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「誇り」について その5~終わりに~

 いま世界は、アメリカ発の経済危機によってすっかり元気を失ってしまっている。また、地方都市の多くは、大都市への人口流出や大都市圏への経済集中によって、まるでゴーストタウンのような寂しい状況を呈している。このように元気を失ってしまった状況は決して良いことではない。しかし、だからといって20年前のバブル景気のように実体のない「狂騒的な浮かれ気分」を懐かしんでいては、その後の景気崩壊から何も学ばなかったことになるであろうし、それもまた良いことではない。
 いまや、麻生政権はバラ撒きとも揶揄されてしかるべきような政策を次々と打ち出しているが、これにしたところがすこぶる近視眼的な対処療法、後からもっとひどい痛みが襲って来るであろうことが明白な安易な手段と言う他はない。さらにそうした政策・対応策のほとんどが、自身が首相を務める内閣及び与党の議席数確保につながる選挙対策にしか見えないのだが、その点について論ずるのはこの稿の目的ではないので、割愛する。

 しかしここで見え隠れするのは、金銭的な余裕ができなければ活気が生じるはずなどない、とする相変わらずの経済の活況にすがり、かつてのような「浮かれ気分」を呼び戻そうとする姿勢だ。
 健全な市民によるほんとうの豊かさに満ちた国・県・市・町・村づくりをしようと思うなら、経済が活性化することを最優先になどしないはずだ。
 私たちは、まず「人の往来が盛んになること」「モノやカネが行き渡ること」「欲するものを食することができること」「市場が活況を呈すること」「そのことで心が浮き立つこと」「気持ちが明るく前向きになること」「精神が充たされること」「生き甲斐を感じること」「畏れ敬うこと」「感謝すること」「自然や生命を尊ぶこと」などのことがらの間にどのような関係を見つけることができるか、それが幸福や豊かさ・喜び・充実した生、堂々とした生き方につながるためにどうとらえ直しをするか、といったことについて十分に検討する必要がある。
 それができてはじめて「誇りと自信」に満ちた市民生活、ほんとうの活気(生き生きとした気分)に満ちた市民生活について考えることができるだろうと思われるからである。

 「誇り」は、横並びの意識からは決して生まれない。流行や風潮に流され、他人の尺度でモノゴトの価値を測ろうとする気分、他と同じように振る舞いたいという心持ちからは、自分の信ずる道を自分の足で歩むという自信も自負も生まれようがないからである。そうした自信や自負を背景にした『他とは違う独自のよさに対する強い思い』が「誇り」であり、それは感性や情操の十全な成長、あるいはその成長に対する憧れがベースにあるからこそ生じる姿勢や構え・考えである。
 活気ある国づくり、町づくりをしようとするなら、現麻生政権が打ち出したような付け焼き刃の如き「小手先の対策」ではおぼつかないだろうと思うのは、私一人ではあるまい。そこに哲学が、そしてその哲学に裏付けられた確かな展望が感じられないからである。
 真に誇りある国民・市民の育ちを願うなら、哲学(理念)がまず先だって在ることが必要であるし、そうした哲学を持つことを一人一人の市民に啓蒙することこそ喫緊の命題だと強く思うのである。

 ここまで書いてきたところで、本日附(2009/04/26)の読売新聞「地球を読む」という特集コラムで、宗教思想家で国立民俗歴史博物館教授の山折哲雄氏が興味深い論説を載せている。
 山折氏は、現在世界を覆っている「金融危機」「通貨危機」は、景気循環と言う言葉で説明がつくはずだという。景気循環とは、『経済は好調のときもあれば、暗転するときもある。10年、50年に一度の暴風であろうと、ことの本質に変わりはない。バブルの現象も過熱すれば、やがてはじける。照る日も曇る日もある』ということを指しており、この経済用語を人間的な言葉に置き換えれば「無常」ということになるだろう、と言う。
 「無常」の概念は、東洋人には馴染みのものだが、『この世に常なるものは何一つ存在しない』という意味だ。それは、持続可能な永遠などありはしない、という認識を基調にしている。しかし、この無常の認識からは、じつは明るい旋律もきこえてくることに注意しなければならない。それは、とかく世の中は人間の運命であれ、山川草木のような自然であれ、変化と蘇生をくり返して循環をやめないからだ、と言う。そしてわれわれの人生も社会のあり方も、浮沈をくり返しつつ、この循環の軌道にのっている。なにもあわてることはない、いたずらに騒ぐことはないのだ、と指摘する。
 
 この金融危機はアメリカ発のものであるが、アングロサクソンによって形成された西欧社会は、危機をのりこえるための生き残り戦略こそが最大の関心事であり、我々の持つ「無常というアジア的なエートス」に対して拒否的な態度をとり続けてきており、それは、彼らにとって「無常観」は、退嬰的で虚無的な思想にしか思えないからだろうと言う。
 その上で、『さらにつらいことには、われわれ日本の社会までが、このアングロサクソン流生き残り戦略の傘の下にすっぽり包み込まれてしまっているではないか。そしてこれまで、そのグローバリゼーションという名の戦略に加担することに、われわれは夢中になりすぎていたのである。
 われわれはこの先、不安と危機感をあおり立てる短期的な経済予測に、いぜんとして翻弄されつづけるのか。それとも景気循環=無常の原則に立って長期的な展望をもち、この事態に冷静に対処するよう努力していくのか。今こそ、怒りの神も愛の神ももたないわれわれ自身のエートスが、世界からためされているのである。』と結んでいる。

 ここで指摘されているように、グローバリゼーションという美名のもとで「西欧流の経済戦略」に流されず、日本が(東洋が)長い歴史の中で独自に培ってきた感性や理念に基づいて冷静に対処すること、それが何よりも肝要であると思われる。そして、それこそが日本人に「誇り」を取り戻させる唯一の道なのではないかと強く思われるのである。
 そこでは、横並びになることをめざさず、私たち自身の「独自性」を大切にし、より高い理念とそれに基づく展望の基に「真に豊かな未来」を切り拓いていくという自信と自負が生まれることが期待できるし、そのことによって誇り高い市民による誇りに満ちた国の実現に近づくことが期待できるからである。

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笹木 陽一

 お久しぶりです。昨年秋にコメントさせていただいてから、ずっとご無沙汰してしまい申し訳ありません。先生のブログは日々拝見しておりましたが、雑事にかまけてご連絡差し上げることのないまま、今日に至ってしまいました。重ねてお詫びいたします。
 
 「誇り」についての明晰な論述をご披露いただき、いろいろと考えさせられました。知里さんの故郷は妻の実家に近く、弟の真志保さんの墓がある墓地に、この3月亡くなった妻の父の墓も建つことになります。私が勤める学校の前PTA会長は、北海道大学アイヌ文化研究所の所長を務める方でした。こう書くと「さすがは北海道、アイヌ文化が身近にあるのだな」と感じられるかもしれませんが、実は日常的にはほとんど触れる機会がなく、「今でもチセに住んでいるの」と質問する子供がいるほど、偏見にさらされて生きておられるのが現実です。

 この春、アイヌ民族を束ねてきた「ウタリ協会」(同胞・仲間の意)が、ようやく「アイヌ協会」に名称を戻しました。国際的な流れの中で、ようやく日本がアイヌを先住民族と認めたことを受けての変更ですが、人間としての誇りを示すはずの「アイヌ」という言葉が、如何に差別的に語られてきたのかを示す例かと思います。以前読んだ市民メディアの記事で、アイヌ民族の方が「アイヌとしての誇りの中身が大事であり、具体的に宙に浮いていない中身のある誇りが語られねばならない」という事を訴えていました。偏見が厳然としてあり、それに対する無関心が支配しているこの世の中で、ただマイノリティとしての民族意識を語っても差別意識を助長するに過ぎない。民族的アイデンティティを無効化しようとする強い同調圧力の中で、差異を際立たせることを恐れるメンタリティがこの国にはあります。

 在日朝鮮・韓国人の皆さんも、同様の問題と闘いながら生きておられます。札幌には「ウリハッキョ」という映画で注目された朝鮮学校がありますが、先月のミサイル騒ぎの時には、またも謂れのない嫌がらせを受けて困っておられました。同じく先月、不法入国を咎められ強制退去となったフィリピンのカルデロンさん一家の件でも、わざわざのり子さんが通う中学校の前で右翼のデモ行進が行われたと聞いています。中学校で教える身としては、考えただけで胸が締め付けられる思いです。

 教育基本法改悪の直前、安倍元首相に質問状を送った札幌の私立中学校に友人が勤めていますが、その時も右翼からの抗議の電話やFAX、メールが殺到して対応に苦慮したと聞きました。札幌でこの春ようやく施行の運びとなった「子どもの権利条例」に対しても、右派の「日本会議」が反対の署名を大量に集めていました。人間らしい尊厳を求めて勇気を持って発言し行動する者を、疎ましく思って排除し足を引っ張ろうとする人々が、この国にはたくさんいます。もちろん日本に限ったことではないのかもしれませんが、先生が論じておられる「誇り」を履き違えている人々が、残念ながら世論の多数派なのかもしれません。

 「横並びになることをめざさず、私たち自身の独自性を大切にし、より高い理念とそれに基づく展望の基に、真に豊かな未来を切り拓いていく」という先生の言葉に心から賛同します。先述した前PTA会長は卒業式の祝辞で、アメリカでアフリカ系アメリカ人の大統領が生まれたように、日本でも「ハイフン付き日本人」(~系)が当たり前になる時代がきっと来ると語っていました。朝鮮系日本人、フィリピン系日本人、アイヌ系日本人など、自らのエスニック・アイデンティティを「誇り」をもって語れる国、多文化共生を実現する寛容な社会を目指す必要があります。

 明日から裁判員制度が始まりますが、互いに監視し裁きあう非寛容な関係性を助長するものにはなってほしくないと強く願います。とはいえ、横並び意識の強い我々が本当に一人ひとりの良心を発揮し、他者の人生を左右する評決を下すことができるのか否かについて、きちんとした議論もないまま、他の多くの政策同様、見切り発車で物事が進んでいきます。教員免許更新制も新指導要領の部分実施も始まりました。詐欺のような「定額給付金」も、振り込め詐欺注意のポスターと共に、あたかも良い事かのように宣伝されています。世を儚むだけでは何も生まれません。それこそ「無常」の否定的側面に絡めとられるだけです。

 山折氏の言うような無常の肯定的あり方を求めたいと思います。マネー資本主義の破綻がはっきりした中で、グローバリズムの幻想から一人ひとりが目覚め、自分のできることを一歩一歩実践するしかないのです。「長期的な展望をもち、この事態に冷静に対処する」という山折氏の言葉は、新型インフルエンザで右往左往している今のこの国に、本当にぴったりの指摘だと思います。慌てず、騒がず、淡々と、自分のできることをただ粛々と実践していくのみかと思います。その中で確実に世の中は今よりも良い方向に変化していくはずです。周りに流されず、自らの信ずる所を大切に、中身のある「誇り」を実現したいと思います。久々にもかかわらず、またも長くなってしまったことをお許しください。では失礼いたします。
by 笹木 陽一 (2009-05-20 18:26) 

おじおじ

 笹木先生、コメントをいただきありがとうございました。
 実は、このブログには笹木先生以外ほとんどコメントをいただいていないものですから、つい油断をしてコメントのチェックを怠けておりました。
 先ほど自分の記事を眺めていて、笹木先生からコメントをいただいていることに気づき、慌ててキーボードを打ち始めた始末。
書き込みのお礼が遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。
 ますますお元気でご活躍のご様子、そしていつもながらの鋭い考察を寄せていただき、嬉しさをかみしめております。

 このブログの記事を書くときには、心のどこかで「やはり日本人は捨てたものではない」ということを我と我が身に言い聞かせ確認したいという望みに後押しされているような気もしています。
 しかし、そんなかすかな望みすら覆されてしまうような事態が次々と起こり、市民としての自負はどこにいってしまったかと悲しい気分にさせられることも多く、このところ「民度」について考えさせられることもしばしばです。
 金融危機・経済危機を脱するためとばかり、野放図で無責任な景気対策を矢継ぎ早に政府が実施するごとに、「まさかこんな子どもだましのような浮ついた政策を歓迎しはしないだろう」と思いきや、後のことはともかく受け入れてしまおうという世の中の動きには少しく驚かされるばかり。そんな小手先の対策を考える方も考える方だが、受容する方も受容する方だとその軽佻浮薄さにやりきれない悲しみを感じているのは私一人ではないはず。
 定額給付金も1000円で高速道路乗り放題という愚かしい施策も、はたまたエコポイントを設けて新しい電気製品を購入させようとする施策も、後々自分たちにツケが回ってくるということを知ってか知らずか「浮かれて受け入れよう」とする動きを目にする度に、気は確かかと叫びだしたくなってしまうほどです。
 それだけではありません。つい先頃の「新型インフルエンザ」罹患者への対応にしても、アメリカでの模擬国連に参加させた高校に非難や嫌がらせのメール・電話・FAXが相次いだと言うではありませんか。日本人はいつからそんなに自制心や判断力をなくし、大所高所からモノを見る目・考える力を弱めてしまったのかと嘆かわしい気分にさせられることが多いのですが、それでも「日本人は捨てたものではない」ことを確かめたいと願っているのです。
 
 ずいぶん前のことですが、読売新聞の読者投稿欄に次のような記事を見つけ、いくぶん安堵したことから嬉しくなって私のホームページに紹介したことがあります。

  小学2年の孫息子は、現在、中学生の兄が使っていたランドセルを使っている。  実は、そのランドセルをめぐって、以前、娘夫婦でもめた。婿は「1年生なのだから、  新しいのを買ってやりたい」と言い、娘は「あまり傷んでいないから捨てるのはもっ  たいない。そのまま使わせるべきだ」と譲らなかったという。
その話を聞いた私の夫は、そのランドセルに皮革製品用のクリームを塗り、金具を磨  いて、見違えるほど立派に修復しなのだった。
結局、それを使うことになった。ある時、「僕のはお兄ちゃんが使っていた古いラン  ドセルだよ。いいだろう」と孫は誇らしげに胸を張った。そんな孫を私は頼もしく思  った。これからも物を大切にし、兄弟で譲り合う精神を忘れずに成長してほしい。

 お兄ちゃんの使っていた古いランドセルを誇れる子がいるということ、そしてその子を頼もしいと認めてくれる祖父母がいあるということが嬉しかったのです。欲に任せて持つことに拘泥する風潮の中にあって、古いものを大切に使えることに価値を感じ、「いいだろう」と誇れる子どもがいるということは、自分なりの価値観を持った子どもがいるということに他ならないし、「持つこと」にはない大切な何かをその子が感じていることに他ならないだろうと思えるからです。
 宮台真司は、「日本の難点」の中で、グローバリズムや格差化で包摂性を失った日本社会を再生するには、日本人の民度をもっと高めなくてはならない、と言っていますが、その民度の核をなすのは何をよしとするかという価値観であり、創造的な思考や判断の基盤となる知性ではないかと思っています。
 そして、それらの向かう先を確かにしてくれるのは「利他性」ではないかと思っているのですが、マスメディアも政治家もそのことを話題にせず、大衆受けすること(何が得で何が損か、目先の利はどこにあるかなど)しか眼中になきがごとしで、この国の行方に危うさしか感じられないのですが、この投稿にあるような子どもの様子に接すると、我知らず嬉しさを禁じ得なくなってしまうのです。

 長くなってしまいました。ついつい愚痴めいた話になってしまい申し訳ありませんでした。早いもので、もう衣替えの時期を迎えます。1学期も半ばを過ぎてますますご多忙になることかと思いますが、どうぞご自愛下さい。
 ところでお願いがあります。実は数ヶ月前に私のパソコンが故障してしまい、その修理の際に大切なデータの多くが消去されてしまいました。過去のメールもメールアドレスの記録も例外ではなく、大いに支障をきたしてしまいましたが、笹木先生のメールアドレスを何かの機会にまた教えていただければと思っています。どうかよろしくお願いいたします。
by おじおじ (2009-05-28 22:08) 

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