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「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」 [音楽教育]

 音楽活動には2面性がある、と私は考えている。
 一つの側面は、ステージで発表することを意識した音楽活動、強いて名付ければ「ステージに向かう音楽」であり、もう一つの側面は、無目的にその場で楽しもうとする音楽活動、いわば「場の音楽」とでも言うべき性格の音楽活動である。

  音楽教師をしていると、音楽活動を考える時どうしても前者の側面にだけ目が向きがちであり、公式の場などの大きなものからクラスの中などの小さな発表の場まで含めて、ステージ上で聴衆を前にして表現することを目的とした活動として音楽の活動や学習を考えがちである。
 そうした目的的な活動こそが表現しようとする強い動機付けになるはずだし、そうした動機付けに支えられてこそよりよい表現を求めて問い続けることが可能になると固く信じ込んでいるからであるし、音楽するということは誰かに聴いてもらうことを前提としたものだと漠然ととらえているからでもある。

  確かに誰かに聴いてもらおう、誰かに伝えようとするからこそ、自分(あるいは自分たち)の表現をモニタリングし『こうしてみたらどうか』『これではどうか』『これでわかってもらえるか』と問いを発しながら「めざす表現」に近づこうとできるのであろう。
  しかし、そうした目的(ステージ上で発表すること)を持たない音楽活動があることも見逃せないし、そうした活動が決して無意味なものではないことも事実である。

  家族でアンサンブルをして楽しむ、散歩をしながら歌を口ずさむ、一人でピアノなどの楽器を演奏して楽しむ、親子であるいは友だちと輪唱して遊ぶ等々、いずれをとっても音楽の楽しみの重要な側面である。
 夕焼け空を見ながら親子で手をつないで「夕やけこやけで日が暮れて~」と歌う姿と、誰に聴いてもらうでもないその歌からは親子の夕焼け空の美しさへの共感のこもった生きた歌声と夕景の美しさを味わっている様子が想像される。
  学校からの帰り道、知っている限りの曲をリコーダーで吹きながら歩く姿からは、音楽と同化してまさに音と戯れ、一体化している様子が窺える。

  これらはすべて無目的な音楽活動である。無目的だから夢中にもなれる。時間の経つのも忘れて没頭してしまうことも予想される。
 私の家のはす向かいに建つ家には小学生の兄弟がいる。二人とも野球が大好きである。休日ともなると二人でよく家の前の道路に出てきてキャッチボールをする。試合に出るため、あるいは試合で勝つための練習としてのそれではなく、単に遊びとしてするのである。それでも声をかけ合って文字通り一生懸命遊ぶ。兄弟のうちどちらかが何かの具合で欠けると、ブロック塀に向かって一人でボールを投げて的当て遊びのようなことを何時間も飽きずにしている。
 キャッチボールをするにしても的当てをするにしても、「今度はうまくいった」「思い通りに投げられた」「うまくボールをキャッチできた」などと知らず知らずのうちに自己評価しながらしているのであろう。だからこそ飽くことなく何度でも挑戦するように無心で遊べるのだろう。

 この例に見るようにスポーツには「試合に向かうスポーツ」だけではなく「場のスポーツ」の姿があるように、音楽にも「ステージに向かう音楽」だけではなく「場の音楽」があると、思うのである。
それはいわばスポーツや音楽を「PLAY」すること、すなわち「遊び」であり、その場で深く楽しむ姿として現れる側面である。
 そして、私はそうした「遊び」の中でこそ、そして無目的な「遊び」だからこそ、修行や訓練、あるいは誰かに指示されてする練習では得られないであろう大切な能力や資質が知らず知らずのうちに結果として身についていくのではないかと考えている。

 柳生力も次のように指摘している。
   目的をもって遊びを行なおうとするとき、遊びは失われてしまうであろう。
   遊びの夢中と無心と真面目がもたらす結果の大きさに着目すべきである。
                                                            『感受性はどこへ』音楽之友社

 私たちは、いたずらに発表をめざした活動という視点からのみ音楽の学習を仕組むのではなく、音楽にはそうした側面もあるということを認識し直し、そうした視点に立って学習活動を仕組むこともこれからは重要になるであろう。


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