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桜宮高入試について思う

 大阪市立桜宮高校の体育系2科入試の募集中止を市教委が決めた。体育系の入試は行わなず、体育系を志望している生徒は普通科に「振り替え」て、従来の体育系で課してきた学科と実技で入試を実施するのだという。
 こうした玉虫色の決定内容について、「ベストではないが、ベターな『教育的な決定』をしてくれた」と橋下市長が語ったと伝えられている。
 本当に「教育的な決定」なのだろうか。
どうみても、市長のやんちゃなごり押しとも思える「彼独自の論理」が他を黙らせただけ、という図にしか見えない。予算権限を盾にする市長の顔色をうかがい、抗しきれなかった市教委があろうことか「その命令に従った」という今回の事態は、教育にとって悪しき前例となるに違いない。
 問題は一高校の入試をどうするかということにとどまらず、教育の独立性と中立性を社会がどう担保するかという教育の根幹にかかることだからだ。

 教育の独立性と中立性に関する橋下市長の認識は、文部科学省の義家弘介政務官が同校の実態解明について、市長直轄の外部監察チームでなく、市教委が主体的に行うべきだとする考えを示したことについての発言にも如実に示されている。
それは「組織を動かしたことがない霞が関の政務官が口を挟んだらダメ。大阪の教育現場は僕が預かっている」というものだ。
 『教育現場は僕が預かっている』とは何という思い上がり、思い違いであろう。
 教育は政治によって左右されるようなことがあってはならないのだ。たとえ市長であっても、そして対象が市立高校であっても、首長のその時々の思惑や都合で、学校の予算執行が左右されたり、教職員の人事が恣意的に行われたりするなどということがあってはならないはずで、決して「市長に委託している」ものではないはずだ。
そのようなことがまかり通れば、あるべき教育活動を行うことが危うくなる。首長の思惑や勝手な論理で人事が変更されたり、教育内容が変更されたり、思うような教育設備が持てなくなるなど、あってはならない事態が予想されるからである。
 
 自らの問題把握の貧しさを棚に上げて、誤った施策を行うのではなく、教育についてしっかりした認識と理解をすべく市長自らを謙虚に顧みることが必要なのではないか、と強く思われてならない。
 学校側の認識の甘さ、教育委員会の姿勢、そして市長の思い上がりと三者三様の問題が誰よりも「学び手である子ども」を苦しい状態に追い詰めてしまったと思えるこの状況を見るにつけ、向後再考すべきは「教育の専門性の確保」ということに尽きると痛感させられる。確固とした教育観や人間観に基づく教育哲学の欠如が「勝つことのみ」「強さのみ」を追い求め、人間教育を置き去りにした体罰を引き起こしたことが、尊い生徒の生命を絶たせる結果となったことに起因する問題だからだ。そうした教育哲学は、日々子どもと向き合い、自ら真摯に研究と研修にたゆまぬ努力を惜しまない構えからしか生まれない。

 誰もが義務教育を受けた経験を有することから、その学習経験から教育に対するさまざまな思いや意見を持っており、それをもとに教育を論ずることができると思いがちだ。
 だが、そこに偏った意見や独断、普遍性を持たない論理がないとは言い切れない。そこにこそ「教育の専門性」の存在意味と存在価値がある。
学校や教員は、自ら研鑽と精進を怠らず、専門性を磨き高い知見を持つことに誇りが持てるよう努めることが肝要だ。そうできてはじめて外部の圧力から子どもたちを守ることができるし、教育の中立を守ることができるからだ。
 三者のそれぞれにその姿勢が問われるべきだとどうしても考えざるを得ない。

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コメント 1

tico

>市長のやんちゃなごり押しとも思える「彼独自の論理」が他を黙らせただけ

前回の記事「橋下市長、いかがなものか」ともに全く同感です。体罰をなくす為の方法としてなぜ入試を中止するという発想が生まれたのか、理解できません。そして看板の掛け替えだけの入試を「素晴らしい決定」と満足げに話す態度にも、唖然です。

どうせなら、入試を今までと同じように実施して、予算執行をやめてもらったら、もっと大きな問題になったかもしれないとか思っています。(半分冗談ですが、そこまでやると市長は困ったかもしれないと。)

by tico (2013-01-23 18:42) 

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