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「評価」について考える [学校教育]

 学校教育において「評価」の問題を難しくしている一因に「評価と評定の混同」があるのではないかと強く思われる。
 教育活動における評価の第一の機能は、学習者の実態を把握したり、教育活動の成果や問題点を明確にして指導計画や学習の改善に資する情報を得たりするための働きであり、これが教育評価の本来の目的である。
 第二の機能として、学習を方向づけ学習意欲を促進する働きが考えられる。この中には、学習者自身が学習活動の成果をチェックしたり、第三者とチェックしあったりしてより確かな活動をめざす指針とするという自己評価の働きも含まれる。
 第三の機能として、題材や学年の終了時など一定期間を通じた学習活動の成果を把握する働きがある。その代表的でわかりやすいものが成績評価であり、指導要録に記述されるところの評定である。評定は、教育評価の中のほんの一部の機能でしかないのである。

 当然のことながら、こうした評価は学習指導の前、そして指導の中、さらに事後と適宜場を設けて行われるべきである。しかし、評価と評定を混同してしまうと学習後の評価に関心が向きがちである。「どの程度にできたのか(わかったのか)」「その序列はどうか」などの測定をすることにとらわれ、評価を自己の指導の改善に資するという視点がかすんでしまうという状況が生じる。また、ランクづけをすることに気を取られ、せっかくの個人内評価ですら、最終的には生かされなくなってしまうことも大いに予想される。
 
 評価を考える際に大いに参考になるのは、病院の医師の診断であると私は考えている。 医師は決して『あなたは胃が悪い』という判断を下すだけで活動を終えることはない。 続けて『あなたの今の胃の状況はこうこう。その原因はこうしたことが予想される。また、その治療法はこれとこれとこれが考えられる。その際はこうした薬の使用も有効だ。治療中に注意すべきことはこれこれ。経過がよければ治癒の見通しはこの程度。私もがんばるからあなたもがんばりましょう。』
少なくてもこの程度の診断と評価による見通しと励ましを与えてくれるはずだ。 
翻って学校における教育評価はどうであろうか。
『あなたはこれこれの力が劣っている。』と言っただけで評価をしたつもりになってはいないだろうか。『あなたは肺が悪い』と言い渡すのは診断ではないと同じように、「これだけできた(できない)」「ここがよい(わるい)」と判定することが評価ではないのだ。 
  学習者が十分に理解できていないとすれば自分の指導のどこに問題があるのか、意欲的に学習を展開しそのねらいが十分に達成できたのなら自分の指導のどこがよかったのか、他で活かせるかどうかなどのことについて子細に検討し、計画を見直したり練り上げたりするための情報を得るのが評価の第一の目的なのだ。もちろん、それは題材を構成したり主題を設定したりする計画の段階でも言えることだ。

 他の多くの子はよくできたのにある少数の子がよくできなかった場合など、「みんなわかったのに」という思いが「なぜその子は理解ができないか」を洞察する視点を見失なわせ、自分の指導を見直すことを先送りして「能力不足」「努力不足」という判定を下し、その子にとっては意味のない「がんばれ」という励ましをむなしく送り続けることになるのも評価を評定と混同してしまうからなのだ。事前に学習者をよく理解していれば、理解力の十分でない学習者や独自の思考様式や学習スタイルを持った学習者、などに応じた指導計画を前もって立てることができたはずだし、その子に応じた手だてを準備して授業に臨めたはずなのだから。

 そう考えてみると、評価とは極言すれば理解のことなのかも知れない。
 指導者が学習者を理解し、その子の成長にとってよき方向、よき手段を共に考え、見通しをもって共に歩む働きと手がかりを評価と呼んでよいのではないだろうか。そのように評価をとらえ直すと、学習者が自分自身を見つめ、見直したり再認識したりする自己評価の働きがなおいっそう明確になるであろうし、その重要さもいっそう浮き彫りになる。
そのような「理解」を抜きにした判定を評価と言い換えてはならない。


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