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北京オリンピックについて思うこと [日記]

 中国の中央政府とチベット自治区間の問題に関連して北京オリンピックの聖火リレーが注目を浴び、世界各地でトラブルが起きている。
 問題はチベットだけではない。内モンゴルでも青海省でも四川省でも、同様に自由や人権を求める動き、独立や文字通りの自治を求める動きが強まっていることが、中国ではこれらを「暴動」と位置づけ、封じ込めに躍起になっているように見受けられる。
 「暴動」とは、「多くの者が騒ぎを起こし、秩序を乱す行動」のことであるが、世界中のどの国もチベットでの決起を暴動とは見ていない。 人間として、民族として当然の「自由」を求めた動きであって、秩序を乱そうとする不穏な動きではないからだ。
 それゆえ人権に敏感なヨーロッパ各地の国々は、国の代表が開会式参加をボイコットする、あるいは国連が中国とダライ・ラマ14世との話し合いを提案する、といった行動を起こしているのだ。

 中国という国は、私が見るところ人権に限らず「権利」という概念についての認識が浅い、あるいは積極的に無視しようとするところがあるようだ。
 ディズニーのキャラクターの偽物で溢れる遊園地、CDやDVD、日本製漫画やアニメの海賊版の横行、有名ブランド品や絵画のコピーが堂々と作られている実態、食や薬品の安全性を無視した製造と輸出など、権利についての「世界的な共通認識」から逸脱した社会という印象を拭えないからだ。
 そうした認識の浅薄さと無思慮は、「人権」問題についても影を落としているのだろう。「独立など求めていない。高度な自治を求めているのだ」とするチベット亡命政府の主張を「独立を求め、国の秩序を乱す不穏な言動」とすり変えて、それらを力で押さえつけようとする動きは何やらヒトラーを総統としたナチの動きにも似ている。

 そう言えば、ユダヤ人差別を海外諸国から非難されながら、国威発揚と宣伝に国の威信をかけて当時のドイツが開催したベルリンオリンピックとだぶって見えてくる。それは私だけの感想ではないであろう。
 「平和の祭典」という美名の陰で、当時のナチと同じように国民や市民を情報の統制下に置いて「知る権利と自由」という目をふさぎ・奪い、自国の力を誇示するための仕掛けとしてオリンピックを利用・開催するのであれば、それは各国から非難を浴びても致し方あるまい。 聞けば、互いに票の獲得を争っているアメリカ共和党のマケイン候補、民主党のオバマ、ヒラリー両候補とも「ブッシュ大統領は北京五輪開会式への出席が適切かどうか、見極めるべきだ」との声明を発表したとのこと。
 日本はどうするのであろうか。そして長野で行われる聖火リレーはどのように行われるのであろうか。

 そして何よりも、こうした問題を抱えた中国という国で行われるオリンピックに参加しよう(参加したい)という各競技の選手達の「参加意識」「人権意識」を聞いてみたいと強く思われてならない。
 スポーツは政治とは無縁のものである。平和を象徴するスポーツの祭典としてのオリンピックではあるが、それが人権弾圧を覆い隠すことにつながり政治的に利用されるもの(かつてのベルリンオリンピックのように)だとしたら、スポーツ選手であっても無関心であってよいわけがないからだ。
 ドイツでは、ある陸上競技の選手が中国政府に抗議の意を示すために、開会式にチベットの民族衣裳(いしょう)で参加することを考えているというし、ノーベル平和賞受賞者で前ケニア副環境相のワンガリ・マータイさんは、タンザニアの首都ダルエスサラームで行われた聖火リレーに参加しないと宣言し、その通り実行した。
 世界各国でそのような動きがあるのにもかかわらず、日本では政府要人からはもちろん選手の誰からもこの件に関してのメッセージは発信されていない。
 選手にとって晴れの舞台であるオリンピックではあっても、スポーツは人権や自由ほどに重要ではない(と考えるのは肉体虚弱な私の言い過ぎかも知れないが)。
それゆえ各選手に聞いてみたいのだ。
あなたはオリンピックに参加することをどうとらえているか、人権弾圧を実行して平然としている国で行われるオリンピックについてどう思うか、ということについて。

 それにしても、と思うのは、中国の環境汚染の現状についてである。
 大量に酸素を吸入しなければならないアスリートが、この汚染された大気の中でまともに競技を展開することなどできるのであろうか。
身体を支える食の安全が確保できるのであろうか。
 どこからどう見ても、(仮に私が代表に選出された選手であるなら)積極的に参加したいと思える状況ではないにもかかわらず選手として参加したいと考える人のいることが不思議でならない。選手に限らず、観客としてであっても「頼まれても行きたくない、できれば避けたい」と思っているのだ。行けば否が応でもあの北京のスモッグで汚れた空気を吸うしかないのである。そしてそれ以上に三度三度の食事も摂らなければならないのだ。私にとっては、それは自殺行為にしか思えない。
 報道関係の人々の中には、逡巡したり、何らかの覚悟?を決めて命懸けで出向く人がいるかも知れない。同情を禁じ得ない、と思うほどだ。
それでも行きたがる人がいる、ということが不思議でならないが、それは対チベットの問題とは別。

 さまざまな意味で問題山積のオリンピックであることは間違いがない。
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