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雪の日に

 昨日から今未明にかけて大雪が降った。関東一円の平野部でも10㎝を超える積雪で、
きけばつくば市では2.26事件以来の積雪を記録したというし、我が家の前の道路も17
㎝も積もっていた。雪に加えて強風にも見舞われ、そのために各地で停電が起きているよ
うだ。白一色の世界は美しいものであるが、これからこの雪が融けるまでの間の不便さを
考えると、うんざりさせられる。

 雪が降ると思い出されるのが先月亡くなられた詩人吉野弘さんの詩だ。
 ありふれた文字や言葉、そして風景のなかに人生の襞を見つめ続け、生きることの意味
を探し求めた詩人は、「雪の日に」と題された詩の中で『雪がはげしく ふりつづける 
雪の白さを こらえながら』と綴り、雪が内包する『どこに 純白な心などあろう どこ
に 汚れぬ雪などあろう』という罪深さや弱さに耐えて降り続けるのだろうという思いで
雪を見る。
 雪は 汚れないもの、純白のうつくしいものという運命を背負って生まれ、どうしたら
自分を欺かないで生きていけるだろうと苦悩し、汚れを内包しているにもかかわらず白い
と信じられているおのれをこらえ、白さを重ねて降り積もるのだろうと「生きることの本
質」と重ね合わせて表現したのである。
 雪についての同じ感銘は、他の詩でも次のように詠われている。

  雪がすべてを真っ白に包む
  冬がそれだけ汚れやすくなる
  汚れを包もうと また雪が降る

 人は誰でも、おのれの弱さや罪深さに気づき、耐えながら自分の生を懸命に真摯に生き
ていこうとしているのだ、という優しい視点からヒトを見つめていたことがよく窺える。
 そう言えば、『祝婚歌』と題された詩には次のように綴られ、その優しさがよくあらわ
れ、平明な言葉で深い物思いに誘って下さる人であった。

   二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい 立派過ぎないほうがいい

   立派過ぎることは長持ちしないことだと 気づいているほうがいい

   完璧をめざさないほうがいい
   完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい

   二人のうち どちらかがふざけているほうがいい ずっこけているほうがいい

   互いに非難することがあっても 
   非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい

   正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい
   正しいことを言うときは
   相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい

   立派でありたいとか正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わず
   ゆったりゆたかに光を浴びているほうがいい

   健康で風に吹かれながら
   生きていることのなつかしさにふと胸が熱くなる そんな日があってもいい

   そしてなぜ 胸が熱くなるのか
   黙っていてもふたりにはわかるのであってほしい

 どのフレーズにも吉野弘という詩人の温かなまなざしが感じられ、人間として「ゆった
りゆたかに生き」ていくことの大切さを教えてくれる人であった。
 一日中、雪が降り続き、次第にその深さを増していく様子や景色が墨絵のように変わっ
ていく様子を見ながら、逝ってしまわれた吉野さんを偲びながら、その詩を思い起こした
雪の一日であった。

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笹木 陽一

大変ご無沙汰しておりました。いつも、先生のHPやブログでの発信を気にかけつつ、猛烈な多忙にかまけて、ご連絡することを先延ばしにしておりました。申し訳ございません。

私が初めて先生のブログ記事(2005-07-02 「場の音楽」再考)にコメントを寄せたのが、2006年の2月。小泉政権の最後で、新自由主義の闊歩と社会の右傾化が目に見える形で社会の表層に現れ始めていた時期かと記憶しています。その年の夏に第一期安倍内閣と教育再生会議が始まり、冬には教育基本法が変えられたのでした。あれから8年のときが過ぎ、その時の危惧を遥かに超える事態が当たり前のように報じられ、それに「湯の中の蛙」状態で、いちいち反応することもままならないまま、日々をやり過ごしている自分がいます。

1年の4分の1を雪の中ですごす北国の私としては、今回の記事を拝読し、ある連載に書いた自分の文章を想起しました。少し引用します。

http://archive.mag2.com/0000027395/20110228061000000.html
(前略)ふと「この寒さから逃れたい、雪のない所に行きたい」と願っていた二十数年前を想い出します。東京の音楽大学に進学することを目指して、日々トランペットの練習に明け暮れていた高校時代。背伸びしてボードレールの詩集を読み、「どこでもいい、どこでもいい…、ただ、この世界の外でさえあるならば」(『巴里の憂鬱』所収「どこへでも此世の外へ」)などという詩句に共感して、見知らぬ世界への憧れを抱いていた青二才でした。今思えば、逃れたいと思っていたのは雪や寒さではなく、何とも言い難い思春期の閉塞感だったのかもしれません。(後略)

震災直前の2月に書いた文章です。残念ながらこの「閉塞感」は思春期に限ったものではなく、私の人生の通奏低音になっているようにも想われます。そんな中、もうひとつ想起したのが、北海道臨床教育学会でお世話になっている庄井良信会長(北海道教育大学教授)が10年前に出版された『自分の弱さをいとおしむ~臨床教育学へのいざない』の「はじめに」に書かれた次のエピソードです。こちらも長くなりますが紹介します。

(以下引用)
■ああ、雪だな……と歩む
 私が北海道教育大学に赴任した年のある冬の日のことでした。確か一一月の終わりころだったでしょうか、その冬、はじめての激しい吹雪になりました。あたりはぼんやりとした白い闇。視界は二メートルあるかないか。毛糸の帽子をかぶっていても耳は凍りつきそうにしびれました。とぼとぼと歩みを進めるのですが、ときどき自分がどの方向に進んでいるのかわからなくなる。しばれる痛みと軽いめまいを感じながら、まるで黄泉の国にでもつれていかれるような不思議な思いに駆られました。雪まみれになってようやくある学校にたどりつくと、ある先生が、「北海道の冬はどうですか。吹雪のなかを歩くと、なんだか燃えてくるでしょう。こんな吹雪に負けるものか、と歯を食いしばって冷たい風に向かっていくと、ああ生きているなあ、という感じがするでしょう」 と、嬉しそうにいいました。私は、冷えきったコートの雪を払い、靴底にへばりついた雪をけり落としながら、 「そうか、北海道の人たちは、そんなふうに雪と向かい合ってたたかっているのか」 と思いながら聞いていました。
 そこへ通りすがりにもう一人の先生がやってきて、 「あら、私だったら歯なんか食いしばらないな」といいました。 「先生ならどうするのですか?」と尋ねると、 「私? 私なら、ああ雪だな……と思いながら、トボトボ歩くだけよ」というのです。私は、その言葉にしみじみと共感しました。胸をひき裂かれるような困難と向き合うことの多い教育臨床の仕事には、「ああ、雪だな……」とたたずみながら、ふきさらしの野原をとんぼりと歩いている姿がとても似合うように思えたからです。前にも後ろにも進めず、その場にたたずんでしまわざるをえないような吹雪のなかを「ああ、雪だな……」と思いながらトボトボと歩いている。しかし気がつけばその歩みはしっかりと前に進んでいる。そういう営みが、困難の多い子育てや教育の日常の姿と重なり合っているように感じたからです。
 ポール・バレリーという作家は、ある書物のなかで「我々は、後ずさりしながら未来に入っていくのだ」という美しい表現をしていましたが、このような歩みかたがとても意味深いものに思えてなりません。だから、教育実践がうまくいかないとその場にたたずみ、悩み、思わず後ずさりしている人びとのことを、深く信頼し、尊敬せずにはいられないのです。
(引用以上)

震災後は、紹介した庄井氏らによる「臨床教育学」に共感し、音楽科教育から発達援助臨床全般に関心を広めて、実践的研究を進めています。学会誌にも「中学校における臨床教育学的生徒理解-生徒のナラティヴを引き出す音楽科授業」という実践報告論文を載せていただきました。
(改めてメールで送らせていただきます)

個人的には、昨年春に生まれた娘がもうすぐ一歳となり、今日も午後から初節句を祝うため義母が来てくれることになっています。日々娘の成長と共に自らを振り返り、生き直す経験を重ねることで、「後ずさりしながら未来に入っていく」とのバレリーの認識を深くかみしめているところです。世相を鑑みれば、確かに「うんざりさせられる」ことばかりですが、吉野氏がその詩作にこめた「ゆったりゆたかに生きていく」ことを自らに課しつつ、「ゆっくりと歩いていこう」(KIRORO『未来へ』末文)と思います。相変らずの長文コメントで失礼しました。失礼ついでに、吉野氏の詩をひとつ引用して、駄文を終えます。今後ともよろしくお願いいたします。

『奈々子に』(吉野弘)
赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある。

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた。

苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。





by 笹木 陽一 (2014-03-01 11:01) 

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