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続 安倍政権の本質を探る

 この数年間に及ぶ政治の劣化を見て、かつて秦が滅んだ時の故事を思い起
こさずにおれないというのが偽らざる心境である。
 秦の二代皇帝胡亥を傀儡とし、丞相として強権を発動して自己の権限のみ
を追い求め、ついには秦を滅ぼすに至った宦官趙高の故事である。
 賢明な世継ぎとして人望を集めていた太子扶蘇、更には丞相の李斯や名将
の蒙恬を謀殺し、胡亥を二代皇帝に擁立し、自らは丞相に就いて権利を貪り、
亡国の悪臣と呼ばれた人物のことである。
 余りにも有名な話ではあるが、胡亥に鹿を見せて『珍しい馬を手に入れた』
と報告した折に、『鹿ではないか』と尋ねた胡亥の問いに、趙高の権勢を恐れ
た周囲の人間は『馬である』と答え、『鹿である』と答えた人間は罪をかぶせ
られ殺されてしまったという“馬鹿”の語源とも言われるあの故事である。
 皇帝を取巻く人々を、このことで敵・味方を峻別し、有能な人物であっても
敵と見なした者を断罪した挙げ句、秦の滅亡の最大の要因となった趙高の暴政
はとみに有名である。
 国と国民が疲弊してしまっては、政権を執っている意味さえ消失してしまう
こと、そして“自分のために国や国民が在る”のではないことは自明の理であ
るにもかかわらず、政治のありようがどうしてもそう見えてしまう現在の我が
国の政治の景色を見るにつけ、この故事が思い起こされるのは、国民の一人と
してすこぶる残念に思われてならないのだ。

 封建制の江戸期であっても、米沢藩主の上杉鷹山は、次期藩主・治広に家督
を譲る際に申し渡した、三条からなる藩主としての心得「伝国の辞」でで次の
ように述べている。
 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
 右三条御遺念有間敷候事天明五巳年二月七日 治憲 花押 治広殿 机前

 すなわち、
 一、藩は先祖から子孫へ伝えられるものであり、藩主の私物ではない。
 一、領民は藩に属しているものであり、藩主の私物ではない。
 一、藩・領民のために存在・行動するのが藩主であり、民は藩主のために
   存在・行動するものではない。
 この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。
といったところであろう。

 また、江戸末期の越後長岡藩士の河井継之助(越後戊辰戦争時は、家老上席、
軍事総督)も、次のように語っている。
 『民者国之本 吏者民之雇(民は国の本 吏は民の雇い)』
 封建時代にあって、“吏(役人)は民の雇い”と説いた河井継之助の開明さ
と家老でありながら“藩と民のために行動するのが役人だ”と論じた民本主義
に立つ施政への志の見事さと覚悟の確かさは、その時代が封建制であったこと
を思う時、驚嘆すると同時に「政治家かくあるべし」と敬服せざるを得ない。
 こうした姿と凜とした構えを見て、民は頼もしさを思え、信頼し、誇りを覚
えることができるのだ。
 飜って、今の政治はどうであろう。信頼に足ると言えるか、頼もしいと思え
るか、誇るに足ると言えるか。多くの国民はモヤモヤとした不審を抱き、不信
感にさいなまされているのではないかと思えてならない。

 その不信感の底に流れているのは、民主主義を軽んじ、立憲主義を軽視し、
議論や説明を避けてあらゆることが軽々しく、そして乱暴に決められてしまう
ことに対する違和感と恐れではないだろうか。
 国民の権利が徐々に、そして知らぬ間に制限され、政権による統制が強まり、
戦前・戦中のような国の姿に回帰してしまうのではないか、というイヤな気分
がもたらす恐怖だ。
 そればかりではない。“国民の安全と生活を守る”と言いながら、この度の
新型コロナウィルスの感染の感染拡大に際して、感染していないかどうか心配
だとする市民に対して、『対象ではない』ということで検査すらしてもらえな
い状況をつくりだしている、いわば「かけ声だけで何もしない政権」の実相を
露呈しているようにしか思えない。
 今日(2020/02/25)発表された、「新型コロナウイルス」の感染拡大を防ぐた
め、症状が軽い場合は自宅で療養を求めるなど、国民がとるべき行動などを盛
り込んだ対策の「基本方針」は、まさにそれを象徴するもので、企業や国民に
感染拡大予防についての手立てを(報道以前に、そうなるだろうと予想はして
いたが)丸投げするものでしかなかったものだ。

 国内各地で感染したかも知れないと懸念する人や既に感染してしまった人が
いるにもかかわらず、杓子定規に『該当者ではない』という理由で、検査を拒
否する行政の姿勢には(言うまでもないが、行政のトップは内閣である)首を
かしげざるを得ない。本気で“我が事”としてこの事態に対処しようとしてい
るのか、国民のために“真剣に汗をかこうとして”いるのかという疑念が益々
膨らむばかりである。
 『検査するための機関が手一杯である』という言い訳をしているようである
が、民間のいくつもの施設でも検査可能であるとしているにもかかわらず、そ
れらを活用しようとしない理由は何なのだろう。理由はどうあれ、“あらゆる
手を尽くして”、“自分たちが”という本気度が見えないのは誠に悲しむべき
ことではないか。
 どうやらこの政権は、国民のいたみを“他人事(ヒトゴト)”としてしか認
識しようとせず、それ以上に重視したいのは“我・私”のことなのかも知れな
いと思わざるを得ない。

=この稿続く=

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