということは、法的に
は『内閣総理大臣の指揮命令から独立している』ということであり、人事に
政権が口を差し挟む余地はないということなのだ。

 にもかかわらず、この任命拒否が巷間言われているように、『特定秘密保
護法や集団的自衛権、「共謀罪」法に反対していた』からだ、ということで
あれば、国民の思想・信条の自由を侵害することになる。
学問の自由、思想・信条の自由といった、主権者である国民の権利をいとも
簡単に侵害したり冒涜したりする菅政権は、国民にとって非常に恐ろしい、
危うい存在であると言っても過言ではない。
 中には、このコロナ禍のさなかに、国会ではこの問題以上に重要な議題が
あるはずだと考える人も多いかも知れない。しかし、これは単に学術会議の
会員だけの話なのではないのだ。国民の基本的な権利に深くかかわる重要な
問題なのだ。市民一人ひとりが個人の考えを持ち、表現し、選択し、自立し
た、そして成熟した市民として生きていける国にするために保障された権利
が奪われようとした危機に直面している問題なのだ。そうした危機感を持っ
て、この問題は見るべきなのだ。
 安倍政治を継承すると表明した菅政権は、民主主義の深化に棹をさす政治
を何の痛痒もなく実行しようとしてように思えてならない。

 先に書いた通り、この国をどうしたいかという大きな展望を示さない一方
で、スマホ料金の値下げやら文書への押印の廃止などといった細かな政策を
打ち出しているのが菅政権の“これまでの政権にない”構えだ。
 スマホ料金の値下げを図るのは、スマホを多用する若い世代へのアピール
なのだろう。言ってみれば、利用者の負担を少なくするといった目先のアメ
につられて政権の支持が得られるだろうと考えてのことであろう。
 しかし、その一方でデジタル庁の新設ということも謳っている。この二つ
を考え合わせると、政権の目論見が色濃く見えてくる。
つまり、スマホの普及を図ると同時に、ネット上で国民を監視したいという
目論見だ。
 通信料金を低く抑えることを歓迎する市民は少なくないだろうが、それを
具現化することでネット上で国民を監視するという企みを隠すことが可能に
なると見るのは、うがち過ぎではないであろう。
 そんな見方をずっと捨てきれないでいたところ、今日の報道で「健康保険
証の将来的な発行停止を検討、マイナンバーカードとの一体化で」という動
きになっていることを知った。
やはりそうか、と日頃の考えが的外れではなかったと痛感した。

=この稿続く=

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民主国家の危機2

 日本学術会議の会員任命については、日本学術会議法第七条に『会員は、
第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する』とある。
 ここでいう「推薦に基づいて、任命する」の解釈は、憲法第六条で言う
『天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。』という条文
にある“基づいて~任命する”、つまり天皇は推薦された人物を“拒否”す
ることなく任命することと同じだと見なされるはずである。
 すなわち、天皇が内閣総理大臣を任命する行為は、あくまでも形式的な
ことであって、それは日本学術会議の会員任命についても適用されなけれ
ばならず、昭和58年5月12日の参議院文教委員会で中曽根元総理が『学術
集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎま
せん。』と明言しているはずだ。その点に関して、憲法も日本学術会議法も
改訂されていない限り(何年経とうが、状況が変わろうが)、その定め通り
推薦された人物を任命しなければならないはずだ。
 それゆえ(言うまでもないことだが)、任命を拒否するという行為は違法
行為であると言える。

 菅総理は、会員候補の6人の任命除外についての質問に、これまでのとこ
ろ内容のある回答をしておらず、『総合的、俯瞰的活動を確保する観点から
判断をした』という、わかりにくい言い方で“説明した”としているよう
であるが、これでは自らの「違法行為」に対する説明にはならないだろう。
 また、時間の経過に従って『推薦された全員の名簿を見ていない』内容の
発言をしたり、『出身校等のバランスをとって自分が判断した』という前言
と矛盾するような発言をするなど、支離滅裂な状態に自分を追い込んでしま
っているようにも見受けられる有様である。
 今日の国会では、6人を任命しなかった理由についてあらためて“出身や
大学に偏りが見られ多様性が大事だということを念頭に判断した”と強調し
たと報道されていた。そこでは、『現在の学術会議の会員の構成は東京大学
などいわゆる7つの旧帝国大学で45%を占め、産業界や49歳以下の会員
はそれぞれ3%に過ぎない』と指摘したという。
 推薦名簿を見ていないにもかかわらず、会員の構成割合を示し、それを任
命拒否の主な理由として挙げるというのも“後付け”としか思えない。
さらに名簿にしるされた(任命拒否)の会員候補には少数派の大学や、比率
の少ない女性の教授も含まれていたというではないか。
 “後付け”の上に“指摘の間違い”があるとすれば、任命を拒否する根拠
が極めて薄弱かつあいまいなものであったということになる。

 また、先日(10/26)には、NHKの報道番組に出演し、司会者が『説明を
求める国民の声もあるように思う』と発言すると、菅氏は「説明できること
とできないことがある。学術会議が推薦したのを政府が追認しろと言われて
いるわけですから』とも語っていた。
 この発言における“説明できることとできないこと”がどういう内容なの
かはこれだけでは不明だが、ある理由をもって、しかも法を犯してまで任命
を拒否した以上、詳細に説明をしなければならないはずだ。また、“政府が
追認”という言い方も、まるで“やらされてる”感じが濃厚であるが、その
認識自体が違法の要因であることを菅氏自身が強く自覚すべきであろう。
 この国は法治国家なのだ。しかも国民主権を謳った民主主義国家なのだ。
まずもって国民が納得できる説明をし、国民にわかってもらう努力をするの
が、行政府の務めなのだ。
まるで「朕は国家なり」とでもいわんばかりの、『総理である自分が決めた
ことなのだから、法はともかく自分に従え』と言うかのような姿勢は、この
国のあるべき姿とは言えないはずだ。

 そのような説明できない苦し紛れからであろうか、論点外しで目をそらす
ように、学術会議のあり方を協議する「プロジェクトチーム」を立ち上げて
みたり、何年もの間学術会議から提言がなされていないという間違った指摘
をしてみたり、果ては政府の組織で多額の運営費を配当しているのだから、
任命の決定権は内閣にあるなどという議論をすることは、論外なのだ。
 安倍政権発足以来、敵視する相手を貶めることで自らの意を強引に押し通
そうとする振る舞いが目につくが、安倍政治の継承を掲げる菅政権は、さら
にその姿勢を強めているように見受けられる。
 
 菅氏は所信表明演説の中で、『多様性のある職場、しがらみにとらわれな
い経営の実現に向けて、改革を進める』と語っていた。
 民主主義の根幹にあるのは、多様な意見を集めて議論を尽くし、合意形成
を図り、時間や手間をかけても“より良き社会”の実現に向けた努力をする
ことに他ならない。そこでは、声の大きな者、発言力の強い者以上に、少数
意見や声なき声を尊重することが大前提になるのだ、ということは民主主義
教育を色濃く受けた私たちの常識に他ならない。
それは、長い時間をかけて先人が築き上げてようと努力してきた民主社会に
向けた正しい方途であり目指すべき道なのだ。
 多様性を認めるということは、異なる意見や考えに耳を傾け、互いに意見
の交換を積極的に図り、最善の方策を探っていくという「認め合う」寛容さ
が前提にあるのだが、現政権の姿を見る限りそうした姿勢は窺えない。
 
 学術会議が法に則って選出した会員候補は、やはり同様に“法に則って”
形式的に任命をするのが首相の務めであるにもかかわらず、「説明できない」
理由で任命を拒否する姿勢からは、自身の発言における“多様性”を認める
構えを窺うことはできないからだが、むしろその発言とは対極の姿勢ばかり
が浮き彫りになるからだ。
 法に縛られ、従わなければならないのはまずもって政権であることを自覚
し、ここは“論点外し”の議論や言い訳などせずに、自らの過ちを認めて、
学術会議が選出した会員すべてを任命することが最善の道だと、ニュートラ
ルな角度から見れば思えるのだがいかがなものであろうか。

=この稿続く=
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民主国家の危機

 菅官房長官(当時)が、首相選に出馬表明をした折の会見をテレビで観
た折には、その内容に呆れかつ驚いたものである。
自分の生い立ちや政治面での活動のみを、無表情にしかも原稿を読むよう
に淡々と語っていたからである。こうした出馬表明の場では『このような
国づくりをしたいと願っている』というビジョンを示し、その実現に向け
て必要な柱が努力事項として語られることを期待していたのだが、それが
示されなかったからである。
 ビジョンを示さない人物が「国の舵取り役」に就くということは、国民
という乗客を乗せ船が、どこに向かおうとしているか不明な船長が海図も
持たずに広い海に乗り出そうとしているようなものだ。
 そのような「理念や展望」を持たない人物が党内の多くの支持を集め、
暫定首相に就任した。
圧倒的な支持は、対立候補の岸田氏や石破市を選出したくないという理由
から菅氏を支持した、いわば消極的な支持によるもののようだ。

 どうやら国民の支持も高いようだが、それは菅氏が東北地方の農家出身
であることや、苦学生であったこと、たたきあげで政治家として登り上が
ってきたことなどを受けてのように思われる。
 想像するに、庶民の出であるから、国民の気持ちをよくわかってくれる
であろうという期待や、まるで今太閤をを見るかのような賞賛の気持ちが
そうした高い支持率につながっているのではないだろうか。
 
 そのような高い支持を得て総裁選で選出され、スタートした菅氏ではある
が、早々に国会を開いて所信表明演説を行うこともせず、それゆえどのよう
な国家観をもって、世界の中でどのような貢献をしていこうと考えているの
か、さらにそのためにどういう政権運営をしていこうとしているのかを説明
できていない。
就任以来すでに一ヶ月以上経過しているにもかかわらずである。
 
 その一方で、つまみ食いをするように、携帯電話の料金を引き下げるとか
印鑑使用を廃止するとか、個々バラバラの「些末」とも思えるような政策を
次々と打ち出している。
 民主国家をより望ましいものにしていく上で、それぞれがどう有機的に繋
がって機能していくのか、それが実現した時に民主主義の「充実・深化」に
どう役立つのかが示されておらず、予測・想定する努力も愚につかないもの
ばかりと思われてならない。
 さらに、何たることかと驚くばかりの発言が菅氏の口で語られた。『政府
の意向に反対する官僚は、異動対象とする』というものだ。
これが民主主義の先進国家を自認する政権担当者の言うことであろうか。
まるで専制時代の君主のような、民主政治を司る人物としては相応しくない
発言だとしか思えないからである。

 そう感じていた矢先、ある報道で若い頃から信奉しているのがマキャベリ
の『君主論』だという記事を目にした。「権謀術数」で知られたルネサンス
期の政治思想家であるマキャベリの言葉を信奉するとは、何やら底知れない
怖ろしさを禁じ得ない。
 菅総理は、自身の著『政治家の覚悟/官僚を動かせ』の中で「マキャベリ
の言葉を胸に歩んでいく」とも書いているようだ。
この書物のタイトルにある“官僚を動かせ”という言葉にも、為政者として
の「驕った誤認・勘違い」があるようだが、近代民主主義を謳う日本を帝王
のような君主として“統治していく”のだという思い上がりがはっきりと透
けて見え、二重・三重の意味で“あってはならない姿”“好ましくない姿”
を見るようで、ウンザリするほどのイヤな感じを払拭できないというの偽ら
ざる心境である。

 この国は法治国家である。
 法は、国民を守るためにあることは言うまでもない。たとえ行政府の長
であっても、その下で働く官僚の身分は保障されなければならない。自分
の意に沿わないからといって、首相の恣意的な判断で冷遇するようなこと
があっては違法の謗りを免れないはずだ。そのような発言を躊躇なくする
こと自体、近代法治国家のリーダーとして備えるべき見識に欠けていると
言わざるを得まい。
中世の専制君主であるかのごとき発言は、まさにマキャベリズムの亡霊を
見るような怖ろしさを感じさせるし、「恐怖政治」の始まりを予感させる
に十分だと思うのは私一人ではないはずだ。
そう思っていた時に起きたのが、学術会議の問題だ。

=この稿続く=



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安倍政治を総括する

 先月28日、安倍首相が突然に体調の悪化を理由に首相辞任を表明した。
 24日には、第二次内閣発足から2800日を越え、歴代最長の政権となっ
たばかりのことである。
 その折の首相自身の『政治においては、その職に何日間、在職したかでは
なくて、何を成し遂げたかが問われる~』の発言を待つまでもなく、長さよ
りもその成果と質が問われるのは当然のことだ。
続けてこうも述べている。『この7年8か月、国民の皆様にお約束した政策
を実行するため、結果を出すために、一日一日、日々、全身全霊を傾けて
まいりました。』
 ここで「国民との約束」と言っているのは、「国民の望んだこと」を意味
してはいないにもかかわらず、ご自身は支持を受けた以上、“自分の望み”
は“国民の望んでいること”に違いないという認識過誤に陥り、乱暴な政権
運営に終始してしまった感がある。

 このような認識過誤とそれに伴う乱暴な政権運営は、安倍政権の際だった
特徴であった。
 戦後70年にわたって築き上げてきた、民主国家のありようを根底から覆
すことに躊躇なく走り、戦前・戦中に立ち戻るかのように、国民から様々な
権利を奪い、一方で政権の「権力の拡大」を図り、そのことに拘泥していた
感があり、長い政権運営の中で際立った成果もなければ、民主国家の充実に
資する質の面でも低下・劣化ばかりが浮き彫りになったとしか思えない。

 質の劣化を隠そうとするからであろう、絶えず新規にスローガンを掲げて
耳目を引き続けることに腐心してきたことも、この政権の特徴であった。
次から次へと花火を打ち上げるように、「三本の矢」「新三本の矢」「一億総
活躍時代」「女性が輝く社会」「働き方改革」等々、かけ声をかけ続けなけ
ればならなかったのも失政や政権が内包する危険な意図から国民の目を遠ざ
けなければならなかったからだと見るのは、私一人ではないはずだ。
 そこで打ち出された政策のどれもが、仔細に検討されたもの、つまりあら
ゆる角度・視点で検討し、様々な分野とのかかわりで不都合や齟齬は生じな
いか、真に望ましいものとなり得るかと考え尽くされたとは到底思えないも
のばかりではなかったか。
それらは、あちこちにできた綻びにツギハギを施す如き弥縫策のようなもの
でしかなく、とてものこと高い視座から構想されたところのビジョンの元に
有機的な意味のある関連性をたたえたもの、根源的な問題解決を図ろうとし
たものであったとは私には見えなかったのだが、いかがであろうか。

 国民の望んだことでもないのに、“国民との約束”と言い換え、正当化し
て民主社会にとって“あってはならないこと”を、時には法の解釈を変更
してまで次々と決めていく姿勢は、まさに前時代の亡霊を見るかのようで、
日本の政治は地に堕ちたと暗澹たる思いに襲われたものであった。
 また、“あったこと”を“なかったこと”にするという白々しい態度にも
「為政者としてのまっとうな姿」、「潔い姿」とは対極のならず者の振る舞い
を見るようで、頗る悲しい思いが募り、怏々として愉しめないこの政権下で
の8年近い毎日であった。

 すべてはこの政権の主である安倍氏の「歴史から学ばない、あるいは学ぼ
うとしない」姿勢、そして現実を直視し、問題点を的確に把握して真摯に対
処することのできない理性・知性の欠如、さらに深い人間理解と社会認識に
基づく高々とした政治理念のなさなど、頼もしさとはほど遠い「大人げない」
と言っても過言ではない幼稚で寛容さに欠ける政治姿勢に依るものであろう。

 モノゴトの価値を非常に低次な「勝ち負け」、「役立つかどうか」、「利を
もたらすかどうか」「敵か味方か」など、一元的な基準でしかとらえること
ができない人物のようで、勝てば良い、利をもたらさない者は存在価値が低
い、役立たない者は不要とでも断じるかのような姿勢が色濃く見え、文化国
家のリーダーとして相応しい人物とは到底思えなかったというのが偽らざる
感想である。(こうした為政者の底の浅い価値観が、神奈川県相模原の老人
介護施設で起きた、不要な老人はいないほうが世のためだなどという誤った
正義感から多くの老人を殺害する事件を起こした青年を生む遠因となってい
ることは疑いようがない。)

 そうした低次な価値観をベースにしているからだろう。身近に寄ってくる
者を「優遇」し、異見を持つ者を「冷遇」したり、「排除」したりすること
を何の痛痒も感じずにできてしまうのだ。また、「勝つこと」のみに重きを
置くからこそ、“何をしても”勝てば良いという姿勢を生み、まともな議論
をしようとせず、相手を「やりこめ」、反論を「封じ込め」ることを議論の
目的だと勘違いする議論軽視にもつながっていくのだ。
 こうした未発達で未熟な為政者の態度が澱のように政権内部に留まらず、
与党内はおろか市民社会にも蔓延し、子どもの教育にもよろしくない影響を
与え、何よりも「政治倫理」を崩壊させた罪は大きい。

 私は長年にわたり教育研究を専らとしてきた人間であるから、許せないと
痛感するのは、この政権が教育に深く関与し、1980年代まで深化・発展
してきた学校教育のありようを後退させてしまったことである。教育の素人
であり、「学ぶ」ということに無関心・無理解な安倍氏が、教育を「教えて
もらって知識を蓄える」こと、さらに道徳を教科化し、本来「生き方につい
て考える」ことが重視される道徳の活動を、徳目を教え評価の対象として、
国策に従順な国民を育てるための授業すなわち「教え授ける」修身の授業と
してしまったことだ。
 自分を取り巻くモノゴトと自己との関係を深く掘り下げ、その意味やかか
わりを知ることの面白さや取り組み方を体験し、自己の力・世界の広がりを
楽しいと感じ、知的欲求を満たしながら「より深く知りたい」という意欲を
自らの中に築き上げていけるよう育むことが教育の目的であるにも関わらず、
「教えてもらって習う」という受動的な習熟・修練・鍛錬を目的とした思考
停止に追い込む場としてしまったのだ。
 教育の目的は、学ぶことを通して学び方(見方・考え方・取り組み方をを
身につけ、自立した「自己の考え・判断力」を持つ成熟した市民を育むこと
にあるはずだが、それは前時代への郷愁を強く抱き、お上の方針をありがた
く付き従ってくれることを望むこの政権にとって非常に都合が悪かったのだ
ろう。その意味で、この政権がいとも簡単に、さしたる議論も経ずに、多数
の力を頼りに世界に誇る教育基本法を改正してしまったことの罪は大きいと
考えている。今「改正」と書きはしたが、多くの教育研究者にとって、さら
に子どもたちにとっては、「改悪」以外のなにものでも無い。

 そうした動きは義務教育諸学校に対するものばかりでなく、高等教育なか
んづく大学教育と大学に於ける研究にまで及び、“カネにならない”人文系
の学問を軽視し、利をもたらすと目される理系の研究を優遇して予算配分に
差別を加え、ついには戦争のための道具、つまり武器の研究を奨励するよう
になってしまった。他国との紛争に武力を用いない、と平和国家を標榜する
現憲法に記されているにもかかわらず、「積極的平和主義」という人の目を
欺くすりかえられた言い方で正当化し、軍事研究を推し進めようという魂胆
なのであろう。
 こうした成果主義に基づく政権の主張は、いきおい地道な基礎研究を軽視
することにつながり、世界的な研究の中で日本の研究者の作成した論文の引
用数が大きく減少するという事態も生んでいる。
 学問研究は、即座に結果や成果が見えるものではない。ひょっとすると、
最初に立てた仮説を立証できないこともある。しかし、逆に研究の過程で思
いがけない副産物に遭遇することもある。研究対象に深く関わり、取り組む
ことで対象の謎や秘密を明らかにすることそれ自体が、研究の醍醐味であり、
人間の持つ知的好奇心が発揮・満足させられる「人間らしい」行為なのだ。
 安倍首相の言うように、手っ取り早く成果が出るような研究ならば、そも
そもやる価値がないと言っても良い。研究や学問について不案内な首相なら
ばこそ、このような学問軽視の姿勢が打ち出せるのだ。

 多くのことが、この政権の治世下で後退、もしくは劣化、喪失させられて
しまった。ひとえに安倍氏の認識不足・認識過誤、無知・無恥がもたらす破
壊力によってもたらされたものである。
 いずれも国民や国のために発動された「政権による権力の行使」ではなく、
どこまでも“私”のために権力を恣にするための「政権維持」を目的として
発出された“あってはならない”政策によってもたらされたものであること
は論を待たない。
 『ウミを出す』と表明した安倍首相ではあるが、ご本人が“ウミ”である
ことを自覚していない気配が濃厚で、これほど無責任な無自覚な宰相を戴い
てしまった国民の不幸は計り知れない。
 病気を理由に退任を表明した安倍氏であるが、退任の理由はそればかりで
はあるまい。むしろもっと大きいのは、さまざまな局面で行き詰まり、自分
の手には負えないと病気を口実にして敵前逃亡する好機とばかりに放り出し
てしまったのではないかと思われてならない。

 あろうことか、この退任を受けて政権の支持率が大きく上向いたという。
おそらく国民が病気をおして頑張ったのにお気の毒に、という具合に情緒的
な反応から『よくやった』『お疲れ様』などと考えたのかも知れない。
 しかしそんな情緒的なことで、かつ一時的な気分で支持に回るということ
で良いのだろうか。
 辞めたのだからそれで良いではないか、水に流そうという雰囲気が国内に
蔓延すれば、またいつか同じような『議論を軽視』し、『国民に牙を向ける』
政権が出現するに違いない。
 これまでの8年近くで失われたものを取り返す努力をしなければならない
中で、あれだけ放埒な政権運営をしても支持率が上向いたのだから、さらに
強権を発動しても良いだろうという驕った政権が現れれば、国民は主権者と
して何もできないまま、発言の自由も行動の自由も学ぶ権利も失ってしまう
かも知れない。そうした危機感をもって、この8年間の安倍政治を総括し、
併せてこの間に起きたさまざまな不祥事について問い続け、事実を明白にし
なければなるまい。水に流すなどということがあってはならないのだ。
そして、安倍政権に続く暫定政権である菅政権をもしっかりと監視し、何が
行われようとしているかを常に警戒しつつ見ていかなければなるまい。


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又々 安倍政権の本質を探る

 いちいちを列挙していてはいくら字数を費やしても書き尽くせないほどの
多くの問題を孕んだこの政権は、今や『コロナより怖い』と言われるくらい
程度の低い乱暴な、いわば法を無視する裏社会の勢力のようである。
 教育上、悪い見本としてこれほど相応しい人物はないのではないかと思わ
れるほど、民主主義をないがしろにし壊し続けてきた反社会的な困り者だと
私は考えている。
 法を無視し、研究や学問を軽んじるこうした姿勢が、民主主義を破壊し、
望ましい社会の実現の妨げになっていることは言うまでもないが、この稿
の冒頭に書いた上杉鷹山や河井継之助に見られる「格調高い覚悟をもって
人の上に立つ姿」とは対極にある「浮薄で形而下のことにしか関心がない」
卑しい姿ばかりが目につく。安倍首相は、長期政権を維持したことを誇って
いるようである。そしてまた、憲法改正という岸政権・佐藤政権でなし得な
かった事蹟で政治史に名を残したい、東京五輪を成功させた内閣の総理大臣
として戦後史に名を残したいと考えているのかも知れない。
 江戸期の町衆の間では、自分の子どもに『金や名誉など、つまらない了見
を持った子どもに育てた覚えはない』と諭す親が多かったと聞く。
 その江戸期の親の姿から見れば、安倍首相の抱く願望などは“つまらない
了見”そのもので、自己にこだわる“みみっちい”ものにしか見えない。
そこに高々とした哲学を志向する国家理念など窺えないからである。

 話は変わるが、先日(6月2日)の毎日新聞によれば、その清貧をもって
「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイのムヒカ元大統領が新型
コロナ禍による格差拡大への懸念と新しい価値観が生まれる期待について次
のように語ったと報じられていた。
 『(略)我々は働いてお金を稼ぐことを人生の成功だととらえる誤った考
え方に縛られてきた。人生は富を築くだけのものではないと人々が気づき始
めた。今は、「家族や友人と愛情を育む時間はあるのか?」「人生が強制や
義務的なことだけに費やされていないか?」と自問自答を重ねる時だ。
私は、人類が今の悲劇的現状から何かを学び取ることができると考えている。
それが実現すればコロナ禍は人類にとって大きな糧になるだろう。』とした
上で、『人類は巨大都市を開発した結果、交通渋滞や大気汚染などさまざま
な問題を生み出した。巨大都市建設だけに価値を見いだすやり方を改めなけ
ればならない。新型コロナは人口が集中する各国の大都市で感染が拡大し、
感染症対策の面でも都市の脆弱さを浮き彫りにした。都市は、不動産会社の
思惑に基づき開発されるべきではない。人間が自然と協調し、大量消費をや
めて家族との時間を大事にできる暮らしを送り、移動もしやすい適切な規模
でなければならない。』と断じているという。

 現在の我が国の首相や副首相が、自らの言葉で将来を見据えたこのような
理念が語れるだろうか。正々堂々と世界に向けて高々とした、そして深みの
ある内容の理想を表明することを期待できるだろうか。残念なことに、それ
は無理であろう。彼らの頭にあるのは、“利”と“権”だけで、さらに言え
ば、その“権”を行使して民を統制するという、さながら君主制政治を憧憬
するかのような“意のままに振る舞える政治”への願望なのだ。
 彼らに言わせれば『そうではない』と反論するであろうが、この政権のこ
れまでの振る舞いを見れば、そうとしか言いようがない。
 そして、それを実現するためには、(一応は民主的な段取りを踏む姿勢を
見せながら)憲法を改正(改悪?)することが不可欠なのだ。
政権誕生以来、“党の悲願”だとして憲法改正を言い立ててきたのは、その
ためだ、ということは十分に透けて見えている。

 無知な上に無恥で卑しい人物が高邁な現憲法の理念など理解できよう筈も
ないであろう。現憲法を『戦後70年以上経ったから新しい時代にふさわし
い憲法に変える必要がある』として改めようとする姿勢は大いに疑問だ。
 新しい時代に相応しいものをと言いながら、戦前・戦中への回帰を目論む
というのは、矛盾も甚だしいからである。
 この前時代への憧憬と回帰願望を内に秘めながら有していることを見せる
ことができない(民主国家のリーダーとしては、それをあからさまに主張す
ることが憚られる)からこそ、さまざまに嘘をつき通さなければならないし、
都合の悪いことを隠蔽しようとすることに終始しなければならないのだ。

 無知で無法なこの人物は、知識だけでなく見識にも欠ける非常に軽率な人
物でもある。『担ぐ神輿は軽い方が良い』と良く言われるが、この軽い神輿
を担いで利を得ている誰かがいるのかも知れない。
 そして担がれることで「裸の王様」度をますます高め、『朕は国家なり』
と驕ったフランスの太陽王と同様に、国と国民に奉仕することを忘れ、自分
のために国民こそ従属・奉仕すべきだという誤った考えに(そう意識してい
るかどうかは別として)陥ってしまっているのではないだろうか。
 上のように考えなければ、これまでの「権力の使い方を知らない」と思え
るほどの無法で乱暴な政権運営などできないだろうと思われるからである。
 歴史から学ばない(学ぼうとしない)だけでなく、議員選挙で多数が選ば
れたからといって、主権者である国民はあらゆることを“白紙委任”した訳
ではない、という常識すら持ち合わせていない。数の力で多くのことを自分
たちの都合の良いように推し進めるために、無理や歪みが生じると、人事権
を盾に恫喝するかのように、その矛盾を国民の目から隠す必要が生まれて、
官僚にそれらをすべて押しつけるといった無理を重ねてきた結果、良心的な
官僚たちからそっぽを向かれ始めてきているようだ。
 
 戦中の反省から、このような危うい政権が台頭しないように現憲法が制定
され、民主憲法・平和憲法として世界に誇れる国作りに先人達は努めてきた
のだ。安倍政権が出現するまでは、どの政権も憲法の理念に立って、矩を越
えない抑制的・謙抑的な政権運営をしてきたはずだ。そうした経緯について
知らない独尊意識にまみれたお坊ちゃまが“わがままに”振る舞った結果、
日本から、そして国民から多くのものが失われてしまったというのが現在の
状況だと私には思われる。
 この度のコロナ禍への対策の遅れやまずさがさまざまな面で浮き彫りにな
った。とりわけ“国民を救うため”戦術をしっかり考えて取り組むことや、
率先して自らが汗をかくことなどが軽んじられ、むしろ国民への“要請”ば
かりが先んじて打ち出されたり、見当違いの対策が思いつきでなされたり、
時にそれを覆してみたり右往左往する政権のドタバタぶり、迷走ぶりは政権
への信頼感を大きく損ねることになったことは記憶に新しい。

 国民の自粛への努力によって一旦落ち着いたかのように見えたコロナ感染
者数の増加であったが、経済を優先させたい政府は緊急事態宣言を早々に解
除し、県をまたいでの移動も、規模の違いこそあれイベントなどの開催も可
とする方針を打ち出した。
 コロナ禍のさなかにあって、あろうことか観光業の衰退を懸念してのこと
であろうが、8月からコロナ感染症の流行後にさまざまな消費を促すことを
目的とした「Go Toキャンペーン」も、あろうことか前倒しして展開された。
 観光地からは感染者が流入することを懸念する声も聞かれると報じられて
いるが、それは当然のことであろう。
 東京は対象外として除外されたが、隣接する首都圏をはじめとするいくつ
かの地域を名指しし、その地域からの観光客を迎えることを歓迎しつつ懸念
する観光地もあるという。

 東京では7月の中旬以降、連日感染者が増え続け、もはや第二波が訪れて
いる様相を呈しており、国会では16日、参院予算委員会の閉会中審査が行
われた折に参考人の東大先端科学技術研究センターの児玉龍彦名誉教授が、
コロナウイルスの感染拡大の現状への強い危機感を示したところである。
児玉名誉教授は、「東京型」「埼玉型」などのウイルスの型が発生している
可能性を指摘し、東京発の感染のさらなる拡大に警鐘を鳴らしたのだ。
そこでは、総力で対策を打たないと、「来週は大変になる。来月は目を覆う
ようなことになる」として、政府・国会・民間など総力をあげての対策こそ
必要だと訴えられたのだが、経済活動の活性化しか念頭にない政権は、その
指摘を無視するかのように『医療体制は逼迫していない』との主張を繰り返
して、三密を避けて『どんどん出かけましょう』と呼びかけているのだ。
 しかもこのキャンペーンに1兆7千億円もの国費を注ぎ込んでおきながら、
驚くことに詳細な内容は未定なままで、見切り発車の状態なため政府の説明
を受けた観光業者も、何からどう手をつければ良いかわからず困惑している
とも伝えられている混乱ぶりだ。
 国民の生命を軽視しても経済の活況にばかり前のめりになるのは、落ち込
んでいる政権支持率を少しでも高められると近視眼的に考えているのかも知
れないが、これで感染者数が増え続け、医療の現場が逼迫し、治療が追いつ
かないということになれば、これは政権がもたらした“人災”に他ならない
ということになる。
その責任をとる覚悟が、この政権にあるのだろうか。

=この稿続く=


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又 安倍政権の本質を探る

 未だ正体のはっきりしない新型コロナウィルスの封じ込めのため、緊急事
態宣言がなされ、40日以上に及ぶ自粛生活に良く耐えたことが功を奏し、
先日(5/25)緊急事態宣言の解除が発表された。
 かと言って、気を緩めてしまっては、いつ感染が広がり第二波が起きるか
懸念されるのは言うまでもない。「新しい生活スタイルを」と言われるまで
もなく、多くの国民はその備えと覚悟をしているはずだ。
 
 振り返ってみれば、中国武漢でこのウィルスが発生し、感染が拡大した当
初から多くの人がパンデミックの怖れを指摘していたにも拘わらず、水際で
食い止めるとしたものの、それ自体が感染防止失敗の大きなファクターにな
ったことは疑いようがない。
 折しも習近平氏を国賓として招致する予定があったこと、さらに東京五輪
の開催に水を差される怖れがあるといった政治的な思惑が邪魔し、表だって
積極的な感染対策を行わなかったことなどが原因であったことは明らかだ。
 観光立国を掲げる日本は、折しも春節を迎えどっと入国する中国人観光客
の足止めをすることに消極的で、何の手も打たずに手をこまねいていたこと
がこの数週間の危機的な状態を招いたことは想像に難くない。
 東京五輪を夏に控え、悪い評判が立たないようにという思惑と感染研の意
向が働いてのことだろうが、PCR検査を積極的に展開し、感染者の実数を正
確に把握し、隔離・治療を展開することにもすこぶる消極的であったように
思われる。
 端的に言えば、国民の安全を守ることよりも“政治的な思惑”“国の体面”
“経済優先”を重視するといった姿勢、その場しのぎの上すべりな対策の積
み重ねが、この三ヶ月の困難な状況をもたらしたと言える。

 この状況にあって、国会では“不要不急”かつ“見識が疑われる”ような
検察庁法改正案を含む国家公務員法改正関連法案が審議された。
 野党の強い反対や、三権分立の崩壊そして検察の独立性が損なわれるとし
て、SNSで多くの反対の声が上がり、法案審議の先送りが決定された。
 コロナ禍のどさくさに紛れて、政権にとって都合の良い「悪巧み」が見え
透いた法案である。法解釈の変更まで持ち出し、閣議決定で『検事総長ら検
察首脳は、内閣が「必要」と認めれば、その役職にとどまったまま、役職定
年はもちろん、65歳の定年後もその職に居座れる』「定年延長」規定を加
えようとしたのだ。検察をおさえることで、政権に不正があっても裁かれな
いようにしたいという下心が透けて見える恐ろしい法案である。
 この機をうまく利用してこの曰く付きの法案を(数の力を頼りに)通して
しまえと思ったのではないかと推測するのは、あながち下司の勘繰りとは言
えないのではないだろうか。
 その企まれた意図に気づいた多くの市民や文化人が声を上げ、見送りに追
い込んだことは大歓迎すべきだ。

 つい先日の世論調査で、政権の支持率が大きく後退し、毎日新聞では27%、
朝日新聞では29%という低いものとなった。そもそも、この政権の支持率が
40%台を保って来たこと自体が不思議ではあった。
問題の多いこの政権の支持率がなぜ下がらないかということが私には不思議
でならなかったが、想像するに積極的な支持、つまり“この政権でなければ
ならない”という支持者は決して多くはなく、“他に替わるものがない”と
いった消極的な支持が多かったのではないだろうか。
そう考えなければ、この無知、無恥、無策、無能、不見識な政権の支持率の
高さをうまく説明できそうにないからだ。
 そのような消極的な支持があってこその一強であると言えそうだが、それ
がこの間の立憲主義と三権分立を危うくさせるような法案に『不正があって
も裁かれない事態』が生じるという、危険な企みの匂いを感じ批判する声が
広がったことが支持率低下の大きな原因であろう。

 私は第一次安倍政権当時から、「背広の下に鎧を隠した政権」であると、
このブログで繰り返し指摘してきた。
 振り返って見れば、この政権によって私たちが失ってしまったものは余り
にも多く、そして大きいことに気づくが、それこそが当時私の指摘したこと
が的外れではなかったことの証左と言える。その失われてしまったものを取
り戻すには大変な努力がいるだろうと思われる。
しかし、子や孫の代に禍根を残すようなことがあってはなるまい。

 私たちが多くのものを失ってしまった原因は、何と言っても「法」を無視
あるいは軽視する現政権の体質がもたらしたものだ。安倍総理は『憲法が権
力を縛るというのは絶対王政時代の古い考え方』と平然と言い放ったことが
ある。憲法が権力の暴走を食い止め、健全な国家としてあるための柱として
あるものだ、ということを知らないからこそ、こんなことを言えるのだ。
 笑い事では済まされない重大な過誤で、看過すべきではない政治家として
の誤認そのものだ。このような認識における欠落があるから、『国民は憲法
を遵守すべきだ』などとお門違いのことを主張するのであろう。
 無知だからこそ、恥知らずにも“なすべきではないこと”を平然と主張し、
行い、無知ゆえの突破力で躊躇なく政治を破壊して来れたのだ。
 そのまともな人間にはできない突破力を見て、『普通の政治家にはできな
い実行力がありそうだ。尋常ではない良い成果をもたらしてくれるかも知れ
ない』などと暢気に構えていたり期待していたりすると、日本はもっと多く
のものを失い、民主国家としての国の体制が潰えてしまうことは火を見るよ
り明らかだ。

 政権発足以来、成果主義を掲げ、成果を挙げることこそ重要だと子どもじ
みた“深みのない”“寛容さに欠ける”政策を拡充させてきた結果、社会的
に立場の弱い人をさげすんで分断し、ついには『老人などの役立たずの人間
は社会にとって迷惑な邪魔者でしかない』と介護施設の老人を殺害して反省
の色も見せないようなあってはならない「エセ正義感」にとらわれた人間ま
でも出現させてしまったのだ。
 そしてまた、学問の分野でも人文科学を軽視し、実学を(それもすぐに利
をもたらすような分野)を重んじ、ついには軍事研究を奨励するなど、学問
の衰退に拍車をかけるような事態にもなっている。学問をしたこともない、
研究に精を出したこともない人間であるから致し方のないことかも知れない
が、問題なのはこれが一個人のことではないということだ。ことは国のあり
ようと国民に多大な影響を及ぼすリーダーの資質にかかわる問題なのだ。

 ついでながら、学問は「問うことを学ぶ」という意味だ。学ぶことを置き
去りにして「教えてもらって覚える」のは、学問ではない。それは「習う」
ことでしかなく、習い覚えて知識の多寡を競うのは「学習」のほんの一領域
でしかない。
 答えが見つからないかも知れない疑問だが、なんとかしてその秘密を解き
明かしたいとコツコツと取り組む姿が「学び」の姿勢だが、それは研究者の
姿そのものだ。利益を生むためではなく、「問うこと」「解き明かすこと」が
楽しい、既知の知識を『それは真実か』と疑い、より真実に近づこうとする
姿(それは知的好奇心にあふれた人間のコアにあるものだ)が学問する姿だ
が、それは利益を生むための実学とは一線を画すものなのだ。
 その意味で学校教育を、更に大学の研究のあり方を『教育に似て非なる』
民間の学習塾と混同するかのごとき文教政策に貶めてしまったことに非常な
憤りすら覚えて致し方がない。

=この稿続く=

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続々々 安倍政権の本質を探る

 先月の11日で東日本大震災から9年目を迎えた。文字通り未曾有の大災害
で、地震とそれに続く大津波、さらには福島第一原子力発電所の事故により、
未だに故郷を追われ、避難生活を余儀なくされておいでの方が4万7737人
もおいでになる。あの原発事故さえなければ、と強い思いで悔やんでおいでの
方は少なくないはずだ。
 かつてオリンピック招致の際に、『汚染水は完全にコントロールされていて』
日本は“安全だ”と現実の状況を無視して宣伝したのは、誰あろう安倍首相で
ある。その際、多くの人は何を根拠にと驚いたり呆れたりしたはずだ。
 このリアリティーのなさは、(根拠はともかく)首相である自分がそう言っ
ているのだから、そうなるはずだし、そうでなければならないという思い込み
に起因するとしか思えない。森羅万象を司る神になったかのような思い上がり
にも似た態度を、かつて私はこのブログの中で“魔法使いの弟子”のようだと
書いたことがある。

 魔法を使いこなす力が不足しているにもかかわらず、師の魔法使いの留守中
に魔法の箒に掃除をさせ、床が水浸しになっても箒の動きをコントロールする
ことができず、自分の力のなさを思い知るというディズニーの映画でもお馴染
みの話である。
 魔法の箒を操るチャンスを得た魔法使いの弟子は有頂天になったことであろ
うが、その様子が長い安倍政権の“やりたい放題”とも言える暴走、荒っぽい
振る舞いとだぶって見えたからこそ、「魔法使いの弟子のようだ」と記したの
だ。力不足であるにもかかわらず政権という魔法の箒を手に入れたが、その使
い方を誤っているという姿にもそれが表れている。
 魔法使いでもないのに魔法使いであるかのように自分を過大に認識するとい
う姿、その余り法を無視し、国会を軽視して顧みることのない姿からは、現実
に起きていることに正面から向き合い解決しようという意思や、これからどの
ようなことが起きるかと想像力を働かせる力、主権者である国民が恐れている
ことに気づかない共感する力などの無さなどがくっきりと浮かび上がる。

 いま全世界を覆う新型コロナ感染が、現政権の問題点をこれまで以上にあば
いてくれているように見える。
 対策の遅れ、迷走ぶり、お門違いと揶揄されるような危機への対応、そして
国民の困窮に応えようとしない(あるいは応えられない)姿勢、そして相変わ
らず「かつてない規模の108兆円の緊急経済対策」が見せかけだけのものに過
ぎなかったなどということに象徴される国民を欺く姿勢、さらには海外記者の
質問に『例えば最悪の事態になった時、私が責任を取ればいいというものでは
ありません。』と回答したことに見える無責任な姿勢等々、枚挙にいとまがな
いほどの問題点を次々と露呈しているのだ。
 
 これはもはや民主社会に於ける政治の景色ではない。
 私が見るところ、そのいずれもが政権の運営が“国や国民のために”では
なく、権力を私(わたくし)できる政権維持のためのものでしかないからだ
と思えてならない。
 得体の知れないアベノミクスの失政が露呈されるのを恐れ、五輪の延期や
中止で自己の功績が無に帰すことを恐れるなどしたために、恐るべき新型コ
ロナウィルスの感染拡大を防ぐチャンスを逸してしまったというのも、国や
国民の安全を二の次にした手ひどいツケだと国民の多くは気づいたはずだ。
 政権維持に不都合な事実は明らかにしない、明らかになったとしても無か
ったことにする。事実を明らかにしようとする者には報復人事や攻撃、圧力
で黙らせる。“やっている感”を見せ、国民の目を他にそらして支持を得よ
うとする。などのおよそ近代社会で起きていることとは思えない反社会勢力
の手口に似た手段が横行しているのも、法治社会のあるべき姿とは遠く隔た
っており、独裁政治そのものだと言って良い。

 かつて陳舜臣は、『小説 十八史略』の中で、次のように記していた。
 『権力を握った者にとって、その維持はなによりも優先する。とくに無能で
権力の座についている者は、そうである。』
 まさに“あってはならない”“残念な”“醜い”状況が国民の目に前で展開
されていると言って過言ではない。魔法使いの弟子が魔法使いになれたかのよ
うに過信(或いは自己認識を誤り)して、無知で無恥だからこそ常識外れな乱暴な振る舞いで大切なものをことごとく破壊し、その挙げ句「しでかしてしまった混乱状態」への解決の手段を見いだすことができず、右往左往しているの
が現在の状態なのだ。
 それに拍車をかけているのが、国民に向けて発せられる首相のメッセージだ。
 残念なことに『台本営発表』と揶揄されるように、原稿を早口で読むだけの
メッセージで、しかも国民には何も響いてこないからだ。
 ドイツのメルケル首相は、コロナ禍についてまず事態が深刻であることを
訴え、『第2次世界大戦以来、我が国においてこれほどまでに一致団結を要
する挑戦はなかったのだ』とし、国民の生活について『理性と将来を見据え
た判断を持って国家が機能し続けるよう、供給は引き続き確保され、可能な
限り多くの経済活動が維持できるようにします。』と約束したのだ。
 その上で『経済的影響を緩和させるため、そして何よりも皆さんの職場が
確保されるよう、連邦政府は出来る限りのことをしていきます。企業と従業
員がこの困難な試練を乗越えるために必要なものを支援していきます。そし
て安心していただきたいのは、食糧の供給については心配無用であり、スー
パーの棚が1日で空になったとしてもすぐに補充されます』と、政府の役割
について述べ、『私たちがどれほど脆弱であるか、どれほど他者の思いやり
ある行動に依存しているかということ、それと同時に、私たちが協力し合う
ことでいかにお互いを守り、強めることができるか、ということです。状況
は深刻で未解決ですが、お互いが規律を遵守し、実行することで状況は変わ
っていくでしょう』訴えたのだ。
 ここで強く思うのは、自分の言葉でこの困難な危機と恐怖を乗り越える為
に自分も極力頑張るから国民の皆さんも頑張りましょう、と訴え届けること
の大切さだ。
それを可能にするのは、メッセージを発する人物の「知性」と「見識」であ
ろう。
飜って日本の状況はいかがなものか。彼我の差に愕然とするばかりだ。

 
=この稿続く=

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