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「品流し」の話題に接して [教育全般]

 教育再生懇談会は、安倍内閣の諮問機関であった教育再生会議の後を引き継ぐ形で設置された福田内閣直属の諮問機関である。これまでに、「小中学生には携帯電話機を持たせない」「小学校3年生から英語を必修化」「小中高の英語教員にはTOEIC受験義務化」などの提言をしてきていることは周知の通りである。
 教育の再生という根源的で将来を見据えて取り組まなければならない課題に対する提言として、どうかと思われるようなものが目につくが、このメンバーの中には品川区教育委員会教育長の「若月秀夫氏」も入っている。
 若月教育長と言えば、今や品川区に配属されることを嫌って「教員の“品流し”」と話題になるほど、さまざまな教育改革を名目とした「具体策」を実施し、恐怖政治とも思えるほどの教育行政を実行している人物である。
 驚くことに、彼は「子どもたちが“いきいき”してくれればいい。教師たちまで“いきいき、のびのび”されたら困る!」とまで言い放ったそうである。
 そうした考えを基本に据え、能力主義・成果主義を柱として「成績至上教育」を施そうと学校を強い管理下に置こうとしている人物のようだ。

 彼の施した具体的な施策の中には、いちはやく取り入れた「学校選択制」がある。また、教員各自が数値目標を設定・申告し、達成できたかどうかを給与に反映させることを旨とした「人事考課制度」もある。
 いずれも新自由主義をベースにした「自由な競争」によってこそ成果が期待できるという安直な考えに基づく施策だ。
 学校はモノを生産する場ではなく、まして同じ製品を、可能な限り効率的に生産することをめざす「工場」ではない。人間というかけがえのない独立した個を、それぞれの個性を尊重しながら育む場である。市場経済の論理が通用する場ではないのである。すでに「誤り」であることが実証済みである新自由主義に立つ「自由な競争」を基本的な考えに据え、しかも導入がふさわしくないはずの学校にその考えを持ち込んで、それを「改革である」とする姿勢には疑問を感じざるを得ない。

 例を挙げれば、コーンが『競争が避けられないものであり、競争がより生産的なものであり、競争がより楽しいものであり、競争が人格を形成してくれるものである、という四つの神話は基本的に誤っている。』(アルフィ・コーン(山本啓・真水康樹訳)「競争社会をこえて」法政大学出版会 p.16)と指摘したのをはじめとして、多くの研究者によってその誤りは社会的に認知されて久しい。
 また競争による教育が間違いであることはサッチャー政権下のイギリスで経験済みのことであり、競争に依らない教育を展開しているスエーデンが成果を上げていることからも、「競争」は経済活動のみならず教育においても決してよい結果をもたらさない、ということもわかっていながら、未だにそれに固執し、推し進めようとする人間が区の教育行政のトップにいるということは驚きに値する。

 保護者や児童・生徒に自由に学校を選ばせる「学校選択制」は、学校を単なる「サービスを提供する売り手」と、そして保護者や児童・生徒を「消費者」と位置づけ、選ばれる学校こそが「教育の成果をあげることのできた良い学校」であるとする消費者至上主義に立つ施策である。これは、モノを生産・販売することと子どもを育てることを同じ次元でとらえ、選ばれる「よく売れる店」になることと子どもの自立や成長を促す質的に充実した教育活動とは、まったく異質な問題であるにもかかわらず、安易に同一視、混同視するという、誰が見ても納得のいかない危険な考えをベースにしたものなのだ。

 また、人事考課制度もそうした考えと無関係ではないが、ここで問題になるのは「教育とは数値で評価されるべきもの」ではないし、短時間で結果が見えるものでもない、ということである。テストで「○点」以上を取れる生徒を「○%」育てる、ということが教育活動の到達目標としてふさわしいものかどうか、教育者なら首をかしげたくなるような査定が「良いこと」として行われようとしているのだ。具体的には各教師が目標値を設定・申告し、その目標をどれだけ達成できたかを「教育の成果」として問い、それが教師としての「評価」の核となる、というものだ。
 しかも、それが教師のランク付けにつながるというのだから恐れ入る。
 あるブログ記事には次のように書かれていた。
 『人間の評価を数字でしか判断出来ない教育者が居る限り「教育」は「成績の優劣を決めるゲーム」のままだろうと思います。勉学によって、思考力や感性、人間性を育む事は夢のまた夢なのでしょうか。子供が大人の縮図ならば、大人が成績至上主義から脱却してこその教育改革だと思います。』

 まさにその通りであるが、おそらくこの人物は、幼少時から「高得点をとること」を学習の最終目標と思い定め、そのためにだけ勉強をしてきた人なのだ。学問を通して高い見識を持つとか、広い視野でさまざまな考えを受け容れ、柔軟にものごとを考える力や態度とか、将来を見据えて展望を描くことのできる先見性・想像力・構想力とか、何よりも人間的なゆとり(寛やかなこころ)を自らの中に育てることのできなかった人なのだろう。
 だから、強い自信を背景にし、自己の考えを強迫的に学校と教員に押しつけることができるのだ。少なくても、「学ぶことの意味」と「自らが知らぬことの多さ」を謙虚に思えば、教育を「得点で評価する」などという愚を犯さず、教育についてもっと真摯な態度で語ろうとするはずだ。

 そもそも学校とは「子どもと教師が夢を語る場」であり、子どもだけが生き生きとしていればよい、などということはない。生き生きした教師と触れ合い、語り合うことで、子どもの成長がよりいっそう豊かなものになることが期待できるのだ。
 強迫的な施策の元で「失敗すること」を怖れ・避ける姿勢をもってしまえば教師の「生き生きとした成長」は望めまい。教師は(私自身の経験も踏まえた上での話だが)、日々の教育活動を通して一日一日成長していくのだ。しかも、その成長を支えるのは、より多く失敗による経験の積み重ねだ。誤解を恐れずに言えば、失敗だけから教師として大切な多くのことを学び取っていくことができるのだ。
 人間教師として成長を続けるその姿勢は、「生き生きとした教育活動の姿」に他ならず、それを否定しようとするのなら、それは「教育」そのものを否定しようとするものでしかない。子どもも教師も共に「学び育つ」のだ、ということを大前提に考える学校の姿を否定する構えに立てば、子どもを「一方的に教え・鍛える場」として学校をとらえる考えも成立するかも知れない。この教育長のめざす学校はそうしたものなのだろうか。だが、そのようなものはもはや「学校」ではない。それは「教習所」や「伝習所」と呼ぶべきものでしかないからだ。

 学校を商品化し、成果主義が浸透させ、弱肉強食的な勝ち組礼賛の志向を推し進める中で、学校教育はこれまでに予想もしなかった種々の問題に直面するようになった。
 若い教師の「教育に対する落胆・自信喪失」による退職や自殺、モンスター・ペアレンツと呼ばれる理不尽な要求をする親の出現と横行、教師バッシングを是認する風潮等々、数え上げればきりがないほどの問題が浮き彫りになり、学校と教師は日々それらと直に向き合っているのが現状である。
 遠足などで撮影したクラスの集合写真の中央に自分の子が写っていないのは納得がいかないと撮り直しを要求する親、卒業アルバムに我が子が写っている写真の数が少ないので、アルバムを作り直せと要求する親など、それは現実の話なのか、と思えるような身勝手な「権利意識」を背景にした非常識きわまりないことを言う親も、もとをただせば「神様である消費者」の言い分に「サービス業である学校が応える」のは当然だ、という行き過ぎた「学校の商品化」思想が定着?してしまったことによる。
 学校が一方的なサービスの売り手であるということになれば、他の工場に負けないように新しいサービスを矢継ぎ早に提供し、他の工場に客をとられないように目に見える成果ばかりをアピールするようになるだろう。
それは、教育の質を高めることとはおよそ無関係な営業戦略でしかなく、その「目に見える成果」を出すために不正も敢えて辞さない、という事態すら引き起こしかねない。
その典型的な例が、高校の未履修問題ではないか。

 学ぶことの意味、成長することのなかみを置き去りにして、教え・伝え・鍛えることで自校の優位を保とうとすれば、そこに見えるのは子ども不在の「教練」の様子でしかない。そうした中で育った子どものたどり着く将来の姿がどのようなものか想像に難くないが、そう考えるとこれはもはや教育の問題ではない。日本という社会が危機に直面していることに他ならない、ということがよくわかる。

そ れにしても、このような危険な人物が「教育再生懇談会」のメンバーとして(区の教育行政を左右するのみならず)、国の教育をも動かしかねない位置にあるということを考えると、何やら背筋が寒くなる思いがするのである。
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教養と知識 [教育全般]

 昨日の報道によると、『文部科学省は24日、先月末に改定した新しい学習指導要領の移行措置を公表した』とあった。
それによれば、『小中学校とも算数・数学と理科の実施時期を前倒しして来年度からとし、この2教科の授業時間と学習内容を大幅に増やす。中学は総合学習などを削減するので総授業時間は現在のまま。小学校は全学年で週1コマ授業が増える』という。

 時間数を増やせば学力が伸びる、あるいは保障できるという安易な考えはどこから来るのか。学習内容を知識として「覚える」「蓄える」ことのできる力を「学力」ととらえているから、このような対処療法的な方策しか思いつかないのだ。
産経新聞によると大見出しに「台形の面積復活」とある。
 平行四辺形にしろ三角形にしろ、そしてここで取り上げられている台形の面積にしろ、四角形の面積の求め方を探り導き出す学習の中で、それらの面積についてはどうなのか、という問題意識が生じ、解決に向けて動き出したくなるような学習の仕組みがあれば、わざわざ一つ一つ取り上げ「教え」なくても、確かな知、自ら手に入れたかけがえのない知として身につけていけるはずなのだ。
 四角形の面積が求められれば、『この場合はどうか』と平行四辺形や三角形、台形の面積についても意識が向くはずで、固い構造の学習過程しか想定できない人たちはそれぞれの「場合」を別々の知識として指導しなければならないとかたくなに思いこんでしまっているのだ。

 そうしたことは面積を求める学習だけに言えることではない。
 既有の知識を使いこなし、新たな課題に対処していけるようになる、ということが「学ぶ力」の一方の柱であるはずだし、学ぶ楽しさはそうしたことに直接触れることにあるとも言える。
 既に広く、教養についてのとらえ直しが始まっているが、教養とはかつて考えられていたような「百科全書的な知識を有すること」ではない、ということはもう20数年前から言われてきた。
 教養とは、知識の量ではなく「問うことを学ぶ=学問」への対し方を知ることであり、そのことによって自らの問い、人間の問い、事象への問いに真摯に向き合う構えこそ重要なのだ。

 たとえいくら知識があっても、次々と出現する難問(いま世界が、そして日本が抱えている多くの問題がこうした類の問題だ)に何の解決案も提示できない、解決への方向性も示唆できない官僚・政治家のような「知識人」では困るのだ。
 今回の改訂とそれに伴う移行措置で明らかなように、彼らはありきたりで対処療法的な一時凌ぎのような案しか出せないのだ。対処療法的な対策というだけであればまだしも、これが教育、なかんずく「学習」というものについての浅薄な理解を背景にしていることから問題はもっと深刻なのだ。
 東大を頂点とする名門校が輩出した「有能な官僚」諸兄は、勉強はしたものの「ほんとうの学び」を体験していないのではないか。「問う」ことを抜きにして「覚え」、覚えたことを答案用紙に吐き出すこと、あるいは「受験技術を身につけ」てそれを操ることを「学習」と取り違えてしまった人たちだからこそ、今回のような愚にもつかない改訂や措置を打ち出していながら「胸を張れて」しまうのではないか。

 教育が「教育の理想・理念・哲学」からますます乖離し、教育とは別物、すなわち「伝達」「伝習」「教習」に向かって行っているようであり、危惧の念を禁じ得ない。
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雨ニモアテズ [教育全般]

 おもしろいものを手に入れた。
 盛岡の小児科医、三浦義孝氏がこの夏の小児学会で披露した作者不明のパロディーである。
 パロディーの原典は言わずと知れた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」。
 このパロディーのタイトルは「雨ニモアテズ」。
 結句で「コンナ現代っ子ニダレガシタ」と嘆いているように、こんな子どもに育てられてしまった哀れな子どもたちの側面を表現している詩になっている。

               雨ニモアテズ

    雨ニモアテズ、風二モアテズ、雪二モ夏ノ暑サ二モアテズ、
    ブヨブヨノ体二、タクサン着コミ意欲モナク、体カモナク、

    イツモブツブツ、不満ヲイッテイル、
    毎日、塾二追ワレ、テレビ二、吸イツイテ遊バズ、
    朝カラ、アクビヲシ、集会ガアレバ、貧血ヲ起コシ、
    アラユルコトヲ、自分ノタメダケ考エテカエリミズ、
    作業ハグズグズ、注意散漫スグ二アキ、ソシテスグ忘レ、
    リッパナ家ノ、自分ノ部屋二閉ジコモッテイテ、

    東二病人アレバ、医者ガ悪イトイイ、
    西ニツカレタ母アレバ、養老院二行ケトイイ、
    南二死ニソウナ人アレバ、寿命ダトイイ、
    北ニケンカヤソショウガアレバ、ナガメテカカワラズ、
    ヒデリノトキハ、冷房ヲツケ、ミンナ二、勉強勉強トイワレ、
    叱ラレモセズ、コワイモノモシラズ、

    コンナ現代ッ子ニダレガシタ


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子どものための教育を [教育全般]

 ここ何日か、OECDの国際学力調査の結果を受け、このブログでもそのことについて考えてきたが、メディアの報道や文科省のコメントに何かしっくりとこない違和感を感じている。
 彼らが「世界の中でより高い順位を獲得できるだけの学力を」と言うが、そのねらいは「子どものため」「子どものよりよき成長のため」ではないように聞こえるからである。
 日本という国が世界を科学力で、あるいは技術力でリードするために、子どもにがんばってもらわなければならない、と考えてのことであり、端的に言えば「子ども一人ひとりのため」ではなく「国のため」にそれを願っている、希求しているというニュアンスが各種のコメントからぷんぷんと匂っているからである。
 いわば、大人の都合で、あるいは国の都合で語られ過ぎていはしないか、というのが違和感のもと。

 子どもが学ぶのは、自分が豊かで幸せになるためではないか。「豊か」と言うと誤解される怖れがあるが、物質的に充たされるという意味でないことは言うまでもない。
 「生き生きと自分の人生を生きていく」ことのできる豊かさであり、新たな自己との出会いに感動し興奮する喜びを実感できる豊かさであり、他に貢献できる自己を見いだす幸せであり、それらのことによって生き甲斐を実感できる豊かさであり、充実感を味わいながら生きていく喜びを感じるときの豊かさ等々である。

 物欲をもってしては、人は充たされることはない。
 西洋の古い諺にも『富と海水は飲むほどに渇く』とある。
 持つことにこだわれば、持てば持つほど「より持ちたく」なり、際限がなくなる。
 しかも物欲は人間としての品性にもよからぬ影響を及ぼしかねない。
 モノを持つことに執着すると、人間が下卑たものになる。
 しかし、知的好奇心にもとづく知的欲求や知的向上心、自己の力や世界の広がりを求める探求心なども際限がないではないか、と指摘する向きがあるかも知れない。
が、それは「真の豊かさ」を求める欲求という意味で、むしろ好ましいことではないか。

 学力の低下や学習意欲の低下、なかんづく科学への関心の薄さを懸念する声に、少なからず違和感を覚えるのは、ほんとうに子どものためを思ってのことなのか、子どもの豊かで幸せな将来を思ってのことなのか、を疑わせるようなニュアンスがあるからだ。
 曰く、『世界のトップレベルからの転落』『韓国、フィンランドなどのトップグループから大きく引き離された』『科学立国ニッポンの危機』『技術立国・日本の将来が憂慮される』等々。
 ここで語られているのは、学習意欲が低下したままでは「子どもにとって不幸なこと」だから何とかしたい、ということではなく、このままでは日本の将来が危うい、だから国家のために学ばせるべきだ、という趣旨のことだ。
 そのような「一人ひとりの子どものために」という視点を欠いた教育論議では困るのではないか。

 教育の問題を考える際によく引き合いに出されるフィンランドでは、「なぜ学ぶのか」ということが重視され、学習とは児童生徒が自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動として意味づけられているという。 
 社会の中で自分の将来を考え、社会的意義を意識しながら学習をすること、つまり社会的実践能力を高めることが求められ、学習者自身もそのことを強く意識して学習に取り組んでいると言われている。
 学びの目的がよい高校やよい大学に入ることといった無味乾燥なものではなく、自分の将来を築き上げることと直接結びついており、「生きる」ことと密接不離なものとして意識されていることが力強い学習への動機となっていることが窺える。
 それはともかく、「学習とは何か」という哲学、すなわち理念が教育の根幹にしっかりと据えられ、それを教育政策の原理としているからこそ、真の教育改革を成し遂げることができ、成果につなげているのであろう。
 日本も、学力レベルが世界で何位であるとか、どこの国勝った(負けた)などという次元の低い教育論議ではなく、子どものために何ができるか、子どものよりよき成長にとって望ましい学習とはどのようなものか、という視点から教育について論じる必要があろう。
 「子どものために」という視点を欠いしまっては、何よりも子ども自身が迷惑に感じるのではないかと強く思われてならない。


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教育再生会議に危惧の念 [教育全般]

 安倍総理の私的な諮問機関でしかない「教育再生会議」が、いつの間にか提言を通して日本の教育の舵取り役を担うものであるかのような報道がなされている。
 この再生会議のありようについて危惧を感じるのは、私一人ではあるまい。
 何よりも、これはどこまでも私的な諮問機関であること。
 法律に基づいて設置された臨時教育審議会(中曽根内閣)や中央教育審議会とはそもそもの位置づけが異なるのだ。また、中教審との存在意味の違いもあるはずだ。
しかもこの会議は原則非公開だという。官邸主導でなされるこの会議は、最初から目的地を定めてつじつま合わせのような話し合いをする目的で設置されたかのように見える。

 有識者で組織したと言われるこの会議のメンバーの半数は、教育の専門家ではない。いわば教育の「素人」が、教育の理念や教育に対する理解などは視野の外において教育について論じる会議なのだ。論じるだけなら許せるが、それを提言としてまとめ、教育の重大な方向付けに生かされるという。
日本教育学会歴代会長が「教育基本法改正継続審議にむけての見解と要望」をとりまとめ教育基本法の拙速な改正に何とか歯止めをかけようとしている。また、日本教育法学会も特別委員会を設けて働きかけているが、これらの動きに対して政府は何の対応もしていないように見受けられる。
 
 教育や教育法規の専門家、研究者の意見は無視され、素人の意見が採り上げられるという状況からは、素人の意見を受け容れることで世論を恣意的に作り上げようとする意図が透かし絵のように見える。
 素人の意見を軽んじるわけではない。
 しかし、いじめの問題を起こす子どもに対して、「指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など」「いじめに関わったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する」などのいわば付け焼き刃のような対策(しかもどう見てもちぐはぐな対策にしか思えない首をかしげるものばかりである)は、素人受けはするかもしれぬが問題の根本的な解決につながるものでないことは、教育研究に携わった者なら一目瞭然だ。

 それは、公共心や道徳心、愛国心の涵養、学力の論議、未履修問題等々、すべてにわたって言えることだが、法学や教育学などの学問の成果をまったく無視した教育談義だからである。しかもそれなら一般市民にわかりやすく見えやすいという困った側面も併せ持っているのだ。まるで、安倍政権はそのことを見越して、有識者17名による構成でこの会議を組織したかのようである。(何をもって有識者とするかは不明だが)

 さて、諸々の教育に関する問題の根には何があるのだろうか。
 教育基本法は、平和的な社会の形成者としての主権者を育むという高い理念を謳っているが、昭和40年代からの教育はそれを具現化しようとしていたかと言えば疑問が残る。 学校は子どもたちに、学ぶことのたのしさや学びあいのたのしさ、すなわち、学問の本質を伝えていただろうか?学問とは文字通り「問うことを学ぶ」ことであるが、単なる知識と技術の伝達に走り、学ぶことの意味や楽しさを伝えてこなかったのではないかといううらみが残る。

 受験地獄という言葉に象徴されるように「競争」に学校が支配され、いつの頃からか小学校は中学校の、中学校は高校の、そして高校は大学の予備校のようになり果て、学ぶ楽しさや問うことのおもしろさをどこかに置き忘れた指導を展開し、少子化によって近年はますますその傾向を強くしてきたのではなかったか。
中には、教育の専門職たる高校教員が、その誇りを忘れ、塾の講師を招いて教科の指導法についての指導を仰ぐ、といった県もあらわれた。高校は学ぶ場ではなく、ついに予備校に徹しようと決意したかのようである。その挙げ句が未履修問題である。

 また、問いを発し「わかる」に向けて無我夢中で取り組めるような学習、そのことによって自分の世界の広がりを味わう学習、社会や自然の謎を解き明かす心の弾むような学習を仕組めなかったことが、学習意欲を阻害し、自己の存在を確認するために非行やいじめに走る子ども、有能感を味わえず無気力・無関心に自分自身を追い込んでしまうような子どもを生んでしまったことについてまず顧みなければならない。

 学問は競争ではない。友だちよりも1点でも余計に取って上位の成績を勝ち取ることに喜びを見いだすのではなく、捨ててはおけない真理の探究に向かって互いに「切磋琢磨」して一緒に伸びていくことに喜びを見いだせるようになることが学問をする意味ではなかったか。(切磋琢磨とはお互いに磨き高めあうの意である)
 そこでは当然、競うということが「相手を蹴落とす」「相手のミスを期待する」という心理を生み出さない。「わからないこと」「不思議なこと」に心をときめかせ、共に解決を探ろう、励まし合ってがんばろうという学び合いのこころがベースにあるからだ。

 そもそも人間にとって「わからないこと」がある、というのは楽しいことだ。
 英語の 「フィロソフィー(哲学)」は「智を愛する」というギリシャ語に由来していることは周知のことである。また、シンポジウム(討論会)」は「宴会」 を、そして 「スクール(学校)」は「暇」をそれぞれ原義としており、これらもギリシャ語に由来している。アリストテレスは、「労働は暇な時間を楽しむためにある」ということを繰り返し述べ、スクール(学校)は格調の高い楽しみ(すなわち思索し議論し、納得のいく知に到達すること)によって暇な時間を充実して過ごすことを学ぶ場所だとも言っている。

 ついでながら学校とは、「学ぶ(まなぶ)」「校(かんがふ)」の2字で構成された熟語であり、教えられて習う場所ではない。教えられて習うのは「教習」である。
 「学ぶ」は、「スタディー」すなわちラテン語の「熱心に求める」に語源のある言葉で、自ら探求し自らの手で手に入れることを意味している。
 また「校」は、二つのものごとをつきあわせて「調べる・考える・計算する」という意味の古語である。
 まさに「学校」は、「教育される場」ではなく、求め・調べ・考える楽しさを味わう場なのだ。「問う」ことのおもしろさを発見し、「わかる」に向かって励む人生最大の喜びを味わう場であり、そうしたことを学ぶ場なのだ。

 人類のことを学名ではラテン語で「ホモ・サピエンス(理性のある人)」と言うが、オランダの歴史学者ホイジンガが「人類は『遊ぶ人』である」として「ホモ・ルーデンス」と呼んだのも、知的好奇心を発揮して「遊ぶ」ように「学ぶ」ことで生きる存在であることを言おうとしたのであろう。
 また精神医学者の神谷美恵子は、6才から11才ころまでの学童期の子どもを「ホモ・ディスケンス(学ぶひと)」と呼び、知ることそれ自体に大きな喜びを感じる存在としてとらえ、「しかもこれは、人間一般を他の動物からきわだって区別する本質的な特徴の一つ」であると説明している。

 そのようにもともと人間が本能的に持っている知的好奇心を発揮しながら「よりよく学べる場」として学校は機能すべきではなかったか。
 そして、学ぶことを通して学びへの参加の仕方、創造的な人間の文化への参加の仕方を学び、よりよく生きることについて考えることのできる人間に自分自身を育てる場が学校ではなかったのか。
であるのに「問いを発して」「わかる」ということの意味や楽しさをどこかに置き忘れ、大学の門に向かうためにだけ知識を蓄え、受験に必要な技術を身につけることが「学習」である、と学校も生徒も取り違えてしまうような指導がなされてこなかったか。

 何よりもそれが現在の学校教育を巡る諸問題の根っこにあり、付け焼き刃のような対策を講じても何の解決にもなりはしないのに、懲罰を加えればよいとか競争させればよい、あるいは競争に勝った学校には教育予算を多く配当するなどといった浮薄な対策しか出てこない再生会議は、ますます世の中を混乱させるばかりである。そればかりか、教育の理念そのものがどこかに吹き飛んでいってしまい、本来の学校に戻れなくなってしまう。
教育再生と言いながら教育破壊につながりかねない気配さえする。

 そうした案しか思い浮かばないのは、彼らが「ほんとうに学んだ」経験を持たないからではないのか。もしかすると、教えてもらって覚えること、あるいは記憶力を働かせることで入試をはじめとする試験を切り抜けること、それが人生成功に結びつくカギであると大いなる勘違いをしているのではないか。
 学校で学ぶことと社会生活において「うわべの成功」を得ることとは何の関係もない。
 たとえ大学を出ていなくても人生の成功者はたくさんいるのだ。
 まずは社会全体の共通理解として、学ぶことは功利とは無縁の人生の楽しみ、成長の楽しみ、世界を広げる喜びなのだ、という認識をすべきであろう。

 遠い道のりになるかも知れないが、まず何よりも「学問」本来の「問うことを学ぶ」楽しさと充実感が味わえるような学校教育を展開することこそが、一番の近道であり、それのみが本来の学校再生につながる最良の道であり、健全で成熟した市民社会づくりにつながる道なのだ。世の浮薄な論議に惑わされてはならない。


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教育基本法の改正?について考える [教育全般]

 教育基本法の改正案が衆議院で強行採決され、参議院で審議中である。
 強行採決しなければならないほど切迫した課題なのであろうか。また、教育基本法はそのように力の論理で押しまくってまで改正しなければならないものなのだろうか。
 現在起きている教育上の諸問題が現行の教育基本法に起因するとでも言うのだろうか。
 事実は、教育基本法の精神が実際の政策や制度に生かされ、それに沿った教育が展開されてこなかったことによるにもかかわらず、自分たちの都合のよいように教育を操るために教育基本法をスケープゴートにし、それを変えたいという意図がそうさせているのではいか。

 教育基本法は憲法と同じ位置づけの、つまり他の法律よりも高く位置づけられたしかも世界に誇る高い理念を掲げた、それゆえに侵しがたい立派な法律である。
 60年前、教育刷新委員会が教育基本法の案を検討した際には、40人もの専門家が長い長い時間を費やし、基本理念から草案の表現一つ一つに至るまで議論を尽くしたという。
 その記録は『教育刷新委員会教育刷新審議会 会議録』として公開されてもいる。
 南原繁(元東大総長)は、誠意を尽くした議論の果てにできたこの教育基本法についてこのように語ったと言われている。
   新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。
   今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を
   根本的に書き換えることはできないであろう。
   なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止め
   ようとするに等しい。ことに教育者は、われわれの教育理念や主張について、
   もっと信頼と自信をもっていい。そして、それを守るためにこそ、われわれ
   の団結があるのではなかったか。
   事はひとり教育者のみの問題ではない。
   学徒、父兄、ひろく国民大衆をふくめて、民族の興亡にかかわると同時に、
   世界人類の現下の運命につながる問題である。

  さほど議論もせずに、また誰がこの改正案づくりに携わったかは知らないが、現行の教育基本法の高い精神性と比べてみればあまりにも次元の低い改正案が新しい教育基本法となってしまうのでは日本の行く末は恐ろしいものになってしまうであろう。

  教育基本法が「普遍性」を謳ったものであるのに対し、改正案ではその文言が消され、『公共性、徳』といった現実に目を向けた文言が目を引く。
 この改正案でもう一つ特徴的なのは、国民を教育の「主体」としてではなく「対象」としてとらえようとしている姿勢が窺えることである。
 それは改正案の第一条「教育の目的」に『平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して~』としていることからも窺える。
 その考えは、第二条の条項にも表れている。
 教育基本法では「第二条 教育の方針」としていた条項が、改正案では「第二条 教育の目標」と言い換えられているのだ。
 「方針」とは「進んでいく方向、めざす方向、進むべき路」の意であり、一方の「目標」は「めじるし、目的を達成するために設けためあて」のこと。
 教育を『不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの』とし、望ましい教育の実現に向けて環境を整備する理念を謳った教育基本法に対し、改正案では『公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する』の「教育を推進する」の文言に表れているように、いま現在、(為政者が)必要だと考えている内容の教育をこれから将来にわたって推進するということを表明しているのだ。
 教育の主体を国民一人一人と位置づける教育基本法では、その教育が望ましく展開されるための「環境整備」を主眼としていることから、「方針」という到達点(めあて)を設けない言い方で表現している。一方、改正案は教育されるべき対象としての国民がどれだけ到達点に近づけたか、また近づくような教育を施すことができたかというめじるしを設ける意味で「目標」という言い方をしている。
 言うまでもないことだが、国民一人一人は「教育を受ける権利」を有してはいるが、「教育される義務」を負ってはいない。何を教え込むかなど為政者の恐ろしい傲慢さがここでも浮き彫りになっている。

 こうした姿勢は改正案の16条にも姿を覗かせる。
 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
 
 教育基本法10条には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と記されており、同じ「不当な支配に服することなく」という文言で表記されていることから、同じ意味だと勘違いしやすいが、これもまったく意味が異なるものだと認識すべきである。
 教育基本法は、戦前・戦中の軍による教育支配により自由な教育が行えなかったことへの反省から、教育の自由を保障する意味で「教育に携わる人々が、国や政党やたまたま現在政権についているに過ぎない権力からの不当な干渉や支配に服することなく、国民全体に対して直接の責任を負って行うこと」ができるように、こう書いているのだ。
 しかし、改正案では「教育されるべき対象」としての国民と、国が組織する「教育」という位置づけでとらえ、『国が行う教育は、不当な支配に服することなく~』とまったく異なった意味を持つ文言なのである。
 そして、国が「不当な支配」と考えるものがどのようなものであるかは、改正案のこの条項にもっとも顕著に表れている。
 「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」(16条、教育の行政)
 教育基本法を他の下位の法律と同等かそれ以下のもとして位置づけ、国が、あるいは教育行政が教育を統制することさえ可能にしようという考えがここには見え隠れする。
 教育者が「国民全体に対して責任を負って行」おうとする教育が、行政の恣意的な指示と異なってしまった場合、「公正かつ適正」という錦の御旗のもとで「不当」なものであると見なされ、統制の対象となるであろうことは戦前・戦中の教育を振り返ればすぐにわかることである。時の為政者にとって都合のよいことを「教育されるべき対象」として国民を位置づけ、具体化するための法制化の手始めが、この教育基本法の改正なのではないか。
 だからこそ急がなければならないし、どのような手段を使ってでもなりふりかまわず改正したいのだろうとしか思えない。

 教育はもともと政治とは無縁の独立したものでなければならず、ときの為政者のそのときそのときの思いつきで左右されてはならないものである。だからこそ、教育基本法は憲法と同等の侵すべからざる高い位置を与えられてきたはずだ。そのように日本国民にとって大切な誇るべき法律を、誠意ある議論もなしに単に政治の場で扱おうとするのは教育に対する冒涜だとしか思えないのである。
 ここで、再度、南原の言葉を思い起こしたい。

  今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を
  根本的に書き換えることはできないであろう。
  なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止め
  ようとするに等しい。

高々とした理想と理念を謳った教育基本法を侵してしまっては、日本の将来の子どもたちに対して申し訳が立たないではないか。


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学ぶことの意味を置き去りにした学校 [教育全般]

 全国各地の高等学校で、三年生が卒業に必要な単位が不足し、卒業できなくなってしまうかも知れないという報道がなされている。
 大学入試に必要な科目だけを希望する生徒が多く、必修ではあるが大学入試にかかわらない授業は実施したことにしていたというのだ。
時間割には倫理社会や地理と書いてあるのに政治経済の授業を受けさせられた、という高校生の声も報道されていた。
必修科目であることから、抜けてしまった当該教科については当然未履修ということになる。未履修である以上、単位不足になるのは致し方ない。70時間にも及ぶそれら必修科目の授業をこれから実施するというが、やればよいというものでもないであろう。

 高校は大学入試の準備をするための学校ではない。まして予備校でもない。
 高校で学ぶべきことは高校で学べるように環境を整備するのが高校の務めである。
 大学に合格することが「高校での勉強の目的」と学校も生徒もとらえているからこそ、このような問題が起きるのだ。
 学びの本来の意味をどこかに置き忘れてしまったからこそ、このような事態が起きるのであり、そういう状況に追い込まれてしまった学校も哀れと言えば言えないこともない。

 今や少子社会である。どこの学校でも何とか教育の成果を社会に示して自分の学校を選んでもらおうとするのは致し方のないところであろう。まして、競争を「よさに向かう最善の道」であるかのように煽ろうとするかのような昨今の風潮もある。
とにもかくにも大学のこれだけ多くの生徒が合格した、という実績を他にまさった形で示すことが学校への信頼と評判を勝ち取り、自校を選択してもらえる最良の手段であると学校も教師もとらえてしまったのだろう。

 信じられないことだ、困ったことだと阿部首相はコメントしているらしいが、あなたの提唱する教育施策が実現すれば、こうした事態あるいはより予測のつかない困った事態があちこちで噴出するかも知れない。いや、そうした事態が起きることは火を見るより明らかだと言っても過言ではないだろう。

 「学ぶ」ということを単に「合格した・しない」「できた・できない」という結果の側面から意味づける考え方に立つからこそ、目先の結果のみを追い求め、いま必要のないことは捨ててしまってもよいではないか、という暴論を生む。
 世界史を学ぶ、ということは単にこれまでの世界の歴史について知識を蓄えることではない。人間がこれまで歩んできた世界の歴史を見、考え、なぜこのようなことが起きたかに思いを巡らせることで、これからの人間のあり方を考えようとすることにこそ意味があるのではないか。
 さらに言えば「学ぶ」のは結果を得るためなのではない。自分が知らないことがあることに気づき、未知の価値あることを手に入れることに心をときめかせ、何とか手に入れよう、自分のものにしようと対象に近づくことで自分の世界の広がりを味わうことに意味があるのだ。そこでは結果は問題ではない。心を弾ませて対象にかかわること、それ自体が本人にとって意味があるのであって、たとえ不成功に終わったにしても本人が「やり甲斐」を感じ、へこたれずにいつかもう一度挑戦してやるぞ、と密かに決意することがあるとすればそのことにこそ意味があるのである。
 そうした「学び」に生徒たちを誘うことを忘れ、単に結果の善し悪しで学習の成果を見ようとする極めて狭い教育観がこうした状況をもたらす遠因になっていることを忘れてはならない。


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子猫殺しの作家 [教育全般]

日経新聞のコラムで直木賞作家・坂東眞砂子さんが「子猫殺し」を告白したということがニュースで報じられていた。
よく理解できないのは、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない」、「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」とする考えそのものだ。
そしてもっと理解できないのが、たとえその考えが正しいものであったにしても、法を無視してその考えを実行するなどということがあってはならないことだ、という当然のことに思い至らない彼女の未熟さである。

 たとえ自分の育ててきた猫であれ、その猫の「生」の充実のために子猫を殺すということについて、親猫の同意を得たのであろうか。親猫は喜んだのであろうか。自分の勝手な思いこみで『あなたの生の充実のために、私が苦しみや悲しみを引き受けます』と言ったところで、当の親猫にとっては理解不能なことでしかないし、いい迷惑でしかないという簡単なことになぜ気がつかないのだろうか。
「生」を考え「死」を考えるのは結構なことだ。生きる意味を自分なりに考え、表明し、生きることをまっとうしようという気持ちは尊いものである。しかし、それは自分の生き方にかかわる問題であり、他者である「猫」にまでそれを押しつけてはいけない。

 しかもその行為を正当化しようとしてだろうか、自分の勝手な思いこみを「考え」であるとして新聞にコメントを寄せたという。
 しかし、どんな考えに立とうが、それが「法」にはずれたものであれば実行しようとはしないのが法治国家の市民である。
 『自分の家に隣人の庭の柿の枝が張り出して迷惑をしている。こんなに迷惑を蒙っているのだから、その枝になっている実の一つや二つは黙ってとっても誰も不都合を言い立てることはできないはずだ。この自分の考えは正しいはずだ。なぜなら迷惑を蒙っているのは自分なのだから』として柿の実を盗めば窃盗罪である。自分の考えが正しいと「思って」も、それを実行に移してしまってはいけないことがある、ということに気づかないとすれば大迷惑である。

 「考え」であるとして自分勝手な「思いこみ」を正しいと言い立て、その考えによる行為を平然となし、他者に迷惑をかけることなどお構いなしという人間が増加しているが、この作家の問題と根は一緒である。
 身勝手な考えがますます人間の社会を「生きにくくしている」ということに、この作家に気づいてもらいたいものである。


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斎藤投手 [教育全般]

 今年の全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)は、大会3連覇をめざす駒沢苫小牧と念願の初優勝をねらう早稲田実業の間で決勝戦が行われ、高校球史に残る延長引き分け後の再試合の結果、早稲田実業の見事な優勝で幕を閉じた。
どちらにも軍配を上げたいほどの息詰まる決勝戦、そして最後の最後まで一球一球に目を釘付けにさせた再試合。まさに熱闘甲子園で私たちを楽しませてくれた。すばらしい試合を展開してくれた両校に惜しみない拍手を送りたいところである。

 楽しませてくれたのはハラハラするような試合運びだけではなく、選手一人一人の真摯にゲームに打ち込む姿、力を尽くして勝利を勝ち取ろうとする姿、最後まであきらめずに粘ろうとするするひたむきな姿に感銘を受けたからに他ならないからであろう。
しかし、それは今年の大会に限ったことではない。毎年、敗れればそれで夏が終わるという「後がない」状況の中で選手たちは死力を尽くしてゲームを戦っできたはずである。だが、今年はそれを受けとめる私たちの心のありようが例年とは違っていた。

 口汚く相手を罵ったり、挑発したりするなど品性乏しい態度で臨むプロスポーツ選手が話題になりもてはやされる風潮の中で、私たちはスポーツに対してある種の幻滅を感じ始めていたのではないか。そこに早実の斎藤投手のような気品と賢さを備えた選手を見いだし、そのことにうれしさを感じたことがこれほどに感動を大きくしているのではないかと思われるのだ。
もちろん斎藤投手は見た目にも整った顔立ちで、ピンチの場面でもそのクールな表情を変えずに困難な状況を乗り越える頼もしさなど、世の女性を引きつける魅力にあふれた投手ではある。
しかし、こんなに熱狂的に受け容れられる理由はそれだけではあるまい。試合後のインタビューなどでしっかりした言葉遣いで受け答えをし、整った文脈で自分の思いや考えを言い表す姿に、日本の若者の中にもこのような賢さを備えた素敵な人間がいるという思わず小躍りしたくなるようなうれしさを感じるからこそ、出迎えのフィーバーが起こるような感動を生むのだろう。
どこかの新聞に書いてあった「正統派のヒーロー」という見出しが生まれるゆえんであろう。スポーツの選手も捨てたものではない、日本の若者もやるじゃないか、という「現今の風潮」から救われる思いがあるからこそ、連投に次ぐ連投を重ねて勝利を勝ち得た彼に感銘を受け、こぞって賞賛しているのではないだろうか。

 聞くところでは彼の家庭では「文武両道をめざす」ことを教育方針としていたという。
単に「勉学上の成績」と「スポーツにおける強さ」の両方を兼ね備えるというのではない。「両道」というからには、精神的・内面的にも成長し究めようというベクトルを包含した概念であることから、彼の家庭ではそうした方向性をもった家庭教育をし、彼自身もそれを実践してきたということなのであろう。
そうした心のありようが「仲間を信じて投げた」「応援してくれた家族やスタンドの仲間、後輩、全国のファンの後押しがあったから」という意味のコメントを吐露させるのだろうが、そうした真摯な姿が私たちの心をとらえたのだろう。そこにおのれ誇りをする傲慢な気配はなく、むしろ「すごいことをやってのけてしまったんだな」という自分たちの偉業とも言える勝利に対する驚きを感じているらしいことさえ窺わせ、微笑ましささえ感じられる。

 自らを奮い立たせようという気持ちからなのだろうが大口をたたいて自らをアピールし、その挙げ句持てる力を発揮できずに残念な結果に終わる人々を多く見かける昨今の風潮とは反対に、静かに自らと対手に向き合い見事な結果をおさめることができた彼の中に、本当はこうであるべきなのだ、という生き方の手本が具現化された姿を見いだしうれしさを感じているというのが実情なのではないだろうか。

 彼の使用していたハンカチと同じものを手に入れたいということか、どこで売っているのか、どこのメーカーがつくったものか、などの問い合わせがあるらしい。
同じものを持ったからといって、彼に近づけるわけではなく、根っこの気持ちの持ちようが変わらなければ人間が変わるわけではないのに、それを求めようとする人々もいるということはご愛敬だが、彼のような人間に注目が集まるということは「つくられたヒーロー」ではないものを求める現在の日本人の「切ない心のあらわれ」なのだろう。
いずれにしても彼の育った家庭環境のすばらしさとそれに応えた彼の立派さが浮き彫りになったすがすがしい話題である。


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小学校での英語必修化について考える [教育全般]

 行きつけの書店で新しい新書を見つけた。タイトルは『危うし!小学校英語』。
 著者は、英語の同時通訳者を経て現在は立教大学で教鞭を執っている鳥飼玖美子氏。
 文科省が小学校での英語教育を必修化しようとしているのは周知のことだが、いわば英語の専門家と言えるこの人がそのことについて警鐘を鳴らしているのだ。
 すなわち、多くの日本人が抱いている『幼いうちから英語に接しなければコミュニケーションに使える英語は身に付かない』という思いは大きな誤解であるとさまざまなデータをもとに指摘し、早期教育が必要だとする風潮とそれに追従した形で英語を小学校で必修化しようとする文科省の動きについて懸念しているのだ。
 英語についてはまったくの素人であるが、この指摘は重大であると思われる。
 文科省がこうした方針を打ち出したのは、日本国民の英語力を底上げし、「仕事で使える英語」を学ばせるべきだとする実業界からの要請と『やっぱり英語は話せた方がいいんじゃないか』といった程度の親の願望にも似た要望によるものであり、いわば確固たる方針や理念(例えば国際理解に対する理念、あるいは学校教育をどうするかといった考えなど)とは無縁な、目先の、そして教育に対する無理解な世論がそこで形成され、文科省もそれに乗ってしまったというのが実情ではないかと思われるのだ。

 私も中学校から大学の教養課程まで含めると計8年間英語を授業で学んだものの、流暢に英語を操り自在に外国人と会話をしている人を見かけるとうらやましさを感じるし、心のどこかで「読み書き訳す」だけの英語の学習では不十分だと思わないでもない。
 しかしそれは私たちの英語の勉強が「自分の言いたいこと」とは切り離した状況で文章を訳すこと、そのために単語を覚え文法を学ぶことに傾斜のかかった勉強が主だったことに依るところが大きいと考えている。
 英語に限らず、どの国の言語を駆使した会話を身につけようが、大切なことは「言いたいことがある、伝えたいことがある」という具体的な欲求がベースにあることではないか。
 そしてそのためには「言いたいこと、伝えたいこと」の中味こそ重要で、意味の希薄なことをただべらべらと言い表すのでは対話にはならないことは言うまでもない。
 そこで、「言いたいこと」を的確に表現することと併せて、「言いたいこと」の中味を吟味・検討・省察する力も重要になるはずだ。

 そう考えると、自分の言葉で考え、まとめ、相手が理解できるように(し易いように)話を組み立てるという力が「会話力」の大切な要素としてあることに気づかされる。
 それゆえ母国語でしっかり考え確かな表現ができることの方がよほど大事なことで、安易に英語の早期教育を施したところで、迂闊なことを英語で平気で口走る人間を育てるだけのことではないかとも根っこの部分で思っている。
 母国語の日本語でさえ正しく使えているとは限らないし、ただでさえ粗雑な表現が蔓延している状況である。粗雑な言葉からは粗雑な考えしか生まれない。なぜなら私たちは「言葉」でものごとを考えているからだ。
 英語教育を、いや英会話教育を叫ぶ前にもっと大切な母国語教育を真剣に考えるべきではないか。早期教育に依らずとも必要な状況におかれれば、あるいは学ぶ意志があれば、晩学であっても、いやむしろ晩学の方が確かな英語力は身につくようだ。
 それは、福沢諭吉や新渡戸稲造の例を見てもわかる。彼らはもともと学問の経歴を持ち、学力も相当高かったからではないかと言うのなら、ジョン万次郎や浜田彦蔵の例もある。
彼らは幼少時に何の教育も受けていない。乗っていた漁船が漂流し、アメリカ人に助けられて後、英語の環境におかれその生活の中で英語を身につけたのだ。

 このように教育に対する理念や理想とはかけ離れた「英語教育導入を求める風潮」を生んでいるのは、先に書いたように「英語を仕事で使える即戦力を持つ人間」が欲しいという実業界からの要請が一方にある。世界に伍して戦える企業としての競争力を獲得し、経済的に有利に立ちたいという願いがそこにはある。
 そして一方では、自分の英語学習が何の役にも立っていない、もっと英語を聞き分ける耳を育てること、そのためには早期の教育が必要だ、というコンプレックスから来る親の要望がある。つまり、「英語への怨念」あるいは「英語への憧れ」がないまぜになった焦燥感がそこにはあるように見受けられる。
 そして最も危惧されるのは、両者に共通している焦燥感が「他に勝ちたい」「他よりも優位に立ちたい」という願望をベースにしていることだ。
 競争の原理を教育に持ち込もうという政策とそれらがうまくかみ合い、この英語の必修化という動きを加速させていることは疑いようがない。つまり、これは教育論ではないところの全く別のまことに浅薄な論理による動きであり、ここに「教育」に対する高邁な理想や理念といったものは見つけにくい。
 そうしたことでますますプレッシャーを感じ、教育とは全く異なる次元で学習への意欲を喪失してしまう子どもたちが増えることを懸念するのは私一人ではあるまい。
 最もとばっちりを受けるのは子どもたちなのだ。


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