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気は確かか? [学校教育]

 先走ったこのような方策がいずれどこかの県や市の教育委員会から打ち出されるであろうと思っていた矢先、東京都足立区の教育委員会から次のような方針が出された。
 それは、都と区が実施する学力テストの成績などに応じて、区立の小中学校に配分する予算に差をつけるというものだ。各学校を4つのランクに分け、中学校の場合には約500万~約200万円までの間に振り分けて配当するのだという。

 「教育バウチャー制度」を率先して施行するという、安直な「お先棒担ぎ」としか思えないような報道に接して唖然としてしまった。
 安倍政権が言い出した「教育バウチャー制度」については、未だ方針として定まってはいない検討段階のものではないか。であるにもかかわらず性急に実施に移し、区内の小中学校の教育について、単に「学力テストの結果」で教育の成否を判断し、予算に差をつけて配当するということは教育委員会としての「教育に対する考え」の底の浅さを露呈しているとしか言いようがない。
 外部評価の予告、しかもそれが報償につながるという仕組みが内容の充実や本来的な意味での「達成」には結びつかない、ということはこれまでの社会科学や認知科学をはじめとする諸分野における研究で明らかになっていることではないか。
 それでもなお、そうした施策しか打ち出せないとすれば、この足立区に限らず教育行政にかかわる人々は乏しい発想しか持ち合わせておらず、浅薄な教育理念をベースとした考えしか持っていないということになろう。

 気の毒なのは、そうした教育行政の下で学ばなければならない子どもたちであり、まっとうで地道な教育活動を展開しようと考えている学校の教職員である。
 子どもたちは「学ぶ権利」は有しているが「教育される義務」を負ってはいない。
 安倍政権は、何よりもその根本原理を誤解し、「国民を育てる」という思い上がりにも似た視点からさまざまな政策を打ち出そうとしている。政策だけならまだしも、おおもととなるべき「教育基本法」をも安易な教育観で改めようとしている。

 足立区教育委員会のニュースも、そうした動きの中で起きたことではあるが、先頃話題になった「必修教科の未履修問題」も、こうした風潮と無縁ではない。
 この流れをくい止めなければ日本の教育は高々とした理想に基づいた「成熟した市民社会をめざす資質や能力を備えた個人」が育つ教育とは対極の方向に向かっていってしまうだろう。それは、教育にとって「暗黒の時代」だと言っても過言ではない。
 学ぶことの意味をどこかに置き忘れた教育政策は、子どもを、そして学校を彷徨わさせ、志操貧弱な社会への道を突き進むことになること必定である。
 辻村哲夫(東京国立近代美術館長)は、今年1月ある雑誌に次のような一文を寄せ、まるで現在の状況を予見したかのような警告を発している。

 今、我が国の学校教育において児童生徒は 「何のために学ぶのか」を学校も保護者も社会も改めて問い直す必要があるということである。
 児童生徒が学校で学ぶ意義は、一人一人が豊かに生きていくためという個人の利益の視点と、社会により良く貢献しながら生きていく、あるいは社会をより良いものにするための力を培うといった公の視点とがあるはずだが、現状はこのいずれでもない学校間序列や受験競争の存在を前提に、如何にこれに対処するかのための「学び」にさせられているように思えてならないのである。我が国の学校教育を「何のために学ぶのか」の原点に立ち返らせなければならない、ということであり、例えば公の視点について理想を言えば、今や国益を越えて世界や地球全体のためにというグローバルな視点を一層重視していくべきときだとさえ思うのである。
 「世界史」を学ぶのは、国際社会の中で一人一人が世界の人々と協調してより豊かに生きていくためなのであって、受験科目にあるからではないはずである。しかし現状は、学校で学ぶ意義は高い点数を取るためといった錯覚、小さな頃から受験目当ての点数獲得競争にとらわれ学校間序列の存在にいささかの疑問も抱かないような教育観、「受験学力」を効率的につけるかつけないかによる近視眼的な学校批判、教科の意義が受験という視点に偏って評価されるような風潮、こうしたものに覆われているように思えてならないのである。こんな現状は何としても打破されなければならない。
 そしてそのためには、「何のために学ぶのか」、今、この視点から指導内容や指導の在り方を分析考察することは、中央教育審議会の場のみならず、各学校にとっても必須の課題だと思う。 (教育展望 2006.1,2月合併号 p.3)
 
 教育基本法を変えたからといって、いま教育界が抱えている諸問題が解決されるはずはない。むしろ、教育基本法の精神を尊重し、教育基本法の精神をよりよく具現化に導けるような施策を検討し実施に移すことが重要だ。そのためには、安直で浅薄な教育観を啓蒙する働きかけが必要になるであろうが、それこそ教育行政の果たすべき役割であって、そうした教育観につき動かされ右往左往するようなこと、根幹が揺らぐようなことがあってはならないはずだと考えるのは私一人ではないであろう。


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笹木 陽一

 先日は丁寧なお手紙を頂きありがとうございました。不躾にも一方的に送りつけてしまった駄文に、お忙しい中にもかかわらず目を通していただき大変感謝しております。残念ながら職場ではほとんど討議が深まらず、あまりの反応のなさにむなしさを感じておりましたので、先生からの手紙には大変励まされ、この時期に自分の考えをまとめておいて本当に良かったと思いました。先生のご指摘の通り、子どもには「学ぶ権利」はあるが「教育される義務」などないのです。これまで一貫して「子ども」を未熟なものと見なし、権利の主体としてではなく権力の客体として捉えてきた近代の教育システムの持つ暴力性が、今まさに現出しているように思います。地元の新聞によると、今日の教育基本法改正案の衆議院における単独採決を受けて、三宅晶子氏(千葉大教授)は「教育でファシズムに踏み出した足音を聞いた思いだ」と語ったそうです。ファシズムの時代が来たと私が初めて感じたのは、教職4年目の秋、99年の「国旗・国家法」を受けて、その直後に札幌市で校長への職務命令という形で「日の丸・君が代」が卒業式で強制された時でした。市教委の通知文を見て「ファシズムだ」と叫んだ記憶があります。それ以前から北九州市での「3点指導」の事は知っていましたし、教職員組合が「教え子を戦場に送るな」というスローガンで「日の丸・君が代」の強制に反対してきた事にも共感していましたが、その時まではまさか自分たちに直接関わってくるとは思っていませんでした。行政の外圧で、次の年の卒業式における札幌市内小中学校のに日の丸掲揚率は100パーセントとなり、その後は処分をちらつかせながらの強制に、現場では議論することすらタブー視されています。そのうちに東京都では石原都政における教育改革が進められ、「10・23通達」によって大量の処分者が出て、ますます「物言わぬ教師」が増え、そこに輪をかけてやれ学校評価だ、絶対評価の導入だで現場は多忙化し、指導要領が改正され「ゆとり」と言ったかと思えば「学力低下」、挙げ句の果てに教育の憲法たる基本法改悪です。これがなし崩し的に通れば、あっという間に憲法も変えられてしまうのでしょう。すでに自衛隊の海外派兵によって軍事行為が既成事実化し、防衛庁が省となり、日米同盟重視でアジアとの関係が悪化し、北朝鮮危機を煽ることで「核保有容認論」までもが時の外相や首相から語られる。憲法9条の「戦争放棄」の崇高な理想が、軽々しく「安全保障」にすり替えられ、在日米軍の再編で日本はますますアメリカの「不沈空母」でしかなくなっていく。あれから7年しか経たないのに、どうしてこんなにも時代は右傾化、保守化してしまったのでしょうか。その流れの中で高校の単位未履修に始まり、いじめによる自殺、タウンミーティングでの「やらせ」問題など教育を巡る政治・行政・マスコミの動きには、本当に憤りを覚えるばかりです。これらの教育を巡る諸問題を真剣に議論することなく、あたかも教育基本法が諸悪の根源であるかのように論点をすり替え、「十分議論を尽くした」等とうそぶいて無理矢理改正案を通そうとする与党の姿勢には、もはや日本には「民主主義」など存在しないのだと愕然とするばかりです。本質が何も語られず、「戦争ができる国作り」の為に政治の道具にされる。何という悲劇でしょうか。しかし嘆いてばかりはいられません。今自分にできることをあきらめずに誠実にやっていくしかありません。まだ決定ではないのですが、組合関係の動員で来週の土曜日(11/25)、国会前での抗議行動に参加を要請されています。もし参加することになれば、東京に行くのは13年ぶりの事です。「教育の危機」に直面して「今動かずしていつ動く」という気持ちでいますが、どうなるのかまだわかりません。とにかく何もしないで悲惨な結果だけを押しつけられるのは嫌です。子ども達に「表現」を求め「自ら考え進んで行動する」事の重要性を語りながら、自分では何もしないというのではまずいと思うのです。どこまでこの悲惨な現実に抗することができるのか不安がいっぱいですが、後で振り返って後悔だけはしたくありません。7年前、前任校の職員会議で「今、日の丸・君が代の強制に反対するのは、いつの日か子ども達が戦争に巻き込まれるような事態になった時に、何故もっと早くあの時反対しなかったんだ、と後悔するのは嫌だ、現在は未来とつながっているんだ」と熱く語っていた先輩教師の言葉がとても印象に残っています。同じ職員会議で私は管理職に向かって「我々教職員は国家のイデオロギー装置ではない」とアルチュセールに倣って語りました。しかし今や「イデオロギー装置」として機能しない教師は、「指導力不足・不適格」との評価をうけ、教員免許を取り上げられるという事が現実化しそうな時代になっています。戦時中の治安維持法のもとで多くの良心的な教師が摘発され、拷問され、命を失ったような暗黒の時代がまた来てしまうのでしょうか。去年の12月、三浦綾子の「銃口」を舞台にした芝居を見ながら、「これは現代の物語だ、東京で行われている事と同じだ」と感じ、涙が止まらなかった事を思い出しました。教育基本法の改悪によって、再び戦時中の様な抑圧的な社会を作ってはならないと強く思います。共謀罪などという恐ろしいものが国会で議論され、世の中が益々監視社会化していく中で、日本社会の全体主義化を何としても食い止めなければ行けない。今がその時なのだと思います。政治がどんなに間違っていても、憲法の下主権は国民にあり、政府の暴走を止められるのは我々市民の連帯なのです。国民不在の茶番劇を今こそやめさせ、子ども達の未来のために「平和で調和的な社会」を実現すべく、全力でやれる事をやりたいと思います。来週の東京行きがもし実現すれば、時間を見つけて先生にお会いしたいという期待も込めて、いつもながらのまとまりのないコメントを終わらせていただきます。では又連絡いたします。
by 笹木 陽一 (2006-11-16 23:50) 

おじおじ

笹木先生、コメントをいただきありがとうございました。来週、東京にいらっしゃるかも知れないとのことの。もしおいでの節は、東京でお会いできれば幸いです。土曜日はあいにく引き受けてしまった講座での指導があり、東京に出向くことがかないませんが、土曜日の夕方、そして日曜日は全日、予定が入っておりません。もしお会いするチャンスがあればぜひお目にかかりたいと存じます。
by おじおじ (2006-11-18 11:13) 

長谷川 朗

笹木先生、ご無沙汰しております。長谷川 朗です。連絡先を知りたくて笹木陽一で検索しました。連絡とりたいです。
ご迷惑枠でなければ、電話ください。090-8454-6299
管理人の方、不適切であれば削除してください。
教育関係の書き込みじゃなくてすみません。
by 長谷川 朗 (2006-12-30 00:41) 

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