SSブログ

歴史から学ぼうとしない過ち3

 ロシアのプーチン大統領は、「特別軍事作戦」と称するウクライナ侵攻に関
して、第三国が積極的に介入した場合は「電光石火の素早い対抗措置を取る」
と再三にわたって発言している。『ロシアは他国にない兵器を持っており、必
要に応じて使う』という発言もしているが、それはつまり核兵器の使用も辞さ
ないということなのだろう。
 この状況を千載一遇の機会とするかのように、日本国内では“核共有論”を
唱えたり、防衛費の増額を真剣に論ずる向きが出てきた。
 戦前・戦中に強いノスタルジーを抱く勢力は、戦争に対する強い反省に立っ
て打ち立てられた平和憲法をも改正(悪?)しようとしているかのようにも見
受けられる。

 日本国憲法前文には
 『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想
  を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
  われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、
  専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社
  会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
  われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうち
  に生存する権利を有することを確認する。』
とあり、憲法9条には「戦争の放棄」と題して
 『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発
  動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手
  段としては、永久にこれを放棄する。』
と記されていることは、義務教育課程を修めた国民なら誰でも知っているはず
で、その内容が世界に誇るべき高邁な理想を謳っているものであることも知っ
ているはずだ。

 積極的平和主義と称して「戦える国」にすることを希求したのは安倍元総理
だが、今回の動きは“憲法の精神を無視”する彼の戦前・戦中への強いノスタ
ルジーに傾斜のかかった政策・振る舞いと重なって見える。彼は、専守防衛を
旨とする「自衛隊の存在」そのものが憲法と矛盾していると唱え、その矛盾を
解消するには自衛隊を軍隊として位置づけることの必要性を言い立ててきた。
 確かに武力を持ち、戦える能力を持ちながら「軍隊ではない」という性格を
持った自衛隊の存在は、どこかでスッキリしないものがあるように見受けられ
る。しかし、その活動が国際的な平和維持活動や国内に於ける災害時の救出・
救援・救護など、重要な働きを展開する“平和と安全のための任務”を柱とし
ているということで、国民はその矛盾を乗り越えて納得し受け容れ、存在を認
めているのだ。
 国民は決して「戦える国」とするための戦力として自衛隊を位置づけたいと
願ったり、そのために憲法改正をすべきだなどと希望しているわけではない。

 困ったことに、“戦争を知らなすぎる世代”は戦争の悲惨さ・残酷さ・愚か
しさについても(実感を伴った理解という意味で)“知らなすぎる”ために、
勇ましい言葉を吐く傾向がある。しかもそれを政権担当者がしてきたというこ
とは、「残念」の一語に尽きる。
 国の舵取りを担う政権担当者がすべきことは、人知の限りを尽くして民と国
の安全を図ることであろう。いたずらに国民を紛争に巻き込むことなど、あっ
てはならないはずだ。
 ロシアのウクライナ侵攻や中国による他国への進出などを口実に、日本を「戦
える国」にするという憲法に反することを臆面も無く主張したり、不都合だか
ら(矛盾を解消し“すっきり”させたいからという子どもじみた理由で)と言
って国家の基(もとい)である憲法を改めようとしたりすることなどは、政権
を司る人物としてはあるまじき言語道断の振る舞いだと言って良い。

 憲法で宣言している通り、国際間の紛争解決の手段に『武力を行使』しない
ということは、外交に於ける努力で成果を挙げることが第一義としてあるはず
で、そこに向かって汗をかくことが望まれる。
 いやしくも政治家となる以上、そして政権を担うことを自ら望んだ以上は、
自らの知性を磨き、知を存分に機能させ、一般国民には思いも寄らない巧みな
外交の手段を創出し、実現に向けて手腕を発揮し、紛争解決に導くため文字通
り“身を粉にして”一心に努めるだけの『覚悟』を持っているはずだ。
 その努力を棚上げし、戦後70年以上にわたって営々と築き上げてきた人権
を尊重する平和で安全な国づくりの方針と歴史を覆して「戦える国」への歩み
を進めるようなことは、決してあってはならないのだ。

 ここで話を変えたい。
 ロシアによるウクライナ侵攻は、国際的な深刻な食料危機や燃料危機をも引
き起こしている。とりわけそれが浮き彫りになったのは、この猛暑のさなかの
電力逼迫であろう。石油やガスが十分に確保できないこともあって電気料金も
値上がりし、さらに化石燃料だよりの発電所だけでは十分な電力供給が出来な
いという状況の中、エアコンの使用が欠かせない猛暑に見舞われ、逼迫の様子
が浮き彫りになったのは、つい数日前のことである。
 地球環境の保全に負荷をかけずに、安定的にエネルギーを供給するためにと
原発の再稼働を主張する向きもあるが、それはいかがなものかと思われてなら
ない。安全性の面からも、増え続ける核のゴミの処理をどうするかという問題
の面からも、原発の安易な再稼働に前のめりになるなどということはあっては
ならない。あの東日本大震災による原発事故により、住むところ、故郷を追わ
れ、帰りたくても帰れない人々が多数おいでになるのも、一旦事故が起これば
人間の手には負えない事態に陥るということは目に見えている。それは、ウク
ライナのチェルノブイリの現状からも十分に推測がつくはずだ。

 長い人間の歴史の中で先人が得た教訓、この数十年で私たちが体験した過ち
から得た強い反省などをベースにした展望こそ、よりよい社会を構築していく
エンジンとなるはずだ。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットは、その著書『精神の政治学』の
中で、「我々は未来に後ずさりして進んで行く」と言っている。
 中島岳志(東京工業大教授)は、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの「湖
に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく」という一
節が、このあり方をうまくとらえていると言う。
 手漕ぎのボートをまっすぐに進ませるためには、進むのと逆の方向を正視し
なくてはならないが、人間の時間の歩みもそれと同じで、過去を直視すること
によってこそ、まっすぐ前に進んでいくことができる。
それがヴァレリーの言葉の意味するところで、オルテガが言いたいことも、ま
ったく同じだろう、と言う。
 過去を直視したとき、そこに見えるのは「死者たちの風景」であり、死者た
ちの営為をじっくりと見ることによって初めて、私たちは未来に向けて前進し
ていくことができる。
 オルテガは、そのように過去や死者と向き合うことによってこそ未来をまな
ざすことができる、そういう構造を説いているのだと中島は言う。

 私たちは、先人の「失敗や犠牲」から得た英知や教え・理念と向き合いつつ、
それらを「我が事」として捉え、新しい事態に対処していくことで、望ましい
社会をコツコツと構築する努力を積み重ねて行かなければならないのだ。
 地道な努力を惜しみ、一刀両断するかのように「力に頼った解決」を図ろう
とするなどの安直な手段に頼るようでは、国民からも他国からも信頼を得るこ
となど出来そうもない。頼もしい国だという信頼を得られるのは、何と言って
も「歴史から学ぶ」「歴史の教えを無視しない」という姿勢を堅持するかどう
かに依るのだろうと強く思われてならない。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。