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民主国家の危機10

 この稿の冒頭で、菅官房長官(当時)が首相選への出馬表明するに際して
何のビジョンも示さなかったことについていかがなものかと私は書いた。
 出馬表明をするということは、このような国づくりを目指したいという、
自分なりの展望を示すことが必要不可欠だろうと思うからであった。
 菅氏がそのことを語らなかったことについて、その展望を持たないことの
あらわれかと訝しく思ったものであった。
 そうした目指すべき将来像を示さない(あるいは示せない)のであれば、
国の舵取り役としてふさわしくないのではないかとすら思ったものである。

 舵取り役として最も重要なのは、航海の目的地や道筋を記した海図やそこ
へ向かうための確かな羅針盤を持っていることを船員や乗客にしっかり示し、
任務を果たす覚悟があることを表明することに他ならないと考えているから
である。
 海図も羅針盤も持たずに多くの国民を自分の船に乗せ、船出をするという
ことは、航海ではなく海の上を行方も定めずさまようだけの“彷徨の旅”に
国民を誘うようなものでしかあるまい。
 しっかりした目的地を持たない彷徨の旅を予測させるように、菅氏は命題
を示さない一方で、細々とした些末とも思えるような政策を“目玉政策”と
して掲げ、強引に成立させようとしてきた。それはあたかも、“彷徨の旅”
であることを悟られないよう、波と風にまかせてあちらこちらの小島に寄港
して“やっている感”を出すかのような思いつきの船旅を思わせる。

 しかし一方では、法治国家にあって手をつけてはならない部分にまで触手
を伸ばしたり、一国のリーダーとしてふさわしくない統制と支配への姿勢を
平然と「何が問題か」と言わんばかりに見せ、身内には寛容に、他者には厳
しく対応するという他者を認めない“狭量”だが“臆病な自尊心”の持ち主
らしい姿も露呈してきた。
 記者会見で見せるおどおどとした自信なさげな表情や物言いの一方で、官
僚(時には閣僚)には強い口調で命令をする、しかも閣僚ですら首相は話を
聞いてくれないと嘆くほど一方的に自己主張する側面も持った人物だという。
それはまさに先に書いた“臆病な自尊心”を隠し持った持った人物の証だ。
 
 ここまで書いてきて思ったことがある。先に『自身の展望を持たない』と
書いてしまったが、そうではないかも知れないということだ。
ひょっとすると“持たない”のではなく、自身の持っている展望がいかにも
民主国家そして法治国家のリーダーに「ふさわしくない」ものだと自覚して
いて、あからさまに表明することが「はばかられる」と認識しているのでは
ないだろうか、と見ることもできると思い直したのである。
 だが、いずれにしても信頼して舵取りを任せられるような人物ではないと
官房長官時代から、そして首相就任後の半年余りの姿を見て思わざるを得な
いというのが正直な感想だ。

 先に書いた“彷徨の旅”を思わせるように、猖獗を極めている新型コロナ
禍にあって、科学的な知見に基づかないあいまいな判断、後手後手(あるい
はチグハグ)な対策は、まさに“ふらふら”とさまようようで、この人物の
力量と限界を白日の下にさらす結果となっているではないか。
 展望を持たないから表明できない、表明できないような展望を持っている
のいずれにしても、民主国家の舵取り役として適格な「力量と資質」を備え
た信頼できる人物とは言い難いのではないか。
 このような人物を一国の首相として選び出したのは国民ではない。しかし、
このような人物を首相として選出するような与党議員を選んだのは、紛れも
なく国民で、国民はその責を痛感しなければならないはずだ。

 私は民主主義とは国民の不断の努力で作り上げていくものだと考えている。
 国民がこぞって“守り育てて”いかなければ、いずれ形骸化し、緊張感の
ない、そして議論が軽視されるようなポピュリズムに陥った民主主義の面を
かぶった似非民主国家になってしまうであろうと危惧している。
よりよい国作りのために、とか美しい国作りのためにという名目で、国民の
思想・信条を操り、果てはその思想・信条を監視し、ついには一握りの権力
者の意にそわない人間を「異分子」とみなして排除するような、表現の自由
をも縛る恐れすらあるデジタル庁の創設による個人情報の一元管理を急ぐよ
りも前に、このコロナ禍ですべきことはたくさんあるはずだ。

 これまで半年あまりのコロナ対策を見るとき、合理的・科学的な判断とは
言えないチグハグ、そして右往左往と呼んでも良いような文字通り「彷徨」
そのもののていたらくぶりばかりで、三回目の緊急事態宣言が発令されても
いっこうに人流が減少しないという町の様子からは、菅氏の会見で発せられ
る言葉の一つひとつに“本気度”“必至さ”“熱意”を伴った具体的な対策を
感じることが出来ないゆえの、慣れや緩みがじわりと浸透してしまっている
からではないか。
 その一方で、三ヶ月後に控えた東京オリンピックを開催したいという熱意
はお持ちのようだ。国民の生命を守り、国民を安全な環境に置くことをせず
に、多くの外国選手を招いてウィルスのこれ以上の蔓延を防ぐだけの体制を
布くことができると本気で考えているのだろうか。それだけの医療関係者を
配置するだけのゆとりなど、どこにあると言うのだろうか。
まるで負けることがわかっていながらインパール作戦を強行した戦時中の大
本営を思わせるような振る舞いに呆然とするばかりである。

 先日の衆参三選挙で自民党の候補がことごとく敗れたのは、菅氏のこうし
た総理としてふさわしくない政権運営、そしてそれを自ら正すことのできな
い自民党に対する国民の反対意思のあらわれだと私は見ている。
 この政権が内包する数々の要因に、国民は「ノー」を突きつけている状況
だと自民党は強く自らを省みるべきだ。
 議員諸氏は、何よりも民主国家の一員であること、「政権を担う」とは主
権者である国民からの委任に応えて“自らのため”ではなく“国民と国”の
ために働くことこそ自らの務めだと認識すること、そのためには正々堂々の
議論を尽くすことが重要だという等について再確認し、肝に銘ずすべきであ
ろう。ゆめゆめ、「人の上に立った」などと思い上がってはいけない。まして
や、国民を監視し国民を統率するなどといったことがあってよいはずはない。
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