小学校への英語教育導入について考える [学校教育]
小学校に英語教育を導入し必修化しようとの動きが急である。
文部科学省は、中央教育審議会の専門部会が小学校の英語教育必修化を提言したことを受け、来年に向けて改訂作業が行われ学習指導要領に盛り込まれる見通しである。
提言によると、5、6年生を対象に週一時間程度の英語の授業を想定しているようだ。 グローバル化が必至のこれからの社会では、英会話にたけ外国人とコミュニケーションを図ることができ、世界で活躍できる人間が望まれるとの考えによるようである。
確かに英語は国際語である。そして日本の英語教育は「会話力」がずっと議論の的になってきた。
しかし、英語は話せても肝腎の「主張=言いたいこと」がなければ、そして「考える力」がなければ自分の考えを相手に理解してもらうことは難しいであろう。
「会話力」をつけさえすれば何とかなる、というような底の浅い理屈で学習指導要領改訂がなされるのだとすれば日本の教育は危うい。
仮に「英語をネイティブのように自国語のように自在に操って聞き話すことができる」人間が尊ばれるのだとすれば、英語の通訳が最も尊ばれる人間であり、その通訳の力を借りて意見を述べている当の人間はそれ以下だということになってしまう。
言語は「考え・まとめ・伝える」手段である。そして同時に人間にとってアイデンティティの基となる文化そのものなのだ。
江戸期に漂流民となりアメリカ人に保護され、アメリカで教育を受けたジョン万次郎が市民として対等に遇され、航海の勉強をして一人前の船乗りとして市民から敬愛を受けたのは英語を覚え話せたからというだけではない。それ以上に少年時代に生きた日本で受けた文化のバックボーンがあったからだ。
しかも彼は漁民である。漁民とは言いながら付近の漁師に雇われて鰹釣りの手伝いをするといった程度の少年漁師である。
しかし、彼はアメリカの学友が『万次郎は恥ずかしがり屋で物静かな少年だったが、それでいて立ち居振る舞いは堂々として、紳士らしく、またABCから高等数学までクラスの成績はトップレベルだった』と述懐しているように、文化に支えられた人間としての確かさを持っていたからこそ敬愛されたのだろう。
万次郎が生活したフェアヘブンの人々は「万次郎は、今でもフェアヘブンの誇りだ」というように、町の高等学校では郷土史の時間に万次郎のことを学ぶのだそうだ。
それはひとえに万次郎の人間性や知性、教養(日本人としての素養と言った方がよいか)など人間としての資質に因るものだ。
だからこそ英語を用いても自分の考えを話すことができ、それで町の誇る一人前の船乗りとして認められたのだ。
単に英会話ができたというだけのことではないのだ。
それは、やはり江戸末期に伊勢白子から船出し、十年にわたるロシア漂流の記録「北槎聞略」を書き残した大黒屋光太夫にしても同様である。
光太夫がイルクーツクで日本語学校教師に迎えられたり、ロシア皇帝エカテリーナに拝謁を許されたりしたのも、(ロシア側に日本を望もうとする事情があったにしても)彼が非常にしっかりした人柄であったこと、鋭い観察眼や確かな考えを持っていたことに因るところが大きいであろう。
他国語で話せることが偉いのではなく、たとえ片言であっても自分の考えや信念をしっかり語れること、その方が偉いのだということは上の二つの事例を見ればわかることだ。
内容のない日本人が得意の英語で軽薄なことを言ったりすれば、尊敬されるどころか軽侮されることは疑いようがない。
「英語か日本語か」といった二者択一の議論をするつもりはないが、母国語はすべての知的活動の基盤である。
粗雑な日本語をもってしては粗雑な思考しかできはすまい。
国語を学ぶということ(それは他国語でも同じことだが)は、ものの受け止め方、見方、考え方を学ぶということなのだ。
それは誰しも経験したことであろうが、英語を学ぶ過程で『なるほど、イギリス人やアメリカ人はこう捉えているのか』と気づかされたことが多々あったし、それで考え方を理解できたことが多かったことからも窺える。
言語は単に「伝達の道具(あるいは手段)」ではないのだ。
そして「英語がうまければ国際人になれる」という現在の風潮は大きな誤解だということに私たちは早く気づかなければなるまい。
国際人になろうとすれば、自分の国の歴史や文化は言うに及ばず他国・他民族の歴史や文化についての深い理解をすること、そしてそれらについて高い見識を持つことの方がよほど大切なのだ。
(余談であるが『見聞を広める』と言いながら、訪れてきたはずのハワイの場所を世界地図上で指し示すことができない若者たちの姿は何をかいわんやであるが、見聞を広めることが見識を持つことにつながらなければ何の意味もない。が、それはさておき。)
そこで、私たちは確かな日本語でしっかり考え、わかり、語り、伝え合うことを通して自分を築き上げていくことができるような教育活動を展開しなければならない、と考えるのである。
まずは『ヤバイ』『キモイ』『ビミョー』『ウザイ』などの形容詞や形容動詞に類すると思われる若者言葉、果ては擬態語・擬音でしかものごとを語れない人間を育ててしまったことに対して猛省しなければならないであろう。そのような言葉とも言えないような言葉では、ものごとの本質を見極めたり解き明かしたり説明したりすることなどできそうもない。そればかりか、思考し体系的な考えとして組み上げていくことなど思いも寄らないからである。
日常的に日本語を使って話しているからといって、日本語の達人だと言えないのは現在の日本語ブームでも明らかなのであるから、「国語」については軽視したりせずよく学ぶべきなのだ。
海外の人々と物怖じせずに会話のできる人間に育てたいという思いもわからなくはないが、英語教育を導入・展開することで肝腎の「国語」について学ぶ時間が圧迫されることがあるとすれば、ますます日本の教育は危うくなってしまうのではないだろうかとつくづく思われるのである。
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