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方法論からの脱却を [学校教育]

 書店の本棚を覗いて驚いた。広島県の校長をしているK氏の本が平積みになっているのだ。売れる、という証拠であろう。
 立ち読みで数ページ読んでみてさらに驚いた。目次の見出しに「本当の学力とは」とあるので、興味深くそのページをたどり、彼が「本当の学力」についてどのようにとらえ、どのように論じているのか、その論拠や検証はどのようなものか読み取ろうとしたのだが、そうした記述がどこにないのである。
  そこに書かれていたのは、もっぱら「新しい学力観」についてのネガティブな感想だけなのである。感想はもはや「論」とは言えない。「私はこう思う」と思うのは勝手なのだが、何の根拠もなく(あるとすれば、教え子の多くを有名校に合格させたから、という受験指導の実績)、それを「本当の」とあたかも種々の検証を通過した確たるもののように書き立てるのはいかがなものか。

 その項には次のような趣旨のことも書かれていていっそう驚かされた。
 『学校現場に影響を与えるのは、理念ではなく教育条件だ』、『一番問題なのは、教育を理念や思いだけで語ったこと』
 これらが新しい学力観批判と共に記されているということは、新しい学力観が単なる理念でしかなく、そのようなものは無用であるということが言いたいのであろう。彼はどうやら具体に対する抽象、事実に対する思いといったものを「理念」と呼んでいるようである。しかし、抽象や思いといったものは「理念」の形式上の一属性にしか過ぎない。それだけに着目して「理念」と規定することなどできないはずなのだが、彼は大胆にもそう言い切り、教育の実践で最も大切にしなければならない「理念」を排除しようとしているかのようである。

 そうした姿勢が「本当の学力とは」と言いながら、まともにはっきりとした概念規定もせずに、従って本文のどこにも「本当の学力とは何か」についてまとまった記述もしない、多くの教え子を有名校に合格させたという経験をもとにした『これこそが教育』という「思いこみ」だけで考えを形成することにつながっているのではないか。決定的なのは「何か」についての吟味がまったくなされていないことである。

 彼においては、理念を軽んじることと、「何か」の吟味を棚上げすることがリンクしているようである。理念を大切にしないから「本当の学力とは」と言いながら、その概念規定を明確にすることをしないのである。
 理念を大切にするなら、その理念と密接にかかわる「言葉」の概念規定は避けられないからだ。
 高久(筑波大名誉教授)は、『理念とは、「どうあるべきか、という最も根本的な考え方』であると言う。
 そうであるとすれば、なおさらその考えのベースとなる概念の定義を避けて通ることはできないはずなのだ。

 K氏は、「読み・書き・算」の力を基礎・基本ととらえているようであるが、学力の全体構造について考え、それを明確にし、「読み・書き・算」の力が学力全体のどこにどんな形で位置づけられ、学力の他の諸要素とどう関連するかについて説明できなければ、それが「基礎・基本である」などと言えないはずなのだが、理念を軽んじ概念規定を避ける姿勢からであろうか、そうした記述はどこにもない。
 「学力とは何か」という吟味も定義もせぬまま、彼は「読み・書き・算」の力を身につけさせることが肝要とばかり様々な指導方法のみを披瀝する。

「百マス計算」は巷間その最も有名なものである。それらを実践する主たる目的は、何と言っても受験に打ち勝つ力を育てることにあるようだ。唯一の答えなど見いだせそうもないこれからの変化の激しい社会に生きる子どもたちにとって、唯一の答えを覚え、ストックし、受験にパスすることがどれほどの意味があるというのだろうか。
 たとえ受験をパスしても、また不幸にも不成功に終わったからといって、その後の長い人生で成功者になるともならぬとも限らないのだ。

 少し前までは「記憶することが勉強であり、記憶量が学力である」とされていたし、社会もさほど変化の度合いも速さも激しくなかったので、それで済んでいたかも知れない。しかしこれからはそうは行かない。物と情報に溢れ、難問山積のこれからの社会では覚えたことで対処できる保証はない。まして、生き方の選択肢が増え、選択の自由も増大するであろうこれからの社会では、「どう生きるか」の裁量が大きくなり、否が応でも一人一人が人生のプランを設計しつつ(設計し直しつつ)創造的に生きざるを得ない。レールを走るように、この上を走っていればある程度まで行けるという安心な基準がなくなり、生きることが益々難しくなっていくであろう。

 かつて私たちは誰もがナイフを使って鉛筆をとぎ、鉈をふるって薪を割り、マッチで火をおこすなどのことができた。現在の子どもたちにそれができないからと言って、『子どもたちの能力が衰えた』と嘆くだろうか。そのような作業の必要のない社会にあっては誰も嘆きもとがめはしないはずである。

 そうしたことと同じ過ちを「学力」について考える際にしてはいないだろうか。そのようなノスタルジックな基準で現在あるいは将来を眺めて悲観するような過ちをおかしていないだろうか。

 そのようなノスタルジックな基準で学力を見る見方から抜け出し、「学力とは何か」を問い、教育とは学校とはどうあるべきかを吟味・検討し、その過程を経て構築された「理念」をもとにしなければ、それを実現させるためのふさわしい方法は見つからないはずである。

 内容(価値)に先立って方法が論じられることなどあろうはずがないからである。
どこに向かうかがわからずに、向かう方法(徒歩で?車で?自転車で?)を論じても意味がないのと同じである。
私たちはいたずらに方法(○○方式、○○メソッド)に走らず、まずは内容について考え・論じ・検討すべきなのである。
方法論を脱却し価値論へと向かう道筋の中でしか、学校と教育の再生は望めないであろうと書店からの帰途つくづくと考えさせられた。


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