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そうだったのか。 [日記]

 ある学会で行われた研究演奏を録音したデータを、その学会のホームページに掲載しようと思いついた。まずは、その録音を手に入れなければならない。聞くと事務局ではその際の録音を発注して音楽CDとして作成したという。それなら話は簡単だ。それを事務局に送ってもらい、パソコンに取り込んでMP3にコーデックし、それを素材にホームページ・データを作成するだけでよい。その旨を事務局にお伝えすると、事務局から早々にCDが送られてきた。

 いそいそと作業に取り組み、ものの1時間も経たずにホームページは作成できた。後はサイトにアップするだけである。
 ところが、FTPツールでアップロードすると、エラーメッセージが表示されて途中で止まってしまう。原因は、どうやらMP3ファイルの容量のようだ。そのサイトでは3MB以上のデータは受け付けないようなのだ。1曲1曲の演奏時間が長いこともあって、元のWAVファイルの容量そのものが大きすぎるのだ。
MP3に圧縮すると、元のデータのおよそ10分の1になるとは言え、それでも優に3MBを越える。中には6MBや7MBを越える楽曲もある。
 これでは研究演奏をホームページ上で公開することなどできそうもない。
 致し方ないので、WAVファイルを編集し、さわりの部分のみを切り取ってそれをMP3にコーデックして「一部試聴」という形で公開することにした。
 WAVファイルを編集し、それをMP3に変換し、ホームページを作りかえはしたもののまだ未練が残る。何とかできないものか。

 MP3以上に圧縮できる方法はないものかと思い、インターネットで「音声圧縮」というキーワードで検索するとこんな記事を見つけた。

 WMAとは
 Microsoft社が開発した音声圧縮方式。同社のWindowsなどに搭載されているマルチメディア技術「Windows Media」を構成する技術の一つで、同社製品の標準の音声圧縮方式である。
 人間の感じ取りにくい部分のデータを間引くことによって高い圧縮率を得る非可逆圧縮方式を採用している。同社によれば、音楽CD並みの音質を保ったまま約1/22(64kbps)まで圧縮することが可能で、音質を犠牲にすればさらに高い圧縮率を得ることもできる。
 Windows Media Rights Managerと呼ばれるコンテンツ管理システムを利用して暗号化することができ、音楽を有料コンテンツとして配布したり、海賊版がインターネットで配布されるのを防いだりすることができる。

 何と22分の1まで圧縮できるとか。MP3の半分以下だ。しかもwmaファイルにコーデックすれば、「WindowsMediaPlayer」で聴けるのだ。ということは、OSにWindowsを使用しているパソコン(つまり9割のパソコン)を使用している人には聴いてもらえる可能性があるということになる。
 こんなに毎日パソコンで仕事をしていながら、そんな圧縮方式があることも知らなかったのだ。
 さて、それではそのMP3データやWAVデータをwmaの形式に書き換えるアプリケーションはあるのだろうか。とりあえず、フリーのソフトを探してみることにした。
 VECTORにアクセスし、「音声ファイル変換」のページを開いてみるとあっけなくいくつかのフリーソフトが公開されているのを見つけることができた。その中の一つをダウンロードして実際に変換作業を行い、苦もなくコーデック作業は終了できた。
 おかげでホームページの書き換えも、そのデータのアップロードもめでたく遂行できたことは言うまでもない。
  ほとんど聴覚上の音質を変えることなく、こんなにデータを圧縮できるようになったのかと驚くと同時に、「WMA」という言葉をよく目にしていながら自分には無関係なこととして気にもとめず、それゆえ中身についても知ろうとしなかったことをもったいないことをしてきたものだと苦笑するばかりである。

 この話にはまだおまけがある。私はWAVデータを作成したり、それをMP3に変化したりする際にI社の「Sound it!」というアプリケーションのお世話になっている。
 今日たまたまあるWAVデータをMP3に変換しようとメニューを見て愕然とした。
 何と変換メニューに「wma」の文字があるではないか。何ということか。いつも使っているソフトが探し求めていた圧縮方式に既に対応していたのだ。しかも、数種類のサンプリングビットレートを指定して圧縮できるのだ。
 FMラジオ程度の音質、準CD並の音質、CD並の音質と数段階に分かれた項目の中から選んで設定できるようになっているのである。FMラジオ程度の音質でしかもモノラルに指定すれば、そのデータ量は劇的に小さくなる。
 そうだったのか。ネット上で音楽を公開しようとしている人の中ではもう常識になっていたのだろうが、「WMA」の存在にも気づかず、まして自分の愛用のソフトがもう既にその方式に対応していたとは、驚きと後悔とうれしさの連続のここ2日間であった。


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笹木 陽一

怒りを抑えきれず、コメントします。音楽教育に携わる者として、日々参考にしつつ貴重な意見交換をさせていただいているこのブログに、上記のような記事の内容と関わりない、卑猥で悪質きわまりない書き込みをするとは、とうてい許されるものではありません。ブログ管理上のミスで、間違って掲載されたものと信じたいのですが、もし意図的に上記の風俗関係者が広告目的で著者に許可なく書き込みリンクを貼ったのであれば、極めて悪質な違法行為であり、著者に対する名誉毀損であり、モラルのない卑劣な行動であると怒りを禁じ得ません。So-netブログ管理者には、即刻上記のコメントを削除し、こういったことが起きた原因について究明し、説明することを求めます。そうでなければこのブログに対する信頼は失墜し、安心して発言することも、利用することもできません。記事の著者が感じるであろう精神的な不快感は、想像するだけで余りあります。時折トラックバックしているだけの私ですら、自分のコメントのすぐ上に、このような許されない卑猥な内容が書かれているというだけで、このブログを他の人に参照してもらうことすらはばかられ、大変不快な思いをしています。このような事例は、モラルなきネットの世界においては当たり前のことなのかもしれませんが、だからといって許されることではありません。So-netとしてこのことに対してしっかりと管理責任を果たし、著者や利用者に説明し、かかわった風俗関係者を特定し、きちんと抗議し謝罪させ、二度とこのブログにアクセスでき
ないような処置をとるよう重ねて強く求めます。上記の書き込みをした者が直接このコメントを読むことがあれば、その者には「ふざけるな」と怒りを込めて言いたい。あなたにこのブログ利用者が日々大切にしている思いや考えを踏みにじる権利はどこにもない。機械によってランダムに送信しているのであればなおのこと、相手の立場や顔が見えない匿名性を利用して悪質なことをしている事を自覚していただきたい。教育現場で子どもにかかわる仕事をしている者として、この社会のモラル・ハザードを強く危惧しています。大人がネット上で卑劣な事を当たり前にしている現状を、子ども達は簡単に知ることができます。このままでは「悪が当然」と思う子どもが増えていくばかりです。どうか二度と上記のような卑劣な行為が行われないことを強く求めます。ここに書いた内容については、改めて直接So-netに連絡し、しかるべき対応をお願いするつもりです。改善されなければ、法に訴えてでも摘発の対象としてもらう位の思いでいます。関係者にはしっかりとした対応を重ねてお願いすると共に、記事の著者の先生には、このような事故が起きたことに対し心から共感して、心中お察ししたいと思います。
by 笹木 陽一 (2006-04-08 12:05) 

おじおじ

 笹木先生、コメントをいただきありがとうございました。何日か前にもコメントをいただいていたにもかかわらず、うっかり気づかず今になってしまったことお許しください。
また、今日は私のブログになされた心ない書き込み(これも気づかずにいました。うっかりもここに極まれりです)に関してもコメントをお寄せいただき、感謝申し上げます。
 これら失礼な書き込みは早速管理者の権限で消去させてもらいました。ひょっとしたら、こういうことを書き込む人は手当たり次第に、どんな内容のブログでも構わないとばかりに書き込むのでしょうね。本当に失礼で迷惑な話です。

 ところで、今更ながら思うのですが、文部科学大臣にしてもあるいは時の総理大臣の単なる諮問機関であったはずの「教育改革国民会議」にしても、さらには中央教育審議会にしても、そこには教育の専門職や教育研究の専門職などはほとんどいないに等しく、いわば教育に関しては素人集団の「床屋談義」のようなものでしかないと思っています。
 しかし、教育については誰もが小学校から高等学校、あるいは大学までの教育を受けて学校経験を持っていますので、何となく「教育について考え論じ参加」し易いこともありますし、社会的な地位を獲得した人などは余計に自分の経験をもとに論じてみたくなってしまうものなのでしょう。
残念なのは、総理大臣の私的な諮問機関でしかない、それも教育研究については素人としか言いようのない人たちの集まり(有識者で構成しているとは言え、ここに参加している人たちの多くは財界人や学者です。たとえ学者であっても教育について研究・検証し、学習理論を模索し確立しようとしているのでなければ教育の専門職とは言えないでしょう。天文学者や経済学者が教育学者でないことは自明の理ですよね。)である「教育改革国民会議」の報告書が、いつの間にか力を持ち、文部科学省までもそれを担ぎ上げ、法律を変えましょうという動きにまでなっているということです。「床屋の素人談義」が国の将来を支える子どもたちの教育を左右するようになってしまうのであれば、この国の将来はますます危うくなるのではないかとしか思えません。
 話がそれてしまうかも知れませんが、私がかつて勤務していた茨城大学教育学部附属小学校に前の文部科学大臣の中山さんが訪問したときの記録が附属小のホームページに掲載されています。ご存知ではないかと思いますが、私が勤務していた当時に、附属小ではそれ以前から実践していた「総合活動」や「合科的な指導」をもとに、さらに子どもの主体的な学習活動をめざすという視点からさまざまに日夜実践・研修・検討を重ね、苦労の末に「総合学習」という領域を打ち立てたのです。昭和60年のことでした。それが現在の「総合的な学習」につながっているという自負を当時からの教官一同は持っていますが、中山さんは教育に関して「ずぶの素人」でありながらいともあっさりと「総合的な学習」を否定なさった。そこで、附属小を中山さんが訪問したことを千載一遇のチャンスとばかり、「とんでもないことを言ってくれた」と意見の交換をした記録が掲載されていますので、ぜひ一度覗いてみていただきたいと思います。

 私たち自身からして、毎日の生活の中で(例えば買い物に出かける、旅行に行く、町で道行く人を眺める、喫茶店でお客さんの会話を小耳に挟むなどさまざまな場面で)いろいろなことを学び取っている、新たなことに気づかされる、という意味で学習していると言えるでしょう。東京などの大都会では、4月のこの時期はターミナル駅が非常に歩きにくいと言われています。社会人1年生がわっと出現し、なれない足取りでそれでなくても混み合う通路を歩いているからだそうです。それが、1ヶ月もしないうちに歩きにくさを感じなくなるのは、新人が誰から教わるわけでなく周囲の様子から何事かを学び取り、混雑した通路を流れに沿って歩くすべを身につけるからだと考えられています。
 かように私たちは社会から日々教育を受けているのだと考えると、教育が決して学校教育だけのものではないことに気づかされます。そのような卑近な例を持ち出すまでもなく、日々生きていくことは学ぶことだし、学ぶ喜びや感動、甲斐があるからこそ「生きている」ことを実感できるとも言えるわけですから、教育は私たち一人一人の問題だととらえるのが妥当でしょう。ですから、国民こぞって教育について考え議論をするのは大いに結構なことだし、議論が沸騰するのは歓迎すべきことだと考えています。しかし、そこで問題になるのは本気で考える際の視座をどこに置くかということだろうと思っています。少なくても「国際競争に打ち勝つことのできる日本国民」を、それも一握りのエリートと呼ばれる人間を育てればよいとするような目先の低次元なそれではなく、「生きることに於ける学ぶことの意味や意義」といった視座から真剣に語り合うことこそ大切になるだろうと思っているのです。教育の専門職である教員は言うに及ばず、教育学の研究に専念している研究者が論陣を張る余地がそこにあるでしょう。それに見合うだけの高い識見を有しているはずだし、有していなければならないはずなのです。

 そもそも「学校」の「校」の字は、校閲や校正などの熟語に使用されているように「モノとモノをつきあわせて調べる、考える」といった意味を持った字で、古訓で「カンガフ」と読むのだそうです。校倉のアゼ(校)も材木と材木をツキアワセて組み上げる建物のことで、そう考えてみると「校」の字の意味がよく理解できます。
 原稿とゲラ刷りを並べ比較検討して間違いがないかどうか「調べ」、間違いがあればそれを正すのが校正ですし、文書を閲覧して正しく表現・表記できているかどうか「調べたり考えたり」する行為は閲覧ですから、「校」の字はまさしく「カンガフ」。
 そうであれば「学校」は「学んで考える場」であり、決して「教わって習う場」ではないことに気づかされます。よくぞ「教習所」とか「伝習所」と名付けなかったものだと先人の知恵の深さに驚かされます。
 学校で思い出しましたが、岡山の閑谷学校は、池田候が苦しい藩の財政の中で建てた立派な結構の学校ですが、広い講堂の中央部が学生の座る位置で、四方に設けられた蓮華型の明かり取りに囲まれた最も良い場所が学生に与えられていたと言われています。まるで、蓮華座に座るお釈迦様のように大切に学生を処遇したのでしょう。そのような学び考える場、学生が主役として処遇される場としての「学校」がいつの頃からか、先人の思惑と異なり「伝習所」や「教習所」の傾向を強くしたのは、いつの頃からなのでしょうか。
とにもかくにも、学校の再生ということが言われた教育改革が本来めざした教育改革に立ち戻り、学ぶ意味や喜びを実感し、学びを子どもの手に取り戻させるためにも現場の先生方の力強い実践と考察・思索が一番のエンジン・方向舵となるはずなのです。
私の活動などは犬の遠吠えにも似た非力なものですが、それでもがんばるつもりです。 笹木先生のような「悩める先生」が一人でも多く現場においでになることを、そしてコツコツと地道に研究と実践を積み重ねられることを祈るばかりです。

 ところで、「5分間鑑賞」について、すこぶる興味があります。いつかお聞かせいただければありがたいと思います。いつもながらまとまりのない文章になってしまいました。 新学期が始まって慌ただしい毎日をお過ごしのことと思います。ご自愛の上、ご活躍ください。
by おじおじ (2006-04-08 23:05) 

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