SSブログ

あれから一週間 [日記]

 先週の日曜日(2008/06/08)の白昼、秋葉原の歩行者天国で無差別殺人を犯した犯人は、事件当初から「小中学校を優秀な成績で過ごした、スポーツ万能の子どもだった」と報じられてきた。
 しかし、青森県内でも有数の進学高校に入学してから成績が低迷し、ほとんどの生徒が4年制の大学に進学する中、短大に進まざるを得ないほどに様変わりしてしまった、とも報じられてきた。
 短大に進学した後、教員になることを欲し、4年制大学への編入を希望したがそれは叶わず、短大に於ける勉学もおろそかになり、そこで得られるはずだった「2級自動車整備士」の資格も棒に振っていたとのこと。それは国家試験で実技が免除される「実車実習」を受講しなかったためだという。

 聞けば、両親とも過剰なほどに教育熱心で、加藤容疑者の掲示板への書き込みに寄れば『親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられてたから勉強は完璧』だった小学生時代を送り、『中学生になった頃には親の力が足りなくなって、捨てられ』、自信も意欲も喪失してしまった中学・高校時代の様子が語られている。
『中学では小学校の「貯金」だけでトップを取り続けたが、県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ。高校出てから8年、負けっ放しの人生。自分で頑張った奴に勝てるわけない』と吐露するほど、自分の力で勝ち取ったものではない「成績のもろさ」からくる自尊感情の喪失が窺える。

 成長を「よい成績をとること」と勘違いしてしまった両親の過った教育観は、作文や絵画を肩代わりして書く(描く)という行為に如実に示されている。それが我が子の実力の伸びと結びつかないことなど、どう考えてもわかるはずなのに、「賞をとること」「よい成績をとること」が学習の成果だと短絡的・近視眼的にとらえて指導し続けた挙げ句、実力に結びつけることができずに、しかも「負の成長」に追い込んでしまった様子が見て取れる。「正解を教えること」が指導だと錯覚したこの母親は、加藤容疑者が中学に進み、自分が正解を示すことができなくなったとき、「教えること」を放棄せざるを得なかったのだろう。
 自力で学ぶことを知らずに育った加藤容疑者にすれば、それは「捨てられた」と実感することであり、『もう取り返しがつかない』『何をやっても無駄』という無力感の獲得に結びついたであろうことは容易に想像がつく。

 そう考えてみると、この場合、教育に過ちがあったとしか思えない。単に成績のことばかりでなく、彼自身の「耐性のなさ」や「自立の構えの欠如」も目につくことから、人間としての成長を忘れた教育のありように問題があったのだろうと思われる。
 派遣社員として茨城、宮城、青森、静岡など、各地を転々としたとも報じられている。派遣社員という不安定な位置から脱却したいという理由からばかりではなく、『この仕事は自分の望む職種ではない』ということも大きく作用しているようだ。それは、採用時は派遣社員であったものの、数ヶ月後には正式社員として採用された青森での食品運送会社をあっさりと辞めてしまったことからも窺える。
 いったい世の中に「自分のしたいこと」と職業が完全に一致している人間などそう多くはないはずだ。中にはそのような人がいるかも知れないが、それは希有な例で非常に幸せな人であるには違いない。しかし、そうなれなかったといって「不幸さ」をかこってみたり、『自分は社会から見捨てられた』と自暴自棄になるほどのことではない。
 彼自身の弱さ、成熟の未熟さが浮き彫りになるが、だからと言って彼を取り巻く社会に問題がなかったとも言い切れない。

 競争の原理に基づく利益優先の社会が見境のない「規制緩和」を求め、その規制緩和がいっそう人々を競争に駆り立て、安い人件費を求めて派遣という特殊な雇用状態を蔓延させ、ワーキングプアと呼ばれる浮かび上がれない人々を生み、格差をいっそう押し広げている現状こそ大きな問題であると思われるからである。
 「格差はいつの時代もあるのであって、格差を全くなくすことは不可能」、「努力した人が報われる社会をつくっていく、汗を流した人、頑張った人が、知恵を出した人が報われる社会をつくっていかなければいけない」として再チャレンジを提唱した安倍首相の言は、逆に言えば「非正規社員であるあなたが正規社員になれなかったのは、社会が悪いのではなく努力しなかったあなたが悪いのだ」ということだ。
 新自由主義という弱肉強食の原理に基づく経済優先の社会にあって、費用対効果を何よりも大切にする企業が人件費の高くつく正規社員を増やそうとするはずがないことは目に見えている。
 そうした中で加藤容疑者ももがいていたともとれる。

 また広がる格差社会の中で、浮かび上がれたかどうかということをもってして、一元的に「勝ち組・負け組」と評価し合うような短絡的な人間の見方が支配的な浮薄な現代社会も、大いに問題なのではないかと思われる。
 加藤容疑者自身が自分を負け組と規定し、「勝ち組はみんな死んでしまえ」「希望のあるやつらには俺の気持ちなんかわからない」と自暴自棄の心情を吐露したのも、そうした風潮を背景にしていることは疑いようがない。
 自己愛と現実の自分の姿の間の埋めようのないギャップが、「負け組」という見方でいっそう惨めにさせたのかも知れない。何と言っても小学校時代は優秀な児童だったのだ。その自分が『なぜ』という思いに駆られても不思議ではない。
 こんなところにも彼の「甘え」「弱さ」「未熟さ」が感じられるが、それにしてもこうした浮薄な風潮が支配的な社会に幼い時から身を置いてきた若者であることを考えると、彼ばかりを責めることもできないように思われてならない。
 そうした社会のありようを許してしまったのは、私たち一人一人だからである。

 そう考えてみると、加藤容疑者が彼自身の身勝手な理屈で死に追いやってしまった7人の犠牲者の方々、10人の怪我を負わされた方々は、こうした問題を抱えた社会と、そしてそれを背景とした教育の至らなさによって犠牲に追いやられたとも言える。
 こうした理不尽な事件が起こらないよう、そして何の関係もない人が無念の死に追いやられてしまったり自由を奪われたりすることのないよう、社会が「よさ」に向かって成熟すること、そのために教育が望ましい貢献を通して市民の成長に寄り添えるようになることがどうしても必要だと痛感するのである。

 このように考えてみても、未だ釈然としないのは、人の生命を奪う行為がなぜこんなにも軽々とできてしまうのか、ということ。身勝手な理由のために将来を奪われてしまった人々や残されたご遺族・友人の無念さと悔しさを思う時、その疑問はやり場のない怒りと共になおいっそうつのる。
 こうした理不尽な事件があまりにも多すぎ、暗澹とした気分にさせられるが、台風や地震などの自然災害とは異なり、人間が引き起こすところの「人間が主たる原因」「人間の考え方や生き方が主たる要因」の事件であることから、手の施しようがあるという意味で未だ救いがある。
 そこにこそ教育が関与する意義と余地があるとつくづく思うのである。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

大人こそモラルを雑感 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。