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「競争」を見直す視点を [教育全般]

 一人の一級建築士により構造計算書が偽造されたことが発覚したことから始まったいわゆる「耐震偽装問題」は、年が明けてもその疑惑が解明されぬばかりか全容が未だ見えない状況である。 いくつかの企業が組織だって、そして悪意をもってしたことかどうかは別として、自己の目先の利益を求めることにのみ拘泥し、顧客の安心や安全を脇に押しやって企業活動を展開したことによる当然の帰結なのであろうが、これは企業として当然持つべきはずであるところの「倫理の欠如」が引き起こした問題であるともいえよう。

 そうした中、今度はライブドアによる証券取引法違反事件がマスコミをにぎわしている。 「ヒルズ族」「時代の寵児」「勝ち組」ともてはやされたIT企業の青年社長が、『金と数字は皆の共通言語。一番分かりやすい物差しだ』として「もうけのカラクリ」を駆使し、世の中を欺いてまで自社にそして自己に利益をもたらすことに躍起となったことが、こうした事件の背景にあることは疑いようがない。 そもそもIT企業とは、ITを生かして生産的な活動をし、生産活動を通して産み出される製品によって社会に貢献する企業を指すのであって、実態のない株のやりとりで利を生むことを目的とした「ITを活用するだけの企業」を指す言葉ではない。 ましてや、その利で他の企業を買収し、そこで生まれた利を自己に換言して自らを利する企業のことを指していう言葉でないことは言うまでもない。 ライブドアのような会社をIT企業と呼ぶのがふさわしいかどうかは措くとして、これら二つの事件の根底に共通項としてあるのは、浅薄な「新自由主義」に立つ考え方ではないかと思われる。

  新自由主義(neoliberalism)とは、政府の機能の縮小(ダウンサイジング)と、大幅な規制緩和、市場原理の重視を特徴とする経済思想であり、そこでは政府の過度な民間介入を批判して、個人の自由と責任に基づく競争と市場原理に重きが置かれるという、市場万能、競争万能の思想である。まさに現在の日本はその風潮のまっただ中にいるのだ。

 大幅な規制緩和により、「官から民へ」の流れが強調され、『民でできることは民へ』が合い言葉となったことは記憶に新しい。「官」ならば第三者の立場で厳しく評価し、社会にとって不都合なことを排除したり制限・制止することが期待できるが、「民」にあずければ企業の論理が働き、社会にとって不都合なことであっても自社の利益を優先しようとの考えが働かないとも限らない。市場における自由競争とはそうした危険を大いに孕んでいるのだ。 今回の「耐震偽装問題」も検査機関が民間企業であってもしっかりその機能を果たしていれば何件かは防げたのではないか。 また、個人の自由な競争が標榜されたことが、あらゆる手段を駆使し自社をそして自己を利することが「勝ち組の証」であり、そうした競争に負けたものは淘汰されて当然の「負け組」であるとの考えを生み出す土壌になっている。そうしたことが、実態のないものをやりとりし、そこで生じた利がまた利を生むカラクリを考え出し、何をしても「勝てばよい」とする例の青年社長のような存在を生み出す基盤となっている。

  そうしたことから、これら二つの事件の背景は同じだと考えられるのだが、新自由主義について、「国民の生存権の保障」を、「『サービス』という名の営利事業」に変えたとの指摘がある。つまり、従来は民(=大企業)だと撤退する準公共財の供給事業を官が補完していたが、新自由主義はそれを否定し、「民(=大企業)こそ絶対だ」という単一の発想に基づいているという指摘である。 小泉政権下で進められた小選挙区制の導入、平成の市町村合併、郵政省の民営化などの構造改革もそうした流れの一環で行われていることなのだ。

 その流れの中では、人材派遣に象徴される労働者の使い捨て、「不良債権の処理」と称した中小企業潰しが横行し、「大企業は盛えて民(=労働者)は滅ぶ、首都は盛えて地方は滅ぶ」の二極分化が急速に進むと予想する論者もいるという。 そして日本国内の評価とは全く正反対に、新自由主義的な政策で国民経済が回復した国は実際には存在していないし、債務国の再建策として新自由主義的な経済政策を推し進めていたIMFも、2005年、その理論的な誤りを認めているというのだ。

 このような動きは政治・経済の範疇だけの話ではない。教育界も無関係ではないのである。 その象徴的な動きは、2004年10月5日の閣議後の記者会見で、当時の中山文部科学省が『学校でもこどもたちが競争意識を高め…切磋琢磨する風潮を高めたい』という趣旨の発言を行ったり、さまざまなメディアが「ゆとり教育(この言葉が現行の指導要領の趣旨にふさわしいかどうかは別にして)」を批判し「競争の教育」を無批判に礼賛している状況からも窺える。 イギリスではサッチャー政権下でこうした競争主義に基づく教育改革が行われたが、その弊害が浮き彫りになり、その反省のもとで大きな変化の兆しが見られるという。 競争がほんとうに学力を保障し学びを助長することになるかどうか、私たちはしっかり見据えて教育に当たらなければなるまい。


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