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公教育の危機

 大学入試への英語の民間試験の導入をめぐって問題点が指摘され、延期が
決定という報道がなされた。しかも民間試験導入が決定された経緯もうやむ
やで、きちんとした協議がなされたのかどうかも明らかにされていない。
 なぜ大学外の民間試験に頼る必要があるのか、民間試験を受検させること
になれば、その受検料などの負担をどうするのか、それによって不公平は生
じないのか、などさまざまな角度から子細に、そして緻密に検討したとは思
えないような施策である。
 聞けば中学・高校の6年間、学校で英語の学習をしても自在に英語で会話
をする能力が身につかず、世界でグローバルに活躍できる人材が育っていな
いという経済界からの要請が強かったことから、聴く・話すことを重視した
入試にするためだという。
 それは、子どもが自立し、自らの目で小は身近なことから、大は地球上で
起きているさまざまな問題について見極め、考え、判断することができるよ
うな、まさに“グローバルな世界で生きていける育ち”を求めようとするも
のではなく、単に経済界や産業界といった競争社会に中で“利益をもたらし
てくれる人間”として“活躍できる人間”を会社の駒として得たいという、
本来教育が持つべき理念とは別次元の、安直で低次な発想によって設けられ
た『人材育成』のための策でしかないように見える。
 それはいわば高校生のための入試改革ではなく、経済界や受験産業を含む
「業者のための、業者による試験」をめざしたものでしかないと言っても過
言ではあるまい。

 何年前であったか、安倍首相は『ひとづくり革命』を標榜したことがある
が、これはその流れの中で生み出されたものに違いない。
 しかし、人間は工場で生み出される製品ではない。私は当時『ひとをつく
るとは何事か』と憤りを覚えたものであるが、公教育の最大の目的は、一人
ひとりの子どもの“育ち”に寄り添い、より良き成長を支えることにある。
 まるで規格に合った製品を大量に“つくる”ような製造過程をイメージし
て、それを教育であると考えているとすれば、富国強兵をねらって“ある一
定の価値”を強く押しつけた明治期の教育を彷彿とさせる。

 この民間試験を担当するのは英検やベネッセなどのなどをはじめとする業
者である。そして、この試験導入を決めた当時の文部科学大臣は、もともと
学習塾の経営者だった下村博文氏である。
 学習塾や進学塾を含めた受験産業は、教育の衣をかぶってはいるが、本来
的には教育と似て非なるものである。
 学習塾などの教育産業が子どもたちに身につけさせようとしているのは、
「受験テクニック」であり、そのノウハウを教え・伝え・鍛えることを働き
かけ(指導)の柱としている。
 一方、学校教育(公教育)は、学ぶことを通して学びの楽しさや手応えを
実感し、生涯にわたって“自らの手で学び続けようとする”自立した学び手
を育むことに柱を置いている。
 そこでは人間が本来持っている知的好奇心を存分に発揮し、やむにやまれ
ぬ探究心を支えに、つい頑張ってしまいたくなる内発的動機こそが重視され、
自己の世界の広がりを実感できる「学び」を保障しつつ援助することを柱と
している。

 「学ぶ(Study)」とは、研究的・探求的な対象へのかかわりのことであり、
「習う(Learn)」とは対象とのかかわりを通して習熟していくことである。
 そしてまた「学校」の「校」は“かむがう”と読み、ものごとを突き合わ
せて「調べる」「考える」ことである。
 つまり、「学校」は教えてもらって習う場所を意味するのではなく、文字
通り“(自ら)まなんでかんがえる”場所なのだ。
教えられたことについて習う場所であれば、それは「教習所」でしかない。
 小学校から大学校まで、「教習所」ではなく「学校」と名付けられたのに
は、それだけの意味があるのだ。
 いわば学校は学問(問うことを学ぶ)の場なのであって、一方的に教えら
れた知識を蓄積し、どれだけ覚えられたかを測定される場ではないのだ。

 一見同じような教育活動に見えてしまうが、学校での学びと教習所や塾で
のそれとはまったく意味が違うのだが、教育の素人である代議士にそれがわ
かろうはずもない。そうした人の中から国の基(もとい)となる成熟した市
民を育むべき教育行政を担う大臣が指名され、閣僚となり、浅薄な議論の中
から「教育改革」と称する指示が発せられたことが何よりも問題なのだ。
 そしてその実行を後押しした教育再生実行会議が問題の根源だが、これは
安倍首相の私的な諮問機関でしかなく、国の方針を大きく舵取りするような
組織ではないはずだだ、それがまかり通るところが今の日本の危うさである。
 
 成果主義にもとづく実学が重視されるようになり、基礎研究が軽視される
現状だが、考えてみるが良い。幾人もの研究者が世界で評価され、数多くの
ノーベル賞受賞者を輩出できたのは、基礎研究をはじめとする「学問」を決
して軽んじなかったからではないか。
 この数年、世界の学会で日本の研究論文が引用される数が減少していると
いうのも、基礎研究が軽視され予算が削減されていることに原因がある。
いずれノーベル賞を受賞するような研究が日本からなくなってしまうのでは
ないかと言われていることは周知の事実で、いわば研究の危機だと言って良
いし、公教育も危機にさらされていると言って良い。
 目先の利益追及に前のめりになる現政権の掲げる教育観には強い懸念を抱
かざるを得ないが、業界との癒着も見え隠れして、これが自分の住む国に於
ける学問の実態かと思うと「何と言うことか」と暗澹とせざるを得ない。

=この稿続く=

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