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少し前の話

 もう数ヶ月も前の話であるが、独立行政法人国立青少年教育振興機構の調査(「子どもの体験活動の実態に関する調査研究」(中間報告)発行日:平成22年5月)によると、子どものころに自然体験などさまざまな体験を積んだ者ほど、大人になってからの「意欲・関心」「規範意識」「職業意識」が高いということが明らかになった、という報道がなされた。
この中間報告は、2009年11月、インターネットによるアンケート方式で実施した調査により、20代から60代の成人5,000人から得られた回答について統計的な処理をし分析した内容についてのものである。

その報告によると、
結果① 子どもの頃の体験が豊富な大人ほど,やる気や生きがいを持っている人が多い
   ■子どもの頃に「自然体験」や「友だちとの遊び」などの体験が豊富な人ほど,「もっと深く学んでみたいこと    がある」といった物事に対する意欲や関心,「電車やバスに乗ったとき,お年寄りや身体の不自由な人に    は席をゆずる」といった社会における規範意識,「社会や人のためになる仕事をしたい」といった職業意識    が高くなる傾向がみられた。
   ■子どもの頃の体験が豊富な人ほど,「どんなこともあきらめずにがんばればう まくいく」,「大人になったら    自分の生活にかかるお金は自分が稼ぐべきだ」と回答した人の割合が高くなる傾向がみられた。
   ■子どもの頃の体験が豊富な人ほど,最終学歴が「大学や大学院」と回答した割 合が高く,その他,現在    の年収が高かったり,1 ヶ月に読む本の冊数が多くなる傾向がみられた。
結果② 友だちの多い子どもほど学校好き,憧れる大人のいる子どもほど働くことに意欲的である
   ■友だちの数が多い子どもほど「学校が好き」と回答した割合が高く,憧れる大人がいると答えた子どもほど    「自分にはなりたい職業や、やってみたい仕事がある」 と回答した割合が高くなる傾向がみられた。
という調査結果が得られたとし、それゆえ、
結果③ 小学校低学年までは友だちや動植物とのかかわり,小学校高学年から中学生までは地域や家族との     かかわりが大切
だと結論づけた上で、
結果④ 年代が若くなるほど,子どもの頃の自然体験や友だちとの遊びが減ってきている
ことに懸念を寄せている。

 その話題を取り上げた新聞やテレビの報道では、「自然体験などが多いものほど、成人後の学歴と年収が高いということだ」と、現世的な利の部分に着目し強調して報道していたが、それは余りにも浅薄すぎる。
 教育の目的は良い大学に入るためであったり、年収の高い職業に就くためであったり、他よりも優位に立って豊かな暮らしをするための学びを指導することにあるのではない。
 受験の技術や、就職活動のスキルを身につけることが重要な教育の目的であり、それこそが能力の陶冶、すなわち「力」を身につけさせ、人間を成長させることに直接つながるとの考えに立つからこそ、学習塾の講師に授業の仕方を学ぼうなどという軽率であり得べからざる行政の対応にもつながるのだ。
 教育の理想や理念など棚上げにした、教育論とも呼べないような俗な教育観が世を覆い、それをまともに受け止めるような風潮が教育界に対する抑圧的な働きをなしていることは、嘆かわしいことだと言わざるを得ない。
それは、こうした安易で底の浅いマスメディアの次元の低い取り上げ方やニュースを扱う視点にも大きく起因していると言わざるを得ない。
 この調査報告に示された最終学歴の高さや年収の高さは、その部分に力点があるのではなく、そこに至れるような「読書を好む傾向」やそのことによって生じる想像力や理解・読解力の高さ、また粘り強く取り組む傾向、自分を信じてやり抜こうとする姿勢、などが豊富な体験活動で身につくということに力点があるのは言うまでもない。
 
 気がつけば、この数年間、この国には「○○力」という言葉が氾濫し、あたかも「力を持つ者」こそ望まれる人間の姿であるかのような扱われ方である。
 人間力、学校力、教師力など、過去には耳にしたこともない造語が生み出され、力こそ善とでも言うような、いわば「力の権化」をめざそうとする浅ましい姿を露呈してしまっているかのようである。
 折も折、山折哲雄氏(国際日本文化研究センター名誉教授)がある新聞のコラムに次のように書いていた。
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 そういえば、いつごろからかツールとスキルといった言葉が流行りだしていた。どんな道具をつかい、どのように技術をアップさせるか、要するに、数値化されただけの目標を立ててあくせくする。それを迫いかけるように、ハウツーものの全盛期がやってきたようだ。あわてたわれわれの社会は、物の豊かさにたいする心の豊かさ、といったスローガンを口にするようになったが、時すでにおそし。あとからやってきた次世代の子どもたちはものごころがつきはじめたころから、その物と心がすでに分離してしまっていることを知らされるはめになったのである。
 ~中略~
 考えてみれば、そもそもこころという言葉は、宗教心、道徳心、公徳心といったような熟語の形で用いられていたのである。それが気がついてみれば、心だけが切りはなされ、離れ小島のように裸にさせられていた。このごろでは、人間の心というかわりに、人間力などという使われ方までが発明されている。
 この現状をどうしたらよいのか。
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 人間が「よりよく生きる」上で必要なのは、力ではないし、力を伸張させることに教育の目的があるのでもないことは論を待たない。
 価値あるモノゴト(よさ)に気づく感覚やそれに支えられた情操(よさに向かおうとする心情)、さらにはそこで発揮される内発的な意欲や関心といった、いわば「生きる上での意識」、すなわち個々の「心の働き」を養い育てていくことこそ肝要なのだ。
 
 この調査は、『子どものころに自然に触れた、友達と体を使って遊んだ、地域の大人たちと接したなどの経験が多い者ほど、大人になってからの「意欲・関心」「規範意識」「職業意識」が高い』と結論づけているが、その点にこの調査結果の意味があるのであり、年収の高さや学歴の高さにつながるとはどこにも書いてはいない。
 年収の高い者、学歴の高い者は、子どもの頃に自然に触れる体験や友だちと遊んだ体験をしたと答えた割合が比較的高い、と言っているだけで、そのことが年収の高さや学歴の高さに直接結びつくとは結論づけていないはずだ。
 マスメディアが人々を煽り、ますます低い次元に人々を誘導するかのように、積極的に文意を取り違え、結論を読み違えて着目すべき箇所ではないところに視点をあてて報道する姿勢は、安易・軽薄というよりも、悪意すら感じるのである。

 それはさておき、自然体験の豊かさ、対人間経験の豊かさ、頭と身体でどっぷりと活動に取り組む体験の多寡が、学習に望ましい効果をもたらすという考えに立って学習を構想したのが「総合学習(あるいは総合的な学習)」である。
 このような調査を待たなくても、それまでの研究の成果と課題から総合学習を無から生み出し、提唱した先進的な研究校では、そのことについては見通していたのだ。
 そして、今回のきちんとした調査結果から得られたこの結論は、その見通しが単なる予想や仮説ではなく、的を射たものであったことを知らせてくれた。
 その意味で、この研究調査の意義は大きい。と同時に、「総合学習」本来の趣旨からそれてしまった感のある、総合的な学習の時間を再度見直す契機としなければ、望ましい学習の在り方の実現は難しくなるのではないかと思われるのである。
 何と言っても、「総合学習」について考えることは、「子どもにとって意味のある学習」について考えることに他ならないからだ。

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笹木 陽一

またもご無沙汰してしまいました。ブログの更新がないのは、お忙しくなさっているのだろうと拝察しておりましたが、久々の記事は、またも深く考えさせられる文章で、大変学びが深まりました。

「~力」の氾濫には、私も数年来辟易しておりました。そのタイミングで山折氏のコラムをご紹介いただき、まさに我が意を得たりとの気持ちになりました。私は1960年代にブラジルの教育学者パウロ・フレイレが提唱した「エンパワメント」という考え方に感化され、大切にしてきました。しかしある雑誌記事で「エンパワメントも『力』を前提にしている限りにおいて、能力主義的な側面を持っているのではないか」との指摘を読み、それ以来いかにして「能力主義」的な思考を排して、本来フレイレが主張したかった「当事者を励まし勇気づける」ことが実現するのか、あれこれ考えてきました。

以前先生が指摘してくださった「教育(教え育てる)ではなく学育(学びを育む)」との指摘が、ずっと頭に残っており、あれこれ考えている中で、臨床教育学という学問と出会いました。武庫川女子大学の田中孝彦先生らが提唱しているものですが、ここでは教育を、「人間発達援助」として捉えなおすことことが提唱されています。「人には自ら育つ力がある」ことを大前提として、子どもに寄り添い、それを支えることを旨とする主張です。オランダの教育学者マッシュラインも、フーコーを引きつつ、education/educare(教育/教え込み)ではなく eduction/educere(外への喚起/導き)こそ重要であるとの指摘をしています。

先生が指摘していらっしゃる「総合学習」本来の趣旨も、このことと関わってくるのでしょう、「総合的な学習の時間」が縮減された新教育課程の詳細に立ち入ることは避けますが、人間を測定可能な数値に還元する浅ましき能力主義を脱し、「子どもにとって意味のある学び」の実現を目指して、あきらめることなく前進するしかないのだと、思いを新たにしております。

私は転勤して研修部に所属し、6月から週刊で「研修部便り」を発行しています。現在は「確かな学び」に関する連載において、量から質への転換を見据えた学力論を論じています。ある程度まとまったら先生にも読んでいただければと思っています。追ってご自宅にお送りしますので、よろしくご笑納ください。久々にもかかわらず又も長文となってしまったことをお詫びします。秋を迎え肌寒くなってくる季節です。ご自愛の上、健やかにお過ごしください。では失礼いたします。
by 笹木 陽一 (2010-09-11 17:28) 

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