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感謝への回帰 [日記]

 先日の読売新聞、読者の投稿欄に次のような記事を見つけた。
 投稿者は女子中学生である。
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 夏休みの宿題で「戦争体験の聞き取り調査」という課題が出た。
 私は祖母に話を聞いた。
 終戦の時、祖母は疎開し田舎に住んでいた。食料難で勉強どころ
ではなく、カボチャやジャガイモを栽培していたという。
 今の日本は平和で裕福だ。ほしい物は何でも手に入る。
 そのために物のありがたみがわからなくなっているように感じら
れる。食べ残しの廃棄も多いという。食料自給率が低いのに、食べ
物を大切にしないのはどうかと考えてしまう。
 この宿題によって戦争だけでなく、身近な問題についても考える
ことができ、よかったと思う。
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「ありがたい」というのは「有り難い」、すなわち通常ではあり得ないような
非常に幸運な事態が起こるなどして、本来なら助からないところであるのにも
かかわらず助かり、「有り難い事態のおかげで救われた」という具合に使われ
るところの感謝の心情を言い表した言葉である。
 投稿の主のこの女子中学生が言うように、現代人は不自由な時代、極貧の時
代を生きたかつての日本人とは異なり、裕福で平和を享受することに「慣れ
て」しまい、そのことに対する感謝の念が希薄になっている。希薄になってい
るどころか、モノが十分に行き渡り満ち足りているにもかかわらず、逆に心は
不満足感をつのらせ、それがほんとうに欲しいかどうかにかかわりなく、持た
ないことそれ自体に不安を抱き「イライラ」しているように思われる。

 自分がどれだけ恵まれた環境で生きているか、を見直すことができるのは不
便な環境に追い込まれることが契機となることが多い。
 手足にほんのちょっとした擦り傷ができただけで、思考に乱れが生じたり、
ふだん何不自由なくできている動作に支障をきたしたりしてはじめて、無傷だ
った昨日までの状態を「とてもすばらしい恵まれたよい状態だったのだ」と感
謝の念をもって見直すことができるといったことは、誰しもが経験しているこ
とであろう。
 そのような身近な「見直しの契機」はたくさん経験もしてきているし、ちょ
っと想像しただけでもさまざまなことが思い浮かぶ。
 蛇口をひねればきれいな水を得ることのできる水道も、当然あるものとして
その恩恵に浴しているが、地震や渇水で水道がストップしてしまったとする
と、その不便さは「日常不自由なく使えていた水道施設」の有り難みを痛感さ
せるはずだ。
 また電気に頼った生活をしている現代人は、停電が起きると何もできないこ
とに気づくであろう。灯りがない、ラジオやテレビという情報源から切り離さ
れてしまう、エアコンも扇風機も使えない、オール電化の生活をしていれば物
を煮炊きすることもできない、ひょっとするとセキュリティーが強化された家
では自宅への出入りにも支障をきたすかも知れない、といった具合に不自由さ
をかこつことが十分に予想できる。
 
 そのような生活インフラにかかわることだけではない。
 私たち団塊の世代は、かつて学園紛争によって大学の施設が封鎖され、その
ために講義が開かれず授業を受けることができなかった、という経験をしてい
る。そして、そのとき初めて知ったのだ。授業を受けることができる、という
権利と自由を奪われることの意味を。そして同時に、なに不自由なく授業を受
けることができた学園生活における幸せを改めて実感したのだ。

 失ったり、奪われたりして初めてわかるのが「ふだんの生活の有り難さ」で
あり、特に意識せずに行っているふだんの動作(歩く、見る、考える、跳ぶ、
握る、踏むなど)ですら、何らかの支障が生じて思うようにできなくなれば、
無理なく「できていた状態」を有り難みを伴って回復を願うものだ。
 それは、何気なくできていたことに対する感謝の念に他ならない。
 そして何気なくできていた当時に、「できていたこと」になんの感謝もせず
に(むしろまったくそのことを意識せずに)過ごしてきたことに対する後悔の
念も伴って、回復した折には、そうしたこがないように「有り難みを感じなが
ら行動しよう」とも決意したりする。もっとも「喉元過ぎれば何とやら」の喩
え通り、そうした決意は忘れ去られてしまうことが多いものだが、それでもそ
の体験は無意味ではない。意識の底に「有り難みの実感」は存在し続けるはず
だからである。

 自分がここに存在していることだけでも、あり得ないほどの偶然が積み重な
った結果の「有り難い状態」なのだ、と考えただけでそのことを粗略に扱って
しまうことなどもったいなくてできないはずだ。
 まして、世界中にいる何百万もの、明日をも知れぬ困窮の中で生活をしてい
る人々のことを考えれば、たとえ景気が回復しないとは言え、食べたいものを
食べ、明日があることを疑わずに眠ることのできる私たちは、十分に幸せであ
るはずだ。そのことについて、まずもって「有り難い」と感謝することから生
きることや社会をつくること、について考えることをスタートさせなければな
るまい。

 不平・不満の横溢、利己的な欲求に起因する不幸感、耐性の欠如等々、自分
と社会との関係をうまくつくれない要因となりそうな障壁の多くは、そうした
「有り難みの感覚の欠如・希薄化」を解消することで取り除けるものが多いの
ではないか。
 樹木や岩、山岳や河川・湖沼・海、天体や気象現象など、自分たちを取り巻
く環境に深い畏敬の念をもって接し、感謝と畏れを感じながらうまくつきあっ
てきたのが日本人の気質であり、美徳であったはずだ。
 そうした美徳についてもう一度思い起こし、ふだんの生活で見過ごしがちな
「あたりまえに生活できる有り難さ」について見直すことが、こうしたあくせ
くした時代、閉塞感にさいなまれそうな時代だからこそ必要なのではないだろ
うか。どうやら、さまざまな問題を解消するカギは、そうした「感謝」の心へ
の回帰にあるのではないかと考えるのである。
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笹木 陽一

 お盆も過ぎ、北海道は日に日に涼しくなって、すでに秋の風情です。吹奏楽コンクールでは3年連続で全道大会に進むことになり、まさに「有り難い」ことだと、支えてくださった皆さんに感謝しているところです。
 今回の記事を拝読し、3年前の本校の生徒会誌に書いた文章を思い出しました。先生と知り合う前の文章ですが、夏に体調を崩して10日ほど入院した事を受けて書いたものです。少し長いですが引用させていただきます。

 今年は体調を崩して動けないという事を何度か経験しました。その時初めて今まで当たり前であった事がいかに「ありがたい」ものなのかという事に気づきました。ありがたいは「有難い」と書きます。当たり前に「有る」ことが「難しい」という事です。普段なら普通にできる事、例えば歩く、持つ、考えるといった動作は、足、手、脳といった部分が上手く働かなければできません。それらは当たり前に「有る」のが当然なのではなく、生まれながらにそれらを失って生まれてくる人もいます。生まれてからでもいつ失われるかわかりません。昨今のニュースを見ていると、自分には何の罪もないのに突然命を奪われるという悲しい出来事が後を絶ちません。そう思うと当たり前に「有る」という事は実は簡単なことではなく「難しい」事でもあるのです。当たり前だと思っていても、実は色々な人や物事に支えられているという感謝の心で一日一日を大切に生きなければと思います。

 実はこの春4月にも左手首を骨折し、2ヶ月半ほどギブスをつけた生活を余儀なくされました。その時にもつくづく、当たり前に「有る」ことのありがたみを感じました。先生がおっしゃるとおり「感謝」の気持ちで、これからも日々生きていきたいと思います。
また連絡いたします。
by 笹木 陽一 (2008-08-19 13:54) 

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