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教育基本法改正について考える [学校教育]

教育基本法を変えようという動きがある。
文部科学省のホームページでは、次のように述べられている。
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教育基本法は、すべての教育法令の根本ともいうべき法律で、全体で11条から成ります。昭和22年の制定から現在に至るまでの58年間、一度も改正されていません。
この教育基本法について、中央教育審議会は、平成15年3月、今日的な観点から教育の重要な理念や視点を明確にすることが大切であり、そのために教育基本法を改正することが必要であるとする答申をまとめました。
文部科学省では、現在、この答申を踏まえ、教育基本法の改正についての国民的な理解を深める取組を行っているところです。
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教育基本法は、戦後民主主義をスタートさせるに当たって「高い理想」を掲げ「高い理念」を見事に盛り込んだ世界に誇ってよい法律である。
 それは、『われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。』という「前文」からも窺える。
他の法律では見られない「前文」を特別にそして例外的に持っているということは、この法律は憲法と同等、あるいはそれに準じるもの、教育に関して言えば憲法と同列に位置づけられてしかるべきものなのだ。
それだけではない。この法律にこめられた内容は、当時でも今でも「教育思想の最高の到達点」を示したものであり、まさに世界に誇ってよい法律なのだ。
 その第一条には、「教育の目的」として次のように掲げられている。
『教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』
 今言われている教育基本法改正の趣旨は、「今の子どもは、倫理観が希薄で自己中心的になってしまっている。望ましい国民に育てるために、愛国心や道徳心、奉仕の精神や社会国家に尽くす心を養うべきだ」という観点で構築されている。その意味で「国家・社会の一員」を育てるということに教育の目的の根幹を置いていると言って良い。
 しかし、教育基本法ではそれを「国家及び社会の形成者」という言葉で表現しており、日本という国及び社会の担い手であり、つくりあげていく主体としての人間の育ちをめざしていると言える。
 1989年に発布され、日本も1994年に批准した「子どもの権利条約」でもベースに流れている理念は、端的に言えば「子どもであっても、それは保護されたり監督されたりするだけの存在ではなく、一人の独立した主体であり、市民としての権利も自由も持ち、国や社会を担っていく力を持った存在である」ということだろう。
 その「子どもの権利条約」発布に先立つこと42年も前に、「国家及び社会の形成者」という言葉を用いて主権者としての子どもの育ちを保障しようとしたということ一事をもってしても、この法律が高い理想と理念、教育観に基づいて制定されたということがわかる。

それでは、この誇るべき特別なそして憲法を除いたどの法律よりも上位にある法律を変えなければならない事情、あるいは「今日的な観点」と何なのだろうか。
つきつめてみるとそれは「愛国心の育成」という問題なのではないかと思われる。
 歴代の文部大臣、あるいは政府の中枢にいた人たち、また自民党の政治家などが一貫して言い続けてきたのが「教育基本法は戦後、占領軍から押しつけられたものだから欠けているものがある。それは愛国心の問題だ」ということだ。愛国心を「国を愛する心」と言い替えてみたところで中身は変わらない。何とかして「国を愛させたい」のである。
 国を愛させ、国家の一員として愛する国のためなら自己犠牲も惜しまない、国の管理や統制にも従順な国民としての人間を育てたいという意図が露骨に見える。
 国を愛する心というものは、『愛しなさい』『愛すべきものだ』と言われて芽生えるものではない。それは自然に育つところの心情だからだ。『この国に生まれて良かった』『この国で生きることができて幸せだ』と実感できてはじめて自ずと生まれる心情なのである。そうなるためには、国が「愛される国」「生まれて良かったと思える国」になることが先決であるはずなのに、それを棚上げして『愛しなさい』というのは本末転倒である。
 それは、この国がほんとうの意味での「愛国心の育成」などめざしていないことの証でもある。「愛国心」という錦の御旗のかげに何か違う意図が見えて仕方がないのである。 他の国との競争(政治面や経済面で)に打ち勝って、アメリカと共同して世界秩序を守るような国になりたい、国際貢献ができるような国になりたい、軍事面でも貢献ができればなお良い。そのためには教育が必要だ。それも世界をリードできるような一握りのエリートがいれば良い。競争に勝てないような人間は負け組として従順であればよい。そうした格差はあって当然だ。などのうわついた日本の現在の姿や議論の端々から垣間見えるのは、教育を国の都合、あるいはそれを支える経済界の都合で舵取りをしようとする意図のようなものだ。
 そうしたことに不都合だからといって、世界に誇るべき平和憲法、その精神を色濃く受け継いだ教育基本法を簡単に変えてしまって良いのだろうか。また、そのようなうわついた議論をもとにした論理でほんとうに「国民の理解」が得られると文部科学省は本気で考えているのだろうか。
私は政治家ではないし、政治というものをニュートラルな態度で見ているものの一人だが、日本で起きている社会問題、教育の問題、家庭の問題は教育基本法を変えたからといって解決できるものではないと切実に思っている。とりわけ「愛国心の育成」などは法律で何とかできる問題ではない。ほんとうの愛国心を持ってもらいたければ、国が国民に愛されるようにならなければならないし、国民を守れるような国に日本がならなければなるまい。国家の基本は何よりも「国民を守る」ことなのだから。


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笹木 陽一

またもこのような卑劣なコメントがあり、so-netにクレームをつけていたこの3日間は何だったんだろうと、むなしい思いでいっぱいです。書きたいことはいっぱいあるのですが、とりあえずこのネットコミュニティの見にくい部分と、この社会のコミュニケーション不全を思い知らされたような気がします。コンピュータの持つ教育的意義を積極的に評価していらっしゃる先生のブログに、このようなコンピュータ社会の退廃の象徴が書き込まれるというのは何という皮肉なのでしょうか。このような現状が生まれている原因としては、森前首相が提唱した「IT化」の幻想に社会がとらわれているということが挙げられると思いますが、これについて論じていくと、先生が指摘しておられる「愛国心」の問題とも根底で結びついているのではないかと思っています。今日は余り時間がなくこれ以上コメントしていられなくなってしまいました。「第九条の会」に所属し、憲法九条と教育基本法を守る運動を微力ながらしている者として、次の機会にこの問題について私なりの考えをじっくりと論じてみたいと思います。取り急ぎ、コメントせずにはいられなかったので書きました。ではまた。
by 笹木 陽一 (2006-04-11 21:30) 

笹木 陽一

ご無沙汰しています。先日は著作を送っていただきありがとうございます。早速研究部のメンバーに配らせていただきました。日々の雑事に追われ、なかなかじっくり本を読んだり、ものを考えたり、人と語り合ったりする時間が無く、日々をやり過ごして生きざるをえないのですが、そんな中で先生のエッセイに時折目を通して「そうだよな」と自分を納得させながら生活しています。研究部のメンバーも、「学び」をいかに保証するかという視点に貫かれた先生の論考に、多くの示唆を得ているようです。今年度で本校の研究もまとめの年となります。研究を進めるにあたって、研究部員の共通の認識として「学びの目を育むための評価活動」という視点に立って実践を深めていこうと思います。研究の途中で具体的に参照させていただいたり、紹介させていただいたりすることもあろうかと思いますが、この場を借りてご了解いただければと思います。さて、先生の著作の副題に「危機に立つ教育」とあるのを見て、改めてこの危機の根本にあるものは何かと考えさせられました。先生のエッセイにある「年頭に際して考える」にもあるように、経済界の要請に基づく「競争」社会の問題点は明らかなように思うのですが、残念ながらメディアの論調は「格差社会」をやむなきものとして是認しているようにも感じます。それどころか、「競争に勝てないものには未来がない」とばかりに不安を煽り立て、弱者を切り捨て、「勝ち組」になるための生き方のマニュアルを提示することに躍起になっているようにさえ思います。メディアが流す情報は「消費社会」の中で流通している空虚な記号に過ぎず、本当に大切な事はスキャンダル・ジャーナリズムの陰に隠れて、きちんと論じられていないのではないでしょうか。例えば民主党の「メール偽装」問題の報道を見ていると、所詮政治などワイドショーでしかないのだと絶望的な気分になります。その責任をとって前原代表が辞任しましたが、替わって代表となったのが小沢一郎氏です。彼は10年以上も前に「国連待機軍」を憲法9条の第3項に加えよ、と言った「軍隊保持論者」です。タカ派の前原氏よりはいいかとも思いましたが、日米同盟を重視し「軍備による平和」を謳う自民党と何が違うのか。ここ数年来、二大政党制といいながら何ら与党との対抗軸を鮮明にできない民主党のあり方に疑問を持ってきましたが、ここにいたって時は完全に戦前の「大政翼賛体制」になっているのだなと恐ろしい気がします。話が「教育の危機」というよりも政治談義となってしまいましたが、憲法公布59年目の憲法記念日を終え、これほどまでに「改憲」論議が高まっている時代は無かったのではないかと実感し、だからこそこの問題については今しっかりと考えなければならないと強く思います。先生がおっしゃるとおり、この国の憲法と教育基本法は世界に誇れる崇高な理念をもった素晴らしいものだと思います。戦後60年間、日本人が戦争で人を殺したこともなければ、殺されたこともないという事実は憲法9条があったからこそだと思います。戦争を放棄し、軍備を持たないと高らかに宣言した私たちの憲法も、9.11のテロの後、ブッシュ大統領が「これは新たな戦争である」と名付け、アフガニスタンへの武力行使やイラク戦争へと突き進む中で、現実から乖離し続けています。「20世紀は戦争の世紀だった、21世紀は共生の世紀に」と希望をもって迎えた今世紀も早7年目を迎え、「こんなはずじゃなかった」と心を痛めている人がたくさんいるのではないでしょうか。しかし朝日新聞の世論調査では「憲法9条を変える」と答えた人が「変えない」よりも多いのだそうです。北朝鮮や中国という「現実的な脅威」を前に、「自衛の為の戦争」ならよいという認識の人が増えてきているということなのでしょうか。
1970年生まれの私は実際の戦争の悲惨を知りませんし、安保闘争すら生まれる前のことです。でも祖父の戦争体験や実家で働いていた朝鮮人に対する偏見を聞いて育ちながら、「戦争は嫌だ」という感覚が当たり前だと思って育ってきました。いじめられっ子でよく殴られていた子どもだったので、「暴力」に対する嫌悪感を人一倍強くもっていた事も関係しているのかもしれません。高校生の頃、原爆やナチスのホロコーストといった歴史上の出来事や、今でも内戦や飢餓でたくさんの命が失われているという事実を知り、このような事を認めてはいけないと強く感化された事を覚えています。大学生になり天安門事件やベルリンの壁崩壊、ソ連邦解体、冷戦体制の終焉といった大きな歴史のうねりの中に自分がいることを感じ、社会的な関心をしっかりと持ち続けなければいけないと思っていたところで湾岸戦争がありました。テレビに映し出される空爆の映像に「これは現実なのだろうか」と違和感を覚え、爆撃の下で苦しんでいる人々に共感しながらも、実感できない自分にもどかしさを感じ、ただひたすら「何かできないか」と考えながらも何もできない自分がいました。オウムのテロ事件や阪神大震災など、それまでの社会の枠組みを根底から変えるような物事が起きても、「それはメディアの中での事」と本質的にかかわることを避けて生きていたように思います。そんな中で教員として仕事を始めてすぐに神戸の連続殺傷事件が起き、少年法が改正され、時代の空気が「監視社会化」していくのをうすうす感じながら過ごしていました。そこにやってきたのが99年の「国旗・国歌法」です。当初政府は「学校現場で強制するものではない」と言っていたのにもかかわらず、札幌市ではすぐさま「校長への職務命令」という形で卒業式や入学式での国旗の掲揚と国歌斉唱が位置づけられました。そのとき私は組合の副分会長として、学校長と直接交渉する立場にあったため、随分たくさんの時間をこの問題に費やしました。校長は挙げ句の果てに「命を賭して実施する」と自殺をほのめかす状態で、どう考えても脅し以外の何者でもなかったのですが、実施せざるを得ない状態となり、それ以来卒業式・入学式の時は「君が代」神経症になって、吐き気を催しながら40秒間に耐えています。この頃の「改憲」論議や教育基本法改正を考えるとき、どうしようもなく思い返してしまうのは「教育現場への不当な介入」以外の何者でもない、日の丸・君が代の強制にますます根拠を与えてしまうという危機感です。憲法とは国民が国家権力に対して「してはいけない」という歯止めをかけるために存在します。この立憲民主主義の大原則を無視して、「国民の守るべき規範」を上から押しつけようとするのが今回の「改憲」のねらいであると思います。東京都での処分の問題は「お上に刃向かうとどうなるか」という恐ろしい権力の濫用です。「おかしい」と思っても意見できない、発言すると差別される、ますます自分で考えることなく流れに流される人々が増えていくでしょう。そこに輪をかけて「教員評価」が導入されます。国や行政のいうとおりにしなければ悪い評価を受ける、これでは自由な発想で子ども達の「学び」を大切にし、豊かな学習活動を展開しようと思っても、「それは学習指導要領に無い活動だからダメ」だとか「学力テストで成果の出る内容に力を入れろ」とか、教育内容への不当な介入が容易になされる事が危惧されます。実際、教員評価そのものではありませんが、私が今年受けなければならない「10年者研修」の「学校長による評価」表を見ると、学級経営や教科指導、生徒指導、情報教育など事細かく「理想とされる」教師像が並べられ、その観点に沿って測定的に評価されるのです。まさに野田正彰氏のいう「やらされる教育」そのものであり、そこに教師の自主的な創意工夫が入る余地は益々狭められています。そんな中でどこまで頑張れるのか、甚だ自信ないというのが正直なところですが、ここであきらめたら現場にいる子ども達を守ることはできません。国家権力の暴力性から子どもを守るという使命感こそ、私が未だに公教育の現場に教師としてとどまっている根拠だと思います。では具体的にどのように実践を組み立てていくのか、という事については又改めて別の機会に論じたいと思います。「IT化の幻想と愛国心のつながり」を論じるつもりでコンピュータに向かいましたが、結局自分の愚痴めいた内容となってしまったことをお詫びします。ではまた。
by 笹木 陽一 (2006-05-06 13:57) 

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