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教育の理念を

 読売新聞朝刊に、「時代の証言者」というコラムがある。
 ここしばらくは、将棋の米長邦雄永世棋聖が自ら綴った文章で構成されている。
 昨日の同コラムで米長は次のように述懐している。
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 私の教育方針のもう一つの大きな柱は、「ゆとり」教育の理念を広めることでした。
「ゆとり」教育とは「ゆとりある」教育なのに理解されていなかったようです。
「ゆとり」の一環として導入されたのが「総合的な学習の時間」です。
 子供たち自身が学習の主体となり、自主的な体験活動を通じて生きる力を育み、知識ではなく知恵の大切さを学ぶことが理念です。
 しかし、子供たちの学力のどういう部分かはともかく、学力が低下したのは「ゆとり」が原因だという意見が出始め、総合学習の時間を減らす動きが出て来ました。
それでは従来の知識偏重の教育に戻るだけです。

 総合学習も将棋と同じです。生徒に好きなようにさせて、失敗という「要手」を指せば、そこで元に戻る「待った」を認めることで、生徒に何が問題だったのか考えさせます。
つまずけばやり直しをさせればいいのです。
一度失敗したからこそ、成功した時の達成感はひとしおです。
 人が考えた正解を暗記し、それを答案に書いてはめられる教育を受けても社会では通用しません。
 生徒は最初から最善手など指さなくて良いのです。
 日本の子供たちの判断力や応用力が落ちていると指摘されていますが、「ゆとり」をもっと活用することで改善できると思います。
失敗から学べば、自然と考える力は身につくのです。
将棋では「悪手」と「待った」は厳禁ですが、総合学習ではむしろ奨励するのです。
先生の信頼回復と「ゆとり」の理念を強調した8年間でした。
                        米長邦雄
          読売新聞 朝刊「時代の証言者」
                       2008/01/29
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 この記事を紹介しようと思ったのは、何よりも読売新聞の記事だから、である。
 学力低下の論陣を張り、「ゆとり教育」批判を率先して展開してきた読売新聞が、社内の記者や編集者の書いた記事ではないにしても、こうした内容の記事を掲載することがあるのだ、ということに少し驚いたからである。
 米長の言葉にあるように、日本の教育は単に「知識」を覚えるのではなく、知恵の大切さを学ぶこと(習うのではない)が大切だとする、本来の学校の姿に立ち返るべきである。
 そのためには、教育理念を確立することこそ最も重要なのだが、今や教育理念をかなぐりすてて受験に特化した教育こそ「学力伸長」のよい教育だ、とする安易な学力観に立つ経営が受け容れられつつある。
 
 その典型が杉並区和田中学校の「夜スペ」の問題。
 都教委が一度は待ったをかけたものの、学校が行うのではなく保護者らボランティアの学校支援組織「地域本部」が進学塾と連携して行うものだから「教育の機会均等をおかすものではない」という主張に押され、一転容認の姿勢に転じ、このほど始まったものである。
 数多くの問題を抱えてのスタートだが、何よりも問題なのは学校教育の目的は受験の技術を身につけさせることにあるのではないはずなのに、公教育の場に塾の講師を招致して塾の授業を行う、ということにある。
 一見「教育活動のように見える」塾の授業は、教育理念や教育研究を柱(あるいはベース)としていない、という意味で学校教育とは別物。
 民間出身の校長が思いつきで考え出しただけなら愛嬌ある過ちとして許せるが、都教委も文科省もそれを容認するという事態は、学校教育についての理解の浅さを自ら露呈したものとしか言いようがない。

 聞くところでは、この和田中学校の話は、新聞やテレビで報道されたようなものではないようだ。
 地域の要請で始まったように書かれていたが、単に、学校長(民間会社出身)の思いつきだったというのだ。
 やはりそうだったか、と思わざるを得ない。推測するに、そうした校長の「思いつき」が先だってあり、PTAなどの支援組織と称するものが「自分の子どもの都合」のよい解釈に立って、その話に乗ったというのが実情なのだろう。
 
 しかも生徒を募集してみたら、2,3人しか応募者がおらず、これでは困ると、ある部活動の顧問が生徒をかき集め、なんとか8人ぐらいにしたとも漏れ聞く。
 さらに驚くことに、希望した生徒の一人が成績があまりかんばしくなかったために、藤原校長はその生徒の親御さんに、夜間授業の申し込みは辞退するように言ってあきらめさせたというのだ。
 こうした実践のどこに「教育哲学」があるというのだろうか。どこに「子どものための教育実践」であると胸を張って言える理論的根拠や理念があるのだろうか。あるいは、長期的展望に立った「日本の教育をより望ましい姿に」というビジョンがある、というのだろうか。
 
 こうした動きが容認され、全国に広まれば学校教育はますます崩壊への道をたどることになる。そういう取り返しのつかない状態に陥ったとき、誰がどのように責任をとるのだろうか。この校長だけの責任ではない。これを容認しようとしている文科省(この人だって教育についてはずぶの素人の一介の議員でしかない)の責任でもあるし、この話題を積極的に取り上げ、是とするかのような報道で煽り続けたマスコミの責任でもある。
しかし、おそらく年金問題でも明らかなように、誰も責任を負おうとしない、あるいは負えない状況で「どうにもならない」というような事態しか予想できず、暗澹とした思いにかられている教育関係者は少なくないはずだ。


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