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「場の音楽」再考 [音楽教育]

 先に「音楽の二面性」と題して、音楽には「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」の二側面があるのではないか、と述べた。その中で、ステージ上で聴衆を前にして表現することを意識した音楽活動(ステージに向かう音楽)にどうしても目が向きがちだが、音楽の学習を構想する際には、無目的だからこそ夢中になれる、時間の経つのも忘れて音や音楽と戯れ遊んだり一体化できると思われる無目的な音楽活動(場の音楽)にももっと着目すべきではないかといったことを述べた。
 それは、誰かから強いられて行うのではない、一人ひとりが、主体的・自主的に行うところの「楽しい活動」と言ってよいであろうが、「楽しい」と言ってもその依って来たるところは人さまざまであろう。

 社会学者のチハイ・チクセントミハイは『Beyond Boredom and Anxiety』(『楽しみの社会学ー不安と倦怠を越えて』思想社)において「楽しさ」には次のような8つの場合と順位があることを明らかにしている。

 1 それを経験することや技能を用いることの楽しさ
 2 活動それ自体-活動の型、その行為、その活動が生み出す世界
 3 個人的技能の発達
 4 友情、交友
 5 競争、他者と自分との比較
 6 自己の理想の追求
 7 情緒的解放
 8 権威、尊敬、人気

 ミハイは、ロック・クライミング、作曲、モダン・ダンス、チェス、バスケットボールなどの分野で活動する人々172人を対象にして調査した結果、上のように分けられることを見いだしたのである。
 活動が楽しい理由の順位は上に列挙したようになるという。すなわち、「それを経験することや技能を用いることの楽しさ」が最上位の楽しさであり、続いて「活動それ自体」が2位にランクされている。ここで注目したいのは、その2項目が「個人の技能の発達」や「競争」などよりも上位にランク付けされているということである。さらに「権威、尊敬、人気」が最下位の楽しさとして位置づけられていることにも着目したい。

  ミハイは1と2は内発的理由、他の6つは外発的理由だと言っている。
  新井郁夫(上越教育大教授)の言葉を借りれば、1と2は「ある楽しさ」であり、それ以外は「持つ楽しさ」であるということになるが、どうやら現代社会は、金銭、権力、地位、名声、快楽の追求といった「持つ」文化によって支配されている感が強い。また、「他者と比較して優位に立つ」ということも現代社会では声高に言われないまでも欲求の対象としてあるように見受けられるが、これも「持つ文化」の象徴であろう。
 しかし、ミハイも指摘しているように、このような社会においても、これらの価値、すなわち「持つ文化」には目もくれず「ある楽しさ」を追求している人々、「ある楽しさ」を味わおうとする人々が存在するということは注目すべきであるし、「ある楽しさ」こそが人間の生き生きとした生き方を表出させる最も大きな要因だということの表れなのではないかとさえ思わされる。

 そう考えてみると、誰かに聴いてもらうためでもなく、またコンクール等でよい評価を得るためでもない音楽活動、音楽の「ある楽しさ」を精一杯楽しむことで音楽に直接触れ、向き合うことのできる「場の音楽」の持つ意味がさらに浮き彫りになると思われるのだ。


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笹木 陽一

北海道の中学音楽教師です。「場の音楽」という考え方に大変共感しました。授業においても、たとえば合唱コンクールに向けて、「金賞」をとるために歌わせるといった外発的な動機付けでは、結局楽曲の価値やそれを演奏する喜び、といった本質的な物に迫れないと感じていました。外から与えられる評価よりも、「この曲が好きだ」とか「歌いたい」という内発的な動機に基づいて、喜びを持って音に触れることが大切だと思い、器楽の授業で、自分の好きな曲を自分の好きな楽器で自分の好きな仲間と自由に編曲して演奏するという取り組みを行っています。最終的に上手に演奏できるかということよりも、音と戯れてそれを感じ、楽しむという姿勢を重視しています。自由に音楽とふれあう中で、自ずとその音楽の仕組みに興味を持ち、「それを知りたい」と思ったときにはじめて、本当の「学習」が始まるのだと思います。教え込むのではなく、友に学び楽しむという姿勢で、授業を考えたいと思っています。私はマリー・シェーファーの「教室には教師は必要ない。そこにはただ学習者の共同体があるだけだ」(教室の犀より)という理念を大切にしていますが、まさに「場の音楽」の考え方はその理念に通じる物だと感じました。今日の学校教育においては、トップダウンで不条理なことが現場に強制され、競争原理の中で子どもも教師もゆとりを失い、「美しい物に触れる」という余裕を失っているように感じます。そんな時代だからこそ、学校という閉塞した空間において音楽科教育の持つ意味は大きいのだと思います。しかしながら私が所属している研究組織(札教研=札幌市の公立学校教師による研究協議会)で話題になることといえば、学習指導要領の内容を「基礎・基本」(すなわちミニマム・スタンダード)とみなし、それをいかに指導計画に効果的に配列して、「指導と評価の一体化」を図り、すべての生徒をB基準にするための方策を云々…という技術論に終始しています。価値ある技術論であればよいのですが、そこには文部科学省の国家戦略をいかに具体化するかという視点しかなく、子ども(学習者)の視点に立って学習を組織しようといった発想はほとんどありません。そんな中で、教室で行われる音楽は、常に「評定に結びつく評価」の視線にさらされ、「やりたいからやる」ではなく「やらされるから仕方なくやる」という非常に非人間的な物となっています。音楽を感じ楽しんでいる姿の有り様は、一人ひとりの内面にかかわる各自固有の物であり、ひとつの尺度(評価規準)で序列化されるような物ではないはずです。絶対評価の導入で序列化の問題点は幾分解消されたようにも思いますが、本来は感覚的に総合された現象である音楽表現行為を、良く根拠のわからない4つの観点で評価するということは、益々子ども達の音楽を型にはまったいびつな物にしてしまうのではないかとも感じています。先述した器楽の取り組みにおいて、私は意識的にその活動を評定に入れません。もちろん一人ひとりの関心を引き出したり、演奏上の技能や知識を獲得したいという意欲に応えるために、個別に指導し声を掛けるという形成的な評価は行います。しかし「楽譜が読めない」とか「うまく演奏できない」とか「音楽する気持ちになれない」といった様々な状況にある子ども達を、「指導と評価の一体化」という建前の下に、「君はB」だとか「あなたはC」だとかとラベリングするのは、外的な強制となり一種の暴力だとも思うのです。そうではなく、一人ひとりの個性に寄り添い、その子どもなりの音楽との関わり方を認め、それを共有しようとすることこそ、音楽科の学習で大切なことなのだと考えます。そして一人ひとりの思いや個性がそれぞれ尊重され、互いに響き合う中から本当の「音楽」が生まれてくるのだと思います。学校の音楽室が、人に聞かせるために外側をうまく取り繕う「ステージ指向の音楽」ではなく、一人ひとりが音に触れ感じながら思い思いに表現し合っている「場の音楽」を生成させる空間でありたい。久しぶりにじっくりと自分の考えをまとめるきっかけを与えて下さった、貴方の論考に深く感謝致します。
by 笹木 陽一 (2006-02-04 11:06) 

おじおじ

笹木先生、「場の音楽」という私の考えにコメントをいただき、ありがとうございました。
先生の確かな深いお考えに感銘を受けました。
先生のお考えのように、子どもたちへの働きかけで私たちが最も大切にしなければならないのは、内発的な動機が生じるようにすることでしょう。具体的には、たとえ教師の仕組んだことであっても、子どもたちが『してみたかったこと』『挑戦してみたい』と思えるような学習の場を提供し、学習の成果を自分でつくりあげた、自分で探り身につけたことと思えるような仕組みをつくっていくことでしょう。そして、そうした活動を通じて「音楽のよさ」に気づき、ますますそのよさに近づこうとする意欲や意志が持てるようにすることでしょう。それは、音楽と自己との関係に気づき、自己表現(自分を出せる)の有効な手段としての音楽に気づく過程であると言えるでしょう。
そうした学習活動の中では、ついつい自己の活動や成果をチェックし、確かめ、よりよいものをめざそうとする心の動きが生じるのであって、その意味でも自己評価を重視したいと思うのですが、上のような場の設定ができることが「指導と評価の一体化」の本来の意味だと考えています。もし子どもたちが学習を通して、音楽を好きになれなかった、歌うことを楽しめなかった、音に触れることに喜びを感じられなかったとすれば、それは子どもの努力が足りなかった、あるいは力がなかったからではなく、教師の働きかけ(学習環境の構成)に問題があったと「評価」すべきで、そうした捉えに立って学習指導を展開しよう、という考えが「指導と評価の一体化」のはずなのです。
その際の「指導」も、表現上の指導をすることと捉えられがちですが、そうではなく「よりよい学習に導びく」という「学習そのものを指導する」ということが本来の意味であると私たちは認識すべきでしょう。
評価の第一義は、よりよい学習を仕組むために教師が情報を得るということにあるはずですが、学習の成果をみとるという「結果の評価」という側面にばかり目が向いてしまうのは残念なことだと思っています。
中には、評価をすることが目的化してしまい、『うまい指導を施せば、うまく説明のつく評価と評定が可能になる』と評定のための方便として評価を捉え、それが「指導と評価の一体化」であると誤解している向きも多いのではないかと思われます。(ちょっと言い過ぎかも知れませんが)
いずれにしても、正解などないはずの「音楽表現」、多様な様式美を持つ音楽に触れて、感性を育て磨いていくはずの教科「音楽科」ですから、一元的な「測定」などしてはいけないしできないはずなのです。「測定」ではなく本来的な意味での「評価」を生かして、音楽好きな子どもを一人でも多くと思っている先生方も少なくはないでしょう。
ところで、お願いがあるのですが、これからもいろいろと情報をいただきたく、先生のメールアドレスを下記の私のアドレスにお知らせ頂けるとありがたいのですが、お差し支えなければよろしくお願い致します。
 
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仁田悦朗
 i-moa-et@js6.so-net.ne.jp
http://www.e-nita.net
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by おじおじ (2006-02-06 06:44) 

笹木 陽一

丁寧に私のコメントに応えていただき、本当にありがとうございます。私事ながら、自身は携帯電話も持たず、ましてはeメールなどはもってのほかという超アナログ人間ですので、今回のようにインターネットにアクセスしてブログに書き込みをするなどという経験も生まれて初めてのことでした。それなのに、このようにすぐ反応が返ってくるということに感動していると共に、私が書いたものがすぐにネット上で読まれ共有されるということに、少し恐ろしさも感じています。しかしながら、仁田先生の深い思索と教養に触れることができたのもこのブログのおかげですので、公開往復書簡のつもりで、これからも時間を見つけてTBしてみたいと思います。今回、先生のコメントを拝読して大変嬉しかったのは、内発的な動機付けの重要性を認めた上で、「指導と評価の一体化」について私にとって、とても納得のいく考え方を示して下さっていたからです。評価の本来的な機能について、「測定」ではなく「学習に導く」ものであるという指摘は、その通りだと思います。音楽学習を『音楽と自己との関係に気づき、自己表現(自分を出せる)の有効な手段としての音楽に気づく過程』であるとする先生の認識は、全くその通りであると納得させられました。さらに『そうした学習活動の中では、ついつい自己の活動や成果をチェックし、確かめ、よりよいものをめざそうとする心の動きが生じるのであって、その意味でも自己評価を重視したい(中略)、上のような場の設定ができることが「指導と評価の一体化」の本来の意味』という考えは、大変示唆に富むものです。実は私は勤務校で「研究部」に所属しており、本校の校内研修のテーマが「生徒の評価活動(自己評価・相互評価)を生かした授業の研究」であることから、一昨年来、評価のことについて日頃からああだこうだと考えていることが多かったのです。「新しい学力観」に基づく観点別の絶対評価に移行してから、学校現場では今まで以上に「評価」の問題が熱心に議論されるようになりました。しかしその内容といえば、「総括的評価」すなわち「評定」の事に終始しており、単元ごとの評価規準を明確にし、それに基づいて生徒の学習状況を適切に把握し、評価基準に沿ってそれを数値化する、という一連の事務的な作業に関する技術的な方法論についてのものばかりであり、学習者(生徒)にとっていかに良い「学習環境」を構成するか、という本質的な議論はなされていないように感じます。その中で本校研究部が、「自己評価・相互評価」に注目しながら子ども達が自ら学び交流し合う生き生きとした授業を構築していこう、という目的で研究主題を設定していることには、それなりの意味があるのだと感じています。しかし先生方の意識はそこまで到達しておらず、先日の職員会議では「3年継続研究を中断して、評価基準(カッティング・ポイント)についての見直しについて研究すべきだ」という発言が出る状況です。確かに巷では「基礎・基本」の重視が叫ばれ、さらにはその根拠となる学習指導要領を最低基準(ミニマム・スタンダード)とみなす文科省の見解を文字通りに捉え、マスコミの「学力低下論」の外圧にさらされながら、ますます「教えなければならない」という意識に教師が向かいがちであるという事は言えるでしょう。このことに関しては、先生の別の論考(何とかしたい学習意欲の喚起)にある「学力を論じる前に学習意欲について論じることが必要」との認識が大変重要であると思います。本校の研究でも、評価によって促したい生徒の学習状況として「関心・意欲」を第一に挙げて研究を進めています。観点別評価において、どの教科にも共通して位置づけられているのがこの「関心・意欲」という「見えづらい学力」ですが、この観点が意図している「学力観」が各教科でバラバラであり、その位置づけや見取り方(評価方法)もまたバラバラであるというのが、残念ながら本校の実態です。ただはっきりしているのは、どの教科においても「学びたい」という本当の意味での「内発的な動機」の基づいて学習が行われているというよりは、「悪い成績はとりたくない」とか「高校入試の学習点に響く」とかいった「外発的な動機」によって、半ば仕方なく勉強しているというのが現状であるということです。その中で彼らは熱心に何かに打ち込むというよりも、要領よく情報を処理する技術を身につけることを求められます。先生の言う『意欲を後退させる何事かを「学んでしまった」「学ばされた」存在』としての子ども観がそこに当てはまります。学生の頃「隠されたカリキュラム」という概念を教育学の授業で学びましたが、まさに今日の学校で行われている「教育」というのは、それに輪を掛けているのではないかという気がします。「生きる力」を育む「ゆとり教育」、「新しい学力観」のスローガンの下、学校現場は文科省のトップダウン体制の中で大きく変化を強いられましたが、それに伴って本当に大切なのは「子ども観」のパラダイム・シフトであったはずです。経済界を中心とした社会的要請から「エリートを育て他の者は実直であればよい(三浦朱門)」との考えに基づく国の新自由主義的教育改革にそった「国家に従順な」子ども観ではなく、個として自立し、自由に自己表現できる豊かな社会の一員たる「調和的で人間的な」子ども観に立とうとする時、学校での評価のあり方は当然「測定的」なものではなく、「意欲喚起的」なものとなるのだと思います。本校でも現在の研究主題に迫ることを通して、評価の機能をもう一度見直し、学習者主体の授業のあり方に迫っていきたいと思います。その上で先生のまた別の論考(評価について考える)もまた大変示唆に富むものでした(もし良ければ研修会の資料として使わせていただきたいほどです)。「教師」である前にまず「学習環境の構成者(コーディネーター)」でありたい、その中で「評価」の機能を正しく用いて、豊かな「学習」を促していきたい。なかなか上手くまとまらず、まただらだらと長い文章になってしまいました。本来なら個人的なメールのやりとりで済ますべき内容ですが、メールのできる環境になく、学校のコンピューターを使わざるを得ないためブログでのTBという形になってしまったことをお許し下さい。今後もこんな形で良ければ、先生のお考えを拝読したいと思います。メールアドレスがない代わりに、勤務校の住所を記します。もし良ければご連絡下さい。
〒063-0802
北海道札幌市西区二十四軒2条3丁目1-23
札幌市立陵北中学校 音楽科 笹木 陽一
℡ 011-621-1225
by 笹木 陽一 (2006-02-18 17:08) 

仁田悦朗

笹木先生、またまた先生の確かな子ども観、指導観に支えられたお考えに触れることができ、まだまだ学校は大丈夫だというある種の安堵を得ることができました。校内の「研究部」に属されて、評価の問題を視点あるいは主題として取り上げられて研究されておられる由、ご検討をお祈りいたします。
評価の問題を難しくしている原因の一つに、単元や題材を構成する際に、各教科で「教えなければならない内容」がまず示されていて、教師自身が直接的にそれを「指導すること」から脱却できずにいることがあるのではないかと考えています。
『○○について教えなければならない』から『そこに到達できたかどうか』『到達点に最も近い者(遠い者)は誰か』といったことがまず問われるとすれば、それは単なる測定でしかなくなってしまい、個人内評価などはどこかに飛んでいってしまうでしょう。
これからの教師にとって必要なのは、『(教師にとって)学ばせたいこと』を『(子どもにとって)学びたいこと』にうまく転換できるような、教育・教科の専門職としての教科に対する深い理解なのではないでしょうか。
その「うまい転換」とは、かつて「糖衣法」(『苦い薬も砂糖をまぶせば飲みやすくなるはず』)などといった安易な手法が喧伝されたことがありましたが、そのような表面的なことではなく、ほんとうに『これこそ自分の手に入れたかったこと』『探し求めていた秘宝』と思えるような単元や題材として仕組めるかどうかがカギとなるはずです。
「糖衣法」は学習とは「苦い薬」として表現されているように、もともと楽しくないもの、労苦を伴う苦行のようなものといった誤解に立っているといったことからもおわかりのように学習そのもののとらえが私たちとは大きく異なっていました。
先に述べた「うまい転換」は、人間は(あるいは子どもは)もともと的好奇心の旺盛な「知りたがり」な存在であるという人間観を基盤にしていて、その知的好奇心がうまく発露できるような学習の場を整えよう、それこそが学ぶ意味を実感しながらよりよく学習を展開していける学習環境であるという基本的な考えに立っているからです。

かつて「学習から生活へ」という学習成果の広がり、転移がなされることが期待できるような学習内容として仕組むことの重要性が盛んにいわれたことがありました。
しかし、「学ばせたいこと→学びたいこと」に転換するには、「学習から生活へ」の視点だけでは不十分で、「学習→生活→学習」といった往還が期待できるように仕組む視点が不可欠になると考えています。とりわけ、今子どもたちはどのようなことに関心を持っているか、どのような学習のスタイルなら対象との関わりを深めていけそうか、子どもたち自身も気づいていない(かも知れない)資質や能力がうまく発揮できる場とはどのようなものか、といったことについて見とるまなざしが重要なカギを握ると思っています。
つまり、子どもの生活から学習を発想する教師の目です。
そうした過程を経て編み出された「うまい転換」のなされた学習の場では、ことさらに教師が教えなくても、子どもは自分の手で学習をつくりあげていくことが期待できますし、
学問の本来の意味である「問うことを学ぶ」構えを身につけていけるはずなのです。
「教えたいこと、学ばせたいこと」が先行すれば、自己評価や相互評価であっても、指導者の掲げた目標に照らし合わせて「できた・できない」が問われることになってしまい、相対的な評価にならざるを得なくなってしまうでしょう。

そう考えてみると、学習そのものを見直すといった意味での「学習観の転換」と併せて、子ども観も転換し、そうした転換の上に立った「指導観の転換」がなされること、すなわちさまざまな「観」を見直し再構築することが、評価を含めた教育にまつわる諸問題の解明に迫る姿勢に欠かせないのではないかと思われてなりません。
長くなってしまいましたが、ブログ上であるとはいえ、先生のような方とお知り合いになれたこと、こうして考えのやりとりができることを幸せに感じています。
勤務されている学校の所在地などもお知らせ頂きましたので、また別の手段でも連絡を取らせて頂きたいと思っています。
ブログへのコメントをいただき、感謝致します。ありがとうございました。

http://www.e-nita.net/
i-moa-et@js6.so-net.ne.jp
by 仁田悦朗 (2006-02-19 23:41) 

笹木 陽一

大変ご無沙汰しております。先生からコメントいただいてから随分時間が経ってしまい申し訳ありません。この間、学校現場は年度末の成績処理や、卒業式の準備、通知表や指導要録の作成と忙しい日々が続き、あっという間に時間ばかりが過ぎていきました。春休みにゆっくり考えをまとめてトラックバックしようと思っている内に、今度は教育委員会にティーム・ティーチングの実績報告書を提出せねばならず、その作成に追われている内に、とうとう新年度となってしまいました。重ねてお詫び申し上げます。
過日、先生の著作を拝読する機会をいただいて、その思索の深さと教育観の確かさに改めて触れることができ、私のような若輩者が先生と意見交換させていただくなど、とてもおこがましいことだと思いを新たにしました。しかしながら、又とない折角の出会いですので、今後も稚拙ながらこの場をお借りして自分の考えを述べさせていただき、先生のご意見をいただければ嬉しく思います。
さて、今回のコメントを拝読して改めて気づかされたことは「教師にとって学ばせたいことを、子どもにとって学びたいことに転換する」という発想の大切さです。「人間は元々知りたがりな存在」であるという人間観、先生の著作に紹介されている神谷美恵子さんの「ホモ・ディケンス(学ぶヒト)」という概念は、ともすると「教えること」ばかりに意識が行きがちな我々教師の教育観を根本から見直させる、希望に満ちた考えだと思います。先生の言葉にある「教えずに教える」つまり「子どもの学びをコーディネートする」という事を許容する環境としての学校、さらにはその具体的な学習の場としての「総合的な学習の時間」という捉え方は、先生の著作を貫く基本的な考え方かと思いますが、新指導要領が実施されて早4年が経過し、本校の実態に照らして考えたとき、本校におけるその現実は極めて杜撰なものであると言わざるを得ません。        本校の「総合的な学習の時間」の実態と言えば、指導要領改訂の大きな柱であった「自ら学び自ら考える力の育成」という理念を忘れ、文部科学省が例示した総合学習の領域の例(環境、情報、国際理解…)をそのまま並べて、教師が用意した学習内容を機械的に履修させる「形ばかりの総合」でしかありません。まさに「方法論」ばかりが先行し「価値論」が議論されないまま、既に形骸化している感があります。先生の著作を拝読し、学校に本来の「学び」を取り戻すためにも、価値ある「総合的な学習の時間」を創って行かなくてはならないと認識を新たにしております。
「学校化された学び」すなわち知識伝習型の授業から脱却し、知がいかに自己とかかわっていくのかという「自己形成としての学び」(オートポイエーシス)こそが重要であるという認識は、学校で子どもの成長にかかわっている我々教師にとって、必然的なものであるとさえ思えます。しかしフーコーやアルチュセールが指摘したように、近代以降の「学校」というものは否応なく国家の装置として、知を通して個人を支配し権力を内在化させる機能を持っており(フーコーはそれを「牧人型権力」と呼びます)、ブルデューの言い方を借りれば「文化資本のディスタンクシオン(分配=再配分)」によって社会を階層化させる働きを担っています。(東京学芸大学の山田昌弘氏は『希望格差社会』という著作で、学校教育のパイプラインからの漏れが、今日の格差社会を生んでいる状況を分析しています)「学ぶ」という事を「対象を自己との関係において意味あるものとして認識すること」と捉えたとき、その「意味づけ」の尺度が、その学習者の生活に根ざした「内的欲求」に依るものか、社会的な要請に基づく「外的制約」に依るものなのか。そこに学校における「学び」の分水嶺があるように思います。山田氏の指摘によれば、高度成長を支えた「学歴社会」は既に過去のものとなっており、「学校で勉強しても就職に結びつかない、つまり勉強しても仕方がないという事実が厳然と姿を現している」のが今日の日本の現状である、との分析はある意味で正しいと思います。しかしこの現状は「学歴社会」が要請してきた「知識詰め込み型」教育がもたらしたものであり、それへの反省に立って指導要領が改訂され、「ゆとり」のなかで「生きる力」を育むという方向転換がなされたはずなのです。でもこの国の現実は、良く根拠のわからないPISA等の調査(それは測定的な学力であって、文科省が「生きる力」として捉えていた能力とは質の異なるものだと私は思います)に基づく学力低下バッシングになびいて重視すべき理念を失い、「確かな学力」という新たなスローガンを掲げて、グローバル化の進む国際社会の中での競争をサバイバルしていける人材の育成という方向へ急速に移行しつつあります。新自由主義的な発想で教育に競争原理を持ち込むことの危険性については、先生もエッセイで触れていらっしゃるとおりで、だからこそ「人はなぜ学ぶのか」ということを重視しているフィンランドの教育に学ぶことは多いのだと思います。「学習とは自分の人生に必要な知識を自ら構成していく活動」であるとする捉え方は、「先に社会(国家)ありき」のイデオロギー装置的な学校観を転換させる重要な視点となりましょう。確かに人間は社会的な存在であり、自らを取り巻く環境を認識し、意味づけしていくことを通して「主体」を形成していきます。アルチュセールはこの主体形成の過程において、支配的イデオロギーを「知ること-することsavoir-faire」を通して繰り返し教え込むのが学校であり、「6年生ごろ、子ども達の大部分がどこか『生産へ』と抜け落ちていく」と指摘しています。以前私が引用したマリー・シェーファーも『教室の犀』の中で、「5歳児にとって芸術は生活であり、生活は芸術だ。6歳児にとって生活は生活、芸術は芸術だ。最初の学年は子どもの一生の分水界だ、深い傷あとだ」と言っています。学校に職を得て公務員という立場で教育に携わっている以上は、「学校化された学び」を通して人間が「社会化」されていくという側面を否定的に捉えてばかりはいられませんが、やはり「自ら学び育つ」という子どもの自律性を信じ、それを支援するという姿勢をいつまでも持ち続けたいと思います。
「教えられる事柄は間に合わせのものに過ぎない」(マリー・シェーファー)
「どんな知識や技術もそれ自体には何の価値もない」(マーセル)
自分に関係があるのかどうかわからない客観的な対象でしかない知識を、単なる情報として操作あるいは消費していくヴァーチャルなものではなく、未知の事象に出会いそれを「知りたい」と思う内的な衝動によって、その事象からリアルに知識を獲得あるいは形成していくような学習こそ、これからの学校教育の中でさらに重要視されていくことに期待して、日々実践を積み重ねたいと思います。
林竹二氏は「生きる事は成長することであり、成長することは即ち学ぶこと」であると言いました。昭和54年の段階で「今の学校教育の最大の欠陥は(中略)子どもの持ち合わせの知識におんぶした授業だと考えている。(中略)学習がないというのは、どこかで仕込んだ知識の披露があるだけで、授業の中に自分自身との対決がないからである」(『教えることと学ぶこと』)とも言っています。とても含蓄のある言葉で、「学ぶ」ということの本質を捉えた発言であると思います。山本哲士氏も「学ぶ自律行為が、学校や教育の押しつけから解き放たれることで、学校から解き放たれて学ぶ行為の自己テクノロジーがなされるとき、本来の成熟した人類のあり方になる」(『学校の幻想 教育の幻想』序より)と語っています。「学習」を学校論や教育論の領域に限定するのではなく、広く「生き方」や「文化創造」の問題として捉え、そこからより豊かな「世界観」の構築に向かうような発想が求められている時代だと思います。その意味で先生の著作には、そういった広い視野に立った論議がいたるところで見られ、大変感化されているところです。特に先生が「持つ文化」から「ある文化」への転換を語り「持続可能な社会」実現のビジョンを語っていらっしゃる事には強く共感しています。そういえばこのTBのきっかけとなった「場の音楽再考」の主な論点はここにあったのでしたね。音楽は目に見えないが故に「所有」の概念から自由であり得ます。ジョン・レノンも「イマジン」のなかで“Imagine,there’s no possession”と歌いました。ありとあらゆる「存在」を認め、互いに共存するという今日的な課題を、少しでも現実にしていこうとするにあたって、「音楽」の持つ力はとても大きいと思います。NHK制作の「世紀をつなぐ歌 イマジン」というドキュメンタリーの中で、最後にゴードン・エドワーズというコロンビア大学の教授が「音楽は異なるもの同士が互いを分かり合うための最適の手段である」と語っていました。今日、学校教育から「音楽科」がなくなるかもしれない、といった議論が聞こえてくる中で、昨年札幌で行われた学習会に参加していた文科省の教科調査官は、先述のPISAを引きながら、音楽科が担うべき教科としての学力を、幅広い意味での「読解力」だと言っていました。私はこれを「コミュニケーション能力」と読み替えて理解しています。狭義の音楽的能力だけを扱うのではなく、「音楽を通して世界を認識し、理解し、表現する」というコミュニケーションにかかわる能力も含めて初めて、今日音楽科に求められている学力について語れるのではないか。まだ漠然とした考えでしかないのですが、先生のご意見も聞きながら「音楽科」の「学力観」についても今後深く考えていきたいと思います。
今回も結局上手くまとまらず、長くなってしまい申し訳ありません。本当は、先生が提起された「子どもの生活から学習を発想する」例として、私が実践している「5分間鑑賞」の取り組みを紹介するつもりだったのですが、それは別の機会に譲りたいと思います。そちらは桜の季節で春真っ盛りといったところなのでしょうね。(北海道はまだまだ春の訪れが遠いのですが…)年度の初めに自分の考えをまとめておくという貴重な機会を与えていただいたことに感謝します。また連絡いたします。
by 笹木 陽一 (2006-04-03 18:38) 

takeuchi kazuya

 はじめまして。友人の笹木君から紹介いただき、「場の音楽」再考を読ませていただきました。
 いろいろと考えさせられ、よい刺激を受けました。
 感想のようなものをしたためましたので、トラックバックさせていただきました。

 ありがとうございました。
by takeuchi kazuya (2007-01-17 09:32) 

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