SSブログ

又々 安倍政権の本質を探る

 いちいちを列挙していてはいくら字数を費やしても書き尽くせないほどの
多くの問題を孕んだこの政権は、今や『コロナより怖い』と言われるくらい
程度の低い乱暴な、いわば法を無視する裏社会の勢力のようである。
 教育上、悪い見本としてこれほど相応しい人物はないのではないかと思わ
れるほど、民主主義をないがしろにし壊し続けてきた反社会的な困り者だと
私は考えている。
 法を無視し、研究や学問を軽んじるこうした姿勢が、民主主義を破壊し、
望ましい社会の実現の妨げになっていることは言うまでもないが、この稿
の冒頭に書いた上杉鷹山や河井継之助に見られる「格調高い覚悟をもって
人の上に立つ姿」とは対極にある「浮薄で形而下のことにしか関心がない」
卑しい姿ばかりが目につく。安倍首相は、長期政権を維持したことを誇って
いるようである。そしてまた、憲法改正という岸政権・佐藤政権でなし得な
かった事蹟で政治史に名を残したい、東京五輪を成功させた内閣の総理大臣
として戦後史に名を残したいと考えているのかも知れない。
 江戸期の町衆の間では、自分の子どもに『金や名誉など、つまらない了見
を持った子どもに育てた覚えはない』と諭す親が多かったと聞く。
 その江戸期の親の姿から見れば、安倍首相の抱く願望などは“つまらない
了見”そのもので、自己にこだわる“みみっちい”ものにしか見えない。
そこに高々とした哲学を志向する国家理念など窺えないからである。

 話は変わるが、先日(6月2日)の毎日新聞によれば、その清貧をもって
「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれたウルグアイのムヒカ元大統領が新型
コロナ禍による格差拡大への懸念と新しい価値観が生まれる期待について次
のように語ったと報じられていた。
 『(略)我々は働いてお金を稼ぐことを人生の成功だととらえる誤った考
え方に縛られてきた。人生は富を築くだけのものではないと人々が気づき始
めた。今は、「家族や友人と愛情を育む時間はあるのか?」「人生が強制や
義務的なことだけに費やされていないか?」と自問自答を重ねる時だ。
私は、人類が今の悲劇的現状から何かを学び取ることができると考えている。
それが実現すればコロナ禍は人類にとって大きな糧になるだろう。』とした
上で、『人類は巨大都市を開発した結果、交通渋滞や大気汚染などさまざま
な問題を生み出した。巨大都市建設だけに価値を見いだすやり方を改めなけ
ればならない。新型コロナは人口が集中する各国の大都市で感染が拡大し、
感染症対策の面でも都市の脆弱さを浮き彫りにした。都市は、不動産会社の
思惑に基づき開発されるべきではない。人間が自然と協調し、大量消費をや
めて家族との時間を大事にできる暮らしを送り、移動もしやすい適切な規模
でなければならない。』と断じているという。

 現在の我が国の首相や副首相が、自らの言葉で将来を見据えたこのような
理念が語れるだろうか。正々堂々と世界に向けて高々とした、そして深みの
ある内容の理想を表明することを期待できるだろうか。残念なことに、それ
は無理であろう。彼らの頭にあるのは、“利”と“権”だけで、さらに言え
ば、その“権”を行使して民を統制するという、さながら君主制政治を憧憬
するかのような“意のままに振る舞える政治”への願望なのだ。
 彼らに言わせれば『そうではない』と反論するであろうが、この政権のこ
れまでの振る舞いを見れば、そうとしか言いようがない。
 そして、それを実現するためには、(一応は民主的な段取りを踏む姿勢を
見せながら)憲法を改正(改悪?)することが不可欠なのだ。
政権誕生以来、“党の悲願”だとして憲法改正を言い立ててきたのは、その
ためだ、ということは十分に透けて見えている。

 無知な上に無恥で卑しい人物が高邁な現憲法の理念など理解できよう筈も
ないであろう。現憲法を『戦後70年以上経ったから新しい時代にふさわし
い憲法に変える必要がある』として改めようとする姿勢は大いに疑問だ。
 新しい時代に相応しいものをと言いながら、戦前・戦中への回帰を目論む
というのは、矛盾も甚だしいからである。
 この前時代への憧憬と回帰願望を内に秘めながら有していることを見せる
ことができない(民主国家のリーダーとしては、それをあからさまに主張す
ることが憚られる)からこそ、さまざまに嘘をつき通さなければならないし、
都合の悪いことを隠蔽しようとすることに終始しなければならないのだ。

 無知で無法なこの人物は、知識だけでなく見識にも欠ける非常に軽率な人
物でもある。『担ぐ神輿は軽い方が良い』と良く言われるが、この軽い神輿
を担いで利を得ている誰かがいるのかも知れない。
 そして担がれることで「裸の王様」度をますます高め、『朕は国家なり』
と驕ったフランスの太陽王と同様に、国と国民に奉仕することを忘れ、自分
のために国民こそ従属・奉仕すべきだという誤った考えに(そう意識してい
るかどうかは別として)陥ってしまっているのではないだろうか。
 上のように考えなければ、これまでの「権力の使い方を知らない」と思え
るほどの無法で乱暴な政権運営などできないだろうと思われるからである。
 歴史から学ばない(学ぼうとしない)だけでなく、議員選挙で多数が選ば
れたからといって、主権者である国民はあらゆることを“白紙委任”した訳
ではない、という常識すら持ち合わせていない。数の力で多くのことを自分
たちの都合の良いように推し進めるために、無理や歪みが生じると、人事権
を盾に恫喝するかのように、その矛盾を国民の目から隠す必要が生まれて、
官僚にそれらをすべて押しつけるといった無理を重ねてきた結果、良心的な
官僚たちからそっぽを向かれ始めてきているようだ。
 
 戦中の反省から、このような危うい政権が台頭しないように現憲法が制定
され、民主憲法・平和憲法として世界に誇れる国作りに先人達は努めてきた
のだ。安倍政権が出現するまでは、どの政権も憲法の理念に立って、矩を越
えない抑制的・謙抑的な政権運営をしてきたはずだ。そうした経緯について
知らない独尊意識にまみれたお坊ちゃまが“わがままに”振る舞った結果、
日本から、そして国民から多くのものが失われてしまったというのが現在の
状況だと私には思われる。
 この度のコロナ禍への対策の遅れやまずさがさまざまな面で浮き彫りにな
った。とりわけ“国民を救うため”戦術をしっかり考えて取り組むことや、
率先して自らが汗をかくことなどが軽んじられ、むしろ国民への“要請”ば
かりが先んじて打ち出されたり、見当違いの対策が思いつきでなされたり、
時にそれを覆してみたり右往左往する政権のドタバタぶり、迷走ぶりは政権
への信頼感を大きく損ねることになったことは記憶に新しい。

 国民の自粛への努力によって一旦落ち着いたかのように見えたコロナ感染
者数の増加であったが、経済を優先させたい政府は緊急事態宣言を早々に解
除し、県をまたいでの移動も、規模の違いこそあれイベントなどの開催も可
とする方針を打ち出した。
 コロナ禍のさなかにあって、あろうことか観光業の衰退を懸念してのこと
であろうが、8月からコロナ感染症の流行後にさまざまな消費を促すことを
目的とした「Go Toキャンペーン」も、あろうことか前倒しして展開された。
 観光地からは感染者が流入することを懸念する声も聞かれると報じられて
いるが、それは当然のことであろう。
 東京は対象外として除外されたが、隣接する首都圏をはじめとするいくつ
かの地域を名指しし、その地域からの観光客を迎えることを歓迎しつつ懸念
する観光地もあるという。

 東京では7月の中旬以降、連日感染者が増え続け、もはや第二波が訪れて
いる様相を呈しており、国会では16日、参院予算委員会の閉会中審査が行
われた折に参考人の東大先端科学技術研究センターの児玉龍彦名誉教授が、
コロナウイルスの感染拡大の現状への強い危機感を示したところである。
児玉名誉教授は、「東京型」「埼玉型」などのウイルスの型が発生している
可能性を指摘し、東京発の感染のさらなる拡大に警鐘を鳴らしたのだ。
そこでは、総力で対策を打たないと、「来週は大変になる。来月は目を覆う
ようなことになる」として、政府・国会・民間など総力をあげての対策こそ
必要だと訴えられたのだが、経済活動の活性化しか念頭にない政権は、その
指摘を無視するかのように『医療体制は逼迫していない』との主張を繰り返
して、三密を避けて『どんどん出かけましょう』と呼びかけているのだ。
 しかもこのキャンペーンに1兆7千億円もの国費を注ぎ込んでおきながら、
驚くことに詳細な内容は未定なままで、見切り発車の状態なため政府の説明
を受けた観光業者も、何からどう手をつければ良いかわからず困惑している
とも伝えられている混乱ぶりだ。
 国民の生命を軽視しても経済の活況にばかり前のめりになるのは、落ち込
んでいる政権支持率を少しでも高められると近視眼的に考えているのかも知
れないが、これで感染者数が増え続け、医療の現場が逼迫し、治療が追いつ
かないということになれば、これは政権がもたらした“人災”に他ならない
ということになる。
その責任をとる覚悟が、この政権にあるのだろうか。

=この稿続く=


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。