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他を思いやる [日記]

 ある雑誌の中に次のような文章を見つけた。

 今年ももう7月。一年の半分以上が過ぎたことになります。
 時の流れというのは昔も今も不変であるはずなのに、時代や環境、年齢によって、その
長短の感じ方が違ってくるようです。
 さて仏教には短い時間の単位を表す『刹那(せつな)』という言葉があります。どれくらい短いかというと、諸説あるのですが75分の1秒相当ともいわれています。
 いずれにしてもこの短い刹那の連なりの中を、私たちは共に生きています。
 しかし今の世は一瞬の私利私欲に惑わされた、あまりにも身勝手な振舞の多いこと。
 近年は心の豊かさが盛んに叫ばれていますが、真の心の豊かさとは、他者を思いやることでもあるのですが。

 この文章に書かれているように、「私利私欲に惑わされた身勝手な振る舞い」がもとになって起きていると思われる問題が、枚挙にいとまがないほど頻出している。
 ところで、日本の夏といえば浴衣で夕涼みをする光景が目に浮かぶ。
 しかし浴衣を着て思うのは、浴衣を着たからといって本人は涼しく感じるわけではないということだ。どちらかと言えば、暑さを感じることの方が多い。涼しくなりたければ、浴衣などよりTシャツにショートパンツなどを着た方がよほど楽だ。
 ものの本に寄れば、そこが日本人らしい「他者への思いやり」なのだ、という。
 麻や木綿・紗や絽などを素材とした浴衣は、見た目にとても涼しげであり、その浴衣を着ている人を見る周りの人が『涼しそうだなあ』と感じることに意味があるのだ、というのである。着ている本人にとって涼しいかどうか、ではなく、周りの人が涼しいと感じてひとときの心の安らぎを得ることができるように、との心遣いが浴衣を身につける文化を発展させてきたというのだ。

 日本人は古来そうした細やかな心遣いや配慮をベースに、周囲とのバランスをうまくとりながら社会生活を送ってきたはずだ。いつの頃からか、自己を主張することに長けても他を思いやれない、人間としての民度の低さばかりが目につくようになってしまった。
 他のいたみや喜びを想像し、他に喜んでもらえるような自分、他の喜びを自分の喜びと感じることのできるような人々の方がずっと多いはずだと思うのだが、目につく話題がそうしたことばかりであるせいであろう。残念なことである。
 ここまで書いてきて、ずいぶん昔に教えた児童の日記に書かれていた文章を思い出した。 それは、登校途中のバスの中でお年寄りに席を譲ったことについての文章である。
 「お座り下さい」と声をかけようかどうしようか逡巡したが、それでも恥ずかしさを振り切って立ち上がり、席を譲ったときに『そのおばあさんに喜んでもらえたこともうれしかったのですが、やさしい気持ちになっていた自分に気づいたことがとてもうれしかったのです』という内容で締めくくられていた。
 他人に対してやさしい気持ちになっていた自分の存在がうれしい、ということに気づいたその子は、今はもう30歳を過ぎた立派な大人になっているはずだが、きっと幸せな人生を送っているに違いない、と思い起こしている。
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