SSブログ

民主国家の危機2

 日本学術会議の会員任命については、日本学術会議法第七条に『会員は、
第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する』とある。
 ここでいう「推薦に基づいて、任命する」の解釈は、憲法第六条で言う
『天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。』という条文
にある“基づいて~任命する”、つまり天皇は推薦された人物を“拒否”す
ることなく任命することと同じだと見なされるはずである。
 すなわち、天皇が内閣総理大臣を任命する行為は、あくまでも形式的な
ことであって、それは日本学術会議の会員任命についても適用されなけれ
ばならず、昭和58年5月12日の参議院文教委員会で中曽根元総理が『学術
集団から推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎま
せん。』と明言しているはずだ。その点に関して、憲法も日本学術会議法も
改訂されていない限り(何年経とうが、状況が変わろうが)、その定め通り
推薦された人物を任命しなければならないはずだ。
 それゆえ(言うまでもないことだが)、任命を拒否するという行為は違法
行為であると言える。

 菅総理は、会員候補の6人の任命除外についての質問に、これまでのとこ
ろ内容のある回答をしておらず、『総合的、俯瞰的活動を確保する観点から
判断をした』という、わかりにくい言い方で“説明した”としているよう
であるが、これでは自らの「違法行為」に対する説明にはならないだろう。
 また、時間の経過に従って『推薦された全員の名簿を見ていない』内容の
発言をしたり、『出身校等のバランスをとって自分が判断した』という前言
と矛盾するような発言をするなど、支離滅裂な状態に自分を追い込んでしま
っているようにも見受けられる有様である。
 今日の国会では、6人を任命しなかった理由についてあらためて“出身や
大学に偏りが見られ多様性が大事だということを念頭に判断した”と強調し
たと報道されていた。そこでは、『現在の学術会議の会員の構成は東京大学
などいわゆる7つの旧帝国大学で45%を占め、産業界や49歳以下の会員
はそれぞれ3%に過ぎない』と指摘したという。
 推薦名簿を見ていないにもかかわらず、会員の構成割合を示し、それを任
命拒否の主な理由として挙げるというのも“後付け”としか思えない。
さらに名簿にしるされた(任命拒否)の会員候補には少数派の大学や、比率
の少ない女性の教授も含まれていたというではないか。
 “後付け”の上に“指摘の間違い”があるとすれば、任命を拒否する根拠
が極めて薄弱かつあいまいなものであったということになる。

 また、先日(10/26)には、NHKの報道番組に出演し、司会者が『説明を
求める国民の声もあるように思う』と発言すると、菅氏は「説明できること
とできないことがある。学術会議が推薦したのを政府が追認しろと言われて
いるわけですから』とも語っていた。
 この発言における“説明できることとできないこと”がどういう内容なの
かはこれだけでは不明だが、ある理由をもって、しかも法を犯してまで任命
を拒否した以上、詳細に説明をしなければならないはずだ。また、“政府が
追認”という言い方も、まるで“やらされてる”感じが濃厚であるが、その
認識自体が違法の要因であることを菅氏自身が強く自覚すべきであろう。
 この国は法治国家なのだ。しかも国民主権を謳った民主主義国家なのだ。
まずもって国民が納得できる説明をし、国民にわかってもらう努力をするの
が、行政府の務めなのだ。
まるで「朕は国家なり」とでもいわんばかりの、『総理である自分が決めた
ことなのだから、法はともかく自分に従え』と言うかのような姿勢は、この
国のあるべき姿とは言えないはずだ。

 そのような説明できない苦し紛れからであろうか、論点外しで目をそらす
ように、学術会議のあり方を協議する「プロジェクトチーム」を立ち上げて
みたり、何年もの間学術会議から提言がなされていないという間違った指摘
をしてみたり、果ては政府の組織で多額の運営費を配当しているのだから、
任命の決定権は内閣にあるなどという議論をすることは、論外なのだ。
 安倍政権発足以来、敵視する相手を貶めることで自らの意を強引に押し通
そうとする振る舞いが目につくが、安倍政治の継承を掲げる菅政権は、さら
にその姿勢を強めているように見受けられる。
 
 菅氏は所信表明演説の中で、『多様性のある職場、しがらみにとらわれな
い経営の実現に向けて、改革を進める』と語っていた。
 民主主義の根幹にあるのは、多様な意見を集めて議論を尽くし、合意形成
を図り、時間や手間をかけても“より良き社会”の実現に向けた努力をする
ことに他ならない。そこでは、声の大きな者、発言力の強い者以上に、少数
意見や声なき声を尊重することが大前提になるのだ、ということは民主主義
教育を色濃く受けた私たちの常識に他ならない。
それは、長い時間をかけて先人が築き上げてようと努力してきた民主社会に
向けた正しい方途であり目指すべき道なのだ。
 多様性を認めるということは、異なる意見や考えに耳を傾け、互いに意見
の交換を積極的に図り、最善の方策を探っていくという「認め合う」寛容さ
が前提にあるのだが、現政権の姿を見る限りそうした姿勢は窺えない。
 
 学術会議が法に則って選出した会員候補は、やはり同様に“法に則って”
形式的に任命をするのが首相の務めであるにもかかわらず、「説明できない」
理由で任命を拒否する姿勢からは、自身の発言における“多様性”を認める
構えを窺うことはできないからだが、むしろその発言とは対極の姿勢ばかり
が浮き彫りになるからだ。
 法に縛られ、従わなければならないのはまずもって政権であることを自覚
し、ここは“論点外し”の議論や言い訳などせずに、自らの過ちを認めて、
学術会議が選出した会員すべてを任命することが最善の道だと、ニュートラ
ルな角度から見れば思えるのだがいかがなものであろうか。

=この稿続く=
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

民主国家の危機民主国家の危機3 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。