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雑感 [日記]

 燃料の高騰で全国の漁船が一斉に休漁した。出漁すればするほど出費がかさむが、その燃料分を価格に反映させることができないことから、赤字に苦しんでいるという。
 聞けば、運送業などにかかわるトラックと比較すると、漁船の場合は操業にかかる費用の中で燃料費の占める割合はすっと高いのだという。
 そうしたことから、苦しい実態を訴え、燃料費の補助を求める具体的な動きとして全国一斉の休漁と東京での集会・デモが行われたということだ。
 それを受けて、政府も燃料費の補助を検討する方向で動き出したようだが、一方ではその費用をどこから捻出するかにも苦慮しているという。また政府関係者からは、他の業種から不公平感を持たれないような対処が必要との声も出ているという。

 燃料費を国の予算で補填するのも結構だが、石油の高騰が今後とも続くだろうということや、たとえ続かないとしても、石油を燃やす以上ついてまわる排気による大気汚染のことを考えれば、安価・安全・クリーンな代替エネルギーを使うということを視野に入れた検討を始めても良いのではないか。
 日本には、こうした問題について先進的な研究の蓄積があり、やろうと思えば石油に頼らず、しかも対策に高額な出費も伴わない智恵があるはずだ。
 安易に「カネを出せば何とかなる」という方向に走らずに、長い将来を見据えて最善の方策としての「文殊の知恵」を産・学・政が協同して打ち出すことが望まれる。
 「カネを出せば何とかなる」などという結論は、何の知識も持たない子どもでも出せる。持続可能で安定的な方策、すなわち『なるほど、そんな手があったか』と誰もがうなるような対策を打ち出すことができるのは、学問と技術の経験を積み重ねた者にしかできないことである。逆に言えば、何の効果的な方策も打ち出せないとすれば、有名大学は出るだけの知識や受験技術は身につけたものの、困難な状況を打開できる智恵を創出できる知性を磨き損ねた人間しか「政・財・官・学」にはいない、ということを露呈してしまうことになりはしないか。
 日本社会をリードする立場である「その道の専門家」には大いに頑張って欲しいところであるが、一方では市民も「市民として成長・成熟」する必要があろう。

 どのニュース報道を見ても、一斉に休漁したことを受けて「魚が品薄」「マグロが食べられなくなる」「イカが、アジが何円値上がりした」などと切羽詰まったような調子で報道している。
 魚が品薄になったといっても、魚が食べられなくなるわけではない。鮮魚は望めなくても、干物があるではないか。マグロが食べられなくても、サンマや鰯があるではないか。
 マスコミの報道を見ていて思うのは「いたずらに市民を煽るな」ということであり、市民には「そのようなマスコミに煽られるな」ということである。
 飽食の時代にあって、空腹を満たすことができる、ということに対する「ありがたみ(感謝の気持ち)」が希薄になってしまい、ものの味を本当に知ってか知らずか「ブランド」や「形」「規格」をありがたがる風潮が、船場吉兆や飛騨牛、比内地鶏、ウナギなどの産地偽装、ごまかしを生んだ背景にあることを肝に銘じなければならない。
 マグロが食べられなくなったからと言って「それがなにほどのことがあろう」とゆったり構え、じっくりと対策を考慮することのできる市民とならなければ、安易な手段で手っ取り早く対策を講じ、将来ますます自らを苦しめていく道をたどることになることは想像に難くない。

 もうずいぶん前から、スーパーで売られる野菜の規格化は進み、曲がったキュウリ、色の均一でないキュウリなどは店頭に並ばないという。キュウリに限らず、ありとあらゆる食材が均一の顔つきで店頭に並んでいる。
 日本人ほど、その中味とかかわりなく「形、大きさ、色」といった外見に注文をつける国民はいないようで、それすらも外国との競争で「買い負け」している最大の要因になっているとも言われている。それだけではない。そうした「いわれのない要求」に応えるために使わなくともよい農薬を使わざるを得ないと嘆く生産業者もいるという。
 ちょっと虫が食っていると言って購入を控える客がいれば、スーパーマーケットではそうした商品を仕入れることをしなくなり、生産業者に「虫の食っていないものを」と要求する。そのために「虫も食わない野菜づくり」をめざして農薬を使わざるを得ない状況に追い込まれるということは容易に想像がつく。
 外国からの輸入に頼っているさまざまな食材について、わがままな要求をつきつけてきた日本だが、ヨーロッパやアジアの各国は、そうした要求をぜずにどんどん食材を買い付け確保していくのだという。その結果、日本は「買い負け」をし、買いたくても売ってもらえない状況になっているというのだ。
 もちろん、これは「食の安全を守る」という姿勢とはまったく別の、そして味の本質ともかかわりのない『規格にあっていれば安心』という理屈にならない理屈でモノを売り買いしてきた日本人の「歪んだモノへの信仰」がもたらした事象なのだ。

 それにしても、本質とはかかわりのない大きさや形・色といった「規格」にばかりこだわり、それをありがたがる姿勢から脱却しなければ「不正の温床」を根絶やしにすることなどできはしないはずだ。
 過激な言い方かも知れないが、味もわからないくせにミシュランが三つ星をつけたというだけでその店をあがめ、その味を礼賛するような「似非食通」ばかりになってしまえば、そのレストランは努力を惜しんだり、「ほんとうの料理」を求めて来店する客をも粗末に扱うようになってしまうかも知れないではないか。
 そうしたことが「産地偽装」の遠因としてあるということを考えると、自分以外の誰かによる評価に頼ることなく、自分なりの価値判断ができるよう自己を成長させることが大切なのではないかと思われる。
 言われなく「ブランドを信仰する」ことなく、自分にとって価値あるモノとそうでないモノを見きわめる目、見抜く目を持つこと、それがこれからの社会を生きていく上で、もっと言えばこれからの社会をつくる上で重要になるだろうと思われるのである。
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