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学習に背を向ける子どもたち

 このところ小学校高学年の児童とふれあう機会があり、何度か接触するうちに「これはどうしたことか」と考えさせられる事態に遭遇した。
 それは、彼らから子どもらしい「ひたむきさ」や「明るさ」が感じられない、ということである。彼らに接触したのは学校の中、しかも学習中のことである。
 小学生とは思えない気怠そうなその様子からは、学習を「わがこと」としてとらえ、他ならない自分の成長のためにこの機会がある、と前向きに認識している姿とはほど遠い取り組みの姿勢しか窺えないのである。

 『昔の子どもだって、学習にそんなに積極的ではなかったではないか』と自問してみるが、そう考えても違和感を拭えない。かつての子どもの消極性とは、問題の所在そのものが異なるところにあるとしか思えないのである。
かつても学習に消極的な子どもたちはいた。しかし、好奇心を刺激するなり、問題意識に働きかけることのできるような投げかけをすれば目を輝かせたし、がんばろうと試みることのできる子どもが多く見られた。何よりも「知らない」「できない」ことを恥じたり、意欲的になれない自分を省みたりする傾向があったからである。
しかし、いまの子どもたちの気怠そうな様子からは、消極的というのではなく、むしろ積極的に「学習を忌避する姿」が窺えるのだ。「知ること」「わかること」「できること」は意味のないこととして無言で主張し、がんばることを恥じる様子すら見えるからだ。

 そうなってしまった原因はさまざまなところに見いだせるかも知れないが、その一つに今の子どもたちの多くが学習に「利」を求め見いだそうとしている気配がある、ということが考えられる。
 学習して知識を獲得すれば、何か良いことがあるのか。
 がんばって取り組めば、何か得なことがあるのか。
 真面目に勉強などしたら、却って友だちに嫌われるという損益を蒙るのではないか。
 こうして教室の机の前に45分間坐るという苦役に耐えているからには、何かご褒美がもらえて良いはずだ。しかし、何ももらえないではないか。
 
 子どもたちはしきりに「わからない」を口にする。
 しかし、それを困ったことと感じている様子は窺えないし、「わからない」のではなく「わかろう」としていない様子も窺える。
 わからないのは自分のせいではない。むしろ自分にとって利のない意味のないことを教えようとしている学校が悪いのだ、とでもいうようだ。
 分からないことそれ自体が自分にとってさほどの問題ではない。
 なぜなら、知識のない人間がマスコミでもてはやされ、有名人(彼らにとっての有名人とは芸能人やスポーツ選手などである)であることに知識や知性は不必要ではないか。
 学習に真剣に取り組むには、粘り強さや不断の努力が欠かせないが、そんな努力をせずともあんなに有名になれるではないか。
 有名になれないまでも、多くの人がそこそこ生きていけているではないか、と費用(努力)対効果(利)を勘案して易き選択し、下流に流れようとしているのだろう。

 これは推測でしかないが、各家庭では勉強することは将来よい大学に入学するためであり、それはまたよい会社の社員や官僚となって高い収入を得るためなのだ、と学習の意味を現世的な利益と結びつけて説明しているのかも知れない。
 そうした説明で説得するのは親にとっても子どもにとってもわかりやすいことであろう。しかしそうした説明は、現世的な利に直接つながりそうもない、つまり試験とは関係のなさそうな学習内容を「無意味なもの」として意識させることにもなる。
 だから子どもたちは、そうした内容には積極的に「忌避」の姿勢を示すのだ。

 人間は元来、わからないことに出会うと不安を感じ、何とかそれを解消しようとして問題解決の行動を起こそうとする。そうした究明の行為から学びが生じるのだが、ここで話題にしている子どもたちは「わからないこと」に不安を感じていないかのようである。
 不安を感じれば解決行動を起こさなければならない。そしてそれは一方では努力という「がんばり」を発揮しなければならないし、もう一方では自分の力のなさを認めざるを得ない結果を生むという危険性も持っている。
 そんなところに自分を追い込むのはごめんだ、とばかりに精一杯バリアをはって「わからなくてもそれは問題ではない」のだと自分に言い聞かせ、学ぶことに背を向ける。

 そうしたことが小学校入学時から続き、「ついついわかろうとしてしまう心の動き」にも蓋をし、わからないことに出会ってときめく「心の弾み」にも気づかぬふりをしているうちに、目の輝きを失ってしまったのではないか、と思われてならない。
 学力の低下が叫ばれたことを受けて、指導内容や授業時数を増やす対応がとられているが、問題はそんな小手先の対処では解決しないであろう。
 指導内容を増やし、一生懸命「教えよう」としても、わかろうとしない子どもが相手ではその努力は空を切るばかりになるだろう。
 子どもたちが、「わかろう」「知りたい」という人間が本来持っている知的好奇心とそれにもとづく知への欲求がむくむくと動き出し発露するような教育のあり方を考えなければ、根元的で本質的な対処にはならないはずだ。

 要諦は子どもたちが「学習への意欲」を取り戻せるよう、「知識の獲得」以上に大切な「学びの意味」をわかってもらえるような教育観や学習観を大人が持つことにあるのだ。
 それは断じて「現世的な利」と結びつけて説明されるべきものではないはずであり、そのような次元で論じられるべきものでもない。
 そこから再スタートしなければ、日本の教育は壊れていく一方で、安易な「学力増進への対策」ではますます学習放棄・忌避に子どもたちを追い込むばかりであろう。

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笹木 陽一

ご無沙汰しております。新年度になって早2ヶ月が過ぎ、6月となってしまいました。先生のブログ記事を読ませていただきながら、早く連絡差し上げなければと思っていたのですが、雑事に追われ、なかなか時間を作ることができませんでした。申し訳ありません。 先生の記事を拝読して、佐藤学氏が8年前から指摘している「学びからの逃走」が、とうとう小学生にまで達しているのかと、暗澹たる思いになりました。山田昌弘の「希望格差社会」や内田樹の「下流志向」にも描かれているとおり、新自由主義の台頭で学歴社会は既に過去のものとなり、学校での学びが就職と結びつかず、すなわち勉強しても仕方がないというあきらめが格差の固定化を助長し、「ニート」や「ワーキング・プア」といった若年層が次々と生み出されていく社会構造が改善される兆しも見あたりません。
 明治の初め福沢諭吉は、誰もが学問によって一身独立し、身分によらず自己実現する道筋を説きましたが、残念ながら福沢が語る「学問のすすめ」は、今日もはや機能しないのかもしれません。ブルデューが「文化資本の再生産論」で分析して見せたような近代の学校が社会階層を固定化していくメカニズムは、今日の格差社会においてはすでに当たり前の前提であり、「学びによる自己実現」を語ること自体が、どこか空しさを感じさせる気がしないでもありません。
 先生が指摘されている「学習に利を求め見いだそうとしている気配」はどこから生まれてくるのか。いくつか要因が考えられると思いますが、一つには「学力」が貨幣のイメージで捉えられており、「点数」や「偏差値」といった定量的な捉え方から、大人も子どもも共に抜け出せないでいるというのが大きいのだと思います。社会的な地位を得るための手段としての「学力」。フレイレが言うところの「銀行型教育」が至る所で幅をきかせているというのが実態なのでしょう。文科省が言うところの「基礎・基本の確実な習得」というのも、その発想の延長線上にあるのだと思います。新たな指導要領で来年から移行措置が始まりますが、理数については国が教材を提示して、新たに増えた学習内容をカバーするのだそうです。ますます「教え」が強調され、そこに意味を感じない子ども達は「学びから逃走する」という悪循環が待っています。佐伯先生の指摘する「勉強主義の弊害」すなわち「学びを教えの従属変数と見なす」考え方が改善される兆しはなく、「教えなければ学ばない」という、学習者の主体性や発達を無視した教育観が再び幅をきかせるようになってしまうのでしょうか。
 福沢を講読している「教育人間塾」でご一緒している小学校の教頭先生が「今の小学生の口癖は『かんけーねー』と『やりたくねー』だ」と指摘していましたが、そういった子ども達を前にして、ますます「しつけ」や「規範」を全面に出して教育していく流れになっていってしまうのでしょうか。「そんなのかんけーねー」というコメディアンの言葉に象徴されるように、全てが断片化=記号化されて、自ら考えた末に「わかる=概念を獲得する」ということができづらくなっているように思います。子ども達はモノと情報に溢れたこの時代の中で、基本的に飢餓感を感じることのないまま受動的な生活スタイルを強いられ、直接的な体験も少なく、学ぶべき対象との関係が希薄化し、知が「自己」と無関係なまま流通=消費されてしまっています。そんな中でメディアは不安感をあおるような報道を垂れ流し、その刺激から自己防衛するかのように、他者との回路を絶って「ひきこもり」精神的に追い込まれていく。うつ病による自殺者の増加や過労死がいっこうに減らないことからも、生きることに「意欲的」でいられないこの時代の病理のようなものが見えてくるように思います。
 「学習意欲の低下」という命題は、前回の指導要領が出された頃から多く議論されてきましたが、「ゆとり」と呼ばれた新学力観における「関心・意欲・態度」の重視から、「確かな学力」すなわち「知識・理解・技能」への単純な逆行では、「学習意欲」は高まるどころか更に低くなることが十分予想されます。3月末に異例の修正が行われて新たな指導要領が告示され、4月末には移行措置が示され、今月には解説が現場に配布されることになりますが、「そのまま実施したのでは子どもの健全な発達は守れない」というスタンスで、批判的に指導要領を読み込んでいかなければならないでしょう。
 福沢諭吉は「教育の目的」と題した講演の中で「教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり」と言っています。今風に言い換えれば「一人ひとりの子どもの可能性を尊重し、その発達を最大限保障する」ということでしょうか。フィンランドの教育には「発達支援学」という考え方があり、先月その研究の第一人者である北海道教育大学の庄井良信氏のお話を聴く機会がありました。そこで庄井氏は「どんな困難な状況にあっても、つらい体験や心の傷から回復する力、悲しさや切なさを小さな肩に背負いながら発達する力は、何よりもまず子どもの中にある」とし、「親や教師の仕事は、その自己治癒力や自己恢復力に灯りをともしていく事なのだ」とおっしゃっていました。すなわち「恢復と発達の主人公は子ども自身」なのであり、「相手を自己決定の主体として尊重すること」が大切なのだということです。
 先生が指摘していらっしゃる「ひたむきさや明るさが感じられない」子ども達というのは、様々な「生きづらさ」を抱えながら「自己肯定感(セルフ・エスティーム)」の低い子ども達なのだろうと思います。私が教えている中学生達もそうです。庄井氏はその原因として「安心感のなかで他者と響き合いながら世界に立ち向かう体験がない」ことをあげていました。「自己肯定感」とは「他者と共にありながら、自分が自分であって大丈夫と感じられる」ことであり、部分的・条件的・競争的な自己肯定の感覚(速見敏彦氏は「仮想的有能感」と呼んでいます)ではなく、「安心して他者に我が身をゆだねられる感覚」であるとの言葉に多くを学びました。「KY」という言葉に象徴される同調圧力の中で、自分を殺しながら、過剰に仲間に適応しながら生きている現代の子ども達に、「安心して自分の声を聴いてもらえ、その声を広げて語り合い、新たな希望を紡ぎあえる」そんな豊かな学びの場を保障してやることが、我々に課せられた課題であるように思います。
 「学び合いは豊かで楽しく、安心できる事なのだ」ということを子ども達に実感させられる場所として学校が再構成されて行かなくては、「学習に背を向ける子どもたち」はこれからもどんどん増えていくことでしょう。もっと言えば、我々大人が「豊かで楽しく、安心して」生きられる社会を作って行かなくては、どんなに学校を「学びのユートピア」にしたところで、問題は解決しないのです。その為にも、もっと「人やものに優しい社会」を志向していかなければなりません。まずは構造改革で破壊された社会のセーフティネットを再構築していく事から始める必要があるでしょう。フィンランド的な「社会構成主義」にたって、未来を担う子ども達と共に学び世界を変えていく。「世界制作の方法」(N・グッドマン)を志向する教育を求めながら、これからも一歩一歩実践を重ねたいと思います。やはり今回も長くなってしまいました。また連絡いたします。失礼します。
by 笹木 陽一 (2008-06-02 01:19) 

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