SSブログ

安倍元総理の「国葬」について考える

 岸田文雄首相は、先日(7/14)、安倍氏の「国葬」を行う方針を示した。
 会見において岸田首相は、『憲政史上最長の8年8ヶ月にわたり、卓越したリーダー
シップと実行力をもって、厳しい内外情勢に直面する我が国のために、内閣総理大臣の
重責を担った』安倍氏の国葬を営むことを通じて、『わが国は暴力に屈せず、民主主義
を断固として守り抜く決意を示す』と強調した。

 長期間にわたって政権を担ったということが、吉田茂元首相以来行われてこなかった
「国葬」を執り行う理由となるということに少なからず疑問を抱かざるを得ない。
 そもそも吉田茂氏以来、首相経験者の「国葬」が行われなかったのは、現憲法施行の
際に、「現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」の規定によって失効して
いることによるのだ。
当時も法令にない「国葬」という形式で行うことに『そうするのなら、まず国会の議決
を経るべきだ』と疑義を唱える声が多かったと伝えられている。

 察するに、敗戦の灰燼から立ち直ったばかりの日本、民主国家として新たに生まれ変
わったばかりの日本にあって、「法治国家」の意味や「民主国家」のありようについて、
政権与党ばかりか野党も十分に認識し、これから“新しい国”を構築していくのだとい
う積極的で且つ慎重な姿勢を持っていたのだろう。
 そこでは戦前・戦中の反省に立って“まっとうな民主国家”として生まれ変わるため
に、国も国民も「よりよい社会」の実現をめざして真剣にかつ謙抑的・自制的に取り組
んでいたのであろうことが窺える。それが先に記した“法令にない「国葬」という形式
で行うことに『そうするのなら、まず国会の議決を経るべきだ』と疑義を唱える声が多
かった”という記録によくあらわれている。
 ここは、それにならって「国葬」という形式が民主国家にとって望ましいかどうかを
見極め、しっかりと国会で議論をすることが望ましいであろう。

 また、岸田首相の言う『わが国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く決意
を示す』という説明が「国葬」を行うこととどう結びつくのか、残念ながら私には理解
できない。「国葬」を行うことのどこが“民主主義に資する”のか、論理に飛躍があり
過ぎて腑に落ちないからだ。「法」に則ることを棚上げし、「人情」を優先して何とか
して(凶弾に倒れた為政者を)国をあげて慰霊したいのだ、という思いが先行し論理の
飛躍を生んでいるようにも思える。
 このような重大なことを国会での堂々の議論を経ずに、閣議で拙速とも思えるほどの
速さで決定してしまうというのも安倍氏の手法を「引き継ぐ」姿ということなのか。
 凶弾に倒れた死者にムチ打つつもりは毛頭ないし、テロまがいの殺人などあって良い
はずはない、ということを大前提にした上で、以下のように思うのだ。
 安倍氏を「国葬」で弔うことは、むしろ彼が在任中に行ってきたことに対する批判を
封じ、自由な発言や意見を重視するはずの「民主主義」を損なうおそれがある。
 ゆえに、ここは冷静かつ慎重な、そしてニュートラルな議論による葬儀の在り方を探
る必要があるのではないかと思われてならないのだ。

 各種メディアは、『安倍政治の功罪』という文言でこの政権が行ってきたことの総括
をしようとしているが、本当に『功』と言える部分がどれほどあったか、逆に『罪』の
面では列挙にいとまがないほど、民主政治としては好ましくない、ふさわしくない政権
ではなかったかと思えてならないというのが偽らざる感想だ。
 無恥ゆえの突破力を発揮して、“決め過ぎる政治”を展開し、戦後の政治家がいみじ
くも持っていた謙抑さとは対極の“法を無視(無法な)”した乱暴とも言える政権運営
が目につき、営々と築いてきた民主主義・民主国家のありようを劣化させてきた権力者
というのが彼に対する私の抜きがたい印象だ。
 その内容については、このブログの過去の記述で書いているので省くことにするが、
いくばくかの『功』があったにしても『罪』はそれを凌駕するほどに多く、とてものこ
と、「国葬」で国と国民あげて霊を弔うというほど“祀り上げ”るにふさわしい為政者、
民主国家、法治国家にあるべきリーダーだったとは思えない。
 結論的に言えば、この場合(たとえ志半ばで凶弾に倒れた人物を悼むにしても)「国葬」
には反対である。その理由については、稿を改めて考えたい。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。