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慎重な対応を

 私は新しいソフトやハードが嫌いではない。いやむしろ大好きな方で、新しく開発されたテクノロジーがもたらしてくれる新製品には真っ先に飛びつきたくなるほどである。
 それが手に入れば、あんなこともこんなことも可能になるかも知れない、効率的に作業を進めることができたり、利便性を得ることができたりするかも知れないと思うと胸がときめいてしまう部類の人間だ。
 しかし、そんな私でも手を出すことをためらってしまうものがある。この春頃から話題になっている3D映像に触れることとipadの購入だ。

 昨年「アバター」という3D映画が話題になって以来、映画だけでなく家庭用のテレビやパソコン、果ては家庭用のゲーム機まで3D対応を謳うようになっている。
 立体映像そのものは決して新しいものではない。映画が作られるようになった当初から立体に見える工夫を施した映像が作られ、一時的にもてはやされ話題にはなったが、その都度一時的な流行で終わってきた経緯がある。それは、「立体的に見える」ということそのものが単なる刺激でしかないからだし、映像が飛び出して見えることにさほど意味を見いだせなかったからであろう。また、そうした映像を見るために「メガネをかける」という不自然さが嫌われたということにも起因しているかも知れない。
 さらに、そうした不自然な刺激が視神経などの神経系統に影響を及ぼし、気分が悪くなる、吐き気やめまいがするなどの異常を引き起こしていることも報告されていて、想定外の危険をはらんでいることは想像に難くない。

 立体映像による映画を作るということになれば、映像作者は必要以上に「映像が飛び出す」ことや、観客が「映像に飛び込む」といった場面をこれでもかというほどに盛り込んで、その効果を繰り広げて見せ強調したくなるはずだ。そうした映像に長時間さらされて、尋常でいられるはずがない。立体映像などは、「こんな刺激的でおもしろい映像もあるか」といった気分でせいぜい5分程度も触れれば十分で、それ以上のものではない。
 私たちが普段目にしている世界の見え方とは異なる『これでもか』というほどの不自然な映像を長時間見続けていれば、目や脳に負担がかかることは容易に想像がつく。
それらの映像は、立体感を強調したいがために人間の視覚や脳の仕組みとは違った、いわばトリックで作られているため、普段私たちが脳内で処理をして奥行きを感じる感じ方とは異なる「脳の活動」を余儀なくされるからだ。

 先日のこと、ある家電量販店で展示されていた3Dテレビを見てみた。いずれも専用のメガネをかけて見るものである。大きなメガネをかけること自体テレビを見る上で不便なはずだが、それはともかく画面に正対しなければ立体的に見えないのだということもわかった。こんなテレビがこれまであっただろうか。テレビの映像は、(通常の使用場面では)どの角度から見てもその映像に不自然さはなかったはずで、その意味では「映像が人間を拘束しない」のが常態だ。しかし、実際に目にしたその3Dテレビは、画面に人間が従わなければならず、「映像が人間を拘束する」のだ。
 それはともかく、こうした「不自然な刺激」に家庭内で長時間さらされ続けることが人間にどのような影響を及ぼすのか、といったことについて社会も企業も慎重に考慮した方がよい。話題になってもてはやされ、作れば売れるだろうから作る、といった姿勢はいかがなものかと思うのである。科学的なテクノロジーの発展と深化のため、そうした部門の研究を進めるのだ、いずれその成果が人間の生活や社会の発展に寄与できる予測が立っているから、というのであればその枠内でやればよい。
単に、経済効果や自社の利益が期待できるから、という理由だけでこうした危うさをはらんでいるかも知れない製品を生み出し流通させるというのであれば、無責任だし危険すぎるように思われてならないのだ。
 「デキること」と「シテよいこと」は別のことなのだ。そのことを社会全体で立ち止まって考える余裕と慎重さを持ちたいものである。
 
 私たちが映画その他の映像作品に期待するのは、そうした「不自然な刺激」ではなく、作品の内容そのものの質の高さであるはずだ。
 内容に自信があれば、そして映像や構成、そして演出などに説得力があるという自信があれば、トリッキーな小手先の「あざといワザ」に頼らずに、映画を作ることができるはずだ。これまで生み出された名作の数々がそうであったように。

 そして一方、ipadの出現でにわかに話題になり始めた「電子書籍」についてである。
 電子書籍そのものは決して目新しいものではなく、これまでも書籍の電子化は着々と進められてきたことである。しかし、ipadの登場であたかも紙ベースの書籍を電子本が駆逐してしまうかのような、いわば「熱に浮かされた」ような取り上げ方までマスコミがし始めた。中には「電子教科書を学校に」ということまで話題になっている。

 しかし、と思うのだ。
 デジタル化することで得られるメリットは多々あるが、そのことで予想されるデメリットも多いのではないか。要はバランスの問題だと思うのだが、電子化することだけに傾斜してしまうと、損なわれることが予想される面が視野外に追いやられるのではないかということが懸念される。しかも学びを保証する重要な機能を持つ「教科書」を電子文書化することで、少しでも懸念材料があるなら実施を急ぐべきではないだろう。
 
 私は、自分のものであれ他人のそれであれ、パソコンで論文等の校正作業をすることが多い。ところがディスプレイ上に表示されたテキストを眺めて校正作業をすると、失敗することも多く、何度となくそうした経験をしている。
 『これで大丈夫』と思っても、念のためプリントアウトした原稿を読み返してみると、いくつかの誤字・脱字、文脈の不整合などがあることに気づき、大急ぎでまたパソコンに向かっての修正作業をする必要が生じるといった経験は一度や二度ではない。
どうやら、紙に書かれたテキストを読み取る方が、一字一字に対して慎重になるようで、ディスプレイ上で読み取る際には、慎重に読んでいるつもりでもどこか注意が散漫になっているようで、「ミスを見逃」してしまうのではないかと思われる。
 また、ネット上で関心のある記事を見つけ、それを読もうとする際にも同様のことが起こり、読み取りの深さに「本に書かれていることを読む」際のそれと違いが生じるように思われてならないのだ。決して散漫な態度で読んでいるわけではない。むしろ関心事であることから、真剣に読み取ろうとしているにもかかわらず、そうしたことが起こるのである。不思議でならないのだが、同じ文言、同じ文章でも、デジタルなものと紙ベースのものとでは、人間の脳内処理の仕組みが違うからなのか、と思えるほどに読み解き方に差があるのようなのだ。他に理由が思い当たらないので、そうとしか考えられないのだが、同じ態度で接してもそれを避けることが難しいことから見ると、人間の気づかないところ、意識外のところで処理の仕方に何か重大な差が生じているのかも知れない。
 なぜそうしたことが起こるのか、そしてそれは私だけのことなのか、については詳らかではないが、もしそうしたことが他の人でも同様に起きるのだとすれば、安易にデジタル化することをもてはやすべきではないと思われる。

 紙に書かれた書籍に対するノスタルジックな思いから電子化することをためらったり、危惧しているのではない。紙と鉛筆、ノートによる学びに象徴される「身体作用を通して身につくこと」が期待できる「知に向かう意志と学ぶ力」の育ちは、一から十までプログラムされてしまったデジタル教科書では期待しにくいからだ。
 わかることをめざして探索の手を尽くし、さまざまな手段を駆使して理解への歩を進める中で、問うことの意味やおもしろさを実感し、自己の知的体系を築き直して広がる新しい世界との出会いを体験するためには、いたずらに「わかりやすさ」だけが強調されるべきではないと思われるが、デジタル教科書は目や耳にも訴えて「わかりやすさ」を長所の一つとして持っていると主張する人も多い。
 児童生徒が、自分の学習の成果や課題をプレゼンテーションする際に電子黒板などを使い、クラスメートに「わかりやすく」図式化して説明したり、モノゴト同士の関係を視覚的・聴覚的に「とらえやすく」工夫をしてデジタル教材を活用するといった場合のデジタルの意味と「わかりやすさ」の意味は、デジタル教科書で学習する際のそれとはまったく異なるのだ。
 
 デジタル教科書は、児童生徒の学びを全体的に保証できるものではなく、アナログな手段による学習経験を補完したり、一部として活用することでその意味が見いだせるはずだ。
 自分にとって大切な「わかり」、かけがえのない「対象世界の理解」に至るためには、自分の手と頭を駆使して文字通りトライアンドエラーを繰り返しながら苦心惨憺することが不可欠で、そこで重要な働きをするのは対象に迫ろうとする「知的欲求」や「知的好奇心」「対象に対する関心の深さ」であり、教師や学校の重大な務めはそれが生じるような働きかけをすることにある。
 懇切丁寧にすべてを網羅し、わかりやすく、また教える側の論理に沿ってプログラムが仕組まれてしまったデジタル教科書で学習することを想定すると、そうした止むに止まれぬ「知りたい・手に入れたい」欲求や自分なりの学び方を探り創り上げる構えが児童生徒の内にむくむくと生じ、身につけることは期待できそうにない。
 
 気楽に読むことが一般的に予想されるエンターテインメント小説などであれば、デジタル出版などで十分かも知れない。しかし、一言一句ゆるがせにできない文章をディスプレイ上で読み解く、というあり方にはもう少し慎重でなければならないだろうと基本的には考えているが、アメリカでもデジタル機器に頼ることによる問題が「デジタルディストラクション(情報機器による注意散漫)」として注目を集めているという。私が常々体験している校正作業のミスも、あながち私だけに起きていることではなく、一般的に指摘される電子画面がもたらす弊害の一つなのだろう。
 そうしたことも十分に検証し、導入するにしても慎重の上に慎重を期すという社会と行政の姿勢が望まれる。
 そう考えてみると3D映画や3D対応テレビ、そして電子書籍には、同じような問題を抱えており、しかもそれを無視した「浮薄とも思える流行」といった社会現象も共通しているが、その弊害を払拭するには私たち市民が冷静に対応する姿勢を持つことが何よりも大切だと思わざるを得ない。

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