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平和に感謝

 これまで、このブログでずいぶんと「教育改革にまつわる問題」と安倍政権の持つさまざまな問題について取り上げてきた。私としては教育問題について論じたいという思いが強かったのだが、その件について論じるためには安倍政権が志向することに言及せざるを得ず、やむを得ず政治的な事柄についても素人ながら所見を述べてきた。
そしてその多くは、安倍政権に対する批判であった。

 それらの批判を書きながら、いつも頭をよぎっていたのは「このように身体や生命の危険を感じずに、政権の批判を表明することができる(たとえつぶやきのような、そして誰が読んでくれるかも知れないブログという手段であっても)ということは奇跡のようにすばらしいことだ」という感謝の思いであった。
 たかだか数十年前の大日本帝国憲法下の日本では考えられないことだからである。
 政権の批判をするどころか、そうした批判の目を持つことそれ自体が「非国民」としての証しであり、それを貫くことは生命とひきかえにするという危険をも冒すことだったはずである。

 幸いにして、戦後60年間の日本は、奇跡のような平和な状況の中で、誰もが自由に考え、表現することができている。そのことに私たちはもっと感謝して良いだろうと思うのである。
誤解を恐れずに言えば、生命をかけて自由を獲得する戦いをするよりは、平和すぎてそのありがたみを意識できないほど穏やかであっても、その方がずっと人間は幸せに違いない。
 自由な言動を阻まれ、身体や生命の危険にさらされるような状況に一日でも置かれることを想像してみれば良い。そのような時代や地域に生まれなかったことを「ほんとうによかった」と痛感するに違いないからである。

 しかし、戦後続いてきたこの平和も、私たちが「うっかり」「油断」すれば、私たちの手からこぼれてしまう知れない「危うい」ものだ、ということも自覚しておかなければなるまい。この平和を手に入れるために多くの犠牲が払われ、計り知れない先人の労苦があったにしても、私たちが油断をすればそれが無に帰する可能性は決して低くはないのだ。
 先の総理大臣の「戦後レジームからの脱却」という謳い文句を単純に受け容れることができない(いやもっと積極的にそうさせてはならないと思う)のは、それが戦後というものに対する無知に基づく「積極的な油断」に他ならないと思うからである。
 この平和を今後とも享受したければ、そうした油断をしないよう、常に心がけていなければならないし、一方ではこの平和に感謝し続けなければならないと思うのである。
 現実に起こってはいけないことが実際に起きてしまわないように、想像力を働かせ、危機意識を鋭くして世の動きを見つめていくことが肝要だろうと思われてならないが、そのためにもかつて先人が経験した「不自由さ」を想像し、我がこととして思い描くことができるよう、歴史を子どもたちに語り伝えていくことが必要不可欠に違いない。


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