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「畏れ」を知ること [学校教育]

 日本人は古来より自分を取り巻く環境に対して「畏敬の念」をもって接してきた。
 山や樹木や岩を「畏れ(おそれ)」、ありがたい存在、人間の浅はかな知恵など及びもつかぬ理(ことわり)がそこに存在し働いていると信じて「敬い」「畏まって(かしこまって)」接してきた。そのことわりを尊んで、その周囲と自らの身を清浄に保ち、いっさいの穢れと虚飾を排除して清々しく保つことがことわりに近づく手段であると信じてつつしみ敬ってきたのである。
そうした接し方は自然物に対するのみではなく、ヒトや動物に対してもそうであった。 ヒトをも「おそれず」自分勝手に振る舞い、我を押し通すわがままな振る舞いをすれば、『傍らにヒトがおらぬかのよう(=傍若無人)』な言動として忌避されたのである。
 そのように自分を取り巻く一切合切のものごとに「畏れ」「敬い」の気持ちを持つことは、それが存在することのありがたみに感謝する心情につながり、『もったいない』という日本人独自の心情を育むことにもつながってきたのではないか、と考えている。

 そうしたヒトやモノ(たとえそれが「人間の産み出したもの」であっても)に対する「畏れ」の気持ちは、倫理観や公共心、奉仕の精神、愛情など人として生きる上でのさまざまな美徳の根幹をなすものであり、底のところで深くつながっているのではないかと思われるのである。
 そしてまた、その「畏れ」る心情の根源には、大いなるものの前では自分など取るに足りない小さな存在でしかないかも知れないという自己認識がある。
 『こうしたい』『こうありたい』と願っても叶うことばかりではない、そこにはより大いなるものの意志が働いているのかも知れないという思いが祈りや願いの所作を生み出しのではないかと思われるからである。
 また、生まれながらに持っている「欲望」に起因する苦悩から逃れられない小さく弱い自分に気づき、その悩みから自らを解き放つために悟りの境地を得ようとし、大いなる徳と慈悲を身につけようとしたのも自らの「弱さ・小ささ」に気づかされたからではないか。

 そこで話を飛躍させたい。
 倫理観や道徳心の涵養が不可欠だと声高に言う人たちがいる。また、個人の自由を尊重することも大事だが、公共心や奉仕の精神を忘れてはならない、と主張する人たちもいる。そしてまた一方では国を愛する心を育てることが何より大事だ、と譲らない人もいる。
 もしそうしたさまざまな美徳を養いたいと思うのなら、「畏敬する心」が持てるようにすることが何よりも必要なのではないか。
 ヒトやモノを「畏れ」「敬い」「大切」に思い、自らの身を慎み、それらに接しようとする心情である。「畏れ」とは「怖れ」でも「恐れ」でもない。自分などが触れたり手を加えたりすることなど思いも寄らない「大きな存在」であると「かしこまる」ことである。
 私たちは消費産業の攻勢の中で、いつの間にかモノを大切に思う感覚を鈍らせてきた。 貧困の時代を経験してきた大人であってもそうである。生まれながらにしてモノに豊かに囲まれてきた子どもたちにモノを大切にする心を持とうと呼びかけることは無意味ではない。自らの食欲と自己満足の気持ちを充たすために、それでなければならないということもないのに、グルメを気取って高価な輸入食材による食事を摂るということがごく普通に行われ、マスメディアもそれを煽っているという「浅ましい」光景もある。
 そのために世界各地の農・水産業者がこぞって日本への輸出に走り、それが原因で天然資源が枯渇の恐れにある国々が出現しているということに無関心を装おい、それでもなお持てるカネで自分だけは何とかなると多寡をくくって平然としている姿は「畏れ」を知らぬ所業としか思えないからである。
 ヒトやモノを大切にし、愛し、尊び、共によりよく生きようとする心情を育みたいと思うのなら、「畏敬する心」が自然に持てるような家庭・社会・学校になることこそ肝要なのだ。

 また一方では、憲法と同格の高邁な理想と理念を謳った教育基本法に手を加えようとするその人たちが教育基本法を批正するほどの大人物たちか、と思われてならないのである。
この人たちこそ「畏れ」を知るべきである。
 『燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知(し)らんや』とは史記の中の言葉だったであろうか。高々とした理想を謳ったその真意を図りかねて、目先の現象面に気を取られ、この法律を変えれば何とかなる、自分たちの思い通りの教育を施せると安易に思いこんでいる「畏れ」を知らぬ小人のように目に映るのである。
 「畏れかしこまりつつしむ」人間と対極にあるのは、「思い上がり」の「傍若無人」な人間である。
 そうした人間をつくらないためにも、「畏れ」を知る人間を育てることが何よりも大切だと痛感する次第である。「畏れ」を知るからこそモノゴトに謙虚に応対しようとするであろうし、「悟ろう」とするからこそ真摯に真理を追究しようともするのであるから。
 因みに「悟る」とはサンスクリットの「見極める」に語源があると言われている。
 見極めるためには、目のみならず耳も身体も研ぎ澄まし、いわば清らかにして事態をゆがませることなく見つめ受け止める必要がある。真摯で謙虚な構えで接することは、いずれにも共通なのである。


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