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へたも絵のうち

 笹木先生、お久しぶりです。
 コメントをありがとうございました。
 教科「音楽科」の教育を考えるということで設けたこのブログですが、なかなか本質に迫る記事が書けずにその周囲をおろおろと彷徨っているというのが実感です。
 せっかくお読み下さっているのに申し訳ございません。

 昔(もう30年ほども前のことなので本当に昔のことなのですが)、附属小学校に勤務していた当時、ある美術担当の先生にこう言われたことを今更ながら思い起こしています。
 それは『へたも絵のうち』という言葉でした。
 何とか「うまい演奏をさせたいものだ」と心のどこかで思いながらの私の指導を見透かしたかのような、その先生の言葉に(見透かされてしまった分よけいに)とてもショックを受けたものです。
 その先生は、美術展などにも積極的に作品を出品される前衛美術家でもありましたが、世間の評判から超然とし、驚くような作品を次々と生み出されました。常人には『これが作品?』と理解に苦しむようなものもあり、数多くのエピソードを持った先生でしたが、ある展覧会ではせっかく持ち込んだ作品がゴミと間違われ、警備員の手で捨てられてしまい、当日は先生の作品が展示されるはずだったスペースに名札だけが大きく掲示されていて、これもまた芸術、と評判になったなどという嘘のような話も残っている先生でした。
 そのような先生の言う『へたも絵のうち』という含蓄に富んだ言葉には何か大きな示唆があるような気がして、音楽を考える際にも、その視点でもう一度見直してみるという習性がついてしまったような気がします。
 
 それ以前に中学校に勤務していた頃には、このようなこともありました。
 2年生の男子生徒で、リコーダーの練習にあまり熱心でない生徒がおり、何とかもう少しがんばれるようにしたいものだと思い、『もう少しがんばって、せめてこのフレーズだけでも吹けるようにしようよ』と言ったところ、その生徒はニヤニヤしながらこう言うのです。『先生、いいんです。僕んち旅館で僕は跡取りでしょう。笛なんか吹けなくても大丈夫』
 まだ若かった私は、その言葉にどう答えて良いかわからず、『ああ、そうなの』と愚にもつかない返事をしてしまいました。
今なら何と答えただろうか、と自問自答しています。
音楽の楽しさと喜びを少しでも伝えられたら、と願っていたにもかかわらず、戸惑うばかりだった若い頃の苦い思い出です。

 その中学校では吹奏楽部の指導も担当していました。ご多聞にもれず、コンクールめざして練習をしたものです。コンクールをめざして、と書いたものの練習に取り上げたのはコンクールで演奏する曲ばかりではなく、さまざまなジャンルの曲に挑み、どんなジャンルの曲を扱おうが音楽的な向上に無駄なものは何一つない、とむしろ音楽的な表現に個々が取り組めることを主眼に練習や話し合いを重ねたものでした。
 話し合いと言えば、毎年コンクール申し込みの期日が迫ると、課題曲も自由曲も練習したのにかかわらず、毎年のように「今年のコンクールに出場するかしないか」を部員全員で話し合ったものでした。
 コンクールでは、それまで何ヶ月かの練習で苦労したこと、がんばったこと、乗り越えてきたこと、自分たちがめざしたことなどは評価されにくい。極端に言えば、身体の不自由な生徒が紡ぎ出すたった一音だけのシンバルにこめた思いや喜びなどは審査員の窺い知るところではない。ステージの上で披露するたった6分ほどの演奏が「うまいかどうか」だけで判断され、点数をつけられ、順位をつけられる覚悟があるか、を問いたかったのです。
 その覚悟がなければ、単に銀賞しか獲れなかった、金賞をもらえたから嬉しい、という勝負事のために音楽をしてきたことになりかねない、自分の生徒たちがそんな思いで音楽に取り組むようなことにならないように、とも思っていたのです。
 そして、生徒たちが毎年のように『自分たちのめざしてきたことを問いたいから』コンクールに出させてくれ、と主張したことからコンクールには出続けたのです。
 賞の獲得にこだわらず、それでも金賞を獲れば抱き合って素直に喜び合い、獲れなくても悔し涙にくれるほど嘆いたり卑下したりせず音楽に取り組もうとする生徒たちと一緒に音楽を楽しめたことは、今でもよい思い出になっています。

 ところで、コンクールと言えば毎週日曜日にNHKで放送される「のど自慢」を聴くのも楽しみのうちの一つです。
 おそらくあのステージ上で歌う人たちの何倍もの応募者がいるのでしょうが、選ばれて晴れのステージに上ることのできた人たちは、いわゆる「うまい」人ばかりではありません。伴奏など無視して自分なりのテンポやキーで歌う人もいます。ご丁寧に振りまでつけて、もうすっかり歌手になりきりながらも音をはずして熱唱する人もいます。ほんとうに素晴らしい声と表現力で聴き入ってしまうようなプロ顔負けの歌を歌う人もいます。
 うまい・へたで論じてしまっては失礼なほど、というよりそんなことは何ほどのこともないと思わせてくれるほど魅力的に輝いて生きる音楽のPLAYERぞろいで、時には笑い転げ、時には感動し、時には涙を拭きながら楽しませてもらっている番組の一つです。

 教科「音楽科」について論じながら、芸術「音楽」と混同して議論がかみ合わなくなることがよくあります。私たちは演奏者や作曲家を育てているわけではないのに、音楽という共通の基盤に立っているばかりに、ついついその共通の部分、重なった部分に目を奪われ、教科としての「音楽」のめざすものを見失いがちでもあります。
 芸術教育がめざす「音楽的成長」と、教科教育のめざすそれとではずいぶんと大きな違いがあるはずですが、重なり合う部分が多い分、誤解がいっそう大きいのかも知れません。
 たとえて言えば、同じ漢字を使用している中国民族と日本人は、他言語を使用する他の民族間よりは理解し合えるはずだ、と思いこみ、しかし一方では同じ文字を使っている分余計に誤解を生じやすいという現実を突きつけられて戸惑ったりいらいらしたりしている状況と似ているような気もします。
 しかし芸術音楽であれ、教科「音楽科」であれ、どんなに拙い表現であってもそこに生命の輝きがあればこそ、私たちは感じ入ることができるという動かしがたい礎石があるということが何より大切なのかも知れません。
 それこそ「へたの絵のうち」にこめられた意味なのでしょうか。
 何だか今回の記事は思い出話のようなとりとめのないものになってしまいました。

 これから3ヶ年の研究のとりまとめに入られるとか。
 きっと立派なものができあがることでしょう。
 どうぞ無理をせず、お励み下さい。


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笹木 陽一

ご無沙汰しています。わたしの愚痴のようなコメントに対して、先生の過去の貴重な実践を紹介していただき、身に余る思いです。前回コメントさせていただいた時は、演奏会を終えたばかりで自己嫌悪が強く、その後何日か後味の悪い思いをして過ごしておりました。そんな折り先生の「へたも絵のうち」を読ませていただいて、少し元気になったのですが、その直後丸1ヶ月休みなしだったのが祟って体調を崩してしまい、先週はずっと寝込んでおりました。そのためご返事するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。
 体調を崩していたので、3カ年研究のまとめもいっこうに進まず焦っておりますが、今回の記事にある先生の「どんなに拙い表現であってもそこに生命の輝きがあればこそ、私たちは感じ入ることができる」という言葉に勇気づけられています。思えば我々教師は、生徒一人ひとりの生命の輝きを前にして日々エネルギーをもらい、その可能性に感動を覚えながら、どんなに辛い現状があっても足を踏ん張って仕事しています。金子みすずの「みんな違ってみんないい」ではありませんが、人それぞれに良さがあり、それを認め伸ばす事こそ教育の役割であるはずです。しかし残念ながら「学校」にはその社会的な機能上、「公共的な価値」を外側から主体に要請し、再配分する事を通して主体に「画一化」を求める側面があります。教育基本法が変えられ、国民道徳の徹底こそ「教育の目的」と明記されてしまった今日、「学校とは学びかんがう場所である」と先生が指摘される学校像は、理想的であるが故にますます現実から遠ざかっているように感じます。以前、ある飲み会で本校の教務主任と話す機会があり、「子供の主体性を信頼した学校のあり方」について私なりの意見を述べた所、「理想的だがその実現のためには私学に行かなきゃダメだね」と言われてしまい、落ち込んだ事もありました。本校に赴任して3年間、いろいろな場面で子どもの側に立った提案や実践をしてきたのですが、一番の抵抗勢力は教師集団であり、教師の保守性や学校の管理主義の壁はやはり大きいものだと感じています。先月も卒業式の合唱をできるだけ「生徒が主役」のものとするために、いくつかのアイデアを係会議で提案したのですが、「本来儀式的行事において生徒の意見を聞くということ自体がおかしい」と却下されてしまいました。せっかく編曲した校歌の合唱版も、「儀式には斉唱が望ましい」ということで歌われず、「せめて指揮者を立てたい」との提案も、「国歌斉唱との間で不必要な間が生じる」との理由でダメになりました。そんな中ではどんなに理論武装しても、どんな授業実践をしても「のれんに腕押し」状態でしかないのかなと弱気になってしまいます。そんな中、3カ年研究のまとめの校内研修会まで残り1週間となってしまい、どんな風にまとめたらよいものかと、正直悩んでいます。このまま理想を掲げて問題提起をし続けるのがよいのか、当たり障りのない言葉で現状を追認するようなまとめをしてお茶を濁すのか。むろん私の性格上、後者を選ぶことはできないのですが、せっかく3年間継続してきた「自ら学ぶ」に向けての研究を、敵ばかり増やして成果なしとしてしまうのも納得がいきません。もちろんこう書いたからといって、本校の教師がみんな管理的なわけではありませんし、子どもの側に立った実践を立派にやり遂げようとしている先輩も複数います。そんな先輩の一人から教えていただいた言葉に「善いことはカタツムリの速度でしか進まない」(ガンジー)というのがあります。その先輩は「理想を絶対にあきらめてはいけない。今に見ていろという負けじ魂でじっと待ちながら時を作る。あきらめなければ5年後、10年後には必ず理想は現実に近づく」と言って、このガンジーの言葉を教えてくださいました。学校教育を巡る状況がますます厳しくなっていく中で、理想を持てば持つほど苦しくなるという構図があります。それでも「指導」という大義名分の下に子どもを管理・選別し、格差を助長するくらいなら、たとえ「指導力不足」といわれても、子ども一人ひとりのかけがえのない自己表現に耳を傾け、寄り添い、共に学ぶ教師でありたいと思います。去年読んだおにつかるみさんの「空のにおい」という本の後書きに、「教育基本法が変えられそうな厳しい情勢だからこそ、子供に寄り添う事こそ強い事なのだ」といった内容の文章があり勇気づけられました。「教える」事の権力性、暴力性を自覚しながらも、その子どもの「学び」に寄り添い、その子の成長や発達を援助する事。この「あたりまえの教育のあり方」が担保される学校であって欲しいと心から思います。 
いつもながらのまとまらない雑文で(いつも同じことばかり言っているきもしますが)申し訳ありませんでした。何とか残り1週間、あきらめないで研究のまとめにいそしもうと思います。本当は研究で悩んでいる視点をより具体的に書いて、先生からアドヴァイスをいただこうと思っていたのですが…。「人から教わろう」というずるい気持ちではダメですね。苦しくとも「自ら学ぶ」姿勢を貫いて、何とか仕上げたいと思います(研修会が無事終わることを願いつつ…)。ではまた連絡します。
by 笹木 陽一 (2007-02-20 20:15) 

おじおじ

困ったものです。どうも日本人は(それがよい一面でもあるとは思いますが)、建前は建前、現実は現実と簡単に割り切り、理想を語り理想に近づく努力をすることは「青臭い」ことだ、とする傾向から抜け出せていないようです。理想と現実の間には埋めがたいギャップがあり、それを埋めようとするなどということは、大人になりきれない若者のすること、と訳知り顔でいう人たちがどれほど多いことか、これまでの教師生活でいやというほど思い知らされたものです。
しかし、簡単に「それは理想論」と言い切って脇に追いやられた考えは、決して机上の空論ではなく、私自身の実践を背景にしたものであったことから、負けるわけはないと自負を感じながら戦い続けてきた、というのが教師生活を振り返っての実感です。
私には、そうした現実追従の考えは、理想と現実のギャップを埋める努力を怠るいいわけ、自分の力不足を認めたくないいいわけにしか聞こえませんし、それでは何より子どもたちが不幸ではないか、と思われてならないのです。
厳かな儀式にしても「学校」のために実施するわけではない。それを厳かにしようとするのは、何よりも巣立っていく子どもたちへのはなむけであり、祝福しようとする在校生と教職員の意志によってだろうと思われるのです。
もう30年も前に、中学校で「音楽卒業式」を計画し催し、当時の教え子たちや同僚から今でも「あの頃の卒業式は強く思い出に残っている」「赴任した先の学校でもあのような卒業式をしようとずっとモデルにしてきた」などという感想をいただく度に、それを見守り支えてくださった先輩・同僚に感謝するばかりです。
その意味では、私の教師人生はある面では戦いの連続」であったとはいえ、一面ではおおむね幸せなものであったと感じています。
先生のご努力を一番強く理解し、歓迎し、ある面では支えてくれるのは、生徒の皆さんでしょう。たとえ他の人はわかってくれなくても生徒の変容の姿でいつかわかってもらえることを信じてがんばるしかないのではないでしょうか。
それにしても、と思うのは日本人の付和雷同のいかんともしがたい傾向。
昨日まで「子どもの側にたった指導」と言っていた指導主事が掌を返したように「教えることの大切さ」を主張してはばからない。いかにも「私は以前からここ数年のゆとり教育をネガティブに見ていたのだ」と我が意を得たりとばかりに講話をしている、という話を聞く度に信念のなさや教育哲学の浅薄さを思わざるを得ません。
そうした人ばかりではなく、一斉に右ならえをするこの不気味さは日本人であってもそう感じるのですから、外国の人が見たら「信用ならない日本人」という日本観を抱かせるに十分であろうということは想像に難くありません。
しかし、こうした俗な教育論がいつまでも主流であろうはずはありません。
地道に「あるべき方向に向かう教育観」が認められるよう、お互い頑張ろうではありませんか。
by おじおじ (2007-02-23 11:52) 

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