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安倍元首相の「国葬」について考えるⅡ

 かつて織田信長が「本能寺の変」で明智光秀の手により倒された際、備中高松城を水攻
めで攻め落とし、毛利軍との間で講和を取り付けた羽柴秀吉が備中から京都に向けて全軍
とって返した話は、「中国大返し」として有名な話である。
 その結果、四国平定にあたっていた丹羽長秀、北陸を戦線にあった柴田勝家などの諸将
に先んじて、光秀軍を山崎で破り、さらに信長の葬儀を執り行ったことで、織田家の中で
存在を示し、発言権を高めたことが秀吉の天下統一につながったこともよく知られている。
 
 これまで見る限り、さまざまな場面で『~について検討する』と発言し、決断するまで
に時間がかかった岸田首相が、凶弾に倒れた安倍元首相の「国葬」を逝去から二週間も経
たない7月21日に閣議決定し、それを22日には早々と公表した折には「まるで跡目相続
を狙った秀吉のようだ」という感想を私は持ったものである。
ひょっとすると、岸田首相も秀吉のように葬儀を主催することで、いっそう“足場固め”
ができると踏んでいたのかも知れない。
 先に書いた通り、「法令にない」「国葬」という儀式を復活させてまで“祀り上げ”る
に相応しい為政者であったかどうか、評価が定まらない中で国会での議論も経ずに決定
してしまったことに大いに疑問を感じていたが、それは私一人ではなかったようだ。
 その証拠に当時は、国民の「国葬」への賛否は相半ばしていたのだ。
 そうであれば(反対意見が少なからずあれば)、「国葬」にすることを決定した合理
的な根拠をきちんと説明するために、議論を避けずに国会を開催すべきだったはずだ。
だが、残念ながらそれに値する説明は今日まで行われてはいない。

 その発表からほどなく、安倍元首相を殺害した山上容疑者の犯行の背景に「旧統一教会」
との関係があることが続々と報道されるに従って、国葬を否定的にとらえる声が大きく
なってきた。それは、一つには宗教という仮面をかぶった違法行為や不法行為を繰り返し
てきた団体と安倍元首相と深いつながりを持ってきたことやその団体の主張が安倍政治に
浅からぬ影響を与えてきたことに危険な匂いを感じったことに依るのだろう。
 さらにもう一つには、これまでの議員選出(地方も国会も)にかかわる選挙活動に於け
るボランティア活動と称したこの団体の“集票活動”が自民党の党勢に強い影響を及ぼし、
その結果岸田首相の言う『憲政史上最長の8年8ヶ月におよぶ』長期政権の実現に貢献し
たということが明るみに出て、民主主義の根幹である“民意”とは異なる政治が長期にわ
たって行われる事態を創り出してしまったのかも知れない、という疑義を抱く結果になっ
たことも原因としてあるのだろう。
 いずれにしても、岸田首相の言う国葬を催す理由の二つとも、すなわち“長期政権を保
った”ことと、“民主主義を守ること”のどちらもが正当な根拠とはなり得ないだろうと
いうことは明らかだ。

 そもそも民主主義の根幹にあるのは、少数意見や反対意見を尊重するという姿勢を前提
とした上で議論を重ね、よりよい解・より合理的な道筋を求めたり、国と国民の安全や利
益に向かう解決の手段を探ったりすることが肝要なはずだ。
 民主主義とは、そうした過程を経ることが大切なこととして求められる“面倒な”社会
体制なのだ。それを“面倒”だからと言って議論を避け、限られた人間だけで安易にモノ
ゴトを決定したり、異見を排除したり、聴く耳を持たなかったりするような政権が出現さ
せてしまうことがあれば、主権者である国民も“怠慢”“油断”があったとされても致し
方のないところであろう。
 そうした政権監視にあたって重要になるのは、『国民の知る権利』であり、そのために
正しく情報公開がなされなければならないのは言うまでもない。
 安倍政権時代には、さまざまな疑惑が発覚した際に、欺瞞や言い逃れ、証拠隠滅を図る
ように文書の改竄や黒塗りが行われ、国民(それは紛れもなく主権者たる存在だ)の知る
権利が軽んじられる場面がいくつも見受けられた。
 また、異論を排除しようとして国会の審議の場でろうことか首相自らが野次を飛ばした
り、選挙演説中に自らを批判する一部国民に対し『こんな人たちに負けるわけに行かない』
と有権者を分断するような発言をするなど、寛容さ(それが保守の理念だ)に欠ける言動
が頻繁に見受けられたことは記憶に新しい。
 このような民主主義に逆行するような人物 を“民主主義の殉教者”であるかのように
祀りあげることに、国民の多くが大いに違和感と疑問を抱き、否定的な姿勢を見せている
のが「国葬」に対する現在の状況だ。

 また、これまでの議論の中で、こうした事態が「宗教と政治のかかわり」という論点で
語られることも少なからずあったように見受けられるが、これは決して「宗教と政治」も
問題ではないし、「信教の自由」にかかわる問題でもない。それは、オウム真理教に対す
る法の裁きを見れば自明のことだ。違法行為や反社会的行為をすれば、それは当然取り締
まりや制裁の対象になるはずなのだ。
 ここは、そうした反社会的な行為をする(あるいはしてきた)団体と政治家(あるいは
政党)の間に存在する問題を問うているのであって、「宗教と政治」の問題や「信教の自
由」にかかわる問題として“すりかえて”論じるべきではないはずだ。

 党首である安倍氏自身がこの危うい団体と誰よりも深くかかわり、この国の政治を危う
い方向に導く舵取りをして来たことも明らかになってきた。
 安倍元首相の国葬を、政治的に利用したなどという指摘を受ける前に、自ら取り下げる
勇気をもって異なる葬儀のかたちを考えた方が、得策だと考えるのは私一人ではないはず
だし、「反対の声」はますます大きくなっていくに違いない。
それこそ「大英断」として国民に歓迎されるはずだ。

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