SSブログ

教養と知識 [教育全般]

 昨日の報道によると、『文部科学省は24日、先月末に改定した新しい学習指導要領の移行措置を公表した』とあった。
それによれば、『小中学校とも算数・数学と理科の実施時期を前倒しして来年度からとし、この2教科の授業時間と学習内容を大幅に増やす。中学は総合学習などを削減するので総授業時間は現在のまま。小学校は全学年で週1コマ授業が増える』という。

 時間数を増やせば学力が伸びる、あるいは保障できるという安易な考えはどこから来るのか。学習内容を知識として「覚える」「蓄える」ことのできる力を「学力」ととらえているから、このような対処療法的な方策しか思いつかないのだ。
産経新聞によると大見出しに「台形の面積復活」とある。
 平行四辺形にしろ三角形にしろ、そしてここで取り上げられている台形の面積にしろ、四角形の面積の求め方を探り導き出す学習の中で、それらの面積についてはどうなのか、という問題意識が生じ、解決に向けて動き出したくなるような学習の仕組みがあれば、わざわざ一つ一つ取り上げ「教え」なくても、確かな知、自ら手に入れたかけがえのない知として身につけていけるはずなのだ。
 四角形の面積が求められれば、『この場合はどうか』と平行四辺形や三角形、台形の面積についても意識が向くはずで、固い構造の学習過程しか想定できない人たちはそれぞれの「場合」を別々の知識として指導しなければならないとかたくなに思いこんでしまっているのだ。

 そうしたことは面積を求める学習だけに言えることではない。
 既有の知識を使いこなし、新たな課題に対処していけるようになる、ということが「学ぶ力」の一方の柱であるはずだし、学ぶ楽しさはそうしたことに直接触れることにあるとも言える。
 既に広く、教養についてのとらえ直しが始まっているが、教養とはかつて考えられていたような「百科全書的な知識を有すること」ではない、ということはもう20数年前から言われてきた。
 教養とは、知識の量ではなく「問うことを学ぶ=学問」への対し方を知ることであり、そのことによって自らの問い、人間の問い、事象への問いに真摯に向き合う構えこそ重要なのだ。

 たとえいくら知識があっても、次々と出現する難問(いま世界が、そして日本が抱えている多くの問題がこうした類の問題だ)に何の解決案も提示できない、解決への方向性も示唆できない官僚・政治家のような「知識人」では困るのだ。
 今回の改訂とそれに伴う移行措置で明らかなように、彼らはありきたりで対処療法的な一時凌ぎのような案しか出せないのだ。対処療法的な対策というだけであればまだしも、これが教育、なかんずく「学習」というものについての浅薄な理解を背景にしていることから問題はもっと深刻なのだ。
 東大を頂点とする名門校が輩出した「有能な官僚」諸兄は、勉強はしたものの「ほんとうの学び」を体験していないのではないか。「問う」ことを抜きにして「覚え」、覚えたことを答案用紙に吐き出すこと、あるいは「受験技術を身につけ」てそれを操ることを「学習」と取り違えてしまった人たちだからこそ、今回のような愚にもつかない改訂や措置を打ち出していながら「胸を張れて」しまうのではないか。

 教育が「教育の理想・理念・哲学」からますます乖離し、教育とは別物、すなわち「伝達」「伝習」「教習」に向かって行っているようであり、危惧の念を禁じ得ない。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。