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モーツァルトとドーパミン [日記]

 新聞の広告欄におもしろそうな本の広告を見つけた。
 タイトルは『モーツァルトが求め続けた「脳内物質」』とある。著者は、筑波大の須藤伝悦博士。出版は講談社+α新書。出版されたばかりの本なので、ネットで購入するのが近道かと思ったが、念のために近所の書店を覗いてみると、何と有るではないか。しかもたった一冊。しめた!とばかり購入してきて読んでみると、期待以上におもしろい。

 モーツァルトの音楽については、これまでもさまざまな効果が取り沙汰され、中には「頭がよくなる」「難病の治療に役立つ」「植物の成長に効果あり」など、疑わしいものもあった。この本もそうした類の怪しげな本かと思ったわけではないが、多少「鵜呑みにしない」ようにしようと多少かまえて読み進めたのだが、それは大変に失礼なことであることは、数ページも読まないうちに理解できた。そのような「キワモノ」的な本ではなく、きちんとした科学的な観察と検証を経て生み出された知見をもとに、モーツァルトの音楽と体内、とりわけ脳に働きかける分泌物の関係について論じた本なのである。しかも音楽や医学について予備知識を持たない一般の読者が読んでも理解できるよう、ごく平易な言葉でこれまでの研究成果が述べられているというしっかりとした内容の本なのである。

 なかでも興味が持てたのは、モーツァルト自身が幼児期から「てんかん」の発作を頻繁に起こしていたこと、注意欠陥多動性障害があったかも知れないこと、さらに長じては睡眠障害や統合失調症を患っていたことも疑われることが種々の記録から想像できるという指摘である。そしてまた、それらの障害を持っていたため、無意識にそれらの障害を抑えるための「ひたすら自分自身を癒す音楽」を求めて膨大な作品を創造したのではないかという指摘である。
 つまり、それらの障害や発作を抑えるカギとなるのはドーパミンであり、モーツァルトの曲は、脳内のドーパミンを増加させる要素を豊富に内包している、というのだ。
 そして、それは彼自身が無意識のうちに求めたことによるのだろう、と論じているのである。
 音楽によるドーパミンの合成亢進にかかわって重要に作用しているのは、高周波数領域の音であり、それが脳機能を活性化させ血圧を有意に降下させるということを実験・観察から突き止め、さらに同じ高周波数量域の音がストレスを誘発する要因となる可能性についても言及している。

 まさにモーツァルトは、体験的に音の性質を知り抜いた上で、さまざまな音を組み合わせ、ブレンドしつつ上手に高周波数領域の音を使いかつその刺激を隠し、ストレスを感じさせずに音楽を味えるよう、そして脳機能を活性化し心身を落ち着かせる音楽づくりに卓越した能力を持っていたのかも知れない。

 さまざまな障害を抱えたモーツァルトが、無意識のうちに音楽活動を通して得られる爽快感を体得し、ますます心地よい音を求めた結果、多くの作品が生み出され、今も人々を夢中にさせているのではないか、という指摘は目からうろこが落ちるような説得力を持つ。 映画『アマデウス』のモーツァルトも、注意欠陥多動性障害、音声チック、サヴァン症候群、統合失調症などさまざまな障害を持っていることを予想させるような人物として描かれていた。そうした種々の障害を彼が抱えていたお陰で、後世の我々が、人の手になったとは思えない神の恩賜のような多くの彼の作品を楽しむことができている、ということはしみじみとありがたみを感じざるを得ない。
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感謝への回帰 [日記]

 先日の読売新聞、読者の投稿欄に次のような記事を見つけた。
 投稿者は女子中学生である。
**************************************************************
 夏休みの宿題で「戦争体験の聞き取り調査」という課題が出た。
 私は祖母に話を聞いた。
 終戦の時、祖母は疎開し田舎に住んでいた。食料難で勉強どころ
ではなく、カボチャやジャガイモを栽培していたという。
 今の日本は平和で裕福だ。ほしい物は何でも手に入る。
 そのために物のありがたみがわからなくなっているように感じら
れる。食べ残しの廃棄も多いという。食料自給率が低いのに、食べ
物を大切にしないのはどうかと考えてしまう。
 この宿題によって戦争だけでなく、身近な問題についても考える
ことができ、よかったと思う。
**************************************************************
「ありがたい」というのは「有り難い」、すなわち通常ではあり得ないような
非常に幸運な事態が起こるなどして、本来なら助からないところであるのにも
かかわらず助かり、「有り難い事態のおかげで救われた」という具合に使われ
るところの感謝の心情を言い表した言葉である。
 投稿の主のこの女子中学生が言うように、現代人は不自由な時代、極貧の時
代を生きたかつての日本人とは異なり、裕福で平和を享受することに「慣れ
て」しまい、そのことに対する感謝の念が希薄になっている。希薄になってい
るどころか、モノが十分に行き渡り満ち足りているにもかかわらず、逆に心は
不満足感をつのらせ、それがほんとうに欲しいかどうかにかかわりなく、持た
ないことそれ自体に不安を抱き「イライラ」しているように思われる。

 自分がどれだけ恵まれた環境で生きているか、を見直すことができるのは不
便な環境に追い込まれることが契機となることが多い。
 手足にほんのちょっとした擦り傷ができただけで、思考に乱れが生じたり、
ふだん何不自由なくできている動作に支障をきたしたりしてはじめて、無傷だ
った昨日までの状態を「とてもすばらしい恵まれたよい状態だったのだ」と感
謝の念をもって見直すことができるといったことは、誰しもが経験しているこ
とであろう。
 そのような身近な「見直しの契機」はたくさん経験もしてきているし、ちょ
っと想像しただけでもさまざまなことが思い浮かぶ。
 蛇口をひねればきれいな水を得ることのできる水道も、当然あるものとして
その恩恵に浴しているが、地震や渇水で水道がストップしてしまったとする
と、その不便さは「日常不自由なく使えていた水道施設」の有り難みを痛感さ
せるはずだ。
 また電気に頼った生活をしている現代人は、停電が起きると何もできないこ
とに気づくであろう。灯りがない、ラジオやテレビという情報源から切り離さ
れてしまう、エアコンも扇風機も使えない、オール電化の生活をしていれば物
を煮炊きすることもできない、ひょっとするとセキュリティーが強化された家
では自宅への出入りにも支障をきたすかも知れない、といった具合に不自由さ
をかこつことが十分に予想できる。
 
 そのような生活インフラにかかわることだけではない。
 私たち団塊の世代は、かつて学園紛争によって大学の施設が封鎖され、その
ために講義が開かれず授業を受けることができなかった、という経験をしてい
る。そして、そのとき初めて知ったのだ。授業を受けることができる、という
権利と自由を奪われることの意味を。そして同時に、なに不自由なく授業を受
けることができた学園生活における幸せを改めて実感したのだ。

 失ったり、奪われたりして初めてわかるのが「ふだんの生活の有り難さ」で
あり、特に意識せずに行っているふだんの動作(歩く、見る、考える、跳ぶ、
握る、踏むなど)ですら、何らかの支障が生じて思うようにできなくなれば、
無理なく「できていた状態」を有り難みを伴って回復を願うものだ。
 それは、何気なくできていたことに対する感謝の念に他ならない。
 そして何気なくできていた当時に、「できていたこと」になんの感謝もせず
に(むしろまったくそのことを意識せずに)過ごしてきたことに対する後悔の
念も伴って、回復した折には、そうしたこがないように「有り難みを感じなが
ら行動しよう」とも決意したりする。もっとも「喉元過ぎれば何とやら」の喩
え通り、そうした決意は忘れ去られてしまうことが多いものだが、それでもそ
の体験は無意味ではない。意識の底に「有り難みの実感」は存在し続けるはず
だからである。

 自分がここに存在していることだけでも、あり得ないほどの偶然が積み重な
った結果の「有り難い状態」なのだ、と考えただけでそのことを粗略に扱って
しまうことなどもったいなくてできないはずだ。
 まして、世界中にいる何百万もの、明日をも知れぬ困窮の中で生活をしてい
る人々のことを考えれば、たとえ景気が回復しないとは言え、食べたいものを
食べ、明日があることを疑わずに眠ることのできる私たちは、十分に幸せであ
るはずだ。そのことについて、まずもって「有り難い」と感謝することから生
きることや社会をつくること、について考えることをスタートさせなければな
るまい。

 不平・不満の横溢、利己的な欲求に起因する不幸感、耐性の欠如等々、自分
と社会との関係をうまくつくれない要因となりそうな障壁の多くは、そうした
「有り難みの感覚の欠如・希薄化」を解消することで取り除けるものが多いの
ではないか。
 樹木や岩、山岳や河川・湖沼・海、天体や気象現象など、自分たちを取り巻
く環境に深い畏敬の念をもって接し、感謝と畏れを感じながらうまくつきあっ
てきたのが日本人の気質であり、美徳であったはずだ。
 そうした美徳についてもう一度思い起こし、ふだんの生活で見過ごしがちな
「あたりまえに生活できる有り難さ」について見直すことが、こうしたあくせ
くした時代、閉塞感にさいなまれそうな時代だからこそ必要なのではないだろ
うか。どうやら、さまざまな問題を解消するカギは、そうした「感謝」の心へ
の回帰にあるのではないかと考えるのである。
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他を思いやる [日記]

 ある雑誌の中に次のような文章を見つけた。

 今年ももう7月。一年の半分以上が過ぎたことになります。
 時の流れというのは昔も今も不変であるはずなのに、時代や環境、年齢によって、その
長短の感じ方が違ってくるようです。
 さて仏教には短い時間の単位を表す『刹那(せつな)』という言葉があります。どれくらい短いかというと、諸説あるのですが75分の1秒相当ともいわれています。
 いずれにしてもこの短い刹那の連なりの中を、私たちは共に生きています。
 しかし今の世は一瞬の私利私欲に惑わされた、あまりにも身勝手な振舞の多いこと。
 近年は心の豊かさが盛んに叫ばれていますが、真の心の豊かさとは、他者を思いやることでもあるのですが。

 この文章に書かれているように、「私利私欲に惑わされた身勝手な振る舞い」がもとになって起きていると思われる問題が、枚挙にいとまがないほど頻出している。
 ところで、日本の夏といえば浴衣で夕涼みをする光景が目に浮かぶ。
 しかし浴衣を着て思うのは、浴衣を着たからといって本人は涼しく感じるわけではないということだ。どちらかと言えば、暑さを感じることの方が多い。涼しくなりたければ、浴衣などよりTシャツにショートパンツなどを着た方がよほど楽だ。
 ものの本に寄れば、そこが日本人らしい「他者への思いやり」なのだ、という。
 麻や木綿・紗や絽などを素材とした浴衣は、見た目にとても涼しげであり、その浴衣を着ている人を見る周りの人が『涼しそうだなあ』と感じることに意味があるのだ、というのである。着ている本人にとって涼しいかどうか、ではなく、周りの人が涼しいと感じてひとときの心の安らぎを得ることができるように、との心遣いが浴衣を身につける文化を発展させてきたというのだ。

 日本人は古来そうした細やかな心遣いや配慮をベースに、周囲とのバランスをうまくとりながら社会生活を送ってきたはずだ。いつの頃からか、自己を主張することに長けても他を思いやれない、人間としての民度の低さばかりが目につくようになってしまった。
 他のいたみや喜びを想像し、他に喜んでもらえるような自分、他の喜びを自分の喜びと感じることのできるような人々の方がずっと多いはずだと思うのだが、目につく話題がそうしたことばかりであるせいであろう。残念なことである。
 ここまで書いてきて、ずいぶん昔に教えた児童の日記に書かれていた文章を思い出した。 それは、登校途中のバスの中でお年寄りに席を譲ったことについての文章である。
 「お座り下さい」と声をかけようかどうしようか逡巡したが、それでも恥ずかしさを振り切って立ち上がり、席を譲ったときに『そのおばあさんに喜んでもらえたこともうれしかったのですが、やさしい気持ちになっていた自分に気づいたことがとてもうれしかったのです』という内容で締めくくられていた。
 他人に対してやさしい気持ちになっていた自分の存在がうれしい、ということに気づいたその子は、今はもう30歳を過ぎた立派な大人になっているはずだが、きっと幸せな人生を送っているに違いない、と思い起こしている。
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雑感 [日記]

 燃料の高騰で全国の漁船が一斉に休漁した。出漁すればするほど出費がかさむが、その燃料分を価格に反映させることができないことから、赤字に苦しんでいるという。
 聞けば、運送業などにかかわるトラックと比較すると、漁船の場合は操業にかかる費用の中で燃料費の占める割合はすっと高いのだという。
 そうしたことから、苦しい実態を訴え、燃料費の補助を求める具体的な動きとして全国一斉の休漁と東京での集会・デモが行われたということだ。
 それを受けて、政府も燃料費の補助を検討する方向で動き出したようだが、一方ではその費用をどこから捻出するかにも苦慮しているという。また政府関係者からは、他の業種から不公平感を持たれないような対処が必要との声も出ているという。

 燃料費を国の予算で補填するのも結構だが、石油の高騰が今後とも続くだろうということや、たとえ続かないとしても、石油を燃やす以上ついてまわる排気による大気汚染のことを考えれば、安価・安全・クリーンな代替エネルギーを使うということを視野に入れた検討を始めても良いのではないか。
 日本には、こうした問題について先進的な研究の蓄積があり、やろうと思えば石油に頼らず、しかも対策に高額な出費も伴わない智恵があるはずだ。
 安易に「カネを出せば何とかなる」という方向に走らずに、長い将来を見据えて最善の方策としての「文殊の知恵」を産・学・政が協同して打ち出すことが望まれる。
 「カネを出せば何とかなる」などという結論は、何の知識も持たない子どもでも出せる。持続可能で安定的な方策、すなわち『なるほど、そんな手があったか』と誰もがうなるような対策を打ち出すことができるのは、学問と技術の経験を積み重ねた者にしかできないことである。逆に言えば、何の効果的な方策も打ち出せないとすれば、有名大学は出るだけの知識や受験技術は身につけたものの、困難な状況を打開できる智恵を創出できる知性を磨き損ねた人間しか「政・財・官・学」にはいない、ということを露呈してしまうことになりはしないか。
 日本社会をリードする立場である「その道の専門家」には大いに頑張って欲しいところであるが、一方では市民も「市民として成長・成熟」する必要があろう。

 どのニュース報道を見ても、一斉に休漁したことを受けて「魚が品薄」「マグロが食べられなくなる」「イカが、アジが何円値上がりした」などと切羽詰まったような調子で報道している。
 魚が品薄になったといっても、魚が食べられなくなるわけではない。鮮魚は望めなくても、干物があるではないか。マグロが食べられなくても、サンマや鰯があるではないか。
 マスコミの報道を見ていて思うのは「いたずらに市民を煽るな」ということであり、市民には「そのようなマスコミに煽られるな」ということである。
 飽食の時代にあって、空腹を満たすことができる、ということに対する「ありがたみ(感謝の気持ち)」が希薄になってしまい、ものの味を本当に知ってか知らずか「ブランド」や「形」「規格」をありがたがる風潮が、船場吉兆や飛騨牛、比内地鶏、ウナギなどの産地偽装、ごまかしを生んだ背景にあることを肝に銘じなければならない。
 マグロが食べられなくなったからと言って「それがなにほどのことがあろう」とゆったり構え、じっくりと対策を考慮することのできる市民とならなければ、安易な手段で手っ取り早く対策を講じ、将来ますます自らを苦しめていく道をたどることになることは想像に難くない。

 もうずいぶん前から、スーパーで売られる野菜の規格化は進み、曲がったキュウリ、色の均一でないキュウリなどは店頭に並ばないという。キュウリに限らず、ありとあらゆる食材が均一の顔つきで店頭に並んでいる。
 日本人ほど、その中味とかかわりなく「形、大きさ、色」といった外見に注文をつける国民はいないようで、それすらも外国との競争で「買い負け」している最大の要因になっているとも言われている。それだけではない。そうした「いわれのない要求」に応えるために使わなくともよい農薬を使わざるを得ないと嘆く生産業者もいるという。
 ちょっと虫が食っていると言って購入を控える客がいれば、スーパーマーケットではそうした商品を仕入れることをしなくなり、生産業者に「虫の食っていないものを」と要求する。そのために「虫も食わない野菜づくり」をめざして農薬を使わざるを得ない状況に追い込まれるということは容易に想像がつく。
 外国からの輸入に頼っているさまざまな食材について、わがままな要求をつきつけてきた日本だが、ヨーロッパやアジアの各国は、そうした要求をぜずにどんどん食材を買い付け確保していくのだという。その結果、日本は「買い負け」をし、買いたくても売ってもらえない状況になっているというのだ。
 もちろん、これは「食の安全を守る」という姿勢とはまったく別の、そして味の本質ともかかわりのない『規格にあっていれば安心』という理屈にならない理屈でモノを売り買いしてきた日本人の「歪んだモノへの信仰」がもたらした事象なのだ。

 それにしても、本質とはかかわりのない大きさや形・色といった「規格」にばかりこだわり、それをありがたがる姿勢から脱却しなければ「不正の温床」を根絶やしにすることなどできはしないはずだ。
 過激な言い方かも知れないが、味もわからないくせにミシュランが三つ星をつけたというだけでその店をあがめ、その味を礼賛するような「似非食通」ばかりになってしまえば、そのレストランは努力を惜しんだり、「ほんとうの料理」を求めて来店する客をも粗末に扱うようになってしまうかも知れないではないか。
 そうしたことが「産地偽装」の遠因としてあるということを考えると、自分以外の誰かによる評価に頼ることなく、自分なりの価値判断ができるよう自己を成長させることが大切なのではないかと思われる。
 言われなく「ブランドを信仰する」ことなく、自分にとって価値あるモノとそうでないモノを見きわめる目、見抜く目を持つこと、それがこれからの社会を生きていく上で、もっと言えばこれからの社会をつくる上で重要になるだろうと思われるのである。
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あれから一週間 [日記]

 先週の日曜日(2008/06/08)の白昼、秋葉原の歩行者天国で無差別殺人を犯した犯人は、事件当初から「小中学校を優秀な成績で過ごした、スポーツ万能の子どもだった」と報じられてきた。
 しかし、青森県内でも有数の進学高校に入学してから成績が低迷し、ほとんどの生徒が4年制の大学に進学する中、短大に進まざるを得ないほどに様変わりしてしまった、とも報じられてきた。
 短大に進学した後、教員になることを欲し、4年制大学への編入を希望したがそれは叶わず、短大に於ける勉学もおろそかになり、そこで得られるはずだった「2級自動車整備士」の資格も棒に振っていたとのこと。それは国家試験で実技が免除される「実車実習」を受講しなかったためだという。

 聞けば、両親とも過剰なほどに教育熱心で、加藤容疑者の掲示板への書き込みに寄れば『親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧』だった小学生時代を送り、『中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられ』、自信も意欲も喪失してしまった中学・高校時代の様子が語られている。
『中学では小学校の「貯金」だけでトップを取り続けたが、県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ。高校出てから8年、負けっ放しの人生。自分で頑張った奴に勝てるわけない』と吐露するほど、自分の力で勝ち取ったものではない「成績のもろさ」からくる自尊感情の喪失が窺える。

 成長を「よい成績をとること」と勘違いしてしまった両親の過った教育観は、作文や絵画を肩代わりして書く(描く)という行為に如実に示されている。それが我が子の実力の伸びと結びつかないことなど、どう考えてもわかるはずなのに、「賞をとること」「よい成績をとること」が学習の成果だと短絡的・近視眼的にとらえて指導し続けた挙げ句、実力に結びつけることができずに、しかも「負の成長」に追い込んでしまった様子が見て取れる。「正解を教えること」が指導だと錯覚したこの母親は、加藤容疑者が中学に進み、自分が正解を示すことができなくなったとき、「教えること」を放棄せざるを得なかったのだろう。
 自力で学ぶことを知らずに育った加藤容疑者にすれば、それは「捨てられた」と実感することであり、『もう取り返しがつかない』『何をやっても無駄』という無力感の獲得に結びついたであろうことは容易に想像がつく。

 そう考えてみると、この場合、教育に過ちがあったとしか思えない。単に成績のことばかりでなく、彼自身の「耐性のなさ」や「自立の構えの欠如」も目につくことから、人間としての成長を忘れた教育のありように問題があったのだろうと思われる。
 派遣社員として茨城、宮城、青森、静岡など、各地を転々としたとも報じられている。派遣社員という不安定な位置から脱却したいという理由からばかりではなく、『この仕事は自分の望む職種ではない』ということも大きく作用しているようだ。それは、採用時は派遣社員であったものの、数ヶ月後には正式社員として採用された青森での食品運送会社をあっさりと辞めてしまったことからも窺える。
 いったい世の中に「自分のしたいこと」と職業が完全に一致している人間などそう多くはないはずだ。中にはそのような人がいるかも知れないが、それは希有な例で非常に幸せな人であるには違いない。しかし、そうなれなかったといって「不幸さ」をかこってみたり、『自分は社会から見捨てられた』と自暴自棄になるほどのことではない。
 彼自身の弱さ、成熟の未熟さが浮き彫りになるが、だからと言って彼を取り巻く社会に問題がなかったとも言い切れない。

 競争の原理に基づく利益優先の社会が見境のない「規制緩和」を求め、その規制緩和がいっそう人々を競争に駆り立て、安い人件費を求めて派遣という特殊な雇用状態を蔓延させ、ワーキングプアと呼ばれる浮かび上がれない人々を生み、格差をいっそう押し広げている現状こそ大きな問題であると思われるからである。
 「格差はいつの時代もあるのであって、格差を全くなくすことは不可能」、「努力した人が報われる社会をつくっていく、汗を流した人、頑張った人が、知恵を出した人が報われる社会をつくっていかなければいけない」として再チャレンジを提唱した安倍首相の言は、逆に言えば「非正規社員であるあなたが正規社員になれなかったのは、社会が悪いのではなく努力しなかったあなたが悪いのだ」ということだ。
 新自由主義という弱肉強食の原理に基づく経済優先の社会にあって、費用対効果を何よりも大切にする企業が人件費の高くつく正規社員を増やそうとするはずがないことは目に見えている。
 そうした中で加藤容疑者ももがいていたともとれる。

 また広がる格差社会の中で、浮かび上がれたかどうかということをもってして、一元的に「勝ち組・負け組」と評価し合うような短絡的な人間の見方が支配的な浮薄な現代社会も、大いに問題なのではないかと思われる。
 加藤容疑者自身が自分を負け組と規定し、「勝ち組はみんな死んでしまえ」「希望のあるやつらには俺の気持ちなんかわからない」と自暴自棄の心情を吐露したのも、そうした風潮を背景にしていることは疑いようがない。
 自己愛と現実の自分の姿の間の埋めようのないギャップが、「負け組」という見方でいっそう惨めにさせたのかも知れない。何と言っても小学校時代は優秀な児童だったのだ。その自分が『なぜ』という思いに駆られても不思議ではない。
 こんなところにも彼の「甘え」「弱さ」「未熟さ」が感じられるが、それにしてもこうした浮薄な風潮が支配的な社会に幼い時から身を置いてきた若者であることを考えると、彼ばかりを責めることもできないように思われてならない。
 そうした社会のありようを許してしまったのは、私たち一人一人だからである。

 そう考えてみると、加藤容疑者が彼自身の身勝手な理屈で死に追いやってしまった7人の犠牲者の方々、10人の怪我を負わされた方々は、こうした問題を抱えた社会と、そしてそれを背景とした教育の至らなさによって犠牲に追いやられたとも言える。
 こうした理不尽な事件が起こらないよう、そして何の関係もない人が無念の死に追いやられてしまったり自由を奪われたりすることのないよう、社会が「よさ」に向かって成熟すること、そのために教育が望ましい貢献を通して市民の成長に寄り添えるようになることがどうしても必要だと痛感するのである。

 このように考えてみても、未だ釈然としないのは、人の生命を奪う行為がなぜこんなにも軽々とできてしまうのか、ということ。身勝手な理由のために将来を奪われてしまった人々や残されたご遺族・友人の無念さと悔しさを思う時、その疑問はやり場のない怒りと共になおいっそうつのる。
 こうした理不尽な事件があまりにも多すぎ、暗澹とした気分にさせられるが、台風や地震などの自然災害とは異なり、人間が引き起こすところの「人間が主たる原因」「人間の考え方や生き方が主たる要因」の事件であることから、手の施しようがあるという意味で未だ救いがある。
 そこにこそ教育が関与する意義と余地があるとつくづく思うのである。

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自宅サーバもどきの構築 [日記]

 契約しているプロバイダのディスクスペースが気になりはじめた。
 写真や音声データ、ビデオデータなどを公開するためには、大きな容量を消費してしまうからだ。
 自分の空いているPCをネットサーバにすることができれば、プロバイダのディスクスペースを消費することなく、PCのディスク容量が許す限りデータを納めて公開できるのだが、サーバを構築するのは敷居が高そうだ。
 そこで、2冊ほど参考書を買って読んでみると、思いのほか簡単に構築できそうなことが書いてある。
 ほんの数時間もあれば、グローバルIPアドレス取得やPCの設定もできてしまいそうな書きぶりだ。

 だが待てよ、とこれまで幾多の困難に行く手を遮られた経験を持つ私は踏みとどまった。
 数年前に家庭内LANを構築(構築と言うほど大袈裟なものではないが)しようとした時だって、参考書にはすぐにでも接続でき、いかにも容易に互いのPC間でファイルやをプリンタを共有出来そうなことが書いてあったではないか。それにもかかわらず、何度かの試行錯誤を迫られたことを忘れたか、と内なる声が聞こえる。
 何度か試すうちに互いのPC内のフォルダやファイルを閲覧したり編集したりすることが出来るようにはなったが、何が原因でつながらなかったのか、そしてそれがつながったのか、うまく説明出来るかと言えば自信がない。
 いわば「たまたま女神がほほえんでくれたから」そうなったとしか思えないのである。
 我が家のLANに限らず他の家庭でも、「LANは偶然につながっている」と思った方が、PCを責めたり自分を責めたりせずに安穏な生活を送ることの出来る最善の道だと教えたいと思っているほどだ。

 だから今回も参考書に書かれている「簡単にできるぞ」という甘い誘いには乗らないことにしたのだ。
 しかも、富士通のSE部門にいたことのある娘に『自宅サーバを構築すると、後のメンテが大変よ。外から攻撃を受けることも多いから、セキュリティの知識を駆使して万全の体制を作らないと・・・』と脅かされたこともあって、自宅サーバの構築についてはあきらめかけていた。

 しかし、そうした不安を払拭してくれそうなサービスを発見した。
 株式会社九州計装が提供する「yourserver(ユアサーバー)」という無料のサービスだ。
 アナウンスによれば、めんどうな手続きや難しい設定は必要ないという。つまり、固定グローバルIPアドレスの取得などという手続きや別途費用もなしということなのだ。
 またセキュリティーに関しても、中間に九州計装の管理サーバが入るため、他のPCから直接「自宅サーバ」を覗かれるという心配も全くないという。
 専用のソフトをダウンロードし、IDとパスワードさえ設定するだけで我が家のPCをサーバとすることが出来るというのだ。

 早速試してみた。
 「ひょっとしてうまく行かないのでは?」と、これまで幾多の挫折を経験したトホホの権化のような私は大いに懸念したのだが、その心配は無用だった。いとも簡単にそのPCに納めたHTMLファイルをはじめとする関連ファイルをネット上に公開出来たではないか。
これは使える。外付けのハードディスクは320GBもあるのだ。そこにディスクスペースを気にせずどんどん公開したいファイルを流し込んで公開出来るのだ。ありがたいサービスではないか。
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北京オリンピックについて思うこと [日記]

 中国の中央政府とチベット自治区間の問題に関連して北京オリンピックの聖火リレーが注目を浴び、世界各地でトラブルが起きている。
 問題はチベットだけではない。内モンゴルでも青海省でも四川省でも、同様に自由や人権を求める動き、独立や文字通りの自治を求める動きが強まっていることが、中国ではこれらを「暴動」と位置づけ、封じ込めに躍起になっているように見受けられる。
 「暴動」とは、「多くの者が騒ぎを起こし、秩序を乱す行動」のことであるが、世界中のどの国もチベットでの決起を暴動とは見ていない。 人間として、民族として当然の「自由」を求めた動きであって、秩序を乱そうとする不穏な動きではないからだ。
 それゆえ人権に敏感なヨーロッパ各地の国々は、国の代表が開会式参加をボイコットする、あるいは国連が中国とダライ・ラマ14世との話し合いを提案する、といった行動を起こしているのだ。

 中国という国は、私が見るところ人権に限らず「権利」という概念についての認識が浅い、あるいは積極的に無視しようとするところがあるようだ。
 ディズニーのキャラクターの偽物で溢れる遊園地、CDやDVD、日本製漫画やアニメの海賊版の横行、有名ブランド品や絵画のコピーが堂々と作られている実態、食や薬品の安全性を無視した製造と輸出など、権利についての「世界的な共通認識」から逸脱した社会という印象を拭えないからだ。
 そうした認識の浅薄さと無思慮は、「人権」問題についても影を落としているのだろう。「独立など求めていない。高度な自治を求めているのだ」とするチベット亡命政府の主張を「独立を求め、国の秩序を乱す不穏な言動」とすり変えて、それらを力で押さえつけようとする動きは何やらヒトラーを総統としたナチの動きにも似ている。

 そう言えば、ユダヤ人差別を海外諸国から非難されながら、国威発揚と宣伝に国の威信をかけて当時のドイツが開催したベルリンオリンピックとだぶって見えてくる。それは私だけの感想ではないであろう。
 「平和の祭典」という美名の陰で、当時のナチと同じように国民や市民を情報の統制下に置いて「知る権利と自由」という目をふさぎ・奪い、自国の力を誇示するための仕掛けとしてオリンピックを利用・開催するのであれば、それは各国から非難を浴びても致し方あるまい。 聞けば、互いに票の獲得を争っているアメリカ共和党のマケイン候補、民主党のオバマ、ヒラリー両候補とも「ブッシュ大統領は北京五輪開会式への出席が適切かどうか、見極めるべきだ」との声明を発表したとのこと。
 日本はどうするのであろうか。そして長野で行われる聖火リレーはどのように行われるのであろうか。

 そして何よりも、こうした問題を抱えた中国という国で行われるオリンピックに参加しよう(参加したい)という各競技の選手達の「参加意識」「人権意識」を聞いてみたいと強く思われてならない。
 スポーツは政治とは無縁のものである。平和を象徴するスポーツの祭典としてのオリンピックではあるが、それが人権弾圧を覆い隠すことにつながり政治的に利用されるもの(かつてのベルリンオリンピックのように)だとしたら、スポーツ選手であっても無関心であってよいわけがないからだ。
 ドイツでは、ある陸上競技の選手が中国政府に抗議の意を示すために、開会式にチベットの民族衣裳(いしょう)で参加することを考えているというし、ノーベル平和賞受賞者で前ケニア副環境相のワンガリ・マータイさんは、タンザニアの首都ダルエスサラームで行われた聖火リレーに参加しないと宣言し、その通り実行した。
 世界各国でそのような動きがあるのにもかかわらず、日本では政府要人からはもちろん選手の誰からもこの件に関してのメッセージは発信されていない。
 選手にとって晴れの舞台であるオリンピックではあっても、スポーツは人権や自由ほどに重要ではない(と考えるのは肉体虚弱な私の言い過ぎかも知れないが)。
それゆえ各選手に聞いてみたいのだ。
あなたはオリンピックに参加することをどうとらえているか、人権弾圧を実行して平然としている国で行われるオリンピックについてどう思うか、ということについて。

 それにしても、と思うのは、中国の環境汚染の現状についてである。
 大量に酸素を吸入しなければならないアスリートが、この汚染された大気の中でまともに競技を展開することなどできるのであろうか。
身体を支える食の安全が確保できるのであろうか。
 どこからどう見ても、(仮に私が代表に選出された選手であるなら)積極的に参加したいと思える状況ではないにもかかわらず選手として参加したいと考える人のいることが不思議でならない。選手に限らず、観客としてであっても「頼まれても行きたくない、できれば避けたい」と思っているのだ。行けば否が応でもあの北京のスモッグで汚れた空気を吸うしかないのである。そしてそれ以上に三度三度の食事も摂らなければならないのだ。私にとっては、それは自殺行為にしか思えない。
 報道関係の人々の中には、逡巡したり、何らかの覚悟?を決めて命懸けで出向く人がいるかも知れない。同情を禁じ得ない、と思うほどだ。
それでも行きたがる人がいる、ということが不思議でならないが、それは対チベットの問題とは別。

 さまざまな意味で問題山積のオリンピックであることは間違いがない。
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12月8日である [日記]

 今日は12月8日。日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に一方的に突入した日である。
 アメリカ・イギリスを鬼畜米英と名付けて戦をしかけ、日本国民はもとよりアジア各国の国民に多大なそして悲惨な犠牲を強い、ついには広島・長崎における人間の歴史始まって以来の惨劇を経験することによってようやく目を覚まし、敗戦国としての憂き目を見ることになる「あってはならなかった戦争」に突入した日だ。

 今日はコカリナ奏者、大久保久美氏の下館(茨城県筑西市)でのコンサートのお手伝い。
 こちらはコカリナの伴奏のために家内がピアノで、私がシンセサイザーで参加。またプログラムの多くの曲の伴奏づくりをDTMで行ったことから、いわばプリミティブで素朴な楽器の典型ともいえるコカリナとハイテク代表のシンセとのコラボというおもしろい組み合わせによるコンサートである。
 西欧の楽器の代表とも言えるピアノ、アメリカ生まれの現代的な楽器のシンセサイザーを、この12月8日のコンサートで演奏し、その恩恵に浴するということに関して、何か複雑な思いも抱かざるを得ない。

 それはともかくコンサートは無事終了。
 明日は家内の主宰するピアノ教室の発表会。かわいらしい子どもたちの演奏が保護者の前で披露される。楽しみである。
 私は、写真やビデオの記録、演奏の録音と大忙しの半日になる予定。今から機材の点検をしなければならない。
 なんと言っても一発勝負。失敗は許されないので緊張を強いられるし、準備を怠りなくしておかなければと肝に銘じて周到な用意をと思っているところである。


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還暦祝い [日記]

昨日(12/01)、二人の娘達夫婦が私の還暦祝いを催してくれた。12/03の誕生日で還暦を迎えることになるので、祝ってくれたのだ。
長女とお婿さんは、横浜から駆けつけてくれた。次女は、現在里帰り出産のため帰省しているが、お婿さんは川崎から車を飛ばしてきてくれた。長女が土浦の老舗料亭「霞月楼」の中庭の見える部屋を予約しておいてくれたという。
霞月楼は、明治22年創業の格式の高い料亭で、霞ヶ浦航空隊の将校もよく利用したことで栄えた店であるが、飛行船「ツェッペリン」や大西洋単独横断飛行で有名な「リンドバーグ」とも関係の深い店だ。
ツェッペリンもリンドバーグも霞ヶ浦飛行場に降り立ったことがあり、その際にはこの料亭で華々しく歓迎会や食事会が催されたとのことで、その折の写真や新聞記事などが玄関脇の資料室に展示されている。

そうした展示物の中には、吉田茂首相や池田勇人などの政治家が訪れた際の写真や山本五十六元帥の直筆の手紙、その他の著名人の写真なども多数ある。中でも圧巻なのが、河童の絵で有名な小川芋銭から贈られたという河童とかわうその描かれた掛け軸。大きさもさることながら大胆な筆運びで描かれた動的な構図による絵に圧倒される。

そんな歴史を誇る老舗料亭でいただく料理の数々は、まさに祝いの膳にふさわしい見事なつくりのものばかり。

すばらしい料理の数々だったが、そんなことより何より、こうした祝いの席を設けてくれた娘たちに感謝の言葉もない。

何とありがたいことだろうか。これまで、世俗的な楽しみを何も与えてやれなかった父であるにもかかわらず(本当に、他の家庭のように旅行やイベント、遊びに連れて行くなどということができなかったのだ)、こうして宴を計画し、遠路駆けつけてくれる娘たちには申し訳のない気持ちと感謝の気持ちがないまぜになって、それを言葉でどう表現してよいかわからないでいるのが現実。

それにしても子どものときに見た「還暦」を迎えた祖父をはじめとする人々は、おじいさん然として立派だった。

我が身を振り返ると、そうした姿にはほど遠く、何とも情けない気持ちになるのだが、「年だけはとっているが」と思われないように、また自らも蔑まずにすむよう「実ること」を追い求めていきたいものである。




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笑っては失礼だが [日記]

 生まれも育ちも茨城県である私は、茨城県特産の納豆が大好きである。
 一日に必ず一パックは納豆を食するほどであり、我が家の冷蔵庫には4~5日分の納豆が常に入っている。残り少なくなると何を措いてもスーパーマーケットに出向いて購入し、欠かさないようにしていて、安売りの日などはそれだけで嬉しくなり、ついつい余分に買ってきてしまうほどである。

 ところが、先日行きつけのスーパーマーケットに納豆を手に入れるために(それだけのために)出かけたのだが、陳列棚にいつもの納豆がない。すっかりないのである。いやに高い値段の納豆しか置かれていない。
 どうしようかと躊躇し他の店に行ってみようかと逡巡したのだが、それも面倒なのでやむなくその高い納豆を購入してきた。帰宅してそれらを冷蔵庫におさめ、『やれやれ、これで2~3日は大丈夫』と安心はしたものの、急にいつもの製品が姿を消していたことの原因は思い当たるふしがない。不思議に思っていた。

 出かけていた家人が帰宅したのでそのことを話したところ、思い当たることがあると言う。前日にあるテレビ局の番組で、「一日二パックの納豆で容易にダイエットができる」という内容の放送をしていたと言うのだ。それだ、それに違いない。
 おそらく、その番組を見た人たちがワッと納豆を買いに走ったのであろう。それから何日間かは、そのスーパーマーケットの納豆の陳列棚は寂しい限りであった。早い時間には売り切れてしまうようなのだ。

 しかし納豆だけでそんなにお手軽にダイエットができるのだろうか。しかもその番組では、普段と同じように食事を摂ってよい、その上に納豆を食べるだけで痩せられると言っていたと言う。普段の食事に加えて余分な食物を摂れば、いっそう太りそうなものではないかと家人と話していた矢先、その番組はデータを捏造し、偽った内容の放送をしていたと今日のニュースで報道されていた。
 視聴率を稼ぎたい余り、偽りの情報を流すメディアもメディアだが、やみくもに放送の内容を信じ込み、しかも「手軽さ・容易さ」に誘惑されてその製品を買いに走った試聴者も、何とも浅ましいとしか言いようがない。どちらも軽佻浮薄に過ぎはしないか。

 この話題に限らず、このところの風潮を見ていると「日本人の浅ましくなってしまった姿」ばかりが目につく。
 昨日はNHKの「週間子どもニュース」(よくできた番組で、子どもにわかりやすく、しかも嘘にならない解説をしてくれるお薦めの番組なのだが)では、マグロの漁獲制限の話題を取り上げていた。
クロマグロやミナミマグロの漁獲量が従来の20%程度削減されること、しかも全世界の60%を日本が消費していること、などの説明まではよかったのだが、『魚が食べられなくなったら困るよね』と言い出した。マグロだけが魚ではあるまい。たとえマグロを食べる頻度がこれまでより減ったにしても、他にも魚はたくさんある。マグロがこれまでのように食べられなくなったからと言って、魚そのものを食べられなくなるわけではない。
 もしかすると『マグロが食べられなくなったら~』を『魚が~』と言い間違えてしまったのかも知れないが、それにしてもマグロが食べられなくなったらそんなに困るのだろうか。

 全世界の60%を消費し、あちこちの海洋を漁り、マグロそのものの数を減少させてきたにもかかわらず、その迷惑も顧みずまだ食べたい、食べられなければ困る、という感想はどこから出てくるのだろうか。
 マグロが食せないからと言って命にかかわるわけでもあるまい。
 牛丼騒ぎのときにも感じたが、日本人はまるで舌と胃を満足させるためにはどんなことでもしかねないかのようだ。食に対する欲、しかも他を顧みない欲にも浅ましさを感じざるを得ない。。(これではまるで聞き分けのない子どものようではないか。いや子どもだってちょっと賢い子どもなら「将来のため、資源保護や環境保護のため我慢しよう」と考えるところである。)

 そのように舌と胃を満足させ、太ってしまった体をもてあまし、手軽にできるダイエット、メタボリックシンドロームを改善する手だてに飛びついた挙げ句が今回の納豆騒ぎである。笑うしかないではないか。


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