学校教育と学力 [学校教育]
今日の読売新聞31面の「学びの時評」欄に堀田 力先生が「識字率より眼の輝きを」と題して次のように書いていらっしゃる。
学力低下論者の「読み・書き・算」にとらわれた学力向上論、あるいは競争原理を学校に積極的に導入してもっと学力を、という主張が学習指導要領の見直しを推し進める力となり、教育の潮流を変えようとしているが、それに待ったをかけるような正論である。
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~ 略 ~
教育行政の責任者が「日本の教育においても競争意識を高めて、学力を向上させたい」などと言った時、ちょっと違うのではないかと思うのではなかろうか。
日本全体の学力を高めることにどんな意味があるのであろう。
識字率の高さを誇るというのは、にわか成り金が金をみせびらかすようなもので、教育に対する認識の浅薄さを自ら露呈するようなものである。
誇るべきは、すべての子どもたちが、未来に夢を持ち、自分の生命を大切にして、いきいきと活動していることである。
誇るべきは、生徒や学生が、眼を輝かせて授業を吸収し、自らの頭で考えることである。
誇るべきは、就職した若者が、学校で学び、育んだ自分の能力をさらに伸ばそうと、積極的に仕事に取り組むことである。
悲しむべきは、多くの子どもたちが、自分の存在意義を肯定できないでいることである。
悲しむべきは、多くの子どもたちが、学ぶことの喜びを実感していないことである。
悲しむべきは、職に就いて自分の能力を生かそうとする意欲に欠ける若者が、少なくないことである。
これらの悲しむべき事態を解消するのに、学力テストの成績を上げることがいささかなりとも貢献するであろうか。
あるいは、識字率が高ければ、これらの事態は放置しておいてよいのであろうか。
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まさにその通り。
私も機会あるごとに、こうした主張をしてきたつもりであるし、自身のホームページ上のエッセイなどでもそうした論点でいくつかの雑文を書いてもきた。
学校は、先生と子どもが「夢を語り合う場」ではなかったか。その夢があるから楽しく学べるし、わからないことに心を弾ませ、いきいきと自分を拓いていけるのではないか。その夢があるからこそ、自分を表現するための道具、友達によりよくわかってもらうための手段としての字やことば、音や絵、体の動きを自ら身につけていこうとするのではないか。
それは単なる学力テストでは見えてこない力や構えかも知れない。
しかし、人間として社会の中で生きて働く重要で根元的な「学べる力」「学ぼうとする力」であることは疑いようがないのである。
中山成彬 文部科学相はコメントより
『要するに勉強しなくなったんじゃないですか?
低下傾向にあることをはっきり認識すべきだ』
ソクラテスが『無知の知』を説いた。
とららえ方はどうであれ、生徒は自分なりの『無知を知っている』と思う。
この『無知の知』が、『学べる力』『学ぼうとする力』にむかうように願いたい。
生徒たちを取り巻く身近な社会こそが『無知』な気がする。
by (2004-12-07 22:56)
「日本全体の学力を高めることにどんな意味があるのであろう」というけれど、全体の学力が上がらない中で、個人の学力なんて上がらないと思う。
大事なことは、生徒の将来に対して、教員だけでなく親が責任を持つことだ。
学力がなくて一番困るのは本人だ。でも、学力のある人にはそのことが実感としてわからない。
by 通りすがり (2004-12-13 22:52)