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学ぶ意欲を [学校教育]

 今朝のトップニュースで、昨年実施されたOECD(経済協力開発機構)による国際学習到達度調査(PISA)の結果、日本の学生の順位が下がったということが報じられた。
 これは全国の高校1年生を対象に実施されたものであるが、いわゆる「ゆとり教育」を掲げた指導要領下で小学校6年生から学んできた生徒たちである。
 文科省は、このことを受け止めて理数の授業時数増加を2年前倒しして実施することを検討し始めたと一部のメディアが報じていた。

 PISAが問うたのは、持てる知識を生かして「考えることのできる力」と学習に対する関心や意欲である。単に知識を蓄えたり、公式を覚えたり、覚えた公式にあてはめて正解を導き出すことが求める「学力」ではなく、いま与えられた情報やこれまで積み重ねた経験を突き合わせたり駆使したりして、知識を構築したり組み替えたりすることのできる力こそ「学力=学び考える力」であり、それこそが真の学力であるとする従来の学習指導要領の理念と相通じるものである。
 そしてそれこそが「生きる力」の根幹をなすものだったはずではなかったか。

 そこで語られた「ゆとり」という言葉は、決して「のんびり、ゆったり」というとらえで認識すべきものではなく、「問い」と「答え」の間を重視するという意味で語られたものだったはずだ。答えを急ぐ余り、考える「ゆとり」を奪うこと、「問い」が内包する自己との関わりに目が向く、いわば「対象にひたり、対象との新たな出会いを心の中で熟成する機会」を奪ってしまうことは、おもしろい追究・意味のある追究としての学びから学習者を遠ざけてしまうことになる。
 「学問」とは「問うことを学ぶこと」であり、「答えを出すこと」ではないし、ましてや「答えを覚えること」でもない。対象を観察し受け容れ、自己との関係において見過ごしに出来ないズレに気づき、主体的に問うことこそ学習なのだ。
 「間」を軽視して短兵急に「答えを出せる」力を身につけることを「学習」ととらえてしまっては、当然主体的で意味のある学習とはなりにくいのである。

 そのようなことについては、少なくとも真摯に「教育」や「学習」について考えようとする教育関係者には周知のことであるのは当然だ。
 学力低下論者は、そうした「ゆとり」の意味を曲解し、ゆとり=ゆるみであるし、そうした考えを基盤にしているから学力が低下しているのだ、と主張する。そこで、短絡的に授業時数の増加や教師の指導力を養うことが喫緊の課題だとし、文科省も主要教科の授業時数増加を言い出した。
 しかし、問題なのは授業時数の少なさなのではない。そのことによって学力が低下したのではないのだ。そうではなく、学習に対する意欲が低下したこと、学習対象に対する関心を高めることができなかったことにこそ問題があるのだ。

 それは「ゆとり教育」を標榜しながら、その真の意味を理解できぬまま、旧態依然とした「覚えさせる教育」をしてきたことによる。削減された内容について、「見方・考え方・取り組み方」といった学ぶ力を身につけさせるための学習材(あるいは学習の機会)とせず、安易にそれだけを覚えれば事足れりとばかり習わせてきたツケが、学ぶことの楽しさや考えることによる心の弾みから子どもたちを遠ざけ、学ぶ意味を見失わせてしまったのではないか。
 それは元文部大臣の町村官房長官の次のコメントでも明らかである。
 『私も文部大臣として、広い意味でのゆとり教育を進めた立場でございますから、ああいう結果になったことは大変問題であったのかなとも思っております。ただ、ゆとり教育のエッセンス、考え方は、私は今でも正しいと思っております。ただ、それが現場に行って、ゆとりが緩みになってしまった。緩みととられたということは大変残念なことで、何か当時からもゆとり教育、しかし、されど基礎、基本の徹底はちゃんとやるんですよということは、口を酸っぱくして言ったつもりですが、なかなか現場にはそれが伝わらなかったというのは今でも残念な思いをしております』

 学力低下を懸念する余り、授業時数を増やすということを百歩譲って認めるとしても、その増えた時間を相変わらず「覚えさせる教育」として使ってしまっては、PISAが投げかけた「知識や教養を駆使して何ができるか」を問う「真の学力」の陶冶につながらないどころか、ますます学習離れを引き起こすことも懸念される。
 文部行政が過ったかじとりをして、いま世界が求めている「真の学力=生きる力」の陶冶に結びつく望ましい向きとは逆の方向へ教育界を動かしてしまうことのないよう、教育関係者は注視していかなければなるまい。
 メディアの中には、世界の動きに逆行するような教育理念のもと、古い教育のあり方を希求する論調をはって社会の動きをつくりだそうとするものもある。
 読売新聞はその社説の締めくくりを次のように結んでいる。
 『次期学習指導要領を審議している中央教育審議会は、ゆとり教育が学力低下につなが ったことを反省し、主要教科の授業時間を1割以上増やす一方、総合学習の時間を減ら す中間報告をまとめている。来年1月に答申を出す予定だ。
  前回の調査で明らかになった読解力の低下が、ゆとり教育の見直しにつながった。
  さらに、理数系の応用力の低下も浮き彫りになった。指導法の改善などを具体的に
 盛り込んだ新指導要領の作成を急がねばならない。』
 学力低下をくいとめるためには、ゆとり教育を見直すことこそ肝要で、それは授業時数の増加と指導法の改善(教え方の改善)でなし得るとばかりに、安易にそのことを主張しているかのようである。
 
 一方、朝日新聞の社説では、
 『単に授業時間を増やしただけでは、どうしようもないことは文科省も承知のはずだ。
  応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである。』として、機械的に教えるのではなく、その論理を子どもたちに自ら考えさせる。そんな授業が求められるので、十分な教員の数を確保することと併せて、その質を高めることの大切さを訴えている。
 「教え方」という方法論ではなく、「授業の質と教員の質」という内容(価値)について論じている点で、朝日新聞に軍配を上げたいところである。
 教育の質を高めることでしか、子どもたちの学習意欲を高め、ひいては学力を高める教育を展開できようはずもなく、それは制度をいじるという小手先の対応ではどうしようもない、ということは言うまでもないことだからである。


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気は確かか? [学校教育]

 先走ったこのような方策がいずれどこかの県や市の教育委員会から打ち出されるであろうと思っていた矢先、東京都足立区の教育委員会から次のような方針が出された。
 それは、都と区が実施する学力テストの成績などに応じて、区立の小中学校に配分する予算に差をつけるというものだ。各学校を4つのランクに分け、中学校の場合には約500万~約200万円までの間に振り分けて配当するのだという。

 「教育バウチャー制度」を率先して施行するという、安直な「お先棒担ぎ」としか思えないような報道に接して唖然としてしまった。
 安倍政権が言い出した「教育バウチャー制度」については、未だ方針として定まってはいない検討段階のものではないか。であるにもかかわらず性急に実施に移し、区内の小中学校の教育について、単に「学力テストの結果」で教育の成否を判断し、予算に差をつけて配当するということは教育委員会としての「教育に対する考え」の底の浅さを露呈しているとしか言いようがない。
 外部評価の予告、しかもそれが報償につながるという仕組みが内容の充実や本来的な意味での「達成」には結びつかない、ということはこれまでの社会科学や認知科学をはじめとする諸分野における研究で明らかになっていることではないか。
 それでもなお、そうした施策しか打ち出せないとすれば、この足立区に限らず教育行政にかかわる人々は乏しい発想しか持ち合わせておらず、浅薄な教育理念をベースとした考えしか持っていないということになろう。

 気の毒なのは、そうした教育行政の下で学ばなければならない子どもたちであり、まっとうで地道な教育活動を展開しようと考えている学校の教職員である。
 子どもたちは「学ぶ権利」は有しているが「教育される義務」を負ってはいない。
 安倍政権は、何よりもその根本原理を誤解し、「国民を育てる」という思い上がりにも似た視点からさまざまな政策を打ち出そうとしている。政策だけならまだしも、おおもととなるべき「教育基本法」をも安易な教育観で改めようとしている。

 足立区教育委員会のニュースも、そうした動きの中で起きたことではあるが、先頃話題になった「必修教科の未履修問題」も、こうした風潮と無縁ではない。
 この流れをくい止めなければ日本の教育は高々とした理想に基づいた「成熟した市民社会をめざす資質や能力を備えた個人」が育つ教育とは対極の方向に向かっていってしまうだろう。それは、教育にとって「暗黒の時代」だと言っても過言ではない。
 学ぶことの意味をどこかに置き忘れた教育政策は、子どもを、そして学校を彷徨わさせ、志操貧弱な社会への道を突き進むことになること必定である。
 辻村哲夫(東京国立近代美術館長)は、今年1月ある雑誌に次のような一文を寄せ、まるで現在の状況を予見したかのような警告を発している。

 今、我が国の学校教育において児童生徒は 「何のために学ぶのか」を学校も保護者も社会も改めて問い直す必要があるということである。
 児童生徒が学校で学ぶ意義は、一人一人が豊かに生きていくためという個人の利益の視点と、社会により良く貢献しながら生きていく、あるいは社会をより良いものにするための力を培うといった公の視点とがあるはずだが、現状はこのいずれでもない学校間序列や受験競争の存在を前提に、如何にこれに対処するかのための「学び」にさせられているように思えてならないのである。我が国の学校教育を「何のために学ぶのか」の原点に立ち返らせなければならない、ということであり、例えば公の視点について理想を言えば、今や国益を越えて世界や地球全体のためにというグローバルな視点を一層重視していくべきときだとさえ思うのである。
 「世界史」を学ぶのは、国際社会の中で一人一人が世界の人々と協調してより豊かに生きていくためなのであって、受験科目にあるからではないはずである。しかし現状は、学校で学ぶ意義は高い点数を取るためといった錯覚、小さな頃から受験目当ての点数獲得競争にとらわれ学校間序列の存在にいささかの疑問も抱かないような教育観、「受験学力」を効率的につけるかつけないかによる近視眼的な学校批判、教科の意義が受験という視点に偏って評価されるような風潮、こうしたものに覆われているように思えてならないのである。こんな現状は何としても打破されなければならない。
 そしてそのためには、「何のために学ぶのか」、今、この視点から指導内容や指導の在り方を分析考察することは、中央教育審議会の場のみならず、各学校にとっても必須の課題だと思う。 (教育展望 2006.1,2月合併号 p.3)
 
 教育基本法を変えたからといって、いま教育界が抱えている諸問題が解決されるはずはない。むしろ、教育基本法の精神を尊重し、教育基本法の精神をよりよく具現化に導けるような施策を検討し実施に移すことが重要だ。そのためには、安直で浅薄な教育観を啓蒙する働きかけが必要になるであろうが、それこそ教育行政の果たすべき役割であって、そうした教育観につき動かされ右往左往するようなこと、根幹が揺らぐようなことがあってはならないはずだと考えるのは私一人ではないであろう。


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小中学校の「通信簿」? [学校教育]

 今朝の新聞報道によると、文部科学省は小中学校の学校運営や授業の指導状況などについて「評定1」から「評定5」までの5段階で評価していく方針を決めたという。
 各学校の実力を見極め、教育の質の向上につなげることが目的だという。
 学校評価については、各学校が説明責任を果たすべくこれまでも取り組んできたことである。そのために学校評議員制度が取り入れられ、さらに教職員による自己評価のほか、保護者らによる外部評価を得て改善の方向に歩み出したばかりである。
 それに対して今回は、文科省が設定した「学校における教育」「学校の管理運営」「保護者、地域住民との連携」の3分野、計18項目の評価項目について指標と評価規準をもとに5段階で評価し、将来的には公表も検討するというものだ。
 その評価規準とは次のようなものであるという。

 「多くの児童生徒が集中して学習に取り組んでいる」「教室内は清掃、整理整頓され、  掲示物も適切」ならば「評定3」。
「全国的に見てもすばらしい取り組みで、他の学校の参考になる」なら「評定5」。
 「取り組みが全く行われておらず、成果がほとんどない」なら「評定1」。
 
 そして具体的な評価は、 「学校と直接かかわりのない第三者」が行うのだという。
 学校の自己評価はあてにならないということだろうか。
 学校と直接かかわりのない第三者が行う、ということは地域や学校の実情について不案内な者が表面的な状況、目に見えやすい状況のみで判断し、5段階の枠の中にはめこむようにして評価してしまうおそれがある。
 この報道からは見えてこないが、その「第三者」が教育について深い理解を持たない者であるとすると、評価そのものが「理解」に基づかない冷たいもの、地道な教育作用を無視したものになってしまうおそれがある。本来教育とは地道な作用である。教職員が児童生徒と向き合い、学校や親の手を離れたときに自立した学び手として生きていけることをめざし「いま何をなすべきか」を考え、根比べのような地味な活動にコツコツと取り組み、そうした積み重ねが10年後、20年後に結実するという息の長い作業であり、短期間では結果が出ないことの方が多いものだ。
むしろ短期間で結果が見えてしまうようなことは、付け焼き刃のようにいずれ剥落してしまうおそれのある表面的なものでしかないということも言える。

 よい評価を得るためには、そうした付け焼き刃のような目に見える力や態度だけを伸ばすことも不可能ではないし、もっと言えば学校教育は外部からのよい評価を得るための活動ではないのである。何よりも「子どもにとってのよき成長」を願い、そのために評判や評価とはかかわりのないところで地べたをはいずり回るような、地味で、ときには児童生徒と真剣にわたりあう仕事なのである。
コンクールですばらしい成績をおさめた学校の音楽の授業が、派手ではないが子どもが主体的に音楽の活動に取り組めるような学習をめざしてコツコツと熱心に授業づくりに取り組んでいる学校の音楽の授業よりも優っているという保障がないのと同様、子どものよき成長を願う取り組みと外部の評価とは別物であることが多い。
評価の観点が異なるからである。

文科省はこの決定に際して「5段階評価は自分の学校がどの水準にあるかを把握しやすくするためのもの」としているようだが、これはまさに競争心を煽り、教育とはかかわりのないところで教職員に努力を強いることになるおそれも十分にある。
 たとえば、児童生徒の出席率を上げるために無理に登校させる、遅刻状況を改善するとして遅刻扱いの規定をゆるめる、学力テストの平均点を上げるための勉強を強いる、などといった本来の教育とはかけ離れた教育がなされることが懸念される。
 積極的に他と競い合うことがなくても、逆に他校と同じことをやっていれば差が生じるおそれがないとして、行政単位の他校と横並びで「よい評価を得るためだけの対処法」に腐心し、お互いに先陣争いを戒め合い監視し合う動きが生じることだって予想される。

 外部の評価やそれを前提とした競争がよい結果を生まないことは、イギリスの失敗からもよくわかっているはずであるにもかかわらず、なおそのことに執着するというのはどういうことであろうか。
 評価を施し、評定を下すと宣告すれば否が応でもやらざるを得ないだろう、さらに公表されるとなれば競争せざるを得ないであろう。そうすれば、それぞれの学校は成績を上げるために一段と努力をするであろう、という何とも貧弱で子どもじみた安易な発想にしか見えないのは私だけではないだろう。
 文科省が腐心しなければならないのは、より高い次元で、親や教職員が子どもと真剣に向き合うための環境づくりをどうするか、どうすれば子どもが本当の成長に向かいたくなるような社会環境をつくれるか、といった視点から施策を打ち出し展開することではないか。 
こうした小手先の施策に振り回される学校現場はたまったものではないが、学校現場もそうしたことを言わせないような確かで着実な研究に基づく実践、教育専門職としての誇りが持てるような取り組みをめざすべきだ。


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出生率低下の報道に接して [学校教育]

 昨日発表された2005年の人口動態統計(厚生労働省)によると出生率が1・25と前年より0・04ポイント低下し、過去最低を更新したという。
 読売新聞の記事では、『少子化が今後も進展すれば、年金をはじめとする社会保障制度の基盤が揺らぎ、経済にも悪影響が出るのは必至で、政府は少子化対策への一層の取り組みが求められそうだ』としている。
 テレビ各局もニュース番組でこのことを取り上げ『何とかしなくては』というトーンでこのことを報道していた。
 中でもおかしかったのは、いくつかの県や市で実施されている「少子化対策」。
 中には、5人目の子どもを出産した家庭に10万円の出産祝い金を出す例や、子どもが学齢に達して小学校に入学する折に何グラムかの金のメダルを贈呈する、などといったほんの思いつきのような対策が紹介されていて気は確かかと疑いたくなるようなものもある。
 ごほうびやお金をもらえるからといって子どもを産もうと思ってもらえる、と本気で考えているのだろうか。子どもを産もうとしない理由を金銭的・物質的な困難さに因るものだと考えているから、そのような小手先の発想しか持てないのだ。少なくても数十年前の日本人は金銭的・物質的に今ほど豊かでなかったにもかかわらず、子どもを持ちたいと思い、その願いが叶って自分たちの子どもが生まれることを素直に喜べたものだ。繰り返して言うが、子育てにかかる費用を潤沢に持っていたわけでもないのに、である。
 むしろ現在の方がその当時に比べれば家庭生活は豊かであるにもかかわらず、産もうとしない、産む選択ができない、できれば産みたくない、と考えているとすれば経済的な事情が障害になっているとはとても思えない。そうした心情は何に起因するのかということを考えなければ有効な対策など生まれないであろう。
困ったことに政府も各地の行政組織も出生率が下がると「年金などの保障制度や経済に悪影響が出る」といった具合に、「自分たちが困るから」何とかしなければといったご都合主義でこの問題を論じようとしているように見受けられる。
 私たち大人の社会は、生まれてくる子どもたちのために「何がしてやれるか」を考えるべきであるのに、大人の都合のために産んでくれと言わんばかりである。
 
 現在のような日本社会で子どもを産んで、その子が幸せに育ってくれるだろうか、子どもが育って「この国に生まれてよかった」と思えるだろうか、この国で子孫を繁栄させていこうとその子たちが積極的に思えるような日本という国であり続けるだろうか、といった不安や懸念が心情の底深くにあるとしたら、一時的な金銭やご褒美につられて子どもを産もうとすることなど及びもつかない。
 私にはどうしても、その不安や懸念が現在のような出生率の低下を生む最大の要因であるとしか思えない。
 子育てはかつての社会に比べればいっそう難しくなってきている。せっかく生まれた子どもも安全な環境の中で安心して育つという保障もない。自分たちが育ってきた過去よりももっと厳しい競争社会の中で苦しい思いをさせてしまうかも知れない。親としての負担も大変そうだ。そうした思いが逡巡を生み、「子どもを産まない」心情を生じさせているように思われるのだ。
 親自身が「この国に生まれ育ってよかった」と思えなければ、子どもにその幸せを受け継がせようという気持ちなど起きそうにない。
 
 そう考えてみると、これは愛国心の教育と通じるものがある。
 愛国心を持ちなさいという教育が何の意味も持たないと同様、「この国に生まれ育ってよかった」「この国の国民でよかった」という自然に生じる心情がなければ、「我が子にも同じ幸せを」と思って子どもを産もうという気にはなれないであろう。
 長い遠回りの道であっても、まず何よりも日本という社会が国民にとって好ましい社会となることこそこの問題解決のカギであろう。
 断じて目先のそして安易な「カネとモノ」で解決できる問題ではない。
 仮に親になる覚悟もないまま、そうしたご褒美(カネとモノ)につられて子どもを産んだとしても、その子を「大切な我が子」として慈しみ、しかもときに厳しく自立への道へ誘うことのできる親になれるかどうか、疑わしいものがある。
またそのような事情で生まれ育った子どもが社会を担う自立した市民となれるかどうかも大いに疑問である。そしてそうした市民で構成される社会が「よりよい社会」となるかどうか、将来のことは不確定であるがあまり期待できそうにない。
 安易なそして思いつきのような対処療法、そして大人の都合でひねりだすような対策しか講じられないような貧弱な頭脳しか持たない政府、行政組織でないことを願うばかりである。


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小学校への英語教育導入について考える [学校教育]

 小学校に英語教育を導入し必修化しようとの動きが急である。
 文部科学省は、中央教育審議会の専門部会が小学校の英語教育必修化を提言したことを受け、来年に向けて改訂作業が行われ学習指導要領に盛り込まれる見通しである。

 提言によると、5、6年生を対象に週一時間程度の英語の授業を想定しているようだ。 グローバル化が必至のこれからの社会では、英会話にたけ外国人とコミュニケーションを図ることができ、世界で活躍できる人間が望まれるとの考えによるようである。 
 確かに英語は国際語である。そして日本の英語教育は「会話力」がずっと議論の的になってきた。
 しかし、英語は話せても肝腎の「主張=言いたいこと」がなければ、そして「考える力」がなければ自分の考えを相手に理解してもらうことは難しいであろう。
「会話力」をつけさえすれば何とかなる、というような底の浅い理屈で学習指導要領改訂がなされるのだとすれば日本の教育は危うい。
 仮に「英語をネイティブのように自国語のように自在に操って聞き話すことができる」人間が尊ばれるのだとすれば、英語の通訳が最も尊ばれる人間であり、その通訳の力を借りて意見を述べている当の人間はそれ以下だということになってしまう。
 言語は「考え・まとめ・伝える」手段である。そして同時に人間にとってアイデンティティの基となる文化そのものなのだ。

 江戸期に漂流民となりアメリカ人に保護され、アメリカで教育を受けたジョン万次郎が市民として対等に遇され、航海の勉強をして一人前の船乗りとして市民から敬愛を受けたのは英語を覚え話せたからというだけではない。それ以上に少年時代に生きた日本で受けた文化のバックボーンがあったからだ。
しかも彼は漁民である。漁民とは言いながら付近の漁師に雇われて鰹釣りの手伝いをするといった程度の少年漁師である。
 しかし、彼はアメリカの学友が『万次郎は恥ずかしがり屋で物静かな少年だったが、それでいて立ち居振る舞いは堂々として、紳士らしく、またABCから高等数学までクラスの成績はトップレベルだった』と述懐しているように、文化に支えられた人間としての確かさを持っていたからこそ敬愛されたのだろう。
万次郎が生活したフェアヘブンの人々は「万次郎は、今でもフェアヘブンの誇りだ」というように、町の高等学校では郷土史の時間に万次郎のことを学ぶのだそうだ。
 それはひとえに万次郎の人間性や知性、教養(日本人としての素養と言った方がよいか)など人間としての資質に因るものだ。
 だからこそ英語を用いても自分の考えを話すことができ、それで町の誇る一人前の船乗りとして認められたのだ。
 単に英会話ができたというだけのことではないのだ。
 
 それは、やはり江戸末期に伊勢白子から船出し、十年にわたるロシア漂流の記録「北槎聞略」を書き残した大黒屋光太夫にしても同様である。
 光太夫がイルクーツクで日本語学校教師に迎えられたり、ロシア皇帝エカテリーナに拝謁を許されたりしたのも、(ロシア側に日本を望もうとする事情があったにしても)彼が非常にしっかりした人柄であったこと、鋭い観察眼や確かな考えを持っていたことに因るところが大きいであろう。

 他国語で話せることが偉いのではなく、たとえ片言であっても自分の考えや信念をしっかり語れること、その方が偉いのだということは上の二つの事例を見ればわかることだ。
 内容のない日本人が得意の英語で軽薄なことを言ったりすれば、尊敬されるどころか軽侮されることは疑いようがない。
 「英語か日本語か」といった二者択一の議論をするつもりはないが、母国語はすべての知的活動の基盤である。
 粗雑な日本語をもってしては粗雑な思考しかできはすまい。
 国語を学ぶということ(それは他国語でも同じことだが)は、ものの受け止め方、見方、考え方を学ぶということなのだ。
 それは誰しも経験したことであろうが、英語を学ぶ過程で『なるほど、イギリス人やアメリカ人はこう捉えているのか』と気づかされたことが多々あったし、それで考え方を理解できたことが多かったことからも窺える。
 言語は単に「伝達の道具(あるいは手段)」ではないのだ。

 そして「英語がうまければ国際人になれる」という現在の風潮は大きな誤解だということに私たちは早く気づかなければなるまい。
 国際人になろうとすれば、自分の国の歴史や文化は言うに及ばず他国・他民族の歴史や文化についての深い理解をすること、そしてそれらについて高い見識を持つことの方がよほど大切なのだ。
 (余談であるが『見聞を広める』と言いながら、訪れてきたはずのハワイの場所を世界地図上で指し示すことができない若者たちの姿は何をかいわんやであるが、見聞を広めることが見識を持つことにつながらなければ何の意味もない。が、それはさておき。)
 そこで、私たちは確かな日本語でしっかり考え、わかり、語り、伝え合うことを通して自分を築き上げていくことができるような教育活動を展開しなければならない、と考えるのである。

 まずは『ヤバイ』『キモイ』『ビミョー』『ウザイ』などの形容詞や形容動詞に類すると思われる若者言葉、果ては擬態語・擬音でしかものごとを語れない人間を育ててしまったことに対して猛省しなければならないであろう。そのような言葉とも言えないような言葉では、ものごとの本質を見極めたり解き明かしたり説明したりすることなどできそうもない。そればかりか、思考し体系的な考えとして組み上げていくことなど思いも寄らないからである。
 日常的に日本語を使って話しているからといって、日本語の達人だと言えないのは現在の日本語ブームでも明らかなのであるから、「国語」については軽視したりせずよく学ぶべきなのだ。
 海外の人々と物怖じせずに会話のできる人間に育てたいという思いもわからなくはないが、英語教育を導入・展開することで肝腎の「国語」について学ぶ時間が圧迫されることがあるとすれば、ますます日本の教育は危うくなってしまうのではないだろうかとつくづく思われるのである。


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「畏れ」を知ること [学校教育]

 日本人は古来より自分を取り巻く環境に対して「畏敬の念」をもって接してきた。
 山や樹木や岩を「畏れ(おそれ)」、ありがたい存在、人間の浅はかな知恵など及びもつかぬ理(ことわり)がそこに存在し働いていると信じて「敬い」「畏まって(かしこまって)」接してきた。そのことわりを尊んで、その周囲と自らの身を清浄に保ち、いっさいの穢れと虚飾を排除して清々しく保つことがことわりに近づく手段であると信じてつつしみ敬ってきたのである。
そうした接し方は自然物に対するのみではなく、ヒトや動物に対してもそうであった。 ヒトをも「おそれず」自分勝手に振る舞い、我を押し通すわがままな振る舞いをすれば、『傍らにヒトがおらぬかのよう(=傍若無人)』な言動として忌避されたのである。
 そのように自分を取り巻く一切合切のものごとに「畏れ」「敬い」の気持ちを持つことは、それが存在することのありがたみに感謝する心情につながり、『もったいない』という日本人独自の心情を育むことにもつながってきたのではないか、と考えている。

 そうしたヒトやモノ(たとえそれが「人間の産み出したもの」であっても)に対する「畏れ」の気持ちは、倫理観や公共心、奉仕の精神、愛情など人として生きる上でのさまざまな美徳の根幹をなすものであり、底のところで深くつながっているのではないかと思われるのである。
 そしてまた、その「畏れ」る心情の根源には、大いなるものの前では自分など取るに足りない小さな存在でしかないかも知れないという自己認識がある。
 『こうしたい』『こうありたい』と願っても叶うことばかりではない、そこにはより大いなるものの意志が働いているのかも知れないという思いが祈りや願いの所作を生み出しのではないかと思われるからである。
 また、生まれながらに持っている「欲望」に起因する苦悩から逃れられない小さく弱い自分に気づき、その悩みから自らを解き放つために悟りの境地を得ようとし、大いなる徳と慈悲を身につけようとしたのも自らの「弱さ・小ささ」に気づかされたからではないか。

 そこで話を飛躍させたい。
 倫理観や道徳心の涵養が不可欠だと声高に言う人たちがいる。また、個人の自由を尊重することも大事だが、公共心や奉仕の精神を忘れてはならない、と主張する人たちもいる。そしてまた一方では国を愛する心を育てることが何より大事だ、と譲らない人もいる。
 もしそうしたさまざまな美徳を養いたいと思うのなら、「畏敬する心」が持てるようにすることが何よりも必要なのではないか。
 ヒトやモノを「畏れ」「敬い」「大切」に思い、自らの身を慎み、それらに接しようとする心情である。「畏れ」とは「怖れ」でも「恐れ」でもない。自分などが触れたり手を加えたりすることなど思いも寄らない「大きな存在」であると「かしこまる」ことである。
 私たちは消費産業の攻勢の中で、いつの間にかモノを大切に思う感覚を鈍らせてきた。 貧困の時代を経験してきた大人であってもそうである。生まれながらにしてモノに豊かに囲まれてきた子どもたちにモノを大切にする心を持とうと呼びかけることは無意味ではない。自らの食欲と自己満足の気持ちを充たすために、それでなければならないということもないのに、グルメを気取って高価な輸入食材による食事を摂るということがごく普通に行われ、マスメディアもそれを煽っているという「浅ましい」光景もある。
 そのために世界各地の農・水産業者がこぞって日本への輸出に走り、それが原因で天然資源が枯渇の恐れにある国々が出現しているということに無関心を装おい、それでもなお持てるカネで自分だけは何とかなると多寡をくくって平然としている姿は「畏れ」を知らぬ所業としか思えないからである。
 ヒトやモノを大切にし、愛し、尊び、共によりよく生きようとする心情を育みたいと思うのなら、「畏敬する心」が自然に持てるような家庭・社会・学校になることこそ肝要なのだ。

 また一方では、憲法と同格の高邁な理想と理念を謳った教育基本法に手を加えようとするその人たちが教育基本法を批正するほどの大人物たちか、と思われてならないのである。
この人たちこそ「畏れ」を知るべきである。
 『燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知(し)らんや』とは史記の中の言葉だったであろうか。高々とした理想を謳ったその真意を図りかねて、目先の現象面に気を取られ、この法律を変えれば何とかなる、自分たちの思い通りの教育を施せると安易に思いこんでいる「畏れ」を知らぬ小人のように目に映るのである。
 「畏れかしこまりつつしむ」人間と対極にあるのは、「思い上がり」の「傍若無人」な人間である。
 そうした人間をつくらないためにも、「畏れ」を知る人間を育てることが何よりも大切だと痛感する次第である。「畏れ」を知るからこそモノゴトに謙虚に応対しようとするであろうし、「悟ろう」とするからこそ真摯に真理を追究しようともするのであるから。
 因みに「悟る」とはサンスクリットの「見極める」に語源があると言われている。
 見極めるためには、目のみならず耳も身体も研ぎ澄まし、いわば清らかにして事態をゆがませることなく見つめ受け止める必要がある。真摯で謙虚な構えで接することは、いずれにも共通なのである。


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教育基本法改正について考える [学校教育]

教育基本法を変えようという動きがある。
文部科学省のホームページでは、次のように述べられている。
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教育基本法は、すべての教育法令の根本ともいうべき法律で、全体で11条から成ります。昭和22年の制定から現在に至るまでの58年間、一度も改正されていません。
この教育基本法について、中央教育審議会は、平成15年3月、今日的な観点から教育の重要な理念や視点を明確にすることが大切であり、そのために教育基本法を改正することが必要であるとする答申をまとめました。
文部科学省では、現在、この答申を踏まえ、教育基本法の改正についての国民的な理解を深める取組を行っているところです。
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教育基本法は、戦後民主主義をスタートさせるに当たって「高い理想」を掲げ「高い理念」を見事に盛り込んだ世界に誇ってよい法律である。
 それは、『われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。』という「前文」からも窺える。
他の法律では見られない「前文」を特別にそして例外的に持っているということは、この法律は憲法と同等、あるいはそれに準じるもの、教育に関して言えば憲法と同列に位置づけられてしかるべきものなのだ。
それだけではない。この法律にこめられた内容は、当時でも今でも「教育思想の最高の到達点」を示したものであり、まさに世界に誇ってよい法律なのだ。
 その第一条には、「教育の目的」として次のように掲げられている。
『教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』
 今言われている教育基本法改正の趣旨は、「今の子どもは、倫理観が希薄で自己中心的になってしまっている。望ましい国民に育てるために、愛国心や道徳心、奉仕の精神や社会国家に尽くす心を養うべきだ」という観点で構築されている。その意味で「国家・社会の一員」を育てるということに教育の目的の根幹を置いていると言って良い。
 しかし、教育基本法ではそれを「国家及び社会の形成者」という言葉で表現しており、日本という国及び社会の担い手であり、つくりあげていく主体としての人間の育ちをめざしていると言える。
 1989年に発布され、日本も1994年に批准した「子どもの権利条約」でもベースに流れている理念は、端的に言えば「子どもであっても、それは保護されたり監督されたりするだけの存在ではなく、一人の独立した主体であり、市民としての権利も自由も持ち、国や社会を担っていく力を持った存在である」ということだろう。
 その「子どもの権利条約」発布に先立つこと42年も前に、「国家及び社会の形成者」という言葉を用いて主権者としての子どもの育ちを保障しようとしたということ一事をもってしても、この法律が高い理想と理念、教育観に基づいて制定されたということがわかる。

それでは、この誇るべき特別なそして憲法を除いたどの法律よりも上位にある法律を変えなければならない事情、あるいは「今日的な観点」と何なのだろうか。
つきつめてみるとそれは「愛国心の育成」という問題なのではないかと思われる。
 歴代の文部大臣、あるいは政府の中枢にいた人たち、また自民党の政治家などが一貫して言い続けてきたのが「教育基本法は戦後、占領軍から押しつけられたものだから欠けているものがある。それは愛国心の問題だ」ということだ。愛国心を「国を愛する心」と言い替えてみたところで中身は変わらない。何とかして「国を愛させたい」のである。
 国を愛させ、国家の一員として愛する国のためなら自己犠牲も惜しまない、国の管理や統制にも従順な国民としての人間を育てたいという意図が露骨に見える。
 国を愛する心というものは、『愛しなさい』『愛すべきものだ』と言われて芽生えるものではない。それは自然に育つところの心情だからだ。『この国に生まれて良かった』『この国で生きることができて幸せだ』と実感できてはじめて自ずと生まれる心情なのである。そうなるためには、国が「愛される国」「生まれて良かったと思える国」になることが先決であるはずなのに、それを棚上げして『愛しなさい』というのは本末転倒である。
 それは、この国がほんとうの意味での「愛国心の育成」などめざしていないことの証でもある。「愛国心」という錦の御旗のかげに何か違う意図が見えて仕方がないのである。 他の国との競争(政治面や経済面で)に打ち勝って、アメリカと共同して世界秩序を守るような国になりたい、国際貢献ができるような国になりたい、軍事面でも貢献ができればなお良い。そのためには教育が必要だ。それも世界をリードできるような一握りのエリートがいれば良い。競争に勝てないような人間は負け組として従順であればよい。そうした格差はあって当然だ。などのうわついた日本の現在の姿や議論の端々から垣間見えるのは、教育を国の都合、あるいはそれを支える経済界の都合で舵取りをしようとする意図のようなものだ。
 そうしたことに不都合だからといって、世界に誇るべき平和憲法、その精神を色濃く受け継いだ教育基本法を簡単に変えてしまって良いのだろうか。また、そのようなうわついた議論をもとにした論理でほんとうに「国民の理解」が得られると文部科学省は本気で考えているのだろうか。
私は政治家ではないし、政治というものをニュートラルな態度で見ているものの一人だが、日本で起きている社会問題、教育の問題、家庭の問題は教育基本法を変えたからといって解決できるものではないと切実に思っている。とりわけ「愛国心の育成」などは法律で何とかできる問題ではない。ほんとうの愛国心を持ってもらいたければ、国が国民に愛されるようにならなければならないし、国民を守れるような国に日本がならなければなるまい。国家の基本は何よりも「国民を守る」ことなのだから。


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「競争の原理」に立つ教育の危うさ [学校教育]

 残念なことに、これから日本の教育や学校は否応なく「競争」せざるを得ない時代になりそうな気配が濃厚である。それは、中央教育審議会に提出された前中山文科省の私案「甦れ、日本!」からも強く窺える。
 そこでは、これからの時代は『国際的「知」の大競争時代』であるから、国家戦略としての教育を展開しなければならないとし、具体的には「競争意識を涵養」し「全国学力テストを実施」するなどして「学力を世界のトップに押し上げ」ること、教員の質の向上などを柱として挙げている。
 つまり、競争させれば学力が向上するという発想がベースにあり、これからの教育改革の中心理念として「競争」が据えられたということである。
  そこで考えなければならないのは、ほんとうに競争させれば学力は向上するのだろうか、ということであろう。
 
 ここで思い起こされるのは、政府の推し進めてきた新自由主義に基づく市場の競争原理がライブドアの堀江前社長に象徴される「金銭至上主義」がまかり通り、一方では自社に利益をもたらそうと数社がからんで起こした「耐震偽装問題」が出来するなど、人間の価値観や行動基準にまで大きな影を落としてきたことである。
 自由に競争することを是とする新自由主義のもとでは、「勝ち組」になることが求められ、勝つためならあらゆる手段をつくして(時には法の不備を利用し民を欺いても)良いではないか、それを考え出せないのは愚かな「負け組」の証であるとするような誤った考えを持つ市民を現出させることも危惧される。
 人が「生きる」ということは、決して「勝ち負け」の次元で論じられるべきではないにもかかわらず、「競争」が建前として認められれば、どうしても「勝ち負け」に目が奪われ、他に勝つことが大切なこととして意識されてしまうことは止むを得ないし、上に挙げた二つの事件もそうした背景と深く関わっているという認識を持つべきである。

 そして重要なことは、教育改革で言われるところの「競争」と市場の競争原理で言われるところのそれと、分野は異なるとは言え全く無関係ではない、ということである。
 前文科省の言うところの「知の大競争時代」とは、単に「知」をめぐる競争ではない。 それは、「国際的」と冠されているように国家間のサバイバル競争を意味し、他国と競い合って「世界のトップ」に立とうというねらいを持っている。しかも、私たちの目に見える形で求められるのは「国内における競争」であり「学校内における競争」ということになるであろうことは避けられまい。
  国内の学校同士を競い合わせ、学校に教育向上や教育改善の努力をうながし、全国の水準向上をめざそうとしたのがイギリスのサッチャー政権であった。そのためにナショナル・カリキュラムを導入し、それに基づいて全国統一テストによる学校評価を実施し、学校種ごとに全国ランクづけをし、毎年それが新聞などで公表されたという。トップ10とかワースト10などの学校も掲載され、成績が悪く生徒を集められない学校も「閉校しそうな学校」として実名で発表されたと言われている。

 その結果、それぞれの学校は他の学校よりも「良い」学校となり、生徒(親)から選ばれる学校となるための競争に走らざるを得ない状況に追い込まれたという。
 競い合うことで、どの学校も同じように教育効果を上げることが出来ればそれに越したことはないが、競争は自ずと差別化を生み、学校間格差の拡大が弊害として浮き彫りにならざるを得ない。また、競争に勝つために、自校の成績を上げるために好ましくない成績の生徒を安易に切り捨て退学させる学校が現れたり、校長自らが全国テストの答案を捏造したりするという異常な事態も生じたという。
 何よりも教育体制が「テスト志向」となることで、学校の教育文化に好ましくない弊害が出てきたという。
 学校にも生徒にも『他に勝つ』ことが強いプレッシャーとなってのしかかり、互いに孤立してしまったのである。そうした「競争原理」による弊害から見直しを迫られているのが今のイギリスの現状であると言われている。

 一方、競争原理によらない教育を展開しているフィンランドは、2003年の調査で読解力と科学的リテラシーで世界一となり、数学的リテラシーでも問題解決能力でも優秀な成績を修めている。
 フィンランドでは、それまで実施されてきた習熟度別クラス編成を1985年に完全に廃止したとも言われている。競争に依らず、日本がこれからいっそうの導入を図ろうとしている習熟度別クラスにも依らず、なぜそのような高い学習能力を養うことができているのだろうか。
 フィンランドでは「なぜ学ぶのか」ということが重視され、学習とは児童生徒が自分の人生に必要な知識を自ら求め、知識を構成していく活動として意味づけられているという。 社会の中で自分の将来を考え、社会的意義を意識しながら学習をすれば、当然競争などしなくても自然に学習できるであろうし、ここで求められているのが社会的実践能力であり、テストで期待される「正答が一つに限定される知識」ではなく、正答がいくつもあるものなので、互いに教え合いながら学んでいくことが可能になる。
 学びの目的はよい高校やよい大学に入ることといった無味乾燥なものではなく、自分の将来を築き上げることと直接結びついており、「生きる」ことと密接不離なものとして意識されていることが力強い学習への動機となっていることが窺える。

 もともと「学ぶ」ということは、他者との関係で強化されるものではなく、対象と自己との関係で強く動機づけられるものである。対象の持つよさに感動し、驚き、不思議さに目覚め、それが動機となって対象に働きかけ・働き返される活動を通して自己との関係をつくり上げていくことが「学び」なのである。
 切磋琢磨とは、「競い合い」「相手に勝つ」ことではなく、互いに磨き合って「君も僕も共に」対象により近づこうとする姿をいう言葉である。競争意識を涵養し、サバイバルな競争に打ち勝つことをめざしていたのでは、ほんとうの意味での「知力・体力・品格・教養」を備えた日本人を育てることは到底かなわないであろう。
 安易な競争を学校に持ち込むことでさまざまな弊害が予想されるし、それが教育本来の目的、例えば新渡戸稲造の言う「品性の確立」、司馬遼太郎の言う「たのもしい人格」を育てる上で、決して好ましくない影を落とすであろうこと、対極に立つ方向に向かってしまうであろうことは想像に難くない。


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ブームで終わらせたくない「日本語ブーム」 [学校教育]

 今や空前の日本語ブームである。どこの書店でも日本語にかかわる出版物が平積みにされている。あるものは、日本語の乱れや誤用を指摘し、あるものは日本語を見直そうとし、あるものは日本語を活用することによる効用について語る、といった具合にさまざまなコンセプトをもって著されているものの、日本語を素材としている点では共通している。
 このように日本語を素材としたものがこれほど多く出版されたことはかつてなかったような気がする。まさにブームである。 

 老人が若者の言葉の乱れや誤用に違和感を覚え、間違いを指摘し「なげかわしい」と嘆くのは今に始まったことではないが、私が心配するのは現代人はおおまかで過激な表現をして少しも不思議を感じていないように見受けられる、ということである。
多くの青年が口にする『すごいおいしい』『すごい楽しい』の「すごい」が「すごく」の誤用であることは言うまでもないが、何にでも「すごい」をつけたり『超○○』と「超」をつけて甚だしいようすを表現する人々は多い。若い人たちばかりではない。この数年は若者の影響を受けてか年配の人たちの中にもそのような言葉遣いをする人が目につく。
 新聞を繰れば、週刊誌の広告には『激ヤセ』『極ウマ』などの過激な表現が目立つ。
ひょっとすると、過激な上にも過激な言葉を使わなければそのようすが伝わらないとでも思っているかのようでもある。
 笑い話のようだが、プロ野球が開幕してから何試合も経過していないのに、あるテレビ局のアナウンサーは何を興奮してしまったのか、『今日の試合がこのカードの天王山。』と放送してしまったとか。天王山とはもともと羽柴秀吉が明智光秀を戦で負かせた地名に由来し、最終決戦の『ここぞ』というときに使われる言葉であることは言うまでもない。それが「言葉のプロ」であるべきテレビ局のアナウンサーが、シーズンが始まったばかりであるにもかかわらず「大袈裟」にそう表現してしまったというのは、上の例と通じるものがあると思われる。

 また驚くことに、せっかくおいしいものを食べているのに、『やばい!』『超やばい!』と口々に叫んでいる人々がいる。「やばい」という言葉自体が決して社会の表通りに出てきてよい言葉ではない。もともとが「悪事が明るみに出そうでまずい」とか「失敗が表沙汰になりそうでまずい」というような負の状況を言い表そうとした世の裏側の人間が使ってきた隠語のようなものである。決して肯定的な意味で使われる言葉ではない。
 しかし、言いたいことはわかる。『こんなおいしいものを食べたら、自分が虜になってしまいそうでこわい。これはあまり好ましくない状態だ。それほどにおいしい。』ということを過剰なばかりの表現を用いて言わんとしているのであろう。しかし、そう考えてみても「誉められた言葉遣い」とはどうしても思えない。

 さらに若者の多くは、どうやらほんの些細なことに対してでも「ムカツク」らしい。
 ひょっとすると「ムカツク」以外に自分の不快な気分を表現するすべを持たないかのように、程度の差を無視して「ムカツイ」ているを言う。これでは、「軽くイライラ」しているのか、「ひどく腹を立て」ているのか、「相手を殴り飛ばしたいくらい」怒っているのか、その程度がよくわからない。
 程度の差と言えば、このところよく耳にするのは「ビミョー」という言葉。判断に困る、判断を放棄したい、判断すること自体考えたこともない、あいまいにしておきたい、というときに「ビミョー」と独特のイントネーションで表現する。
 語彙がどんどん少なくなっていき、その分表現が一様になったり、上記の例のように過激になったり、ものごとをきちんと表現できなかったりする傾向がこれからますます強くなっていってしまうのであろうか。

 大雑把で粗雑な、しかも過激な表現でしかものごとを表現できなくなってしまったとき、人間の思考も粗雑なものになっていかざるを得ない。
人間は言葉でものを(当然のことだが)考えるからである。
 自分の思いを適切な言葉で伝えることができなければ、伝わらないことで憤り、過激な言葉で相手を罵ってしまったり、身体的な傷を負わせてしまったりするというおそれもある。言葉を大切にしなければ、コミュニケーションに不具合が生じることは必定だ。
 そのように、短絡的に思考し、安易な結論に安心(あんじん)し、すぐに行動に結びつけてしまうという近頃の若者の傾向は、「言葉を粗末に扱い」「粗雑な言葉による粗雑な思考」しかできなくなったということに遠因がある。
 大島清(京大名誉教授)は次のように言っている。
 「ことば」は本来五感、そして語感を持っている。決して無味乾燥な記号ではない。
 「ことば」は、歩いてきた道によって人それぞれに彩られているものである。つまり、「ことば」は人生そのものであり、その人そのものだ。
  ~略~
 語感は、そのまま全身の運動(リズム)となる。「ことば」は決して体から切り離されたものではない。だからこそ、「死ね」「殺す」などの乱れたことばを使う子どもは、そのことで大切なものを失いつつある。
 それを避けるためには、まず「ことば」を大切にすることだ。「ことば」はすべての始まりである。したがって「ことば」磨きは人間磨きとなる。そこに教育の原点がある。

 先に述べたように大ブームとでも呼べるような「日本語ブーム」である。これを一過性のブームとして終わらせず、日本人が育て磨いてきた美しい「日本語」、豊かな表現力を持った「日本語」を大切にし、いっそう豊かにしていく社会であり続ける努力のスタートラインとしたいものだと痛切に思う次第である。
 もちろん、日本という社会が日本語の美しさや豊かさを見直し、それをアピールしていくことも必要だが、何と言っても家庭における会話の不足が日常語を学ぶ機会として最適である。アニメや漫画、ゲームといった擬態語の世界にばかり触れていてはコミュニケーションに役立つ言葉を磨く機会とはなりにくい。なりにくいどころか、かえって磨くことから遠ざかってしまう。親子・兄弟姉妹のむつまじい会話の中にこそ言葉磨きの原点がある。そうした身近な機会こそ大切にしたいものである。


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「不登校」に関連して [学校教育]

 不登校の児童・生徒が13万人を越したという。(文部科学省発表、2002.12)
 一方で、いじめや校内暴力、非行などの問題が跡を絶たない、といった具合に学校はさまざまな問題を抱えている。
  その根っこにあるものは何だろうか、ということについてある側面から考えてみたい。  それらをつなぐキーワードは、「教育を受ける権利」ではないかと考えられる。
  子どもたちは、本来の意味で「教育を受ける権利を行使する」という意識をもって学校に来て学習に取り組んでいるだろうか。あるいは、保護者や学校は子どもの「教育を受ける権利を保証する」という意識をもって教育に取り組んでいるだろうか。
  教育を受けなければならない「義務」があるから、学齢に達すれば小学校に入学しなければならない、という誤った理解の仕方で「義務教育」をとらえている人々はもうさすがにいないと思われる。しかし、社会に出て困らないように多少の困難を押してでも(実際は多少の困難などという生やさしいものではないかも知れない。相変わらず受験競争による受験地獄は続いているのだろうから)高校や大学に入らなければならない、といった義務や強制・強迫の論理がそこに働いていないと言いきれるだろうか。

  自分のしたいことの実現のために、つまり自分は学びたいから何として学校に入りたいのだ、そしていま学ぶ権利が行使でき、現実に学べていてその喜びを実感できている、という感覚が充足されていれば不登校など起こりはしない、と思われるのだ。
  学校は「来なければならないところ」ではなく「行きたいところ」であるという前提に立つべきで、学ぶ必要がない、あるいは学びたくないという者は「来なくてもよい」ということをはっきりと明言してもよいのではないだろうか。(少なくても、国民が共通に受けるべき権利を持つ「義務教育課程」以上の学校については)

 それを表明するためには、人間がもともと持っている知的好奇心や自己実現への欲求が満たされ、生涯学習社会実現のためのインフラストラクチャーとして学校を再構築していく必要がある。つまり、学校が単なる知識の伝習所としてではなく、「学び発見し、築き、表す」ことのできる学びがいの感じられる場所、学ぶことの楽しさを味わえる場所として生まれ変わる必要があるということだ。
  学ぶことの楽しさを味わえる場所だからこそ、多少の困難を乗り超えてでも「行く権利」を行使したいと思えるだろうし、学ぶことの大切さやおもしろさを感じながら生きていこうとする心も育つであろう。
  学校がそのように変わる一方で、社会が学歴という一元的な尺度で人間を見るのではなく、多面的な価値観で人間に対することができるよう変わる必要がある。たとえば身体を駆使した技能を持つ人間も、芸術創作にその力を発揮する人間も、研究開発に努力を惜しまない人間も同じように尊重される多様な価値観を持つ成熟した社会になることである。

 ヨーロッパのマイスター制度(徒弟制度)は、そのことを教えてくれる。大工の親方は非常な権威として人々に認知されるという。腕一本で叩きあげた親方や職人は、どこそこの大学を出たなどというささやかな学歴とは別の意味で社会的に高い地位にあり、誰もが一目おく存在で、社会的にも大きな発言権を持っているのだ。
  日本の社会もどこの学校を卒業したかなどという人間の本質とかかわりのない尺度で尊敬されたり蔑まれたりされない成熟した目を持つべきだ。
  誰も彼もが大学を出、ホワイトカラーをめざすのではなく、それぞれの適性と関心を軸に自分の生涯を築き社会に貢献することが尊重されれば、農業に従事して社会の役に立とうとかモノづくりに専念して創造的に生きていこうという独自の生き方をめざす子どもの育ちが期待できるはずなのである。

  知的な能力を広げることは楽しく大切なことであるが、大工の見習いとなって腕を磨くことと比べて優劣はなく、どこの大学を出ようがその後の生活でブルーカラーより得をすることもない、という社会になればそれぞれがそれぞれの適性を生かした生き方をめざせるようになるはずだ。
  そうなった時、学校に「行く・行かない」が子どもの選択にまかされ、不登校などという一方的な見方から子どもを解放することができるのではないだろうか。
  「不登校」という言葉からも「学校不適応」という言葉からも、「登校できない困った子ども」「適応できない困った子ども」という学校の一方的な論理が見え隠れする。
そのような学校の論理の中で子どもが学習するのではなく、どこまでも学習者自身の論理が優先されることが、すなわち「自分の権利を行使するために学校に通って学びたい」という欲求を実現し保証するために社会が努力を惜しまない、という原則を貫くことがさまざまな問題解決のカギであることに私たち自身が気付くこと、それが何よりも大事だと思われてならない。

  もちろん、社会の価値観や大人の価値観が即座にそのように変わるということは望むべくもない。しかし、これだけはすぐにでもできそうな気がする。
 『あなた方は、もともと知りたがりだしやりたがりだ。好奇心いっぱいで何にでも挑戦して自分のものにしようとするすばらしい力と可能性を持った存在だ。そうできるように、あなた方の周りの大人は、お父さんやお母さんもそして先生もできるだけ力を貸そうとスタンバイしている。世界のあちらこちらで、勉強したい、本を読みたい、自分の手で手紙を書きたいと思ってもそうできないお友達がたくさんいるが、勉強したいときに勉強できるあなたがたはとても幸せなのだ。その幸せを失くしてしまわないように、日本という国全体であなた方を守っている。十分その幸せをかみしめて味わおうではないか。』と呼びかけることである。
  学校が子どもたちにとって「楽しいところ」「嬉しいところ」「来たいところ」「自分のしたいことを実現できる場」として実感でき、自分の権利で来ているのだということを子どもたちに伝え、学びという文化への参加を呼びかけることこそ大切なのだ。
 そうなった時、私たち教師は強い指導力を発揮して「ああしなさい」、「こうしなさい」、「こうしなければだめ」、「こうしてはいけない」などの指示や命令による指導ではない真に子どもによりそった支援ができるようにもなるであろう。
  多くの問題が、子ども自身が「学べる幸せや意味を実感できているかどうか」にかかわっていると思われてならないが、それらを解決するためにはまず学校がそして私たち教師が、大人の論理(あるいは都合)で「教え、伝え、鍛える」という姿勢から抜け出すことが大事なのではないか。
 「教えられずに学んで」いける学びの環境を先生方の創意・工夫でつくりあげ、子どもの口から「教えて!」という言葉が発せられた時、遠慮がちに始めて良いのが指導の本来のあり方だと考えているが、そのためにも「学べる幸せ」を常に言い続けて良いし自分の体験を通して語り続けて良いのだろうと思う次第である。


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