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小学校での英語必修化について考える [教育全般]

 行きつけの書店で新しい新書を見つけた。タイトルは『危うし!小学校英語』。
 著者は、英語の同時通訳者を経て現在は立教大学で教鞭を執っている鳥飼玖美子氏。
 文科省が小学校での英語教育を必修化しようとしているのは周知のことだが、いわば英語の専門家と言えるこの人がそのことについて警鐘を鳴らしているのだ。
 すなわち、多くの日本人が抱いている『幼いうちから英語に接しなければコミュニケーションに使える英語は身に付かない』という思いは大きな誤解であるとさまざまなデータをもとに指摘し、早期教育が必要だとする風潮とそれに追従した形で英語を小学校で必修化しようとする文科省の動きについて懸念しているのだ。
 英語についてはまったくの素人であるが、この指摘は重大であると思われる。
 文科省がこうした方針を打ち出したのは、日本国民の英語力を底上げし、「仕事で使える英語」を学ばせるべきだとする実業界からの要請と『やっぱり英語は話せた方がいいんじゃないか』といった程度の親の願望にも似た要望によるものであり、いわば確固たる方針や理念(例えば国際理解に対する理念、あるいは学校教育をどうするかといった考えなど)とは無縁な、目先の、そして教育に対する無理解な世論がそこで形成され、文科省もそれに乗ってしまったというのが実情ではないかと思われるのだ。

 私も中学校から大学の教養課程まで含めると計8年間英語を授業で学んだものの、流暢に英語を操り自在に外国人と会話をしている人を見かけるとうらやましさを感じるし、心のどこかで「読み書き訳す」だけの英語の学習では不十分だと思わないでもない。
 しかしそれは私たちの英語の勉強が「自分の言いたいこと」とは切り離した状況で文章を訳すこと、そのために単語を覚え文法を学ぶことに傾斜のかかった勉強が主だったことに依るところが大きいと考えている。
 英語に限らず、どの国の言語を駆使した会話を身につけようが、大切なことは「言いたいことがある、伝えたいことがある」という具体的な欲求がベースにあることではないか。
 そしてそのためには「言いたいこと、伝えたいこと」の中味こそ重要で、意味の希薄なことをただべらべらと言い表すのでは対話にはならないことは言うまでもない。
 そこで、「言いたいこと」を的確に表現することと併せて、「言いたいこと」の中味を吟味・検討・省察する力も重要になるはずだ。

 そう考えると、自分の言葉で考え、まとめ、相手が理解できるように(し易いように)話を組み立てるという力が「会話力」の大切な要素としてあることに気づかされる。
 それゆえ母国語でしっかり考え確かな表現ができることの方がよほど大事なことで、安易に英語の早期教育を施したところで、迂闊なことを英語で平気で口走る人間を育てるだけのことではないかとも根っこの部分で思っている。
 母国語の日本語でさえ正しく使えているとは限らないし、ただでさえ粗雑な表現が蔓延している状況である。粗雑な言葉からは粗雑な考えしか生まれない。なぜなら私たちは「言葉」でものごとを考えているからだ。
 英語教育を、いや英会話教育を叫ぶ前にもっと大切な母国語教育を真剣に考えるべきではないか。早期教育に依らずとも必要な状況におかれれば、あるいは学ぶ意志があれば、晩学であっても、いやむしろ晩学の方が確かな英語力は身につくようだ。
 それは、福沢諭吉や新渡戸稲造の例を見てもわかる。彼らはもともと学問の経歴を持ち、学力も相当高かったからではないかと言うのなら、ジョン万次郎や浜田彦蔵の例もある。
彼らは幼少時に何の教育も受けていない。乗っていた漁船が漂流し、アメリカ人に助けられて後、英語の環境におかれその生活の中で英語を身につけたのだ。

 このように教育に対する理念や理想とはかけ離れた「英語教育導入を求める風潮」を生んでいるのは、先に書いたように「英語を仕事で使える即戦力を持つ人間」が欲しいという実業界からの要請が一方にある。世界に伍して戦える企業としての競争力を獲得し、経済的に有利に立ちたいという願いがそこにはある。
 そして一方では、自分の英語学習が何の役にも立っていない、もっと英語を聞き分ける耳を育てること、そのためには早期の教育が必要だ、というコンプレックスから来る親の要望がある。つまり、「英語への怨念」あるいは「英語への憧れ」がないまぜになった焦燥感がそこにはあるように見受けられる。
 そして最も危惧されるのは、両者に共通している焦燥感が「他に勝ちたい」「他よりも優位に立ちたい」という願望をベースにしていることだ。
 競争の原理を教育に持ち込もうという政策とそれらがうまくかみ合い、この英語の必修化という動きを加速させていることは疑いようがない。つまり、これは教育論ではないところの全く別のまことに浅薄な論理による動きであり、ここに「教育」に対する高邁な理想や理念といったものは見つけにくい。
 そうしたことでますますプレッシャーを感じ、教育とは全く異なる次元で学習への意欲を喪失してしまう子どもたちが増えることを懸念するのは私一人ではあるまい。
 最もとばっちりを受けるのは子どもたちなのだ。


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KUKURU

こんにちは。
私は、英語教育に携わっているものです。小学校での英語教育必修化については、賛成派です。
しかし先生の基本的な問題提起の部分については、全く異論はありません。
すなわち、「国語教育の大切さ」「競争原理からの英語導入の必然性のアピールとなっていること」についてです。
 他にもいろいろな課題があることも事実ですが、それでも私は、やはりメリットを感じています。
 それは、小~中という流れで英語を考えると、今中学生に圧縮されている英語教育をもっとのびのびとできる可能性が高いということです。ゆとり教育と言われながら、時間数削減のわりに学習内容はそれほど変化していないのが中学校英語だと思います。もし小学校から導入すれば、少なくとも英語については本来の「ゆとり教育」を実現できるのではないでしょうか。

 国語教育充実は、ぜひともすべき重要課題だと思います。そして、外国語学習により母国語を別の視点から始めて意識化するという効用があると考えます。その意味では、やはり英語を学ぶことは、結果的に母国語、日本文化について意識する契機として役立つと思います。

 ただそれらの実現のためには、課題があることも事実です。そのためには教師の意識改革も必要でしょう。また、親の意識改革(先生が仰るような英語コンプレックスに対しての啓蒙)も大切だと思います。
by KUKURU (2006-08-04 14:25) 

Hirosuke

はじめまして。僕は27歳から英語を本気で勉強し始め、今では英文テクニカルライターをしています。正しいやり方ならば、大人になってからでも英語は身につきます。文法用語ばかり教える今の教育方法のまま、ただ時期を早めて「ゆとり」を持たせても、何の効果もないと考えます。英語を学ぶ前に、子供達にきちんと身につけてもらいたいのは、「てにをは」です。大人でもおかしな人がいることが、日本人の英語ベタの一因ではないかと思っています。
by Hirosuke (2006-08-05 04:29) 

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