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五輪について考える 2

 先日8日の党首討論でも、菅首相は相変わらずコロナ感染拡大にを防ぎつつ
五輪を開催できるとは思えない、すなわち有効な手立てとは思えない抽象的な
対策について主張し、五輪を強行する旨の発言をしていた。(一方で自身の五
輪にまつわる思い出話を延々としたことは、呆れるばかりで噴飯ものだったが、
そのことについてはここでは触れない)
 それを補完するように、橋本聖子オリ・パラ組織委員会会長が会見で「安全」
を実現する方策として、(実効性は疑わしいが)二つの対策を示していた。
 一つはワクチン接種であり、一つは選手や大会関係者を「検査と隔離」で囲
い込むという手段である。
 そして二つ目の“隔離”については、GPSを活用して厳格に行動管理を徹底
するということだ。
 しかしGPSは単なる“位置情報”を示すシステムでしかない。
数万にものぼると言われている大会関係者の位置情報を、「誰が」「どう」監
視するというのだろうか。
たとえ事前に一人ひとりの行動計画書を提出させてとしても、その計画にない
場所に足を踏み入れたとしても計画書の記述との同異をチェックする人間(あ
るいはシステム)がなければ、有効に機能するはずはない。

 とりわけオリ・パラの開催に際して訪れる報道関係者は、競技だけではなく
開催国の一般市民の様子などについても、さまざまな側面から情報を得ようと
するはずだ。想像するに、市中のあらゆる場所で市民を観察したり、国内の動
きなどを眺めたりするために熱心に動き回るに違いない。そのために監視の目
をくぐり抜ける周到な手段を駆使する人物もいるであろうことは想像に難くな
い。
 GPSや市民の目だけで人の動きを抑止できると考えているとすれば、あまり
にも長閑な“ゆるい対策”だと言う他はない。
それをもってして“安全”な大会だから『安心せよ』というのは、楽観的過ぎ
るのではないか。善人ばかりが来訪するとは限らないからである。

 感染は競技大会の会場だけで起きるのではないはずだ。それ以上に来訪者と
国民の目に見えない接触による感染の方が強く懸念される。水際対策をしっか
りするとは言うものの、どうやら現在までの水際対策もずいぶんと甘く、一定
期間の隔離すら覚束ない様子である。オリ・パラ期間中に大挙して訪れること
が予想される来訪者に対する手立ては十全だと、政府やJOCの責任者は胸を
張って言える状態なのだろうか。

 考えられるだけのあらゆるリスクを想定し、それらを避ける対策を用意周到
に打つということが危機管理の要諦であるにもかかわらず、そうした姿勢が窺
えないのは、頗る残念なことだ。
このコロナ禍にあって、しかも感染力の強いハイブリッド変異株による感染の
怖れが懸念される中で、『決まったことだから止めることはできない』とばか
りに強行するというのは、理性的で合理的な姿勢ではあるまい。
強行開催しても、開催時の祝祭気分に充たされれば政権への支持率も上向くに
違いないなどという“政治的な思惑”で開催すべきでは決してない。

 わからないのは、このオリ・パラの責任者は誰なのだろうということだ。
 菅首相は開催に前向きな発言を繰り返しているが、『私自身は主催者ではな
い』と言う。それなら開催都市の小池知事なのだろうか。それともオリ・パラ
組織委員会会長の橋本聖子氏なのか、あるいはJOC会長の山下泰裕氏なのか。
 というのも、オリ・パラ後に感染が恐ろしいほどに拡大し、過酷な状態に陥
った時に“誰が”“どう”責任をとるのか、見えないことが“無責任な”主張
に思え、それが国民の不安をかき立てていると思うからである。
 それでなくても、安倍政権発足以来、何が起きても誰も責任をとらないとい
う政治状況が続いており、国民には不信感が根強くあることに加え、菅首相の
「答弁にならない答弁」の姿を見て不信感をいっそう募らせており、責任の所在
を明確・鮮明にした「責任ある発言」を望んでいるさなかだ。

 今回のようなパンデミック禍の中で、まるでギャンブルでもするように感染
リスクを度外視してオリ・パラを強行するというのであれば、開催を強く主張
した人物(あるいは組織)は、それなりの覚悟をもって主張しているはずで、
その責任はずいぶんと重いということを自覚し、表明すべきだ。
何と言っても、状況によっては「多くの人の生命と引き換えに」国際運動会を
やろうとしているのだ。その重みを受け止め、その重みに耐えることができる
かどうかを自らに問い、それにどう応えるべきかを自らに課す覚悟を持って欲
しいものだ。
 今「多くの人の生命と引き換えに」と書いたが、“多くの人”とは日本国民
だけではない。大会期間中に日本を訪れる人、そしてその人々が帰るそれぞれ
の国の人々、つまり世界中の人をさして言ったつもりだ。
 なぜなら、東京に参集した五輪関係者によって相互に感染し、感染者の体内
でコロナウィルスが変異し、それを日本国内で撒き散らしたり、それぞれの自
国に持ち帰って感染を広げたりすることが容易に想像できるからだ。
それだけの重責を担って開催の可否を判断するのだという覚悟を持ってもらい
たいし、そうでなければならないはずだ。
 可能ならば、このオリ・パラの開催を積極的に推し進めようとしている人物
一人ひとりに、この五輪が世界的な(そして国内でも)いっそうの感染拡大に
つながったりした場合には、『このように責任を取ります』ということを表明
してもらいたいほどだ。
 
 その一方で、こんなことも考えている。
 もしも、この世界的な危機にあって、五輪を開催すればさらなる感染拡大が
起きてしまうことが十分予想されるので、そのリスクを回避するために日本は
五輪の開催を返上する、あるいは取りやめると英断を下せば、日本という国は
“合理的で知性に基づいた判断のできる国”として世界から賞賛されるばかり
か、大会そのものも理性的な決断で中止された“歴史に誇る大会”として記憶
に残る歴史的な大会になるであろう。
 それは危険な「賭け」に出た危うかった大会として歴史や記憶に残るよりも、
ずっと誇らしいものになるに違いないと思うのだ。
国民の多くが、そして世界各国がどちらを望ましいと思うか、IOCもJOCも、
そして都も政府も冷静に判断して欲しいものである。
後の世に禍根を残すことのないように。そして恥じることのないように。
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五輪について考える

 東京オリンピックが二ヶ月後に迫り、コロナ禍のなか開催することに反対す
る声が日増しに高まっている。
 この東京オリンピック(以下、五輪)は、当時の石原東京都知事が言い出し
たことである。石原都知事は、東京マラソンを立ち上げ大勢にランナーの参加
実績をあげている一大イベントである。どうやらこの都知事は、大きなイベン
トを催し賑わうことで盛り上がれば、都はもちろん国全体も活気を取り戻せる
はずだという“深みのない信念”を持っていたようで、何よりも気分を高揚さ
せることができれば多くの面でメリットが生じると考えていたふしがある。
 かつて1964年に「驚異の短期間で戦後復興を遂げた証」として開催された
五輪は、文字通り“復興を為し得た”国の姿を見てもらうという「結果に基づ
く」意義を有していた。
 しかし、この度招致に動いた意義は“賑やかな国際イベント”を催すことで、
“落ち込んだ国内の空気を払拭”できるはずだという淡い期待、底の浅い期待
がベースとなっている。
 浮かれ騒ぐことで「真の活気」が生じるとは到底思えないのだが、アスリー
トはもとより国民の多くも国もそれを支持して動き出した経緯がある。

 オリンピックはかつてのように五輪精神を尊重する以上に、いつの頃からか
商業主義の色彩が濃くなり、いくつかの都市では開催辞退を宣言するという状
況になっている。2024年の大会では、カナダの都市カルガリー、ブダペスト
やドイツのハンブルクなどが撤退を表明している。何よりも多額の経費がかか
ることとそれに見合った「意義」が見いだせないことが主な理由である。
 にもかかわらず、日本は懸命に招致活動を行って来たが、当時から私はそれ
を冷ややかに見つめてきた。まるで昭和末期の実態のない狂騒のバブル期再現
を期待する雰囲気と同じ空気をそこに感じたからである。

 さすがにかつての東京オリンピックに比する意義が見いだせなかったのであ
ろう国が掲げたのは、東日本大震災から立ち直ったことを国際的に表明しよう
という「復興五輪」の旗印であった。東北各県がまだ復興に向けての道半ばの頃
のことである。
 招致活動の際に、安倍首相の弁じた『(原発』の汚染水は、完全にコントロ
ールされており、安全だ』という趣旨の発言には、多くの国民が驚き、呆れた
はずだ。あれから何年も経っているにもかかわらず未だに(国民の多くが納得
できる)“安全な処理”が見通せず、希釈して海に放出するしかない、という
事態にあるにもかかわrず、世界を相手に“大嘘”をついてまで招致したのだ。
しかも総理自らがピエロまがいにおどけた仕草で、スーパーマリオの扮装まで
して恥ずかし気もなく招致の先頭に立ったのだ。
 
 さらに、多額の出費が予想されることに国民の多くが懸念することを恐れて
か、「コンパクト五輪」ということも声高に言われた、しかし、ふたを開けて
みれば、“コンパクト”どころか『レガシーをつくる』のかけ声のもと、建設
予算は膨らみ続けたり、同時に『復興』もかけ声だけでいつの間にか有名無実
なものと化してしまった。
 そればかりか、招致活動当時から今日まで、疑惑や不祥事が相次いで起こり、
理念を置き去りにしてでも世界的なスポーツイベントをにぎにぎしく行えば、
国民は大喜びして政権になびくだろうという下心が透けて見え、益々この大会
に対する“イヤな感じ”が膨らむ思いがしたものである。

 そんな思いで、この大会を遠くから見る思いで眺めていたところ、昨年から
の新型コロナウィルスの世界的な感染拡大が始まり、政府の後手後手の対策、
あるいは見当違いの対策によって今や第四波のさなかである。しかも変異株の
感染の広がりも確認され、医療現場では対応しきれず、自宅療養を余儀なくさ
れる患者も増えて、文字通り「命の選別」が行われるほどの国難の事態に陥っ
ている。
 そうした国民の苦境と海外諸国の懸念をよそに、東京五輪の開催に前のめり
になる一方の政府の姿勢をどう評価したら良いのであろう。
 感染拡大の怖れがあるとして、6月20日まで緊急事態宣言の延長を決定し、
人流の流れを抑制する方針とワクチン接種の推進による効果を期待しているよ
うだが、50日後に迫った開催が現実的に可能かどうかは不明である。
 
 『コロナに打ち勝った証としての安心・安全な大会を』、『安全、安心な大
会を実現することにより、希望と勇気を世界中にお届けできるものと考えて
いる』と言う菅首相の言葉にいっそう不信や不安を抱く国民は少なくないはず
だ。そこに具体的で、有効な手立てや対策が窺えない、つまり危機管理に必要
な“危機の想定”もそれに対するいくつもの対処プランが見えないからだ。
 まるで敵を知らずに意気込みだけで挑もうとする“無謀”な賭けに出るよう
な姿勢ばかりが目につき、何と言うことかと慨嘆せざるを得ない。
 新型コロナ対策とこの五輪への姿勢からは、日本という国の舵取りを与る
政治の劣化と脆さ、危うさを自ら露呈するさましか見えないのは、国民にとり
頗る不幸なことと言わざるを得ない。

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民主国家の危機10

 この稿の冒頭で、菅官房長官(当時)が首相選への出馬表明するに際して
何のビジョンも示さなかったことについていかがなものかと私は書いた。
 出馬表明をするということは、このような国づくりを目指したいという、
自分なりの展望を示すことが必要不可欠だろうと思うからであった。
 菅氏がそのことを語らなかったことについて、その展望を持たないことの
あらわれかと訝しく思ったものであった。
 そうした目指すべき将来像を示さない(あるいは示せない)のであれば、
国の舵取り役としてふさわしくないのではないかとすら思ったものである。

 舵取り役として最も重要なのは、航海の目的地や道筋を記した海図やそこ
へ向かうための確かな羅針盤を持っていることを船員や乗客にしっかり示し、
任務を果たす覚悟があることを表明することに他ならないと考えているから
である。
 海図も羅針盤も持たずに多くの国民を自分の船に乗せ、船出をするという
ことは、航海ではなく海の上を行方も定めずさまようだけの“彷徨の旅”に
国民を誘うようなものでしかあるまい。
 しっかりした目的地を持たない彷徨の旅を予測させるように、菅氏は命題
を示さない一方で、細々とした些末とも思えるような政策を“目玉政策”と
して掲げ、強引に成立させようとしてきた。それはあたかも、“彷徨の旅”
であることを悟られないよう、波と風にまかせてあちらこちらの小島に寄港
して“やっている感”を出すかのような思いつきの船旅を思わせる。

 しかし一方では、法治国家にあって手をつけてはならない部分にまで触手
を伸ばしたり、一国のリーダーとしてふさわしくない統制と支配への姿勢を
平然と「何が問題か」と言わんばかりに見せ、身内には寛容に、他者には厳
しく対応するという他者を認めない“狭量”だが“臆病な自尊心”の持ち主
らしい姿も露呈してきた。
 記者会見で見せるおどおどとした自信なさげな表情や物言いの一方で、官
僚(時には閣僚)には強い口調で命令をする、しかも閣僚ですら首相は話を
聞いてくれないと嘆くほど一方的に自己主張する側面も持った人物だという。
それはまさに先に書いた“臆病な自尊心”を隠し持った持った人物の証だ。
 
 ここまで書いてきて思ったことがある。先に『自身の展望を持たない』と
書いてしまったが、そうではないかも知れないということだ。
ひょっとすると“持たない”のではなく、自身の持っている展望がいかにも
民主国家そして法治国家のリーダーに「ふさわしくない」ものだと自覚して
いて、あからさまに表明することが「はばかられる」と認識しているのでは
ないだろうか、と見ることもできると思い直したのである。
 だが、いずれにしても信頼して舵取りを任せられるような人物ではないと
官房長官時代から、そして首相就任後の半年余りの姿を見て思わざるを得な
いというのが正直な感想だ。

 先に書いた“彷徨の旅”を思わせるように、猖獗を極めている新型コロナ
禍にあって、科学的な知見に基づかないあいまいな判断、後手後手(あるい
はチグハグ)な対策は、まさに“ふらふら”とさまようようで、この人物の
力量と限界を白日の下にさらす結果となっているではないか。
 展望を持たないから表明できない、表明できないような展望を持っている
のいずれにしても、民主国家の舵取り役として適格な「力量と資質」を備え
た信頼できる人物とは言い難いのではないか。
 このような人物を一国の首相として選び出したのは国民ではない。しかし、
このような人物を首相として選出するような与党議員を選んだのは、紛れも
なく国民で、国民はその責を痛感しなければならないはずだ。

 私は民主主義とは国民の不断の努力で作り上げていくものだと考えている。
 国民がこぞって“守り育てて”いかなければ、いずれ形骸化し、緊張感の
ない、そして議論が軽視されるようなポピュリズムに陥った民主主義の面を
かぶった似非民主国家になってしまうであろうと危惧している。
よりよい国作りのために、とか美しい国作りのためにという名目で、国民の
思想・信条を操り、果てはその思想・信条を監視し、ついには一握りの権力
者の意にそわない人間を「異分子」とみなして排除するような、表現の自由
をも縛る恐れすらあるデジタル庁の創設による個人情報の一元管理を急ぐよ
りも前に、このコロナ禍ですべきことはたくさんあるはずだ。

 これまで半年あまりのコロナ対策を見るとき、合理的・科学的な判断とは
言えないチグハグ、そして右往左往と呼んでも良いような文字通り「彷徨」
そのもののていたらくぶりばかりで、三回目の緊急事態宣言が発令されても
いっこうに人流が減少しないという町の様子からは、菅氏の会見で発せられ
る言葉の一つひとつに“本気度”“必至さ”“熱意”を伴った具体的な対策を
感じることが出来ないゆえの、慣れや緩みがじわりと浸透してしまっている
からではないか。
 その一方で、三ヶ月後に控えた東京オリンピックを開催したいという熱意
はお持ちのようだ。国民の生命を守り、国民を安全な環境に置くことをせず
に、多くの外国選手を招いてウィルスのこれ以上の蔓延を防ぐだけの体制を
布くことができると本気で考えているのだろうか。それだけの医療関係者を
配置するだけのゆとりなど、どこにあると言うのだろうか。
まるで負けることがわかっていながらインパール作戦を強行した戦時中の大
本営を思わせるような振る舞いに呆然とするばかりである。

 先日の衆参三選挙で自民党の候補がことごとく敗れたのは、菅氏のこうし
た総理としてふさわしくない政権運営、そしてそれを自ら正すことのできな
い自民党に対する国民の反対意思のあらわれだと私は見ている。
 この政権が内包する数々の要因に、国民は「ノー」を突きつけている状況
だと自民党は強く自らを省みるべきだ。
 議員諸氏は、何よりも民主国家の一員であること、「政権を担う」とは主
権者である国民からの委任に応えて“自らのため”ではなく“国民と国”の
ために働くことこそ自らの務めだと認識すること、そのためには正々堂々の
議論を尽くすことが重要だという等について再確認し、肝に銘ずすべきであ
ろう。ゆめゆめ、「人の上に立った」などと思い上がってはいけない。まして
や、国民を監視し国民を統率するなどといったことがあってよいはずはない。
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民主国家の危機9

 私はいま、昭和35年に右翼の17歳の少年、山口二矢に日比谷公会堂での
演説中に聴衆の面前で刺殺された浅沼稲次郎について思いを馳せている。
 当時私はまだ中学生だったが、学校帰りのバスの中でラジオ報道で知った
大人達の話から非常にショックを覚えたことを鮮やかに記憶している。
 浅沼は日本社会党の委員長で、世間一般でも労働者の権利が自覚されつつ
ある中で(メーデーなども多くの参加者による集会や行進が盛んであった)、
日本の二大政党の代表として大きな存在感を持っていた人物である。

 その浅沼が「質素という表現すら誉め言葉に聞こえるほどの深川のぼろア
パート」に住んでいたということを知ったのは後のことであった。
 浅沼の理不尽な死去を受けて衆議院本会議で追悼演説をした池田勇人首相
が『君は、日ごろ清貧に甘んじ30年来、東京下町のアパートに質素な生活
を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとさ
れたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひと
しく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいか
に深かったかを物語るものと考えます』と語ったことは、浅沼の“人となり”
をよく表しているように思われる。
 二大政党の一方の政権を担う総理大臣からそのように評されるということ
は、その人物の高潔さのあらわれであろう。

 当時はまだ戦後民主主義のありようを模索して、政府も野党も世界に追い
つけと国民こぞって新しい国づくりに努めているところであったと思われる。
 とりわけ労働者の支持を厚く受けていた社会党は、市民の代弁者としての
務めを果たすべく大きな努力を払っていたが、それは党利党略や利己的動機
からではなく、文字通り“民による民のため”の国家の実現を重視する理念
を党是としたものであったと思われる。その姿勢が浅沼稲次郎という人物を
委員長として担いだ社会党の意思だったのだろう。
 清貧を苦ともせず、むしろ楽しんで意に介せず、一方でエネルギッシュに
国民に語りかけ、国民からは親しみをこめて「人間機関車」「大衆政治家」
と呼ばれたという逸話は、彼の“無私”の姿勢を多くの国民が感じとり尊崇
の念でその働きぶりを見ていたからに相違ない。

 翻って現今の日本の政治の風景は実に惨憺たるものだと言わざるを得ない。
 本来であれば「公僕」の代表として、望ましい政治(それはまさに国民の
安心・安全な生活のための働きを意味する)の実現に向けて、自らを省みず
文字通り“懸命に汗をかく”覚悟で働かなければならないはずだ。
その覚悟とは、自らの身命を賭して“命がけで働く”ことも辞さないという
決意に他ならない。その責任を負うべく「政治」に携わっているはずだ。
 自らの権勢や利権のために政治を私物化し、都合の悪い異見を排除してで
も自らこだわることに前のめりになるという振る舞いからは、その「公僕」
として努力するという「無私の構え」が窺えない。いやむしろ“私のため”
の政治をしているようにしか見えないではないか。

 進言や諫言、異見を排除してでも、自ら欲するところをめざしたいという
構えは、「馬鹿」の語源とも伝えられている秦の二代皇帝胡亥と丞相趙高の
故事を彷彿とさせる。
 権勢を誇り維持したい趙高が、皇帝胡亥に鹿を献上した折、それを馬であ
ると称したところ、胡亥が鹿ではないかと指摘した。しかし、趙高はその場
にいた役人に『馬か鹿か』と問うたという。彼の権勢を恐れる者は馬と答え
恐れぬ者は鹿と答えたが、鹿と答えた者には罪を着せて殺害したという故事
は、史記に記された「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」という言葉で
多くの人が知っているはずだ。
 自分に有利に動く者とそうでない者を峻別し、貢献する者を優遇する一方、
都合の悪い考えを持つ者は冷遇するという「狭量さ」のあらわれというばか
りではなく、多様な意見を持ち寄り「より良いものを構築する」という民主
主義の原則をないがしろにするものだ。

 余談ながら、自分に貢献してくれた者でも、自分に都合の悪い事態が起き
たりすると、簡単に切り捨てる冷酷さも併せ持っていることは、この数年間
の政権の振る舞いから窺える。それは、『自分はこちら側の人間だ』と思っ
ていても、ある日突然に故なく敵視されることもあるということでもあると
いうことに他ならない。
 それはまさに「恐怖政治」に他ならない。
 恐怖政治と言えば、かつてのソ連のスターリンを思い起こさせるが、それ
をもじってか現在の政治を“スガーリン”と称した人がいると報じられたこ
ともあるようだ。

 そうした民主政治の「後退と劣化」とでも言うべき風景は、先の安倍政権
とそれに続く菅政権で急速に膨張したと言える。
 それは「自己の欲」にまみれ、そのためにはなりふりかまわず「李下に冠
を正し」、積極的に「瓜田に沓を入れ」て、しかもそれを隠蔽したり、言い
逃れたり、果ては「無かったことにする」ことすら平然とできてしまうとい
う政治家として、あるいは人間としてあるまじき姿すら露呈している。
 私たちはこうした状況を看過してはならないであろう。国民に出来ること
は、選挙で一票を投じることしかできないが、こうした政治家としての資質
の劣る(乏しい)宰相を選び出すような政党そのものに、政権与党としての
資格に欠けるという問題があるのだということも念頭に、大切な一票で意思
を示すことが必要であろう。

 =この稿続く=

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これは素晴らしい

 仕事の都合上、頻繁にさまざまな文献に接した際にメモを取ることが多い。
 かつては情報カードを活用していたが、パソコンが使えるようになってから
は、テキストエディタでメモを蓄積することが日常的になった。
 任意のキーワードで検索もでき、引用文献や参考文献として活用する幅も
広げることが可能になったからだ。
 そのメモを取る際には、かつては参考にしたい文章をキーボードで入力して
いたのだが、20年ほど前からOCRソフトが使えるようになり、スキャナ
で書誌を読み込んで文字認識させ、それをテキストとして保存・蓄積するこ
とが出来るようになり、便利さを享受してきた。
 ただスキャンする対象によって文字認識の精度にバラツキがあり、認識結果
と原文を突き合わせながら、時には頻繁に文字の修正を施す校正作業を強いら
れることも少なくなかった。
それでも、漠然と『そんなものなのだろう。現状では致し方ないか』と思って
いたのだ。

 一年ほど前にiPadを購入し、その折に購入したiPadの手引き書によると、
カメラで紙面を撮影してテキスト化できる(つまりはOCR機能を備えた)無
料のアプリが紹介されていたので、即座にダウンロードして使ってみた。
相変わらず文字認識の精度は“そこそこ”で、誤認識された文字を修正する
こともあったが、便利さ故そのアプリを重宝し活用してきた。
なぜなら、写真を撮影するだけで済んだし、スキャナでスキャンするよりも
精度的には高かったからであった。
 
 ところが、そのアプリがアップデートされた途端に、テキスト化するため
の手順が増えてしまい、使い勝手が悪くなってしまったため、他にもっと手軽
に使えるものはないかと思っていた。
 先日APPStoreで検索したところ、フリーのアプリが見つかった。
 ものは試しとダウンロードしてテストしてみたところ、驚くことに誤認識が
ほとんどない。
マニュアルなど必要ないほどにわかりやすい画面構成で、使用感も心地よく、
新書や雑誌など文字サイズの違うものを試してみても、ストレスなく使えて
認識精度はほぼ100%。永年OCRソフトと付き合ってきた人間にとって、
これは驚くほどの優れたアプリだと感じ入ってしまった。
 そのアプリは、「一太郎Pad」だ。
 私は30年以上、JUSTSYSTEMのワープロソフト「一太郎」を使ってきて
いるが、その「一太郎」のJUSTSYSEMが無償提供しているのかと半信半疑
で調べてみると、思った通りJUSTSYSTEMのものだった。
(もっともWordとの両刀ではあるが)

 スキャナでページ数の多い厚い冊子をスキャンすると、どうしてもページ
をまたぐ部分に影ができてしまうし、歪みも避けることができず、文字認識
にもその影響が出て精度が落ちてしまい、認識後の校正が不可欠であった。
 ところが、この「一太郎Pad」では撮影した文字が多少歪んでいても、影
があっても正しく認識してくれる。これは私にとって驚くべきことである。
スキャナそれ自体の精度にもよるのか、カメラで撮影するメリットがここで
表れているということなのか、よくわからないが、いずれにしてもこれだけ
の精度でテキスト化することができれば大満足で、『よくぞこのアプリを作
ってくれた』と感謝するばかりである。
優れたOCRをお探しの諸氏には『ぜひとも』とお薦めしたいアプリである。

 ちなみに、私のスマホはAndroidだが、同様に「一太郎Pad」を使えるか
と思い検索したところ、Googleの「Playストア」にも同じものが掲載されて
おり、ダウンロードすることができた。これでスマホでもOCRを使うことが
できる。図書館などでは大いに活用できるはずだ。
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民主国家の危機8

 政府は新型コロナウイルス特別措置法に基づき首都圏1都3県に発令中の緊
急事態宣言を21日までで解除する方向で検討しているという(この稿を書い
ている時点での話である)。
 下げ止まりが続いている中、更には変異ウィルスによる感染が広がりを見せ
ている状況下で「宣言解除」する方向で検討したいということに懸念と疑念を
覚えるのは私一人ではあるまい。
 聞けば『現在の対策ではこれ以上の改善は見込めない』ということが主たる
理由のようだが、この下げ止まりの状況を食い止めるために、緊急事態宣言の
延長を発出してから何か有効な具体策をとってきたように思えないにもかかわ
らず、まるで他人事(ひとごと)のように(あるいは責任転嫁をするかのよう
に)、『これ以上の改善は望めない』と断じてしまうことに、何としても経済
を回すことの方に目が向いて前のめりな、この政権の姿勢が浮き彫りになる。

 磯田道史氏の『「感染症の日本史」(文春新書)』によれば、およそ100年前
に全国で猖獗をきわめたに“スペイン風邪”に対する政府の無策を嘆いた与謝
野晶子が『感冒の床から』という文章で批判をしていたという。
(以下引用)
 『盗人を見てから縄をなうというような日本人の便宜主義がこういう場合
  にも目に付きます。どの幼稚園も、どの小学や女学校も、生徒が七八分
  通り風邪に罹ってしまって後に、ようやく相談会などを開いて幾日かの
  休校を決しました(中略)政府はなぜいち早くこの危険を防止するため
  に、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集
  する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。そのくせ警視庁の
  衛生係は新聞を介して、なるべくこの際多人数の集まる場所へ行かぬが
  よいと警告し、学校医もまた同様の事を子供達に注意しているのです。
  社会的施設に統一と徹底との欠けているために、国民はどんなに多くの
  避けらるべき、禍を避けずにいるか知れません(pp31..pp32)』
 当時ですら、“人が動けば感染が広がる”ということを理解していた人々
がいたということの証左であろうし、対策が遅いと見た人々がいた証でもあ
ろうが、それは現在の日本の姿と重なって見える。

 同書では、江戸期の日本で明君の誉れ高い米沢藩主、上杉鷹山についても
書かれている。
 当時全国的に感染が拡大した痘瘡流行に際して多くの藩が、藩主と藩士へ
の感染を怖れて登城禁止と藩主への面会を禁じた中、鷹山は役所の業務が停
滞することを防ぐために、登庁を許可する旨の指示を発したという。
 記述によれば米沢藩には、(以下引用)
 『最先端の医書のコレクションをもっていました。そのもとは、同藩の家
  老だった直江兼続です。蔵書家としても知られる直江は、秀吉の朝鮮出
  兵の際、300巻からなる医書『新世救方』をすべて筆写させるなど、貴
  重な医学書も集めていたのです。(pp.91)』
とのことで、感染症に対する豊富な知識をもとに、その「登庁許可」の判断
をしたのだろうと推測される。
 役所の業務が停滞し機能がストップしてしまえば、領民が困窮することが
目に見えており、自分たちを守るよりも領民を守るということを優先させた
鷹山の政治姿勢がここにも窺える。
 そればかりではない。
 前出の引用を続けると、
 『~医療の無償提供です。加えて、こうした施策を進めていることが知ら
  れているのは「まだ城下町だけで、遠方には伝えられていない」と、
  遠隔地域の領民にも目を配っています。都市と山間部の医療格差を問題
  にしたのです。(中略)「薬剤方」と「禁忌物」に関する心得書を刊行
  して、遠方の山間部の人々にまで配布しました。地元の医者に対して
  は、「上手な医者の指示を受けて、治療に携わるように」と命じていま
  す。情報の共有などによって、医療格差の是正に取り組んだのです。
(中略)鷹山は、「御国民療治」という言い方をしています。「国民」、
つまり大切な藩の領民は、必要な医療を受けなくてはならないという
強い意思に基づいて、次々に手を打ちました。江戸時代に「藩主よりも
領民のほうが大事だ」という意識を持った為政者がいたのです。』(pp.93..94)
 封建君主であっても領民あっての君主であり、君主の務めは領民を保護す
ることだとの信念を貫いた為政者が存在したことを日本人は誇って良い。
 
 翻って現在の我が国の為政者の姿はどうであろう。自己の権勢を誇るため
に、そして自己の権益を守るために政治をほしいままに操ることを念頭に、
進言や諫言を排除し異見に耳を貸さず利己的な方策に走る姿ばかりが際立っ
て見える。
 そうした自身の本性があってのことなのだろうか、「人間とは本来利己的
なものだ」という人間観を持っているのかも知れないと思わせるのが、菅氏
の打ち出した政策の“ふるさと納税”であり“GoToキャンペーン”だ。
 ふるさと納税では、ついには返礼品めあての「お得感」競争の浅ましさを
“売り”にした、故郷への応援とはかけ離れたものに成り下がってしまった
感がある。一部の観光業者と物見遊山に出かけるゆとりのある者だけが利を
得ることのできる『出さなきゃ損、行けばお得』という、これも(私に言わ
せれば)人間の浅ましさに働きかけ訴えるものでしかあるまい。その一方で
これを歓迎する一握りの国民から支持が得られれば一石二鳥だと考えている
のであろう。
 コロナ禍のさなかにあってもGoToキャンペーンを前倒しで行い、その為
に感染が拡大してしまったにもかかわらず、第三波が収まりかけたと見るや
またそのキャンペーンを再開させたいと意図していることに、「国民全体の
安心・安全を思い、手堅く確かで合理的な判断のもとに方策を実践する」と
いう望ましい為政者の姿とは対極の構えしか窺えないことは、すこぶる残念
なことである。
 
 =この稿続く=

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民主国家の危機7

 このところ政治に関わる不祥事が相次ぎ、その一つ一つに驚いていては間
に合わない状況が続いて、何とも呆れるばかりの“劣化”状態である。
 安倍政権とそれを継承すると称した菅政権下で続発する様々な政治問題に
通底するのは、民主主義に対する理解の欠如に他ならない。
 そもそも議会制民主主義にあっては、選出された議員はもとより政権を担
うことになった与党議員には「説明責任」が課されているのだ。
 その件については、宇野重規著「民主主義とは何か」(講談社現代新書)
に詳述されている通り、古代ギリシャの都市国家で民主主義が産声をあげた
当時からの要件なのだ。
以下抜粋。
 『参加の一方で「責任」についても協調しておく必要があります。民主主
義において、参加の契機をみるだけでは不十分です。それと同じくらい、責
任の契機を重視する必要があります。それでは責任とは何でしょうか。一例
を挙げれば、任期を終了し、公職を全うしたとします。そのことは直ちに負
担の終了を意味しませんでした。というのも、任期中にしたことについて、
厳しい審査が待っていたからです。会計報告を行い、公金を横領せず正しく
用いたことを示さなければ、市民からの告発により、裁判にかけられること
を免れませんでした。会計業務以外の公務についても同じです。
 ~中略~
 さらには弾劾の仕組みがあります。近年でもアメリカのトランプ大統領の
弾劾裁判が話題を呼びましたが、この制度の起源は古代ギリシャに遡ります』

 上に述べられているように、政治家は自己の政治活動について、常に根拠
に基づくきちんとした説明ができるように求められ、市民は“正しく政治が
行われているかどうか”を監視し問うことで主体的に参加するという、いわ
ば緊張状態を保つことが求められているのだ。
 そこでは二階幹事長の『政府のすることにケチをつけるな』という発言や
菅首相の『指摘にはあたらない』『回答を差し控える』などといった発言は、
民主政治にとってあってはならないものなのだ。政治を委任され執行する側
は、常に根拠に基づく説明をしなければならないし、市民は納得が行くまで
『その説明は正しいか』『なぜそう言えるのか』を問う責任があるのだ。
問われることを避けて回答をはぐらかしたり、問いとは異なる回答をしたり、
問われることそのものを拒否したりするのは、民主政治そのものを否定する
ことにつながってしまうことを市民も(選出されて政治を担う)どの政治家
も十分に認識しなければならないのだ。

 このように書くと、民主主義とは何と面倒なものかと思える。
 多様な考えに基づく意見を集約し、合意を形成すべく努力し、具体的かつ
望ましい政策を立案して具現化を図ることが政権を担う者の「責任」であり、
有権者は我が事として「自分の意見」を持ち述べることが求められるし、述
べる権利を行使することができるのだ。
それは簡単なことではない。むしろ手間のかかるすこぶる「面倒な」ことで
あるに違いない。
 だが、その「面倒な」活動の展開を怠ってしまうと、民主主義はその脆さを
露呈してしまうことが、この十年近い安倍→菅と続く政権下で起きている政治
の劣化でよくわかったはずだ。

 ことに痛感させられるのは「責任」という言葉が著しく“軽く”なってしま
ったことである。政権を委任され、担う者には、その間の政策の結果について
正しく納得の行く説明ができなければ、弾劾されることを覚悟して政策の立案
・実施することが求められているのだ。その覚悟とは、文字通り「身命を賭し
て」ことにあたるという逃げ場のない瀬戸際に立つことも“止むなし”とする
潔い(いさぎよい)決意と態度を持つことだ。
 その覚悟もなしに、自分の思いにこだわり、身勝手で恣意的な政権運営を省
みることなく前のめりになっているのが、この十年近い政治の惨憺たる状況を
生んでいると思われてならない。

 主権者である国民が確かな目で「我が事」として社会の動きを見つめ、その
眼力を持って政治を監視することを怠ってしまうと、民主主義は徐々に綻びを
見せてしまうほど脆い(もろい)ものなのだ。そして脆いからこそ、大切に守
っていくことが必要だし肝要なのだ。少しでも気を緩め、油断してしまうと、
脆い民主主義は気づかないうちに変質してしまうものだということを、この間
の政治風景の様変わりがよく私たちに教えてくれている。

=この稿続く=
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民主国家の危機6

 ここまで書いてきたところで、東京五輪にまつわる騒動が起きてしまった。
 森義朗組織委員会会長の女性蔑視発言が取り沙汰され、国内外から批判の
声があがり、辞任に追い込まれるという事態とその後の様子である。
 女性を蔑んだ覚えはないというが、オリンピック憲章には『人種、肌の色、
性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会
的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差
別も受けることなく』と明記されていて、多様性を尊重すべきだとする理念
が掲げられているのだ。
 こうした理念を実現するための全世界にわたる意志的な動きこそが重要で、
その頂点として開催されるのが、オリンピック大会だという認識を地球規模
で持つことこそ望まれているのだ。
 いやしくも「組織委員会の会長」であれば、そのような認識をベースとし
て持っていることが当然であろう。ご本人は“ウケねらい”の冗談のつもり
でつい言ってしまったことかも知れないが、まるで朱子学を奉じた江戸期の
男尊女卑社会の人間を彷彿とさせる物言いに驚き呆れるばかりである。
 会長を辞任する際の会見で見せた未練気な様子からも、「多様性を認め尊
重する」ということについて心底理解しているようには思えなかった。

 多くの人が違和感と反感を覚えたのは、『女性がたくさん入っている理事
会は時間がかかる』という発言、その一方で評価する女性理事を評価する際
に語られた『わきまえておられる』という発言であろう。
 しかし意見を戦わせて、合意形成を図りよりよいものを構築しようとすれ
ば時間がかかることは当然のことで致し方がないはずである。
 民主主義とは“めんどう”なものなのだ。意見を出し尽くして誰もが納得
できる結論を得るということを前提にしているのが民主主義なのだ。だから
『たとえ多数決で決まっても少数意見があったことを尊重する』という姿勢
が重要なのだ。“めんどう”で安易に決め過ぎないことこそ大切だということ
が民主社会を深化させる上での暗黙の了解事項なのだ。
 議事の上すべりな進行を妨げないように“わきまえて”意見表明すること
を自ら抑制することが優先されれば、もうそれだけで民主主義の前提が崩れ
てしまうのだ。
 民主主義を標榜する日本をリードすべき総理大臣まで務めた人間であれば、
そうしたことについての理解は十分になされていて良いはずだが、どうやら
そうではなかったらしいことが窺える。

 森会長は、つまり女性蔑視につながる発言、民主主義に反するような発言
という二つの意味で認識過誤をしているということが言える。
 しかも、もっと言えばそれらの発言が五輪憲章の最も重要な理念に反する
もので、その発言が一般人からではなく東京オリンピック・パラリンピック
を統括する「組織委員会長」の口で語られたものであるということが、世界
の人々から『どういうことだ』『日本でオリンピックをして大丈夫なのか』
と疑念と不信感を抱かせることにつながってしまったのだ。
 
 さらに驚くことに、自ら会長職を退くにあたって、組織委員会の評議員を
務める川淵三郎氏に密かに就任要請をしたという。自らの責任をとってその
任を退く本人が、後任者を指名するという組織を無視するかのような振る舞
いは、どうした心根から生じるのだろう。
 推測するに、公平で透明性のある決定過程を視野の外に置き、「根回し」
をすることで、自分にとって都合の良い結論に導くためのカビの生えたよう
な古色蒼然とした手法に慣れてしまい、感覚が鈍化してしまったということ
なのではないだろうか。
 さすがに組織からも「密室政治」との批判がなされ、改めて候補者検討委
員会が設置され、選定方法や候補者の検討に入ったという。
見るところ、最後の最後まで批判されているいずれの内容についても、良識
をもってまっとうな理解がなされていなかったのではないかと思われてなら
ない事態である。

 この度の東京五輪にまつわる混乱や新型コロナの「収束が見えない」感染
拡大の景色は、現在の日本が抱える多くの実情と課題を明らかにしてくれた
ようである。

=この稿続く=

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民主国家の危機5

 暮れから新年にかけて、『勝負の三週間』と言い立て、さらに『真剣勝負
の三週間』を過ぎても、一向に新型コロナ感染拡大が収まらず、とうとう
1/8~2/7の期間を埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の一都三県に、さら
に1/14~2/7まで栃木県、岐阜県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、福岡
県に緊急事態宣言を発出した。
また、その他の県でも独自に緊急事態宣言を出す動きも出ている。
 
 一方で、菅政権の支持率は、毎日新聞と社会調査研究センターが16日に
行った調査によると33%、不支持率が57%と不支持率が大きく上回ったと
伝えられている。
 この政権のコロナ感染拡大に対する対応に対する不満や不信、さらに危機
管理能力に対する不信感が如実に表れているのだろうと思われる。

 しかし緊急事態宣言が発出され、不要不急の外出を避けるよう要請が出た
後も、首都圏の人出は昨年春の緊急事態宣言時に比べると、減少するどころ
か増加傾向にあるという。
 当然と言えば当然のことかも知れない。コロナに対する危機感が麻痺した
り、緊張感が緩んだりしているのだろう。あるいは政府の自粛要請そのもの
に『人との接触を避けることが確かに大切だ』と納得でき、今は外出を控え
て感染拡大を食い止める動きを起こさなければなるまいと強く思えない状況
にあるのかも知れない。
もちろん、自分たちは若いし、感染してもさほど深刻な状態になることはあ
るまい、という油断も生まれているのかも知れない。
 
 こうした油断や麻痺、緩みがどこから生まれたかと言えば、政府が推し進
めたGoToキャンペーンにあることは火を見るよりも明らかだ。
 多額の予算を注ぎ込み、観光地に行け、外食に出向けと国民の背中を押し、
医学の専門家から懸念が表明されてもおかまいなく、感染が拡大して批判が
集中し、支持率が下がるまで一向に停止に踏み切ろうとしなかったことが、
国民をして『出かけても良いのだ』、『外食をしても良いのだ』という気分
にさせてしまったのだ。
 ところが、予断を許さない感染拡大が起きた途端、手のひらを返すように
(地域を限定してではあるが)緊急事態宣言を発出し、しまいには要請に応
じない対象には“罰則を”などと軽々しく子どもじみた稚拙な対策を口にし
始める始末である、

 一般市民や事業者、病院などを罰則という強制的な手段で従わせようとす
るのが、お門違いであると認識できていないのだろう。菅総理は、官房長官
時代から官僚の人事を握ること、つまり政権にとって不都合な官僚を冷遇し
従わせてきた人物である。民主国家にとって、それが望ましいことでないの
は論を待たないが、その同じ手法と論理でコロナ対策をしていこうとしてる
かのようである。
 私は永年教職に携わってきた人間であるが、この風景は学校現場でよく目
にした光景を想起させる。
 児童・生徒は、学級会や児童会(生徒会)などで、話し合ったことが守れ
ないクラスメートがいたりすると、安易に罰を加えれば良かろうと結論づけ
ようとしたものだ。
 なぜ決まりを守れないか、話し合いで決定したことがらを守って自らを律
した方が自らにとって“良いことだ”と思ってもらえるように、周りの自分
たちに何ができるか、何をしてあげられるか、とその子の立場に立って考え
ることを放棄し、罰で“縛る”ことをまず考えるのだ。罰則で“縛って”も、
その子の成長や変容に寄与できないことに気づかず、安直に手っ取り早く問
題を解決できる術(すべ)として、罰則をと主張するのであった。

 現政権の持ち出した罰則を伴う法案についての報道に接して、まず第一に
思い浮かべたのは、上のような様子であり、何と子どもじみた、浅薄なことを、
という呆れた思いである。
 罰則をと言うなら、まずは政権側にこそ課されるべきであろう。
 先述のように、今次の感染拡大を招いたのはGoToキャンペーンに固執し
た失政やその後の後手後手の弥縫策とも言える失策、対応の迷走、危機管理
の甘さなどが要因だと考えられるからである。
 自らの失政や失策を棚にあげて責任を他に転嫁するかのような振る舞いは
『国民の安全と安心を』と公言するリーダーにあるまじき行為である。

 感染拡大を抑えるためには、まず外出を控え、他との接触を避け、無自覚
に大声で会話することを避けるなどのことが必要なはずだ。緊急事態宣言の
効果は、その点にこそあるはずだ。国民の多くが政府の説明に納得し、進ん
で“そうしよう”“そうしなければならない”と思い、自己の行動を積極的
に抑制する方向に向かうには、政府とりわけリーダーとしての菅総理の説得
力を持った呼びかけが必要であろう。
 そして、(ここからが大切なことだが)そのためには、これまでの自らの
失政について謝罪し、その失策を挽回すべく具体的に、そして詳細に練った
対策を示し、国民が納得でき得心の行く真摯な説明をすべきなのだ。
 
 今は全世界が同じ危難に、しかも解決の道筋が不透明な難問に立ち向かっ
ている時だ。ウィルスとの戦いに様々に知惠を絞って挑もうとしているので
あって、正解の見通せない混乱のさなかなのだ。
判断ミスもあるかも知れないし、善かれと思ったことが逆に効果をもたらさ
ないということもあるかも知れない。しかし、この一年間の新型コロナウィ
ルスとの戦いで学んだこと、わかったことも少なくないはずだ。
 その経験を通して、国として失策をおかしてしまったということがあれば
それを衷心から反省し、その失敗を生かすべき戦略を立て直すという姿勢を
もって国民に説明をすることが肝要だ。
 リーダーというのは、その覚悟をもってことにあたる責任を負った人間で
あるはずだ。ドイツのメルケル首相の言葉が国民の胸に響き、改めて戦いに
挑む構えを共有できているというのも、そうした覚悟と何よりも自らを真摯
に見つめ、科学的な目で省みる眼力をもって語りかける為政者としての構え
を貫いていることにあるはずだ。それが国民にもよくわかり、信頼できると
いう思いを強くするからこそ、彼女の呼びかけを受け容れることができるに
違いないと私は見ている。

 と思って見ていたのだが、昨日の(久々に開かれた、遅すぎる)国会での
施政方針演説を聞いて、大いに落胆した。

=この稿続く=

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民主国家の危機4

 つい先頃、あるテレビ報道で『このスマホ料金の値下げは、菅総理の目玉政
策の一つ』だと報じられていた。これが目玉政策?と我が耳を疑わざるを得な
かった。目玉政策というのは、もっと大所高所から、この国の行方をどうする
か、といった視座から論じられるべきことであって、このような些末なことは、
その具現化のための柱の一つとして掲げられるべきことのはずだ。
 どうやらこの菅首相という人物は、国の舵取りを(彼自身の言葉を借りて言
えば)“俯瞰的・総合的”に立案できる人物ではなく、眼前の細かなことがら
を処理していくといったこととしか見えていないように思われる。
 鷹や鷲のような視力をもって天空から地上を見下ろせる存在ではなく、リス
やウサギのように地上を動き回って眼前のエサを捕食するような、視野の狭い
存在のように見受けられるのだ。
つまりはリーダーではなく、仕事士なのかも知れない。これでは国の舵取りと
いう大きな責任が伴う任務は果たせないであろう。
 
 しかし、“些細・些末”なこととは言え、油断は禁物である。
 先述の通り、世の歓心を買うことのできそうなスマホ料金の値下げによって、
支持率のアップを狙おうという意図が透けて見えるが、その先にあるのは国民
を丸裸にしようということではないかと思われるのが、強い権限を持ったデジ
タル庁の新設、マイナンバーカードとスマホを紐付けた国民の個人情報の把握
とそれによる国民の管理・統制にあることが透けて見えるからである。
 個人にとっても便利な手段だとして、買い物のみならず行政手続きもスマホ
で可能になった中国では、あらゆる個人情報が国に必要以上に補足され、思想・
信条までもが国家に管理されている。それと同様のことが我が国でも行われ
ようとしているのだ。
 マイナンバーカードの発行数が20パーセントと普及しないことに業を煮や
した政府が様々なこととヒモづけ、マイナンバーカードがなければ“不便”を
かこつという状況を作り出したいと考えてのことだというのは明白である。

 マイナンバーカードが普及しないのは、その政策の陰にある得体の知れない
怖れを多くの国民が感じとっているからに違いない。そこで窮余の一策として
浮かび上がったのが、スマホとの連携でもたらされる“手軽で便利”という誘
い文句なのだろう。
 私は、個人で持つコンピュータが「マイコン」と呼ばれた時代からコンピュ
ータに関わって来て、ほぼ40年間その便利さを享受してきた。そして、その
一方で不安定さ信用の置けなさといった負の面も痛感してきた。
 とりわけ、インターネットという世界をカバーできるネット通信が誰にでも
開かれ、容易にできるようになった時代からは、セキュリティー上の安心を保
つということが大きな命題となり、一つ間違えば情報が暴かれ、拡散してしま
うという事態が出現してしまった。
のどかにその便利さを享受できる時代ではなくなってしまったのだ。

 スマホやタブレット・パソコンを駆使して作業をする者には、その危うさを
承知した上で可能な限りの対策を施し、万が一クラッシュしてデータが失われ
てしまうことも覚悟し、その対策を講じて使うことが求められる。
 それゆえ大事なデータの扱いをうかうかと他人任せにすることなど、絶対に
したくはないし、してはいけないと考えているはずだ。
 ましてやデジタル庁で扱おうとするデータは、大切な個人情報そのものだ。
呑気ににそれらを(どのように管理されるかわからない)他人に手渡すなど、
とてもできそうにない。誰がネットワークに入り込んで情報を盗み出されるか
知れたものではないのだ。
 二重・三重の意味で、デジタル庁に強い権限を持たせ、国民の情報を一括し
て管理されるなどということには強い恐怖を覚える。何かことが起きた時に、
どのように責任をとってくれるというのだろうか。

 責任と言えば、コロナ騒ぎの中、無謀にもGoToキャンペーンにこだわり、
せっかく収まりかけた感染拡大をいっそう広げ、今や医療崩壊の危機が叫ば
れるような事態を引き起こしたにもかかわらず、その責任をとろうとせず、
具体的で有効な対策についてリーダー自身が自らの口で、自らの言葉で説明
したり訴えたりしないのも「無責任の極み」だ。今次の第三波は、抗しきれ
ない力に依るものではなく、まさに政権が引き起こした人災だからだ。
 『経済をまわす』と主張してGoToキャンペーンを止めようとしなかった
のは、「人が移動しても感染を広げない」という分科会の意見を背景にして
いるようだが、春に緊急事態宣言が出され、自粛生活をして人の動きが少な
くなった時には、感染の広がりが抑えられた経緯がある。その経験に基づけ
ば、「人の動きの抑制」が「感染拡大の抑制」につながると考えるのが自然
ではないか。
 しかも、その当時から気温と湿度が高い夏場はウィルスの動きを抑えられ
るが、冬場はそうはいかないだろうと指摘されていたはずだ。
 7月に少し下火になってきたと見るや、前倒ししてGoToキャンペーンで
人の動きを後押しし、奨励して感染者数が増加しているにもかかわらず、寒
冷期に入っても停止しようとしなかったことが、急速な感染拡大を招いたと
いうことは火を見るより明らかだ。

 ここに一冊の本がある。『日本史の探偵手帳(文春文庫)』という本だ。
著者は『武士の家計簿』などの著作でお馴染みの歴史学者の磯田道史氏。
この『日本史の探偵手帳』が出版されたのは、二年近く前の2019年1月で
ある。つまり、奇しくも新型コロナの騒ぎが始まる一年ほど前に書かれた
ものである。その中に今回のGoToキャンペーン強行を彷彿とさせる興味
深い一文がある。以下引用する。

 『自動車が崖に向かって猛スピードで走っている。車中の人々は、誰も
  前を見ず、ブレーキを修理したり、エンジンの調子を整えたりしてい
  る。運転手も視界が悪いと窓を拭くばかりで、肝心のハンドルを握っ
  ていない。満州事変から敗戦に至る日本は、例えるならば、運転手が
  よそ見をして、ハンドルから手を放していたために崖から海に転落し
  ていった車に見える。運転手として、国のハンドルを切り、ブレーキ
  を踏まなければならなかったのは誰か?それは戦前のエリートにほか
  ならない。政治家や官僚、軍人たちである。』
 
 多くの人が移動し、その多くの人が接触すれば感染拡大の怖れがあるこ
と、しかも気温と湿度が低下する季節を迎えればウィルスが活性化すると
指摘されていながら、“経済をまわす”ことに目を奪われ、キャンペーン
を強く推進した状況とダブって見えるのが、ここに書かれた無謀な開戦時
から敗戦への模様だ。
 その結果、第三波に襲われ、『勝負の三週間』とかけ声をかけた一方で、
何ら有効な手を打たなかった政権の無策が、さらに感染拡大をもたらし、
ついには医療崩壊の危機が叫ばれる状況まで招いてしまった。
 多くの国民に物見遊山に出かけよ、と背中を押し、“油断”“緩み”の
気分を醸成させてしまったことへの責任は大きいはずだ。

=この稿続く=

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