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ヤップ島の石貨に関する番組を観て

 1月3日の朝のこと、NHKテレビの「地球イチバン」という番組でヤップ島の石貨について紹介されていた。子どもの頃から、ヤップ島には大きな石の貨幣があるということは知っていたが、その知識の程度は、紙や金属を持たなかった古代のヤップ島民が、その代替えとして石を削り出して使用したものだろうという想像の域を出ないものであった。
つまり古代の人々が貝殻を貨幣として使用したことと同様の行いだったのだろうと安直にとらえていたのだったのである。
しかしこの番組を観て、それが大きな誤解であったことを思い知らされた。

 私たちが日常通貨としている貨幣が一定の価値を持つのとは異なり、世界で最も大きな貨幣である石貨の価値はその来歴によって決定されるというのだ。そもそもヤップ島にはこの石貨をつくるための石がないのだという。人々は500㎞も離れたパラオ島から石斧で切り出し,危険を冒してカヌーで運んだのだというのだ。つまり膨大な時間と手間をかけてつくられ、時には人命が失われるほどの危険を冒して運ばれるからこそ、価値が備わるのだと考えられてきたということのようだ。
一方で人々は他人の所有物を価値が計り知れないほど貴重なものととらえ、購入者は相手の所有物をいかに必要としているかを誠意と敬意を以って表現し、手に入れるために石貨を使用するのだという。
 石貨の価値が一定ではないということの意味がここにあり、私たちがモノを売買する際の仕組みとは決定的に大きな違いを見出すことができる。すなわち、売り手が価値を決定し、それに見合った貨幣を支出してモノを手に入れる媒体としての「カネ」が私たちの通念として貨幣だ。しかしここで見られるのは、他人が所有するモノに対する敬意を払うという態度を背景にし、それに見合う価値あるものを代償にしようという誠意であり、いわば買い手がその価値を決定するという「貨幣に付与された意味」の違いである。

 十分に理解できているわけではないが、ヤップ島の人々にとって石貨という言葉は『自らをより良い人間へと変えていくこと』を意味していると言い、外国のお金は『自らのために物や富を手に入れること』を指すのに対し、石貨は『争いを止め、平和を作るもの』と紹介されていることから見ると、カネを所有すること及びカネで売買する仕組みが遠因となってもたらされる「争い」や「競合」とは対極の生き方をヤップ島の人々が求めてきたことがわかる。もっとも、この石貨でやりとりされるモノのやりとりは、私たちがふだんに経験している「商行為」とはまったく意味は異なるものである。しかし、ここで着目したいのは「貨幣」にこめられた意味の違いである。『自らのためにモノや富を手に入れ』るための媒体であるにもかかわらず、いつしかその媒体そのものに限りない価値があるかのように混同し、ついには浅ましい争いに自らを追い込んでしまうということは「持つことにこだわる文化」にさらされている私たちがよく目にすることである。

 ついでながら商売や商人、商行為などという言葉に共通の『商』とは、古代中国の殷王朝に由来する言葉である。私たちはこの王朝を殷と呼び慣わしているが、この呼称は殷王朝を滅ぼしその後を襲った周王朝が名付けたもので、自らは『商』と名乗っていたのだ。
中国ではじめて中原を制して王朝を打ち立てた夏を滅ぼし、中原を治める正統を引き継いだ殷であったが、それ以降中原を治める者が中華、それを取り巻く周辺民族を蛮夷として区別する中華思想が統治上都合の良い論理として受け継がれていき、現在まで連綿と続いてきているのだ。その思想とは決して言えない中華の論理に非常に好都合だったのが「一般化できる漢字を使えること」だったと言われている。周辺諸民族はさまざまな言語を持っていたが、表意文字である漢字は言語の違いを乗り越えて神や王朝との契約や意志の疎通に有効であり、漢字の使用ができて王朝に服すれば「中華の国」として認められ、蛮夷ではないとする統治側にとって好都合なツールとして広められたのである。
表意文字ではなく、アルファベットのような表音文字では多くの民族や国家に行き渡り普及することはなかったであろう。

 しかし、中華思想やそこで漢字がうまいシステムとして活用されたということについて述べるのはこの稿の目的ではない。話を殷王朝に戻そう。
 周に滅ぼされた殷王朝の人々は、自らの名乗りである商の民として周辺諸国を渡り歩き、主に物々交流の仕事に携わったという。そこで、そうした「あきない」をなりわいとする商の民を「商人」と呼んだのが「商業」「商売」など現在に続く「商(あきない)」の起源だとされている。しかし、モノの生産や製造に直接携わらず、モノを動かし交換するだけで利を得ようとする商の行いは決してリスペクトされていたわけではなく、なかば卑しいものとして人々から見られていたと言われている。(だからと言って、現在もそうであるというわけではない)

 だが、ヤップ島の人々が石貨に込めた『自らをより良い人間へと変えていくこと』という思いや『争いを止め、平和を作るもの』だとする意味づけを見ると、経済優先・功利優先に前のめりな傾向を見せる今の日本に少しく疑念を呈したくなる。
経済とは、そもそも明治時代にもたらされた「エコノミー」という概念に、中国の古典に由来する「経世済民」という言葉をあてたものである。つまりは、『世を治め、民を救う』ということが「経済」のもともとの意味であるはずだ。これも買え、あれも買えと物欲を刺激して国民を浅ましいほどの購買競争に駆り立てることが「経済政策」でないことは言うまでもない。物欲には限りがなく、『富と海水は飲むほどに渇く』と西欧の諺にあるように、持てば持つほどいっそう不満を募らせ、足ることを知らない状態に陥ってしまうはずだ。内面の幸せを置き去りにして、不幸感にさいなまされる状態に国民を追い込むことは、決して「経(世)済(民)」の望ましい姿ではないはずだ。
 一国の代表としての首相が、海外に出向いてセールスマンさながらにモノを宣伝して売り込もうとする姿を見て、あまりにも形而下的なことにのみ走ろうとする浮薄さに愕然とするばかりで、これで誇りを持てと言われても国民は戸惑うばかりだろうと思うばかりであった。
 
 この「地球イチバン」を取材したディレクターは、石貨を使用しているヤップ島での取材を終え、「東京の風景や自分たちが使っているお金が何なのか見つめるようになった」と述べ、お金が全てではないと思いながら生きることができたら楽だろうとコメントしていた。彼我の差を目の当たりにしたディレクターとしては、当然の感想だろうという思いを強く感じた番組であった。

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