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大人こそモラルを

 官僚とタクシーの癒着による、いわゆる「居酒屋タクシー」の問題がメディアを賑わしている。産経新聞によれば、財務省職員が現金や金券を受け取っていたのをはじめ、13省庁502人が金品を受け取っていたことが判明しているという。判明しているだけでもこの数字であるが、これはおそらく氷山の一角であろう。

 タクシーにすれば、深夜、それも長距離の乗車を約束してくれる固定客がつけば嬉しいに違いない。金品を贈ってでも、その固定客をつなぎ止めておく算段をしようとするのも無理からぬ話である。そして一方の官僚にしても、自分の懐をいためず公費でタクシーを利用し、その上酒食でもてなしてくれ、あまつさえ金券や図書券などでキックバックがあるというのだから「濡れ手で粟」。
 しかも利用者たる官僚の中には、残業で遅くなりやむなくタクシーを利用したというのならまだしも、そうでない場合にも公費でタクシー券を利用し、そうした接待を受けていたというのだから言語道断の極みである。
同じ産経新聞によれば、
 ~繁華街からタクシーで帰宅する官僚がいることが関係者の話で分かった。飲食店の女性従業員を送って帰宅するあきれた官僚も。公費支出のタクシー券に記載される乗車地点は「霞が関」で、運転手側も不正利用に加担する形だ。また省庁前の客待ちの列を避け、なじみのタクシーを人目につかない場所に呼び乗車する癒着の実態も判明した。

 関係者によると、東京の新橋や赤坂、銀座などの繁華街で私的に飲食をした後、携帯電話でなじみの運転手を呼んでタクシー券で帰宅する官僚がいる。

 省庁が支給するタクシー券の多くは、あらかじめ乗車地点として「霞が関」とスタンプ などで記入されている。深夜に新橋や六本木で国土交通省の官僚を乗せ、自宅まで送ったことがある都内の運転手は「チケットにはすでに霞が関と書いてあったので、気を利かせて乗車地点を書き直すようなことはしない」と証言する。

 また厚生労働省のノンキャリア職員のケースでは、都内のカラオケスナックで飲食後、携帯電話でタクシーを呼び、さらに夜食を食べている間、1時間近く路上で“付け待ち”させたり、飲食店の女性を自宅まで送ってから帰宅する“強者”もいたという。~
とのこと。
 まさに官僚天国を絵に描いたような「やりたい放題」ではないか。

 小泉政権が、見境なくあれもこれもと「規制緩和」を実施し、一方では『競争が発展を促す』と自由競争を煽った結果がこれがである。
 規制緩和によってタクシー業界に新たに参入する企業や個人タクシーが増加し、競争が激化した挙げ句、従来のタクシー料金では経営が困難になって料金の値上げが引き起こされ、客足が遠のいたことも一因となってますます客取り合戦が激しくなり、こうした事態に陥ってしまったことは明々白々。
そもそも競争は決してよい方向に向かう「発展」につながらず、醜い争いの渦に人々を巻き込んでしまうことは火を見るよりも明らかだったにもかかわらず、小泉→安倍と続く「丸投げ政権」が規制緩和と自由競争を推し進めたツケがこれであり、彼らの責任は大きい。確たる理念も展望もないまま、劇場型の政治を推し進めた結果、ますます日本を住みにくい国にしてしまったからである。

 住みにくいだけならまだしも、こうした状況の中で閉塞感がいっそうつのり、それがまた一方では「モラルの低下の社会への蔓延」をもたらすという、危機的な状況を生んでしまっている。
 そのモラルの低下の象徴が「劣化官僚」とでも言うべき、こうした省庁の役人であっては困る。何と言っても国民の付託を受けて、国民の安心・安全を司る行政の任にあたっているのだ、という責任を自覚せねばならない彼らに求められるのは「潔癖さ」であり「公正さ」であるはずだ。決して自分たちの都合の良いように行政のあれこれを「私(わたくし)」することまで付託をしてはいない。
 であるにもかかわらず、私利というエゴのために公費を「私」して平然としていられる官僚も、またそうした官僚を囲い込み、これまた私利のために競争に走り、なりふりかまわず接待づけに自らを追い込んでしまったタクシー運転手も、自らを省みる姿勢が欠如してしまった「不道徳な大人」であるが、恥じずに子どもの前に立つことができるかと自問して欲しいものである。
 
 学校では「よさ」を希求し、「よさ」の実現に向けてがんばれる子ども、すなわち豊かな情操を身につけ、高い志を持ち続けて自己実現をめざそうとする子どもを育むために日々研鑽し努力している教師が多い。模範になれない政治家・官僚をはじめとする「大人」から、「規範意識の涵養を」「愛国心の醸成を」などと押しつけられるまでもなく、教師も子どもも健やかな成長をめざそうとしている。
 自らの「恥知らずな行為」でその成長を阻み遮っているのは、そうした「大人自身」であることをもっと自覚した方が良い。
 人間の醜いエゴが生む争いを「競争」と称して礼賛し、エゴが内包する膨張を「成長」と称してそれを追い求めることはもう止めるが良い。そうした自堕落とも言えるエゴの行使が、環境破壊を生み、心の破壊を生み、人間関係の破壊を生んできたことは、これまでの経験で分かりすぎるほど分かってきたことではないか。
 これまでも繰り返し言ってきたことであるが、将来を生きる子どものためを思うなら、大人自身が自らの姿勢を顧み正すことで「より望ましい社会」「より充実した社会」の実現に向けた努力を怠らないようにするのが最善・唯一の道なのだ。
それは「恥の文化」を尊重してきた日本人だからこそ向かうことのできる道でもある。
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