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どうなんだろう? [音楽教育]

 先日、NHKの「クローズアップ現代」で、手書きで文字を書くときとキーボードを操作して文字を入力するときとでは、脳の反応に大きな差が見られる実験結果を得たと言っていた。どちらも同じように文章を書いているにもかかわらず、手書きで書いているときには脳全体が活発に働いているのに対し、キーボードによる文字入力ではほんの一部でしか脳が働いていない(多くの部分が休止し、反応していない)というちょっと驚く結果が得られた、というのである。ある被験者の脳の反応の様子が画面に映し出されていたが、その違いは顕著であった。
 
 この番組を見ていて別のことを思い起こした。
 ひょっとしてそれは文字を書く場合だけではなく、文字を読む際にも起きているのではないかということである。
 実は、私自身だけかも知れないのだが、文章を推敲する際に、紙に書かれたものとディスプレイに表示されたものとでは差が生じることを何度も経験しているのだ。
 ディスプレイ上で読み返し、間違いを修正したはずなのに、それを印字して改めて読み返してみると気づかなかった修正すべき箇所がいくつか見つかるということがしばしばあるのだ。 
 そればかりではない。
 新聞記事をはじめとする関心のあるサイトの記事にネットでアクセスして読もうとしても、(紙に印字されたものを読むときほどには)「集中できていない」「注意が散漫なのではないか」と心のどこかで違和感を感じることが多いのだ。
 そうした経験を持つのは私だけではないのかも知れない。
その証拠に、そうしたことに対する配慮であろうが、段落をきって段落ごとに1行あけて文章を綴り、だらだらと文章を続けて表示することを避けるサイトが多くなってきたように思われるからだ。

 それにしても、「文字を読み取る」という行為そのものに変わりはないのに、ディスプレイに表示された文章を読む際には意識が散漫になってしまう(決して散漫になろうとしてなっているのではない。気持ちが緩むわけでもない)のはなぜなのだろう。
 真剣に文字を読み取ろうとする意識とはうらはらに、ついそうした「うっかり」に陥ってしまうのは、脳のいずれかの部分で反応が鈍っているからなのではないか。鈍っているばかりか、休止して動いていないことだって予想される。
 
 文字をキーボードで入力する際に、脳の広い部分が働いていないという実験結果を得たと同様のことがディスプレイ上の文字を読み取る際にも起きているのではないかとその番組を見ながら考えたのである。
 もし、そうであればディスプレイに表示された文書の中から、誤字や脱字を見つけ出せなかったとしても、それをとがめることはできまい。なぜなら本人の注意不足によって起きたことではないのだから。
ひょっとしてその文書が紙に印字されたものであれば、見つけ出せた可能性があるかも知れないのだ。
 不思議でならない。どこか実験設備を備えた施設で、そのあたりのことを検証してもらうことはできないのだろうか。
 
 長い歴史を持つ従来のアナログなメディアに加え、デジタルなメディアを手に入れた現在の人間は、その両者のよいとこどりをして毎日の生活を送り、その便利さを享受しているが、人間の気づかないところにデジタルなメディアが持つ落とし穴があるのだとしたら、それは見過ごしにはできない問題のはずだ。
 
 私自身は学生時代からシンセサイザーに関心を持ち、研究対象にもし、とりわけデジタルシンセが出現してからは、研究にも弾みがつくと同時に自分の音楽活動にも可能性の広がりが見え、その恩恵を蒙っている。MIDIがコンピュータと不離密接なものであることから、コンピュータの進歩に合わせて研究の歩を進めてきた感があり、20年もの間コンピュータなどのデジタルな楽器・機器にかかわってきた。
 その間、デジタルなメディアがもたらす明るい面を強調してきたが、暗い面があることも覚悟して活用しているつもりである。

 ところで、音楽に話を移すと、今やCD全盛である。近年はそれに加えて携帯型の音楽プレーヤーの隆盛もあり、いわばデジタル録音・再生機器一色の時代である。
 ところが一部ではLPレコードも見直され、かつてのオーディオメーカーの中にはターンテーブルの再生産に乗り出すところも出ていると言う。
 また、真空管アンプでアナログのレコードを再生することに強いこだわりを持つ人々や蓄音機によるシュラック板の再生を楽しもうという根強いファンもいる。
 それはCDでは味わえない魅力がアナログなレコードにある、ということなのかも知れないし、CDの持つ再生帯域(20Hzから20KHz)以外の音がアナログレコードには録音されており、それが何らかの影響を聴く人に与えているということかも知れない。
 
 しかし、そうした特性によるものではなく、聴き取る人間の脳が、受容する側の意識とはかかわりのないところで、デジタルなものとアナログなものによって反応したり反応しなかったりすることで受け取り方に影響を及ぼしているのだとしたら、それを見極めておく必要があるように思われるのである。
 本当にどこか設備を備えた施設で実験・検証してほしいものである。


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イライラ音楽 [音楽教育]

 昨日テレビをつけっぱなしにして仕事をしていたら、なにやら気ぜわしい音楽が聞こえてくる。
 うしろから追い立てられるような気分にさせられ、『いったい何事だ?』と思いテレビに目をやるとCMであった。学習塾の公文のコマーシャルではないか。小学生の女の子の顔が大写しに映し出されている画面の背景には似つかわしくないその音楽が流れているのである。
 これまで聴いたことのないたぐいの気ぜわしい、そして何ともイライラして落ち着かないイヤな気分にさせられる音楽である。いつ果てるとも予想のつかない細かい落ち着きのない音型がバタバタと続き、終止に向かう気配がなく「見つかるあてのない着地場所」を求めてただただ中空を慌てふためきさまよっているかのような音楽なのだ。
 公文の意図がどこにあるのか推測のしようもないが、こんなふうに人は勉強に追い立てられてしかるべきなのだということでも表現しているのであろうか。(それでは学習塾の宣伝にはならないだろうから、そういう意図でつくられた音楽ではないのだろうが)
 その音楽を聞いてしまってからというもの、何とも不快でイライラした気分が抜けず、いったいこのピアノ曲を作曲したのは誰かと調べたくなってしまった。
 公文のHPを見てみると、判明した。高木 正勝という作曲家の「girls」という曲だそうだ。
 公式のHPに「CMの音楽」と題して、わざわざそのためのスペースを割いているということは、例えば「あの曲は何という曲?」「タイトルを教えて」「誰が作曲(演奏)しているの?」などといった質問が多く寄せられたということなのだろうか。
 あるいは、公文がこの新しいCMを「なかなかよいCMでしょう?」と自負していることを表しているのだろうか。いずれにしても不安感や焦燥感を抱かせる音楽である。
 作曲家とこの曲をCMに採用した公文の意図はわからないが、このCMを視聴して不快な気分を味わっているのは私一人なのだろうか。ひょっとすると、私と同じように不快な気分を味わった人々が
イライラ感から来る「何というタイトルの何のための音楽?」という素朴な疑問を公文にぶつけ、それがHPでの公開につながっているのかも知れない。
 音楽に「もう一度聴きたい」という音楽と「二度と耳にしたくない」という音楽があるとしたら、私は絶対に後者に分類したいと思う。


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ミキシングスタジオ購入 [音楽教育]

 ついに意を決して購入してしまった。ハードディスク・レコーディングに活躍が期待できるヤマハの「USBミキシングスタジオ MW10」である。簡単なセットアップで済むというアナウンスだ。しかもCubase LE も同梱されているので、MIDIやWAVEデータを容易に混在させて思いのままの音楽作りを楽しめそうだ。この部屋が録音スタジオに変身する日も近いのだ。うきうきわくわくである。
確かにセットアップは簡単。ドライバのインストールは不要だし、USBで接続するだけで完了してしまった。
 あまりにも簡単で気抜けがしそうなほどだ。
 しかし、それから後は『そうは問屋が卸しません』状態。
 早速接続したマイクロフォンを使って入力してみたが、何の反応もなし。WAVEデータを開いてみても何の音も記録されていない。それでは、と他のWAVEデータを読み込んで音を聞こうとしたが、スピーカは黙ったまま。
 2日間かけてああでもない、こうでもないとコントロールパネルをいじりまわし、どうにか録音も再生もできるようにはなった。音が鳴って当然なのだが、実に嬉しい。涙が出るほどである。出費した金額のことを思うと、簡単に諦めるわけにはいかないのである。それやこれやで感動もひとしお。
 しかし、したいことはたくさんあるのに、こんな状態で思い通りに使いこなし、したいことを意のままに実行できるようになるのだろうかと一瞬後悔の念が。ところが、充実したHELPファイルのおかげで、その都度参照しながらではあるがぼちぼちと見通しがついてきた。
 なんだかすぐにでも多重コーラスにでも挑戦したい気持ちになってきた。


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古いビデオを見つけた [音楽教育]

家の古いビデオの整理をしていて、懐かしいビデオテープを見つけた。
 1985年につくばで開催された「つくば科学博EXPO'85」開会式のビデオテープだ。
 もう20年以上も前のテープだが、再生してみると違和感なく再生できる。
 劣化してしまう怖れもあるので、見つけた機会にDVDにしてしまおうと考えた。これなら劣化する怖れもない。
 ついでに、我が茨大附属小の演奏部分だけでもネット上で公開してしまおう。
 ここに写っている当時小学校5年生、6年生だった児童も今や30歳を越しているはず。ひょっとすると、当時の児童の誰かが見つけて懐かしがってくれるかも知れない。
 ほんの短い時間写っている私自身にしてからが『若かったねえ』と家人に言われる始末。考えてみればまだ40歳になっていなかったのだ。
 →こちらのページで公開(http://doctnita.ld.infoseek.co.jp/banpaku.html)


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「風のハルカ」主題歌 [音楽教育]

 以前から疑問に思っていたことが、今朝ようやくわかった。
 我が家では、NHKの朝の連続ドラマを毎日楽しみに見ている。
 今は由布院と大阪を舞台にした「風のハルカ」。主題歌を森山直太郎が歌っているのだが、何カ所かどういう歌詞なのか聴き取れないところがあり、何と歌っているのか、そしてその意味はどういう意味なのか、以前から不思議に思っていた。
 それは『愛し合うキミイホー』『風にスルブリーター』『かなしみのワキーホー』『かざあならぬらす』という部分だ。何度聴いてもそのようにしか聴こえない。
ひょっとすると新しい言い回しで『キミイホ』という言葉や『ワキイホ』という言葉があるのかも知れない。それにしてもどういう意味なのだろうと家内とも話していた。
 そうしたところ、今朝はドラマが1分ほど早く終わり、主題歌がテロップつきで流されたのである。疑問が解き明かされる千載一遇のチャンスである。画面をじっと見つめて、見逃すまい、聴き逃すまいと耳を澄ませた。
 ところが『愛し合うキミイホー』の部分では、テロップでは『愛し合う意味を』とごくありきたりの歌詞が表示されているではないか。どう歌ったら『意味を』を『キミイホー』と発音して歌えるのかわからないが、ともかくもそう歌っているのだ。
 他はどうなのか。『風にスルブリーター』は何と『風にさらわれた』なのだそうだ。
 『ワキイホー』では『わけを』と、『かざあならぬらす』では『風花がぬらす』とテロップが流れる。何と言うことだろう。私は自分の耳が悪いのかと思っていた。あるいは、不勉強なために人々があたりまえに使っていて私の知らない言葉があるのかと思っていたのに、こんなあたりまえの言葉だったのだ。
 それにしても発音が悪すぎるのではないか。
 どうして『イ』や『ケ』を『キ』と発音しなければならないのか。『ヲ』を『ホ』と発音しなければならないのか。『風花』を『風穴』と取り違えられたら、歌の意味そのものを誤解され正しく伝わらないのでは?
 歌は言うまでもなく歌詞と旋律を用いて、自分の言いたいことを表現する手段である。 正しく発音しなければ重要なメッセージが伝わらないはずだ。しかも、この曲は歌っている森山直太郎自身の作詞・作曲だという。
だとすればなおさら自分の言いたいことをしっかり音楽として伝えるために細心の注意を払って歌おうとするはずではないか。
 歌を聴く側からすれば、詞を理解してはじめて作者の思いを共感でき、安心して曲の持ち味に身を委ね、それを楽しみ味わうことができるのだ。
 歌詞は二の次、楽曲全体をイメージとして伝えたいのだから印象として受け取ってよというのであれば、それはもってのほかのことだ。と老人である私は朝から憤ってしまったのである。それなら歌わずに楽器で主旋律を演奏してもスキャットで歌っても一向に曲の意味を損なわないということを意味するからだ。「歌」としてつくり歌う以上、伝わらない歌い方では、聴くものに何の響きも起こさせないのだ。
とは言え、たかが朝のドラマの主題歌のことで憤っている自分が滑稽でもあったのだが。


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「場の音楽」再考 [音楽教育]

 先に「音楽の二面性」と題して、音楽には「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」の二側面があるのではないか、と述べた。その中で、ステージ上で聴衆を前にして表現することを意識した音楽活動(ステージに向かう音楽)にどうしても目が向きがちだが、音楽の学習を構想する際には、無目的だからこそ夢中になれる、時間の経つのも忘れて音や音楽と戯れ遊んだり一体化できると思われる無目的な音楽活動(場の音楽)にももっと着目すべきではないかといったことを述べた。
 それは、誰かから強いられて行うのではない、一人ひとりが、主体的・自主的に行うところの「楽しい活動」と言ってよいであろうが、「楽しい」と言ってもその依って来たるところは人さまざまであろう。

 社会学者のチハイ・チクセントミハイは『Beyond Boredom and Anxiety』(『楽しみの社会学ー不安と倦怠を越えて』思想社)において「楽しさ」には次のような8つの場合と順位があることを明らかにしている。

 1 それを経験することや技能を用いることの楽しさ
 2 活動それ自体-活動の型、その行為、その活動が生み出す世界
 3 個人的技能の発達
 4 友情、交友
 5 競争、他者と自分との比較
 6 自己の理想の追求
 7 情緒的解放
 8 権威、尊敬、人気

 ミハイは、ロック・クライミング、作曲、モダン・ダンス、チェス、バスケットボールなどの分野で活動する人々172人を対象にして調査した結果、上のように分けられることを見いだしたのである。
 活動が楽しい理由の順位は上に列挙したようになるという。すなわち、「それを経験することや技能を用いることの楽しさ」が最上位の楽しさであり、続いて「活動それ自体」が2位にランクされている。ここで注目したいのは、その2項目が「個人の技能の発達」や「競争」などよりも上位にランク付けされているということである。さらに「権威、尊敬、人気」が最下位の楽しさとして位置づけられていることにも着目したい。

  ミハイは1と2は内発的理由、他の6つは外発的理由だと言っている。
  新井郁夫(上越教育大教授)の言葉を借りれば、1と2は「ある楽しさ」であり、それ以外は「持つ楽しさ」であるということになるが、どうやら現代社会は、金銭、権力、地位、名声、快楽の追求といった「持つ」文化によって支配されている感が強い。また、「他者と比較して優位に立つ」ということも現代社会では声高に言われないまでも欲求の対象としてあるように見受けられるが、これも「持つ文化」の象徴であろう。
 しかし、ミハイも指摘しているように、このような社会においても、これらの価値、すなわち「持つ文化」には目もくれず「ある楽しさ」を追求している人々、「ある楽しさ」を味わおうとする人々が存在するということは注目すべきであるし、「ある楽しさ」こそが人間の生き生きとした生き方を表出させる最も大きな要因だということの表れなのではないかとさえ思わされる。

 そう考えてみると、誰かに聴いてもらうためでもなく、またコンクール等でよい評価を得るためでもない音楽活動、音楽の「ある楽しさ」を精一杯楽しむことで音楽に直接触れ、向き合うことのできる「場の音楽」の持つ意味がさらに浮き彫りになると思われるのだ。


「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」 [音楽教育]

 音楽活動には2面性がある、と私は考えている。
 一つの側面は、ステージで発表することを意識した音楽活動、強いて名付ければ「ステージに向かう音楽」であり、もう一つの側面は、無目的にその場で楽しもうとする音楽活動、いわば「場の音楽」とでも言うべき性格の音楽活動である。

  音楽教師をしていると、音楽活動を考える時どうしても前者の側面にだけ目が向きがちであり、公式の場などの大きなものからクラスの中などの小さな発表の場まで含めて、ステージ上で聴衆を前にして表現することを目的とした活動として音楽の活動や学習を考えがちである。
 そうした目的的な活動こそが表現しようとする強い動機付けになるはずだし、そうした動機付けに支えられてこそよりよい表現を求めて問い続けることが可能になると固く信じ込んでいるからであるし、音楽するということは誰かに聴いてもらうことを前提としたものだと漠然ととらえているからでもある。

  確かに誰かに聴いてもらおう、誰かに伝えようとするからこそ、自分(あるいは自分たち)の表現をモニタリングし『こうしてみたらどうか』『これではどうか』『これでわかってもらえるか』と問いを発しながら「めざす表現」に近づこうとできるのであろう。
  しかし、そうした目的(ステージ上で発表すること)を持たない音楽活動があることも見逃せないし、そうした活動が決して無意味なものではないことも事実である。

  家族でアンサンブルをして楽しむ、散歩をしながら歌を口ずさむ、一人でピアノなどの楽器を演奏して楽しむ、親子であるいは友だちと輪唱して遊ぶ等々、いずれをとっても音楽の楽しみの重要な側面である。
 夕焼け空を見ながら親子で手をつないで「夕やけこやけで日が暮れて~」と歌う姿と、誰に聴いてもらうでもないその歌からは親子の夕焼け空の美しさへの共感のこもった生きた歌声と夕景の美しさを味わっている様子が想像される。
  学校からの帰り道、知っている限りの曲をリコーダーで吹きながら歩く姿からは、音楽と同化してまさに音と戯れ、一体化している様子が窺える。

  これらはすべて無目的な音楽活動である。無目的だから夢中にもなれる。時間の経つのも忘れて没頭してしまうことも予想される。
 私の家のはす向かいに建つ家には小学生の兄弟がいる。二人とも野球が大好きである。休日ともなると二人でよく家の前の道路に出てきてキャッチボールをする。試合に出るため、あるいは試合で勝つための練習としてのそれではなく、単に遊びとしてするのである。それでも声をかけ合って文字通り一生懸命遊ぶ。兄弟のうちどちらかが何かの具合で欠けると、ブロック塀に向かって一人でボールを投げて的当て遊びのようなことを何時間も飽きずにしている。
 キャッチボールをするにしても的当てをするにしても、「今度はうまくいった」「思い通りに投げられた」「うまくボールをキャッチできた」などと知らず知らずのうちに自己評価しながらしているのであろう。だからこそ飽くことなく何度でも挑戦するように無心で遊べるのだろう。

 この例に見るようにスポーツには「試合に向かうスポーツ」だけではなく「場のスポーツ」の姿があるように、音楽にも「ステージに向かう音楽」だけではなく「場の音楽」があると、思うのである。
それはいわばスポーツや音楽を「PLAY」すること、すなわち「遊び」であり、その場で深く楽しむ姿として現れる側面である。
 そして、私はそうした「遊び」の中でこそ、そして無目的な「遊び」だからこそ、修行や訓練、あるいは誰かに指示されてする練習では得られないであろう大切な能力や資質が知らず知らずのうちに結果として身についていくのではないかと考えている。

 柳生力も次のように指摘している。
   目的をもって遊びを行なおうとするとき、遊びは失われてしまうであろう。
   遊びの夢中と無心と真面目がもたらす結果の大きさに着目すべきである。
                                                            『感受性はどこへ』音楽之友社

 私たちは、いたずらに発表をめざした活動という視点からのみ音楽の学習を仕組むのではなく、音楽にはそうした側面もあるということを認識し直し、そうした視点に立って学習活動を仕組むこともこれからは重要になるであろう。


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オカリナ [音楽教育]

オカリナに初挑戦。リコーダーとは異なり、左手は5指全部を使うのだという。何度か音階を吹いてみたが、リコーダーでは使わない左手の小指が曲者。
油断をすると位置が少しずれてしまうのか、音程が不安定になる。
上行音階、よしよしうまくいったと思い、下行音階を吹こうとしたとたん、音程が上ずる。「ひょっとして小指が」と思い押さえ直すと思い通りの音程で吹けることから察するに、どうやら左手小指が不安定でホールトーンをしっかりふさぎ切れていないようだ。
左手の親指と小指で楽器をホールドしつつ、他の指を自由に動かし、なおかつ小指のホールトーンはしっかりふさいでいなければならない。
簡単なようで意外に難しい。自由自在にメロディーを吹きこなすには、時間がかかりそうだ。
しかし、この素朴な音は何とも言えない魅力的な音ではある。


光るギター [音楽教育]

いま「光るギター」を使い倒し中。ヤマハの光るギターだ。何が光るかと言えば、押さえるべきコード。演奏モードは3タイプ。
最も簡単なのはSTRUMモード。これは、楽曲の進行に合わせて適当に(それこそいい加減に、たとえフレットを押さえなくても)フレットを押さえて右手で弦をかき鳴らせば伴奏が出来てしまうモード。
もう一つはCHORDモード。これは謂わば練習モード。楽曲データに埋め込まれたコードに従って押さえるべきフレットの位置が光って示されるのだ。しかも、演奏者が正しく押さえるまで楽曲の進行は止まって演奏者を待っていてくれる。
もう一つは、楽曲の伴奏データに合わせて自分でコードを判断して押さえ演奏するノーマルな演奏モード。
音色もギター、ベース、三味線など20音色を内蔵。これはおもしろい。たとえギターを弾いたことのない人でも、「ギタリストになったかのような気分」を味わえるはずだ。
試しにXGworksで主旋律やベース、ドラムスなどのカラオケ様のデータを作成し、コードネームを入力してこの光るギターに送信してみた。何のトラブルもなく思い通りの演奏モードに対応する演奏ができた。内蔵スピーカの音が貧弱なのは仕方あるまい。因みにシンセサイザーの外部入力端子やステレオのAUX端子につないでみた。こうすれば高音質で楽しめる。
学校教育の中では、無味乾燥な「練習」と「おけいこ」がその核になってしまいがちであるが、子どもたちに音楽の楽しさを味わいつつ、「やれるかも知れない」という効力予期をもって音楽活動に取り組めるようにするためにも、「かのような気分」が味わえるこうした楽器は有効に働くはずである。


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おけいこと学習 [音楽教育]

音楽の授業は「おけいこ」に傾きがちだ。ある教材曲を上手に歌えるようになるとか楽器で演奏できるようになるとかいったことが目的化してしまい、その先にあるはずの「音による表現」とは何か、「音楽の持つ力」について考える、見つめるといったことについては忘れられがちだ。自分にとって音楽とは何か、音楽がどういう意味を持つかといったことを体験的に「学んで」「考え」、それを自分の生き方に生かしていこうとする子どもを育てようとするのが本来の音楽科教育の意味。
であるとすれば、小さな大人を促成するように単に上手に歌えたり楽器の演奏能力を高めたりすることが目指されるべきではない。
本来のめあてに近づくために、どのような学習の枠組みや仕組みが必要か真摯に見直されるべきだ。


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