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教育基本法の改正?について考える [教育全般]

 教育基本法の改正案が衆議院で強行採決され、参議院で審議中である。
 強行採決しなければならないほど切迫した課題なのであろうか。また、教育基本法はそのように力の論理で押しまくってまで改正しなければならないものなのだろうか。
 現在起きている教育上の諸問題が現行の教育基本法に起因するとでも言うのだろうか。
 事実は、教育基本法の精神が実際の政策や制度に生かされ、それに沿った教育が展開されてこなかったことによるにもかかわらず、自分たちの都合のよいように教育を操るために教育基本法をスケープゴートにし、それを変えたいという意図がそうさせているのではいか。

 教育基本法は憲法と同じ位置づけの、つまり他の法律よりも高く位置づけられたしかも世界に誇る高い理念を掲げた、それゆえに侵しがたい立派な法律である。
 60年前、教育刷新委員会が教育基本法の案を検討した際には、40人もの専門家が長い長い時間を費やし、基本理念から草案の表現一つ一つに至るまで議論を尽くしたという。
 その記録は『教育刷新委員会教育刷新審議会 会議録』として公開されてもいる。
 南原繁(元東大総長)は、誠意を尽くした議論の果てにできたこの教育基本法についてこのように語ったと言われている。
   新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。
   今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を
   根本的に書き換えることはできないであろう。
   なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止め
   ようとするに等しい。ことに教育者は、われわれの教育理念や主張について、
   もっと信頼と自信をもっていい。そして、それを守るためにこそ、われわれ
   の団結があるのではなかったか。
   事はひとり教育者のみの問題ではない。
   学徒、父兄、ひろく国民大衆をふくめて、民族の興亡にかかわると同時に、
   世界人類の現下の運命につながる問題である。

  さほど議論もせずに、また誰がこの改正案づくりに携わったかは知らないが、現行の教育基本法の高い精神性と比べてみればあまりにも次元の低い改正案が新しい教育基本法となってしまうのでは日本の行く末は恐ろしいものになってしまうであろう。

  教育基本法が「普遍性」を謳ったものであるのに対し、改正案ではその文言が消され、『公共性、徳』といった現実に目を向けた文言が目を引く。
 この改正案でもう一つ特徴的なのは、国民を教育の「主体」としてではなく「対象」としてとらえようとしている姿勢が窺えることである。
 それは改正案の第一条「教育の目的」に『平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して~』としていることからも窺える。
 その考えは、第二条の条項にも表れている。
 教育基本法では「第二条 教育の方針」としていた条項が、改正案では「第二条 教育の目標」と言い換えられているのだ。
 「方針」とは「進んでいく方向、めざす方向、進むべき路」の意であり、一方の「目標」は「めじるし、目的を達成するために設けためあて」のこと。
 教育を『不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの』とし、望ましい教育の実現に向けて環境を整備する理念を謳った教育基本法に対し、改正案では『公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する』の「教育を推進する」の文言に表れているように、いま現在、(為政者が)必要だと考えている内容の教育をこれから将来にわたって推進するということを表明しているのだ。
 教育の主体を国民一人一人と位置づける教育基本法では、その教育が望ましく展開されるための「環境整備」を主眼としていることから、「方針」という到達点(めあて)を設けない言い方で表現している。一方、改正案は教育されるべき対象としての国民がどれだけ到達点に近づけたか、また近づくような教育を施すことができたかというめじるしを設ける意味で「目標」という言い方をしている。
 言うまでもないことだが、国民一人一人は「教育を受ける権利」を有してはいるが、「教育される義務」を負ってはいない。何を教え込むかなど為政者の恐ろしい傲慢さがここでも浮き彫りになっている。

 こうした姿勢は改正案の16条にも姿を覗かせる。
 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
 
 教育基本法10条には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と記されており、同じ「不当な支配に服することなく」という文言で表記されていることから、同じ意味だと勘違いしやすいが、これもまったく意味が異なるものだと認識すべきである。
 教育基本法は、戦前・戦中の軍による教育支配により自由な教育が行えなかったことへの反省から、教育の自由を保障する意味で「教育に携わる人々が、国や政党やたまたま現在政権についているに過ぎない権力からの不当な干渉や支配に服することなく、国民全体に対して直接の責任を負って行うこと」ができるように、こう書いているのだ。
 しかし、改正案では「教育されるべき対象」としての国民と、国が組織する「教育」という位置づけでとらえ、『国が行う教育は、不当な支配に服することなく~』とまったく異なった意味を持つ文言なのである。
 そして、国が「不当な支配」と考えるものがどのようなものであるかは、改正案のこの条項にもっとも顕著に表れている。
 「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」(16条、教育の行政)
 教育基本法を他の下位の法律と同等かそれ以下のもとして位置づけ、国が、あるいは教育行政が教育を統制することさえ可能にしようという考えがここには見え隠れする。
 教育者が「国民全体に対して責任を負って行」おうとする教育が、行政の恣意的な指示と異なってしまった場合、「公正かつ適正」という錦の御旗のもとで「不当」なものであると見なされ、統制の対象となるであろうことは戦前・戦中の教育を振り返ればすぐにわかることである。時の為政者にとって都合のよいことを「教育されるべき対象」として国民を位置づけ、具体化するための法制化の手始めが、この教育基本法の改正なのではないか。
 だからこそ急がなければならないし、どのような手段を使ってでもなりふりかまわず改正したいのだろうとしか思えない。

 教育はもともと政治とは無縁の独立したものでなければならず、ときの為政者のそのときそのときの思いつきで左右されてはならないものである。だからこそ、教育基本法は憲法と同等の侵すべからざる高い位置を与えられてきたはずだ。そのように日本国民にとって大切な誇るべき法律を、誠意ある議論もなしに単に政治の場で扱おうとするのは教育に対する冒涜だとしか思えないのである。
 ここで、再度、南原の言葉を思い起こしたい。

  今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を
  根本的に書き換えることはできないであろう。
  なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止め
  ようとするに等しい。

高々とした理想と理念を謳った教育基本法を侵してしまっては、日本の将来の子どもたちに対して申し訳が立たないではないか。


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笹木 陽一

先日は突然お電話してしまい失礼しました。今回の教基法改悪の動きを巡って東京に行く予定であったのが行けなくなってしまい、とても残念に思っております。先生とお会いできるチャンスでもあったのに残念でなりませんが、先生が今回の記事でタイミング良く改悪のポイントを見事に整理して書いて下さったので、私としても改めて納得させられた次第です。先生の仰る通り、教基法は憲法と並ぶ世界に誇る高い理想を掲げた素晴らしい条文です。以前先生が別の記事で指摘していらっしゃる様に、教基法の前文「われらは先に日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は根本において教育の力に待つべきものである」という条文は、憲法前文の「われらは全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和の内に生存する権利を有することを確認する」という理想実現のために教育を位置づけた重要な文言です。中沢新一と太田光の共著「憲法九条を世界遺産に」を読むと、敗戦直後の混乱の中で生まれた日本国憲法は日米合作の一つの奇蹟であり、発効されたばかりの国連憲章の理念を踏まえた「人類普遍の原理」が謳われたかけがえのないものであるということが深く実感されます。かつて小沢一郎が提唱し、今や小泉-安倍政権が実現しようと躍起になっている軍隊をもった「普通の国」へと日本が着実に歩みを進めている今日において、私たちが立ち戻るべきなのは現行憲法の崇高な理念であり、それを具現化するための教基法の精神に他ならないと思います。この思いは護憲派の少数意見などでは決してありません。その証拠に、1999年のハーグ平和アピール市民社会会議で確認された「公正な世界秩序のための10の原則」においては、その第一原則として「各国議会は日本国憲法第9条の様な、政府が戦争することを禁止する決議を採択すべきである」と宣言しています。それに先立つ1991年、アメリカではチャック・オーバビー博士(オハイオ大学)が「全ての国の憲法に、日本国憲法の9条に盛られた諸原則を採択させる」ことを目標に「第9条の会」を立ち上げ、合衆国憲法に修正条項として「戦争放棄」を書き込もうという運動を展開しています。もはや日本の憲法(特に第9条)は国際的に認知され、模範とすらされているのです。我々はもっと自身と誇りを持って、この教育基本法と憲法の精神を語るべきなのだと思います。今回東京に行けなかった代わりに、私は札幌での「教基法改悪を止めよう全道1万人集会」(11/25)と「札幌市教職員組合西支会教研全体会 いま、教育基本法」(11/29)に参加し、微力ながらこの問題に係わって発言しました。全道1万人集会では、札幌在住のフォーク歌手、稲村一志さんがオープニングで、憲法9条の条文をロック調のメロディーに載せて熱唱し、゛Imagine゜や゛We shall overcome゜といったベトナム反戦の名曲を日本語で歌っていました。イラク戦争開戦時(2003.3)に札幌でも5千人規模のピースウォークがありましたが、その2倍もの人々が教育基本法改悪反対の一点で連帯し、声を上げている姿に感動し、「夢追い人は私だけじゃない」というイマジンの歌詞を改めて噛みしめました。集会の中で北海道大学教育学部の学生さんが、ユネスコの学習権宣言から「学習活動はあらゆる教育活動の中心に位置づけられ、人々をなりゆきまかせの客体から自らの歴史をつくる主体にかえていくものである」という言葉を引用し、将来教壇に立つことを夢見る者として「国家のための人作り」を進める教基法改悪には断固反対したいとの熱いスピーチに、教壇に立っている先輩として身の引き締まる思いでした。29日の教研集会では10分ほど時間をもらって先生にもお送りした資料の抜粋を使いながら、今こんな時期だからこそ「自ら考え進んで活動する」主体的な子どもの育成が今まで以上に求められているのだという事をアピールしてきました。それに先立って札幌市内で平和活動をしていらっしゃる市民の方々が「11の約束 絵本教育基本法」をスライドで上映しながら群読をするというパフォーマンスをして下さいましたが、その中で「教育」という言葉を全て「学び」と置き換えて語っていたことがとても印象的でした。先生が常々仰られている通り「教え育てる」という他動詞の形で捉えるのではなく、「学び育つ」という自動詞の形で捉えることがまさに重要であり、それこそ上記の「学習権宣言」の理念とも通ずるのだと思います。そう考えている人が我々の他にもたくさんいるという事がわかり、とても嬉しくなったと共に励まされたように感じました。会はその後ミニミニライブという事で札幌市の中学教師(英語の先生)によるWhat a wonderful world の弾き語りがあり、最後のまとめの中には「こういった反対運動についてマスコミは全く報道しないけれども、実際にはざっと数えて14万人以上の抗議行動が全国で行われている」という報告がありました。日本の全人口に比べれば確かに多くはないのかもしれませんが、何も声を上げないままになし崩し的に悪法が通って行く状況をみすみす見逃してはいられません。29日の朝日新聞は一面で「教育基本法改正 参院通過の見通し」と報じていましたが、政治の動きがどんなに保守的であろうとも、将来のこども達のために「一人ひとりの個性が尊重される教育」を何としても守らなくてはなりません。そうでなければ日本はあっという間に全体主義化してしまうのではないか(既になっているという悲観的な捉え方もできますが…)という危惧をあきらめずに主張し続けたいと思います。先生の他の記事(「どうなんだろう」「教育再生会議に危惧の念」)も読ませていただき、先生の論考がますます冴えているのに改めて学ばせていただいていますが、コメントについてはじっくり考えてから改めてお返ししようと思います。また連絡いたします。 
by 笹木 陽一 (2006-12-03 21:20) 

おじおじ

笹木先生、コメントをありがとうございます。
北海道と札幌の動きは心強いものがありますね。多くの地方新聞の社説や論説でも「教育基本法の改正」に否定的なものが目につきます。当然と言えば当然のことなのですが、そうした論調を目にする度に、多くの人がこうした動きに着目できるようもっとマスメディアが頑張ることを期待してしまいます。
おもしろおかしいニュースばかりではなく、真剣にこの問題を取り上げ『これでいいのか』を世の中に問う報道をと願うばかりです。
国会での審議の方法がおかしい、強行採決をするとはどうしたことか、などといった政治の手段についてではなく、問題の本質を明るみに出して『こんな法律ができたら、このようなことが危惧されるが、世の人々よ、それでよいのか』と問いかけるような報道をぜひしてもらいたいものです。
正しい情報が伝わらない限り、市民全体の「捨ててはおけない、ほうっておけない」という問題意識をベースにした大きな潮流は生まれないでしょう。
どうやら日本はいつの間にか「ぬるま湯」につかって、世の動きを自分たちが作り出せるのだ、という意識を自ら眠らせてしまったようです。
そんな意味では、かつて学生運動が盛んだった私の若かりし頃や何か問題があると即座に市民運動が起きる韓国・中国など海外の国々がうらやましくさえ感じられます。
それにしても何とか、この反対運動(これは決して政治活動、イデオロギー活動ではないということを明記し)は大きなうねりにしていかなければならないでしょう。まともな教育が展開できるようにするためにも、そして将来の日本の子どもたちに責めを負わないためにも。
by おじおじ (2006-12-05 21:46) 

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