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教育再生会議に危惧の念 [教育全般]

 安倍総理の私的な諮問機関でしかない「教育再生会議」が、いつの間にか提言を通して日本の教育の舵取り役を担うものであるかのような報道がなされている。
 この再生会議のありようについて危惧を感じるのは、私一人ではあるまい。
 何よりも、これはどこまでも私的な諮問機関であること。
 法律に基づいて設置された臨時教育審議会(中曽根内閣)や中央教育審議会とはそもそもの位置づけが異なるのだ。また、中教審との存在意味の違いもあるはずだ。
しかもこの会議は原則非公開だという。官邸主導でなされるこの会議は、最初から目的地を定めてつじつま合わせのような話し合いをする目的で設置されたかのように見える。

 有識者で組織したと言われるこの会議のメンバーの半数は、教育の専門家ではない。いわば教育の「素人」が、教育の理念や教育に対する理解などは視野の外において教育について論じる会議なのだ。論じるだけなら許せるが、それを提言としてまとめ、教育の重大な方向付けに生かされるという。
日本教育学会歴代会長が「教育基本法改正継続審議にむけての見解と要望」をとりまとめ教育基本法の拙速な改正に何とか歯止めをかけようとしている。また、日本教育法学会も特別委員会を設けて働きかけているが、これらの動きに対して政府は何の対応もしていないように見受けられる。
 
 教育や教育法規の専門家、研究者の意見は無視され、素人の意見が採り上げられるという状況からは、素人の意見を受け容れることで世論を恣意的に作り上げようとする意図が透かし絵のように見える。
 素人の意見を軽んじるわけではない。
 しかし、いじめの問題を起こす子どもに対して、「指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など」「いじめに関わったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する」などのいわば付け焼き刃のような対策(しかもどう見てもちぐはぐな対策にしか思えない首をかしげるものばかりである)は、素人受けはするかもしれぬが問題の根本的な解決につながるものでないことは、教育研究に携わった者なら一目瞭然だ。

 それは、公共心や道徳心、愛国心の涵養、学力の論議、未履修問題等々、すべてにわたって言えることだが、法学や教育学などの学問の成果をまったく無視した教育談義だからである。しかもそれなら一般市民にわかりやすく見えやすいという困った側面も併せ持っているのだ。まるで、安倍政権はそのことを見越して、有識者17名による構成でこの会議を組織したかのようである。(何をもって有識者とするかは不明だが)

 さて、諸々の教育に関する問題の根には何があるのだろうか。
 教育基本法は、平和的な社会の形成者としての主権者を育むという高い理念を謳っているが、昭和40年代からの教育はそれを具現化しようとしていたかと言えば疑問が残る。 学校は子どもたちに、学ぶことのたのしさや学びあいのたのしさ、すなわち、学問の本質を伝えていただろうか?学問とは文字通り「問うことを学ぶ」ことであるが、単なる知識と技術の伝達に走り、学ぶことの意味や楽しさを伝えてこなかったのではないかといううらみが残る。

 受験地獄という言葉に象徴されるように「競争」に学校が支配され、いつの頃からか小学校は中学校の、中学校は高校の、そして高校は大学の予備校のようになり果て、学ぶ楽しさや問うことのおもしろさをどこかに置き忘れた指導を展開し、少子化によって近年はますますその傾向を強くしてきたのではなかったか。
中には、教育の専門職たる高校教員が、その誇りを忘れ、塾の講師を招いて教科の指導法についての指導を仰ぐ、といった県もあらわれた。高校は学ぶ場ではなく、ついに予備校に徹しようと決意したかのようである。その挙げ句が未履修問題である。

 また、問いを発し「わかる」に向けて無我夢中で取り組めるような学習、そのことによって自分の世界の広がりを味わう学習、社会や自然の謎を解き明かす心の弾むような学習を仕組めなかったことが、学習意欲を阻害し、自己の存在を確認するために非行やいじめに走る子ども、有能感を味わえず無気力・無関心に自分自身を追い込んでしまうような子どもを生んでしまったことについてまず顧みなければならない。

 学問は競争ではない。友だちよりも1点でも余計に取って上位の成績を勝ち取ることに喜びを見いだすのではなく、捨ててはおけない真理の探究に向かって互いに「切磋琢磨」して一緒に伸びていくことに喜びを見いだせるようになることが学問をする意味ではなかったか。(切磋琢磨とはお互いに磨き高めあうの意である)
 そこでは当然、競うということが「相手を蹴落とす」「相手のミスを期待する」という心理を生み出さない。「わからないこと」「不思議なこと」に心をときめかせ、共に解決を探ろう、励まし合ってがんばろうという学び合いのこころがベースにあるからだ。

 そもそも人間にとって「わからないこと」がある、というのは楽しいことだ。
 英語の 「フィロソフィー(哲学)」は「智を愛する」というギリシャ語に由来していることは周知のことである。また、シンポジウム(討論会)」は「宴会」 を、そして 「スクール(学校)」は「暇」をそれぞれ原義としており、これらもギリシャ語に由来している。アリストテレスは、「労働は暇な時間を楽しむためにある」ということを繰り返し述べ、スクール(学校)は格調の高い楽しみ(すなわち思索し議論し、納得のいく知に到達すること)によって暇な時間を充実して過ごすことを学ぶ場所だとも言っている。

 ついでながら学校とは、「学ぶ(まなぶ)」「校(かんがふ)」の2字で構成された熟語であり、教えられて習う場所ではない。教えられて習うのは「教習」である。
 「学ぶ」は、「スタディー」すなわちラテン語の「熱心に求める」に語源のある言葉で、自ら探求し自らの手で手に入れることを意味している。
 また「校」は、二つのものごとをつきあわせて「調べる・考える・計算する」という意味の古語である。
 まさに「学校」は、「教育される場」ではなく、求め・調べ・考える楽しさを味わう場なのだ。「問う」ことのおもしろさを発見し、「わかる」に向かって励む人生最大の喜びを味わう場であり、そうしたことを学ぶ場なのだ。

 人類のことを学名ではラテン語で「ホモ・サピエンス(理性のある人)」と言うが、オランダの歴史学者ホイジンガが「人類は『遊ぶ人』である」として「ホモ・ルーデンス」と呼んだのも、知的好奇心を発揮して「遊ぶ」ように「学ぶ」ことで生きる存在であることを言おうとしたのであろう。
 また精神医学者の神谷美恵子は、6才から11才ころまでの学童期の子どもを「ホモ・ディスケンス(学ぶひと)」と呼び、知ることそれ自体に大きな喜びを感じる存在としてとらえ、「しかもこれは、人間一般を他の動物からきわだって区別する本質的な特徴の一つ」であると説明している。

 そのようにもともと人間が本能的に持っている知的好奇心を発揮しながら「よりよく学べる場」として学校は機能すべきではなかったか。
 そして、学ぶことを通して学びへの参加の仕方、創造的な人間の文化への参加の仕方を学び、よりよく生きることについて考えることのできる人間に自分自身を育てる場が学校ではなかったのか。
であるのに「問いを発して」「わかる」ということの意味や楽しさをどこかに置き忘れ、大学の門に向かうためにだけ知識を蓄え、受験に必要な技術を身につけることが「学習」である、と学校も生徒も取り違えてしまうような指導がなされてこなかったか。

 何よりもそれが現在の学校教育を巡る諸問題の根っこにあり、付け焼き刃のような対策を講じても何の解決にもなりはしないのに、懲罰を加えればよいとか競争させればよい、あるいは競争に勝った学校には教育予算を多く配当するなどといった浮薄な対策しか出てこない再生会議は、ますます世の中を混乱させるばかりである。そればかりか、教育の理念そのものがどこかに吹き飛んでいってしまい、本来の学校に戻れなくなってしまう。
教育再生と言いながら教育破壊につながりかねない気配さえする。

 そうした案しか思い浮かばないのは、彼らが「ほんとうに学んだ」経験を持たないからではないのか。もしかすると、教えてもらって覚えること、あるいは記憶力を働かせることで入試をはじめとする試験を切り抜けること、それが人生成功に結びつくカギであると大いなる勘違いをしているのではないか。
 学校で学ぶことと社会生活において「うわべの成功」を得ることとは何の関係もない。
 たとえ大学を出ていなくても人生の成功者はたくさんいるのだ。
 まずは社会全体の共通理解として、学ぶことは功利とは無縁の人生の楽しみ、成長の楽しみ、世界を広げる喜びなのだ、という認識をすべきであろう。

 遠い道のりになるかも知れないが、まず何よりも「学問」本来の「問うことを学ぶ」楽しさと充実感が味わえるような学校教育を展開することこそが、一番の近道であり、それのみが本来の学校再生につながる最良の道であり、健全で成熟した市民社会づくりにつながる道なのだ。世の浮薄な論議に惑わされてはならない。


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なつみ

はじめまして!音楽教育あれこれからやってきました。
今年から音楽専科がいないため、自分で音楽の授業をやっています。
いろいろ教えていただきたいです。どうぞよろしくお願いします。

私も「再生会議」のあり方や提言に疑問を感じます。
わかったような口をきかないでほしいです。
ちゃんと現場を見るなり、現場の意見をきくなりしてほしいです。
by なつみ (2006-12-04 00:11) 

おじおじ

なつみさん、コメントをありがとうございます。
コメントの内容から察するに、現場で音楽の授業も担当されていらっしゃる先生のようですね。これからもどうぞよろしくお願い致します。
私のホームページ「音楽教育雑談室」(http://www.e-nita.net)もどうぞよろしくお願い致します。
by おじおじ (2006-12-04 11:00) 

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