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「品流し」の話題に接して [教育全般]

 教育再生懇談会は、安倍内閣の諮問機関であった教育再生会議の後を引き継ぐ形で設置された福田内閣直属の諮問機関である。これまでに、「小中学生には携帯電話機を持たせない」「小学校3年生から英語を必修化」「小中高の英語教員にはTOEIC受験義務化」などの提言をしてきていることは周知の通りである。
 教育の再生という根源的で将来を見据えて取り組まなければならない課題に対する提言として、どうかと思われるようなものが目につくが、このメンバーの中には品川区教育委員会教育長の「若月秀夫氏」も入っている。
 若月教育長と言えば、今や品川区に配属されることを嫌って「教員の“品流し”」と話題になるほど、さまざまな教育改革を名目とした「具体策」を実施し、恐怖政治とも思えるほどの教育行政を実行している人物である。
 驚くことに、彼は「子どもたちが“いきいき”してくれればいい。教師たちまで“いきいき、のびのび”されたら困る!」とまで言い放ったそうである。
 そうした考えを基本に据え、能力主義・成果主義を柱として「成績至上教育」を施そうと学校を強い管理下に置こうとしている人物のようだ。

 彼の施した具体的な施策の中には、いちはやく取り入れた「学校選択制」がある。また、教員各自が数値目標を設定・申告し、達成できたかどうかを給与に反映させることを旨とした「人事考課制度」もある。
 いずれも新自由主義をベースにした「自由な競争」によってこそ成果が期待できるという安直な考えに基づく施策だ。
 学校はモノを生産する場ではなく、まして同じ製品を、可能な限り効率的に生産することをめざす「工場」ではない。人間というかけがえのない独立した個を、それぞれの個性を尊重しながら育む場である。市場経済の論理が通用する場ではないのである。すでに「誤り」であることが実証済みである新自由主義に立つ「自由な競争」を基本的な考えに据え、しかも導入がふさわしくないはずの学校にその考えを持ち込んで、それを「改革である」とする姿勢には疑問を感じざるを得ない。

 例を挙げれば、コーンが『競争が避けられないものであり、競争がより生産的なものであり、競争がより楽しいものであり、競争が人格を形成してくれるものである、という四つの神話は基本的に誤っている。』(アルフィ・コーン(山本啓・真水康樹訳)「競争社会をこえて」法政大学出版会 p.16)と指摘したのをはじめとして、多くの研究者によってその誤りは社会的に認知されて久しい。
 また競争による教育が間違いであることはサッチャー政権下のイギリスで経験済みのことであり、競争に依らない教育を展開しているスエーデンが成果を上げていることからも、「競争」は経済活動のみならず教育においても決してよい結果をもたらさない、ということもわかっていながら、未だにそれに固執し、推し進めようとする人間が区の教育行政のトップにいるということは驚きに値する。

 保護者や児童・生徒に自由に学校を選ばせる「学校選択制」は、学校を単なる「サービスを提供する売り手」と、そして保護者や児童・生徒を「消費者」と位置づけ、選ばれる学校こそが「教育の成果をあげることのできた良い学校」であるとする消費者至上主義に立つ施策である。これは、モノを生産・販売することと子どもを育てることを同じ次元でとらえ、選ばれる「よく売れる店」になることと子どもの自立や成長を促す質的に充実した教育活動とは、まったく異質な問題であるにもかかわらず、安易に同一視、混同視するという、誰が見ても納得のいかない危険な考えをベースにしたものなのだ。

 また、人事考課制度もそうした考えと無関係ではないが、ここで問題になるのは「教育とは数値で評価されるべきもの」ではないし、短時間で結果が見えるものでもない、ということである。テストで「○点」以上を取れる生徒を「○%」育てる、ということが教育活動の到達目標としてふさわしいものかどうか、教育者なら首をかしげたくなるような査定が「良いこと」として行われようとしているのだ。具体的には各教師が目標値を設定・申告し、その目標をどれだけ達成できたかを「教育の成果」として問い、それが教師としての「評価」の核となる、というものだ。
 しかも、それが教師のランク付けにつながるというのだから恐れ入る。
 あるブログ記事には次のように書かれていた。
 『人間の評価を数字でしか判断出来ない教育者が居る限り「教育」は「成績の優劣を決めるゲーム」のままだろうと思います。勉学によって、思考力や感性、人間性を育む事は夢のまた夢なのでしょうか。子供が大人の縮図ならば、大人が成績至上主義から脱却してこその教育改革だと思います。』

 まさにその通りであるが、おそらくこの人物は、幼少時から「高得点をとること」を学習の最終目標と思い定め、そのためにだけ勉強をしてきた人なのだ。学問を通して高い見識を持つとか、広い視野でさまざまな考えを受け容れ、柔軟にものごとを考える力や態度とか、将来を見据えて展望を描くことのできる先見性・想像力・構想力とか、何よりも人間的なゆとり(寛やかなこころ)を自らの中に育てることのできなかった人なのだろう。
 だから、強い自信を背景にし、自己の考えを強迫的に学校と教員に押しつけることができるのだ。少なくても、「学ぶことの意味」と「自らが知らぬことの多さ」を謙虚に思えば、教育を「得点で評価する」などという愚を犯さず、教育についてもっと真摯な態度で語ろうとするはずだ。

 そもそも学校とは「子どもと教師が夢を語る場」であり、子どもだけが生き生きとしていればよい、などということはない。生き生きした教師と触れ合い、語り合うことで、子どもの成長がよりいっそう豊かなものになることが期待できるのだ。
 強迫的な施策の元で「失敗すること」を怖れ・避ける姿勢をもってしまえば教師の「生き生きとした成長」は望めまい。教師は(私自身の経験も踏まえた上での話だが)、日々の教育活動を通して一日一日成長していくのだ。しかも、その成長を支えるのは、より多く失敗による経験の積み重ねだ。誤解を恐れずに言えば、失敗だけから教師として大切な多くのことを学び取っていくことができるのだ。
 人間教師として成長を続けるその姿勢は、「生き生きとした教育活動の姿」に他ならず、それを否定しようとするのなら、それは「教育」そのものを否定しようとするものでしかない。子どもも教師も共に「学び育つ」のだ、ということを大前提に考える学校の姿を否定する構えに立てば、子どもを「一方的に教え・鍛える場」として学校をとらえる考えも成立するかも知れない。この教育長のめざす学校はそうしたものなのだろうか。だが、そのようなものはもはや「学校」ではない。それは「教習所」や「伝習所」と呼ぶべきものでしかないからだ。

 学校を商品化し、成果主義が浸透させ、弱肉強食的な勝ち組礼賛の志向を推し進める中で、学校教育はこれまでに予想もしなかった種々の問題に直面するようになった。
 若い教師の「教育に対する落胆・自信喪失」による退職や自殺、モンスター・ペアレンツと呼ばれる理不尽な要求をする親の出現と横行、教師バッシングを是認する風潮等々、数え上げればきりがないほどの問題が浮き彫りになり、学校と教師は日々それらと直に向き合っているのが現状である。
 遠足などで撮影したクラスの集合写真の中央に自分の子が写っていないのは納得がいかないと撮り直しを要求する親、卒業アルバムに我が子が写っている写真の数が少ないので、アルバムを作り直せと要求する親など、それは現実の話なのか、と思えるような身勝手な「権利意識」を背景にした非常識きわまりないことを言う親も、もとをただせば「神様である消費者」の言い分に「サービス業である学校が応える」のは当然だ、という行き過ぎた「学校の商品化」思想が定着?してしまったことによる。
 学校が一方的なサービスの売り手であるということになれば、他の工場に負けないように新しいサービスを矢継ぎ早に提供し、他の工場に客をとられないように目に見える成果ばかりをアピールするようになるだろう。
それは、教育の質を高めることとはおよそ無関係な営業戦略でしかなく、その「目に見える成果」を出すために不正も敢えて辞さない、という事態すら引き起こしかねない。
その典型的な例が、高校の未履修問題ではないか。

 学ぶことの意味、成長することのなかみを置き去りにして、教え・伝え・鍛えることで自校の優位を保とうとすれば、そこに見えるのは子ども不在の「教練」の様子でしかない。そうした中で育った子どものたどり着く将来の姿がどのようなものか想像に難くないが、そう考えるとこれはもはや教育の問題ではない。日本という社会が危機に直面していることに他ならない、ということがよくわかる。

そ れにしても、このような危険な人物が「教育再生懇談会」のメンバーとして(区の教育行政を左右するのみならず)、国の教育をも動かしかねない位置にあるということを考えると、何やら背筋が寒くなる思いがするのである。
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笹木 陽一

 ご無沙汰しております。前回のコメントからまた2ヶ月経ってしまいました。当方は慌ただしく1学期が終わり、今は吹奏楽コンクール直前で最後の仕上げをしているところです。久々に教育についての本格的な記事を書いていただき、いつもながらの冴えた論考に納得させられております。教育再生懇談会に品川区の教育長が参加していることは知っていましたが、彼の政策が「品流し」と評されている事は今回初めて知りました。教育再生懇談会そのものはもはや実質的な影響力のないものと考えていますので、さほど危機感はありませんが、若月教育長が品川区で実際に行っている教育施策については、現実の問題ですので憂慮せざるを得ません。「学校選択制」や「人事考課制度」については北海道でも一部で導入され始めており、他人事で済まされない状況になってきています。特に「人事考課」については、「自己目標シート」の記入が今年から始まり、私も不本意ながら提出しました。今年度は管理職による「評価者評価」や給与への反映はないとのことなのですが、「査定昇給」については12月の勤勉手当(いわゆるボーナス)から管理職による評定に基づいて行われることになります。私は今年度、本校の組合員のまとめ役(分会長)を務めているので、この制度の導入については反対の立場で管理職と話し合いを行ってきましたが、制度そのものについては運用せざるを得ないとのことで、お互い苦しい立場に置かれています。
 品川区の教育施策についてHPで調べてみましたが、一貫して新自由主義的な効率と経済で物事を考える思想に貫かれており、学校を「経営体」としてしか見ていない事がわかります。例えば「学校選択制と教育委員会の役割」という文章は次のように始まります。
『これからの校長には、単に教育者の延長線上に位置付く優れた教育実践者としての存在だけではなく、スクールリーダーとしての組織マネジメントとアカウンタビリティの発揮を前提にした成果基盤型の学校経営能力が求められるようになってきています』。
 途中には次のような文章もあります。
『時代はすでに確固たる経営論に支えられたスクールリーダー、常に切磋琢磨し成果を基盤に置いた、自律的学校経営の実現に向けて動きはじめています。好むと好まざるとにかかわらず、結果的に「そうせざるを得ない状況」を学校のなかに意図的に作り出すこと、「そうせざるを得ない状況」に学校や教員を追い込んでいく「組織体としての力学」を発生させることが不可欠であると考えます』。
 「成果基盤型」というのが凄い表現です。学校や教員は、もはや経営の対象でしかなく、「組織体としての力学」が優先させられるのです。先生もおっしゃるとおり、教育の営みとは期間を決めて短期に目に見えるような成果を出せるようなものではありません。もし出せるのだとしたら、それは数値化できて測定しやすい部分のみを強調しているに過ぎないのであって、他の測り得ない部分を無視しているに過ぎません。先生が指摘していらっしゃる「工場」「教習所」「伝習所」としての学校ではなく、「子どもと教師が夢を語り」「学び育つ」場としての学校を何としても実現させなければなりません。新自由主義的な競争による民間経営手法の導入や規制緩和の幻想から早く脱し、平和で安心して生きられる社会実現に向けて、立場を越えて皆で協働していく必要があります。
 まずは自分に与えられた領分で、しっかりと実践を積み重ねたいと思います。本校の吹奏楽部では「Always good music together(いつでも一緒に良き音楽を)」という標語を掲げて、日々練習を重ねてきました。コンクール直前で「競争」に向かいがちな子ども達の考えを、「自分たちのめざしてきたことを問う」為にコンクールに挑戦するのだ、という意識に向かわせられるよう、残り3日間ですが精一杯取り組もうと思います。子ども達の中には、2年続けて全道大会に出場してしまったがゆえの「コンクール成果主義」が根強くあります。賞の獲得よりも、「自分たちが納得し、聴いてくださる人々にも伝わる演奏がどこまでできるのか」にこだわって、最後まであきらめずに頑張りたいと思います。「結果がすべてではない、過程こそ大切なのだ」ということが子ども達に残るコンクールであって欲しいものです。久しぶりなので、またも長々と書いてしまいました。まだまだ暑い夏が続きます。くれぐれもご自愛の上、有意義な夏をお過ごし下さい。また連絡いたします。では失礼します。
by 笹木 陽一 (2008-08-03 18:28) 

おじおじ

 笹木先生、コメントをありがとうございました。
 北海道でも、一部で「学校選択制」や「人事考課制度」が導入されはじめている、とのこと。しかも学校の分会長として交渉の先頭に立っておられるとのこと。八面六臂のご活躍をされていらっしゃるご様子。大変ですね。
こうした問題に触れる度に、私も指摘したことがあるし、先生も今回書いていらっしゃるように「新自由主義的な競争の原理」を排除すること、小泉・安倍と続いた無意味・無責任・野放図としか言いようのない「規制緩和」の論理を見直し、学校教育とは無縁の素人談義を越えて真摯に「市民として自己成長できる」教育と社会の実現に向けて、さまざまな立場を越えて真剣に議論していくことの大切さを痛感させられます。

 そうした議論の向こうに「めざすべき社会」や「望ましい市民の姿」が見えてくるだろうと思っていますが、それはまた私たちが抱えている種々の社会問題への解決の道筋を探る、遠いけれども確かな道になるはずです。
そうした「いばらの道」かも知れないが「善さを探る手応えにみちた道」を辿
ることによってこそ、真に成熟した市民社会の実現が望めるし、理由のない格差や「偽・欺・不正」とは無縁の国民主体の社会、持続可能な社会を招来することが可能になるのだろうと思われるのです。
 それは「豊かに生きることのできる社会」の実現をめざす動きと言っても良いでしょうが、本当の豊かさとは何かということについて、改めて見直しとらえ直すことが求められていることに他ならないと考えています。
 すなわち「持つこと」を「豊かさ」と混同し取り違えてしまった現代人、「恵
まれた環境」を「当然のこと」として受け止め、ありがたみ不感症になってし
まった現代人にとっては平坦な道ではないが、そこでの再認識とある種の覚悟がなければ、価値観の再構築による望ましい社会への変革など望めそうもないからです。

 いずれにしても「人間としての根っこ」の部分が変わることが不可欠なように思われますが、そのためにも地道で粘り強い、そして不断の子どもたちへの働きかけこそが有効に違いありません。

先日の読売新聞の読者からの投稿欄に次のような記事を見つけました。
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食べ物の大切さを ~戦争体験聞き実感~
                   中学生 吉川 舞 15(京都市)
 夏休みの宿題で「戦争体験の聞き取り調査」という課題が出た。
 私は祖母に話を聞いた。
 終戦の時、祖母は疎開し田舎に住んでいた。食料難で勉強どころではなく、カボチャやジャガイモを栽培していたという。
 今の日本は平和で裕福だ。ほしい物は何でも手に入る。
 そのために物のありがたみがわからなくなっているように感じられる。
 食べ残しの廃棄も多いという。食料自給率が低いのに、食べ物を大切にしないのはどうかと考えてしまう。
 この宿題によって戦争だけでなく、身近な問題についても考えることがで
き、よかったと思う。
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 中学3年生の少女の、このような述懐に触れ、何とは無し安堵の気持ちを感じると同時に嬉しく思うのは私一人ではないはずです。
子どもたちへの働きかけ(『これからの生き方について一緒に考えよう』とい
う呼びかけ)が決して意味のないことではないということが如実に窺えるからです。
 はなはだ嬉しくなってしまい、ここに書き留めておこうと思った次第です。

 吹奏楽部の合い言葉を「Always good music together(いつでも一緒に良き音楽を)」としてご指導なさっておられるとか。また、「競争」に向かいがちな子ども達の意識を、「自分たちのめざしてきたことを問う」為にコンクールに参加するのだという意識で練習に取り組めるようご指導を展開されていらっしゃるとか。
我が意を得たり、とこれも嬉しくなってしまいました。
どうぞ夏の暑い盛りのことですが、頑張ってください。
そして、コンクールの本番では、子どもたちも納得のいく表現による演奏がステージ上でできることをお祈りしております。

by おじおじ (2008-08-05 21:50) 

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