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有馬氏の報道に接して

 一昨日(2007/02/17)の産経新聞に『ゆとり教育で自信も失った若者』という趣旨の記事が掲載された。
 内容は次の通りである。
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                 ~略~
 昨年12月下旬、福島県相馬市から県立相馬高校の2年生14人が、元文部大臣の有馬朗人氏(77)を東京に訪ねてやってきた。

 生徒たちは研究発表の資料を携えていた。「学力低下の要因の1つは『ゆとり教育』」「授業で習うことが社会で役に立たないから、学習意欲・関心が低下している」「教員の質も問題だ」…。資料には有馬氏を詰問するかのような学力低下の“分析結果”が並んでいた。

 物理学者で東大総長も務めた有馬氏は、平成8年に「ゆとり」「生きる力」を打ち出した中央教育審議会の当時の会長だ。

 生徒たちは、理数教育を推進する「スーパーサイエンスハイスクール」活動の一環として教育の科学的考察に取り組んだ。きっかけは、昨年12月上旬に発表された「生徒の国際学習到達度調査(PISA)」の結果で、「日本の順位がまた落ちた」という報道だ。

 「学力は下がっていない」。きっぱりと反論する有馬氏に、生徒は目を丸くした。熱弁は2時間近くに及んだ。

 有馬氏は内心ではこう嘆いたという。「自分たちが悪い教育を受けてきたと思っている。過度の『学力低下』批判が、子供たちの自信を失わせた。学力の問題より、こちらの方が大変なことではないのか」
                   ~略~
 中教審委員として前回と今回双方の指導要領改定に携わり、私立有名進学校を経営する「渋谷教育学園」の田村哲夫理事長(71)は、ゆとり教育の目指したものについて「教育の目的は不測の事態への適応力をつけるための訓練。高めるには知識などの学力が3割、意欲や思考力などが7割-が心理学の定説だ。前回の改定は、学力訓練に注力しすぎた教育をただすためだった」と位置づける。
だが、「時間を減らしたら、教える側が何もしなくなってしまったのが実情。できた余裕が現場でまったく生かされず、マイナスだけが出てきた」と、今回、30年ぶりに授業時間増に転じる理由を説明する。

 「『ゆとり』には、地域社会と大人が土日は時間のゆとりを持って子供たちと過ごし、子供を鍛えてほしいという意味も込めていた」と有馬氏は言う。
 「答申後、文部省(当時)の役人とともに全国を回ればよかった。ゆとりの意味はこうだ、とていねいに説明すべきだった。後悔している」

                  ~以下略~
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 「ゆとり」という言葉が、社会的にもそして学校内でも誤った認識、あるいは表面的で浅薄なとらえによる認識がされ、その誤解に基づいて教育実践やそれに対する批判がなされた結果、このような事態に立ち至ったということは、これまでも指摘してきた通りであるが、有馬元会長の述懐からもそれは窺えよう。
 田村氏は「知識などの学力」と学力の内容を規定しているが、それ自体が問題だという認識に立たなければ「ゆとり教育」と呼ばれた教育のめざしたものを深いところで理解し、その理念の実現に向かう実践は困難だということに私たちは気づかなければならない。
 当時提言された「新しい学力観」とは、学力を「学んだ結果得た力=知識の量」としてではなく、それも含めた「学ぶ力=学ぶ意欲、学ぶ構え、ものの見方・考え方・とらえ方、学び方等々」として広げてとらえるべきだ、と認知科学や心理学の成果を踏まえて示されたものであったはずだ。すなわち、氏の言うように「学力が3割、意欲・思考力などが7割」といった具合に並列でとらえるのではなく、学力とは「学ぶ力」であると同時に、学ぶ力を発揮し学んだ結果獲得された「知識や技能」もその中に含める、ととらえることが妥当なのだ。
 
 しかし、知識や技術を獲得すること、蓄えることを主眼とした教育を受けてきた世代は、そのことに不安を覚えたのだ。百科全書的な知識を蓄えることがいわゆる「勉強」であり、覚えることを抜きにした教育など考えられない、と批判を展開したのが「学力低下論議」のそもそものスタートだったと考えられる。
 自分たちの受けてきた教育こそ「教育」である、とするノスタルジックな教育観・学校観・学習観から脱却できなかった人々は、知識の豊富さこそ学習の証であり、それは当然ながらテストの点数に結びつかなければ意味を持たないはずだ、と主張してきたのだ。
 そしてついには、テストで高得点を得ることが「高い学力」の証であるとする、すこぶる狭い教育観に自分たちを追い込むことになったのであろう。
 自分たちを追い込んだばかりではない。
 教育についての議論を「学力か意欲や思考力か」の二者択一の低次な論議に引きずりこんでしまったというのが実情であろう。
 市民にも見えやすくわかりやすい、すなわち教育学とは無縁の低次なその論議はこれまでのところ成功し、「教えなければ教育は成立しない」という基本的な姿勢を持った指導要領の施行にまで達してしまった。

 「人間はなぜ学びに向かおうとするのか」「学ぶとは人間の中で何が何が起きていることなのか」「何が学びを引き起こすのか」「よりよい学びとはどのようなものか」「学ぶことと習うことの本質的な違いは何か」などといった学習観・人間観についての検証と検討を抜きにした教育論議は、ともすると人間(子ども)のための教育(あるいは学習指導)という重要で不可欠な視点をどこかに置き去りにしてしまう。
 ついには、受験のための勉強をさせることこそ学校教育の目的であるとする、人間不在の教育観まで出現してしまうのは、やむを得まい。その結果が、つい先頃、杉並区立和田中学校で始まった「夜スペ」などの教育者なら考えもしない突飛な実践などの実施と言える。
 
 学習観・人間観・教育観については、よほどしっかりした研究と思索・研修の中でしか
構築することは難しい。その難しいことに敢えて踏み切った「新しい学力観」に立つ教育提言だったが、有馬氏の言うように「ていねいで懇切な説明」を欠いてしまったために、誤解の上に誤解が生じ、誤解に立った批判が先行し、現在のような混沌とした状態に立ち至ったことはすこぶる残念なことである。
 学習への自信や勇気を獲得し、生きた力としての「学力」を身につけさせようとしたのに、「ていねいで懇切な説明」が不十分だったために、当時の子どもたちから肝腎の「自信と勇気」、「学習への意欲」を削いでしまったことは、文科省の大いなる失策としか言いようがない。
 そしてもっと残念なことは、「ていねいで懇切な説明」が不足したためとは言え、「新しい学習観・教育観・学力観」について十分に理解が及ばなかった教育専門職たる現場の教職員・教育行政職などの認識の浅さについてである。 
未来に生きる子どもたちのためにどのような学習が望ましいか、それはなぜか、といったことについて考えれば、当時提言された「教育観」に対する理解はもっと進んだはずだったと思われる。「子どものために」という視点を抜きにした教育論議の底の浅さと危険さを思い、これからの教育の方向を過たないようにしなければならないだろう。


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笹木 陽一

ご無沙汰しておりました。メールの私信でとも思いましたが、新しい学習指導要領改訂案が示された今日、改めて自らの考えをオープンにしておく事が必要と考え、ブログにコメントさせていただきます。いつものように長くなってしまうかもしれませんが、あらかじめご了承ください。
 昨年11月に中教審の審議のまとめが示され、そこでは現行学習指導要領の理念である「生きる力」を引き継ぎ、従来の「新しい学力観」を踏襲するとしながら、基礎的・基本的な知識・技能の習得に力を入れ、「確かな学力」の確立のために授業時数を増やすといった提言がなされていました。先月17日に出された答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校の学習指導要領等の改善について」においてもその路線に沿った提言がなされていたので、今回の指導要領案に目を通しての感想は「大方予想通り」という感じです。でも予想し切れていなかったというかイメージできていなかったのは、冒頭に改悪された教育基本法と学校教育法が掲げられ、それとの関連を強く意識して今回の指導要領の内容が編まれており、特に教育基本法第2条と学校教育法第21条にある「教育の目標」に基づき、「全教育課程を総動員して道徳的徳目を徹底させよう」という意識が明確に打ち出されているということです。総則の第1の1からして従前の「法令およびこの章以下に示すところ」という文言の前にわざわざ「教育基本法及び学校教育法その他の」という言葉がおかれ、現行指導要領の柱であった「自ら学び自ら考える力の育成」の文言が消えた代わりに、「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ」ることが方針となっています。道徳教育については前指導要領(平成元年告示)の総則には一切なかった記述が、現行の14行を大幅に上回る20行に渡って細かく規定されるとともに、教育の目標が現行同様「教育の根本精神」と言い換えられ、「伝統と文化を継承し、発展させ」「公共の精神を尊び」との文言が加えられています。「人間としての生き方の自覚」の前にわざわざ「道徳的価値に基づいた」と書き加えているところを見ると、法律に規定された道徳的価値を持ち合わせていない者は人間としての自覚がないとでもいわんばかりです。阿倍前首相が著書で力説していた「ボランティアの義務化」を連想させる「職場体験活動」(これはすでに「キャリア教育」の名で教育現場に導入されています)が、「豊かな体験」の実際例として書き加えられており、さらには「自他の生命を尊重し、規律ある生活ができ、自分の将来を考え、法やきまりの意義の理解を深め、主体的に社会の形成に参画し、国際社会に生きる日本人としての自覚を身につけるようにすることなどに配慮しなければならない」のだそうです。安部前首相は退陣しましたが、その首相就任演説で彼が語った「学力と規範意識」のオンパレードといった感じです。道徳教育の強調はまだ続きます。全ての教科において「指導計画の作成と内容の取り扱い」に「第3章道徳の第2に示す内容について」教科の特質に応じて適切な指導をすることが位置づけられ、「道徳教育推進教師」がおかれて、全教師・全教育活動をとおして道徳性の育成が図られるのだそうです。
 教育再生会議は道徳を「徳育」として教科化することに最後までこだわっていましたが、それへの配慮なのか「全教科の徳育化」が目指されているといっても良いでしょう。私は堀尾輝久氏のいう「人格形成学校」という方向性を支持する者ですが、それは決して上から徳目を押しつけ徹底することではありません。一昨年の教育基本法改定において最も問題を感じ強く反対していたのが、「教育を通した徳目の強制」でした。この1年半、教育再生会議の議論から始まり教育基本法・教育関連法案の改悪、中教審の答申を経て学習指導要領の改訂まで、安倍氏が「美しい国へ」で示した「教育の構造改革」は、悔しいかな見事なまでに現実のものになっています。安倍氏のような右派政治家に限らず、多くの一般の人々がイメージしている「学力」とは、きわめて古典的で狭い「習得すべき知識・技能」に限定されたものなのでしょう。先生が引用している田村氏の「学力3割」という考え方からして、そういった旧来の学力観に基づくものです。私は「新しい学力観」について、決して全面的に賛同する者ではありませんが、それでも70年代までの「詰め込み教育」への反省にたって思考力・判断力・表現力・学ぶ意欲など重視する教育への転換が図られた事は評価しています。80年代には「自己教育力」90年代からは「生きる力」というスローガンの下で、国は「ゆとり教育」とよばれる教育改革を進めてきました。振り返ってみれば私の中学校の頃に方向転換が始まり、大学で教員免許を取っている時期に「生きる力」の理念が叫ばれ、教師になってから現行の学習指導要領の下で「ゆとり教育」を推進してきたことになります。教科が音楽であったこともあり、こういった教育の流れを受け入れやすかったというのもあります。2002年には「明治の学制以来最大の教育改革」等といわれてその気にもなったのですが、残念ながらその時点で最も必要であった「教育観・学校観・学習観の転換」は人々に共有されることなく、従来通りの「受験学力偏重」の価値観が保たれたのでした。受験制度そのものの見直しがなされなかったのですから、ある意味当然といえば当然です。文部科学省も現行指導要領の告示前から学力低下論の圧力に押され、「確かな学力の向上のための2002アピール『学びのすすめ』」を発表しスタンスの不明瞭さを露呈していました。「ゆとりも学力も」という矛盾したスタンスなのですから、ある意味今回の改訂に見られるような「画一的詰め込み教育への逆行」は避けられない結果だったのかもしれません。(続きます)
by 笹木 陽一 (2008-02-20 19:58) 

笹木 陽一

(続きです)有馬氏が「説明不足だった」といっておられるようですが、もしかしたらどんなに説明しても、日本社会に根強い「学歴=偏差値信仰」は変わらなかったのかもしれません。ただいえるのは90年代のバブル崩壊以降、経済の低迷を克服するべく推し進められた新自由主義的な改革は、特定の企業や既得権益を持つ人々の利益にはなったかもしれませんが、社会のあらゆるセーフティーネットを破壊し、ワーキングプアやネットカフェ難民と呼ばれる新たな貧困層を生み出し、格差を固定化させ人々の生きる希望を失わせてきた事がはっきりしているにもかかわらず、今後も相変わらず能力主義に基づく競争原理を導入し続ければ、日本社会の破綻は避けられないところまできているということです。知識を詰め込みその量を競い合う「勉強主義」では、新たな可能性を持つ若い人々はますます潰されていってしまいます。1月にお話を聞いた佐伯胖先生は講演の中で「学校文化の持つ勉強主義が、コミュニケーション能力の劣化の元凶であり、学びを教えの従属変数と見なす教育依存症から脱して、共感に基づく学びの実践共同体を構築していく必要がある」と力説していました。今回提示された学習指導要領が重視する「基礎的・基本的知識及び技能の確実な習得」という言葉は、アメリカのブルームらが提唱した「マスタリーラーニング(完全習得学習)」を連想させますが、それについても佐伯先生は「勉強主義の典型であり、やらねばならない学習ばかりに追われ、現実世界における意味や文脈を目隠しされたまま順次習得することが求められるので、看護学校などではよく学ぶ真面目な人ほど脱落していく」と指摘していました。現行指導要領と同時に導入された「目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)」にはマスタリーラーニングと同様、学習者を目標で管理し勉強に追い込んでしまうという側面があります。「教える内容」が規定され、それの習得を目標として学習が行われれば、先生も以前指摘していらっしゃったように目標に照らして「できるが/できないか」ばかりが問われてしまい、ますます「学びからの逃走(佐藤学)」に拍車がかかるのは火を見るより明らかです。単なる「教え込み」ではなく時数の増加によって「知識の活用力」を育てるのだといってはいますが、新しい指導要領を見る限り、教えるべき内容ははっきりと増加しており、最低基準性も明確化されてますます「教えなければ教育は成立しない」という世界になってしまうことでしょう。(また続く)
by 笹木 陽一 (2008-02-20 20:04) 

笹木 陽一

(また続きです) 「反・教育入門」の著作がある愛知教育大学の子安潤氏は、『反「学力」の教育へ』 という文章で次のように言っています。「そもそも法律の中に教育の目標を記述することには問題があるのだが、教育の要とも言うべき内容を、政治家や行政が決定することは、教育活動を歪めるものである。自身の政治的意図に都合よく教える内容を選択されたのでは、子どもや保護者そして教師はかなわない。これは、「学力」の内容的支配を意味し、思想信条の自由の浸食である「愛国心」問題以上の重大な事柄である。政治によって教える内容の真偽が変わってしまう可能性さえ宿している。行政的決定とは異なる仕組みが別に必要なのである。」「教えるべきこと=指導内容(学習指導要領)」の政治的恣意性から距離を置きつつ、「教えたいこと=教師の主体的教授」と「学びたいこと=子どもの自発的・意欲的学習」が「子どものための教育」というフィールドで上手く絡み合うような実践を求めたいと思います。いつでも子どもの「学びたいこと」を中心において、子どもの発達にとって必要だと思うことを「教えたいこと」として重点化し、できればその指導が「教えるべきこと」と整合性を持つように教育課程を編成する。あくまでも理想もしれませんが、「まず指導要領ありき」のトップダウン型教育の方向には肯首しないという姿勢を、いつまでも持ち続けたいと思います。そのためにはもっともっと学ばなければなりません。最後に私自身がこれからの教育実践を進めていくにあたって、しっかりと考えていきたい論点を4つ掲げておきます。
①「学力」概念の再考
 観点別学習状況の評価に挙げられた「関心・意欲・態度」「思考・判断」「表現・技能」「知識・理解」の4つが、どのような学力構造をなしているのか。具体的には、音楽科に おける学力とはいったい何なのかを明確化する。 
②評価の機能を重視した学習観の確立
「知識・理解・技能」の習得を見る測定的・総括的評価ではなく、学習のプロセスにおい て日常的に働く効果的な形成的評価のあり方を探る。 
③「学び」の自律性に基づく確かな教育哲学の構築
「自ら学ぶ」の理念が後退した新たな教育の中で、いかにして「学習者主体の教育」を  担保することができるか。北海道教育大学前学長の村山紀昭先生の学習会「教育人間塾」 に3月から参加します。福沢諭吉「学問のすすめ」「教育論集」の精読から始めて現代 の教育問題を語り合う会になりそうです。
④あくまでも「子どもの側に立った教育実践」を続けていく事
 実はこれが一番大切であり、エネルギーのいることでもあります。先日「日本学校音楽 教育実践学会」の第1回北海道支部例会に参加したのですが、その時に地方の先生方
(全空知音楽教育連盟の皆さん)と知り合いになり意気投合しました。仁田先生のホーム ページを知っている方もおり、志を同じくして実践を交流できる仲間が増えそうです。「がんばらない、あきらめない、楽しみたい、つながりたい」の精神で、一歩一歩実践を 積み重ね、皆さんと共有していきたいと思います。

 久しぶりのコメントにもかかわらず、相変わらず上手くまとまらず長くなってしまいました。申し訳ありません。北海道でもこの春から教員評価や査定昇給制度が導入されることとなり、ますます勤労意欲が奪われがちな状況ではありますが、管理職や行政の目を気にして萎縮した仕事をするのではなく、「子供のために」精一杯実践を積み重ねたいと思います。上述した「全空知音楽教育連盟」のブログ「心から心へ」に、先生のブログを紹介するコメントを書かせていただきました。今後北海道の音楽教師が先生のブログにアクセスすることもあるかと思います。私共々今後ともよろしくお願いいたします。
by 笹木 陽一 (2008-02-20 20:05) 

おじおじ

笹木先生、コメントをありがとうございました。
お返事は長くなりそうですので、メールへの添付ファイルで笹木先生宛に送信させていただきます。
ありがとうございました。
by おじおじ (2008-02-21 18:31) 

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