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改元に際して考えたⅡ

 改元に際して、『これで良いのか?』と未だに納得できないことがいくつもある。
 その一つは、平成と改元された折にはなかった、総理大臣の会見がなされたことだ。
 あの平成改元の折には小渕官房長官が改元の発表を行い、竹下総理は会見などせず小渕
官房長官を通じて談話を発表しただけだったはずだ。それなりに抑制的であったし、それ
が当然の、至極まっとうなあり方だと言って良いであろう。
 今回は首相自らが、国書からの引用であることをことごとしく伝え、『悠久の歴史と香
り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き
継いでいく』『そうした日本でありたいとの願いを込めた』と語ったのだ。
 時の政権や一首相が、勝手にというかおこがましくというか、新元号に『願いを込めた』
として国内外に知らしめるようなものではあるまい。
 まずはそのことに強い違和感と“それで良いのか”という疑問を抱かざるを得なかった。
 まるで首相その人のための改元のように私には思えたからである。

 その上、当日の会見では次のようにも述べていた。『本日から働き方改革が本格的にス
タートする。~中略~それぞれの夢や希望に向かって頑張っていける社会、一億総活躍社
会をつくりあげることができれば、日本の社会は明るい。』
 ここで語られているのは、元号とはまったく無関係な、安倍総理自身が掲げる“政治ス
ローガン”でしかないはずだ。改元についての会見で、自己の政治スローガンを臆面もな
く論じるというのは、新元号を首相という立場を政治的に利用する姿でしかあるまい。
もっと言えば、元号を私(わたくし)していると言われても仕方のない姿だと言える。
これも随分と「場と立場」をわきまえない振る舞いだと私には思えた。

 また、先日のこのブログにも書いた通り、国書からの引用ということを強調していたこ
とも未だに腑に落ちて“なるほどそうか”と受け止めることができずにいる。
 そもそも元号という制度は、中国を起源としているものだということもある。さらに、
万葉集からの引用としているが、その引用部分は漢文(中国の張衡の詩文「帰田賦」を踏
まえて書かれた文章)であり、漢籍を排して国書を典拠にしたなどとことごとしく言い立
てる程のものではないはずだ。
 「漢籍からではなく国書から」という言い方からは「からごころではなくやまとごころ」、
つまり「中国ではなく日本」という自国主義とも言うべき偏狭さが見え隠れする。
 日本はもともと中国からの文物を学ぶことによって、我が国独自の文化を築いてきたの
ではなかったか。
 古来、中国と日本は「同文同種」と言われるように同じ文字を持つ同胞の国と言われて
きたはずだ。もちろん、同じ文字を持つからこそ誤解や行き違いが生じることも多々あっ
たことは否めないであろうが、朝鮮も同じ文字を使う隣国として、言葉は通じなくても文
字で書き表せば意思の疎通がかない、理解し合い互いの歴史を紡いできたことは疑いよう
がない。
 ここで大切なのは、「やまとごころ」を強調するような偏狭なナショナリズムではなく、
多様な文化がもたらす交流が豊かな世界の構築に役立つということをこそ重視することで
あろう。
 欧米各国の言語、文化、思想などが、古代ギリシャ、ローマのそれを無視して語れない
ように、日本も韓国も「漢語・漢字」による文物がなければ、独自の文化を構築してくる
ことはできなかったはずだ。峻別して『国書由来を』と言いつのるのは浅薄な考えでしか
ないように思えて仕方がないのだ。
 おそらく、嫌中・嫌韓を主張する人々、すなわち安倍政権を強く支持する層の受けを狙
ってのことであろう。

 そうであるにもかかわらず、このような薄っぺらとも言えるナショナリズムを身に纏っ
た改元に、マスメディアがこぞってお祭り騒ぎのような報道をし、一般市民も大喜びをし
て浮れ気分になり、お祝いムードで歓迎するという光景に少なからず驚き、何の騒ぎだと
いぶかしく思わざるを得ないのだ。
 そしてもっと驚くのは、この改元発表がなされたことで政権の支持率が10ポイント近
くも上昇したことだ。改元したとは言え、そのことによってまだ何も成果が上がったわけ
でもない、つまり内閣が何か国民にとって「良いこと、望ましいこと」をしたわけではな
いのに、支持率が上がるとはどういうことなのだろう。
 もっと言えば、先に書いたような「差し出がましい」と言おうか「おこがましい」と言
おうか、越権行為としか思えないこの政権の振る舞いを見てもなお、めでたいことだと思
える感覚がどうしても理解できないのだ。
 それでなくても、この政権はこれまでも国会を軽視し、立憲主義をおとしめ、民主主義
に不誠実な振る舞いを繰り返すことによって、政治の劣化を招いてきたのだ。
 そうした多くのうやむやのままになっているままの問題をくつがえすほどの何事かをし
たわけでもないのに、支持率が上昇することの奇怪さはどう理解すれば良いのだろうか。
 なんと日本人は御しやすく操りやすい国民であることかと、政権はほくそえんでいるに
違いない。日本はこのままで大丈夫か?そして気を確かに持とうよと思わざるを得ない。

 それでも一個人がこうした文章を書いても、戦前・戦中のように官憲の厳しいチェック
を受け、故のない罪に問われるようなことがないだけ、幸せかも知れない。
 だが、現政権がめざすところを想像すると、そんな自由にモノが言える時代がどんどん
遠のき、自由が徐々に失われ、さからえない時代に突き進んで行くような気がしてならな
い。それも国民同士が率先して監視し合い、“非国民”“危険分子”と指摘しつるしあげ
るような、司馬遼太郎がいうところの「鬼胎の時代」に向かっていくような怖ろしさを感
じる。(戦中の隣組がそうであったように)
 そういうことにならないように、政権の振る舞いを監視し続け、常に民主主義の危機感
をもって見守ることを心がける必要があると強く思うのだ。

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