SSブログ

ありがたいことである

 以前、このブログに「場の音楽」と題して記事を書いたことがある。
 このブログを通じてよく意見の交換をしている札幌市の笹木先生が、友人にその記事をご紹介くださったとのこと。昨夜、その友人という方が「場の音楽」の考えについてトラックバックをしてくださった。
 早速覗いてみると、ご自分の考えを縷々記した上で、この件について考える機会をつくってくれた私と私のブログを紹介してくれた「友人笹木君」に感謝します、というコメントで締めくくられていた。
 こうして音楽や音楽教育について意見の交換ができること、そしてそのことによって自分の考えを改めて見直す機会にできることはありがたいことである。

 その中で、次のようなことが述べられていた。
 それは、「場の音楽」について『誰かに聴いてもらうためでもなく、またコンクール等でよい評価を得るためでもない音楽活動』としたことについての感想である。
**************************************************************************************
 たしかに、コンクールで評価を得ること、演奏会として成立すること、商売になりうること、
結果的に音楽家としての評価を得ること、などなどは、音楽の楽しみとして「外発的」な理由、
動機であると思います。
 芸術的音楽行為の根底にある、自らのために自らが音楽を楽しむ、という姿勢、それが「場の
音楽」の姿勢であると、わたしは思います。
 そして、「誰かに聴いてもらう」という要素は、その「場の音楽」の要素として、必然的に要請
されるものなのではないか、という疑問があります。
 誰にも聞かせることなく、自ら演奏し、作曲し、録音して楽しむ、などなど、それ自体は、たし
かに個人的な「楽しみ」として成立します。
 わたし自身、いつもそのようにしてピアノを弾くことを楽しみますし、DTMのデータを作った
り、紙の上に作曲したりします。そこには残念ながら、「聞いてくれる人」はいません。
 しかし、よい音楽が出来たら、それを誰かに聴いてもらいたい、そして、その音楽する時間を誰
かと共有したい、という欲求が生じるのは、むしろ自然なことではないのだろうか、と思われるの
です。
 誰かにきいてもらうことによって成立する音楽的コミュニケーション。
 それも、やはり、「場の音楽」が必然的に要請する音楽的な要素なのではないでしょうか。
 芸術行為は、受け手に届いた時点で完成するものなのではないでしょうか。
 音楽それ自体の共有、そして、音楽する時間の共有を通じて、生きる時間を他者と共有すること。
それは音楽という楽しみにとって本質的なものなのではないでしょうか。……
*****************************************************************************************
 音楽がコミュニケーションの有効な手段であることは疑いようがない。
 誰かに伝えよう、わかってもらおうとするからこそ、ついつい自分の表現を自省的に振り返り確かめ、よりいっそう確かなものにしようとする心の動きも生じるし、そのことによって副産物として自己の表現能力を高めていこうとする動機とすることも期待できる。

 そして、未だはっきりと形作られた考えとしてあるわけではないが、そのコミュニケーションの相手
である「誰か」は第三者に限らないのではないか、ともおぼろげながら私は考えている。
 すなわち、表現主体である「自分」も重要な聴衆なのであり、自己に向かって問いかけ表現する
というコミュニケーションのあり方も否定できないのである。
 だからこそ、たとえそこに第三者がいなくても「独りピアノに向かって演奏すること」を楽しめるし、「DTMで作成したデータを聴いて」悦に入れるし、「ギターで弾き語りをして」飽きないということができるのだろう。
 しかも第三者を対象としていなくても、そこで表現をおろそかにするということもない。
 対象が自分自身だけであっても、メタ認知は機能するのだ。

 私は音楽に触れること、それ自体が「自己目的」としてあるという音楽行為をさして「場の音楽」と呼んでいるが、それは音楽によるコミュニケーションを否定するものではなく、自己に語りかけ問いかけるという活動の相があるということは見逃せない側面なのだ。
 そして表現し得たものを他の誰かに聴いてもらいたい、共有したいという欲求が起きるのは自然なことであると考えられるが、ここで重要なことはそうした場合であっても活動の当初からそのことを「目的」としてはいないだろう、ということである。

 第三者に聴いてもらいたいから「独りピアノに向かった」り「ギターを奏でたり」したわけではなく、
それ自体が楽しいから、それ自体を楽しみたいからという欲求に根ざした行為の結果を第三者に聴いてもらうというのは、「場の音楽」の考えから逸脱していないのである。
 一方、「ステージに向かう音楽」は当初から第三者に聴いてもらうということを目的とした活動であり、どちらを目的としているかという点による次元分けなのである。

 そして、音楽に触れ働きかけ演じる行為そのものを「目的」としている、という点では、ホイジンガの「遊び」についての考察と通ずるものがあるとも考えている。
 ホイジンガは言う、「問題はこれらの解釈(従来行われてきた遊びについての解釈)の大部分は、遊びそのもの、それ自体の本質については触れられていないことである」。
 ホイジンガは次のように主張する。
 遊びという概念は、それ以外のあらゆる思考形式とはつねに無関係である。遊びは「遊び」そのものとして取り扱うことが必要で、そして他の概念や対象とは独立に考察する必要がある。
 遊びそのものの意味を問わなければならない。すなわち、そこにおいては、遊びは、遊び以外の何かに貢献するということではなく、遊びそのものの中において完結するのである(遊びの「自己完結性(独立性、あるいは自己目的性)」と呼ぶ)。
そして、その自己完結性ゆえに、そこに「面白さ」があるというのである。

 またそうした状態でよく経験する没我の状態は「遊び」の楽しさ・おもしろさの表れであるとも言えるが、それはチクセントミハイの言う「フロー」の状態と通じるものがある。
 フローとは、物事に集中しているときに、楽しさゆえにそれに完全にとらわれ、他のものごと、雑事、雑音、時間の経過をも忘れさせるほどの状態を言う。そしてそれゆえに、フローは、あるものごとに没入するという経験を通じて、私たちの生活に「意味づけ」と「楽しさ」を与えるのである、とチクセントミハイは言うのである。

 いずれにしても私は「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」というように2つの側面で音楽の活動をとらえようとしてはいるが、二者択一でどちらがよいかを言おうとしているのではない。
 音楽教育、とりわけ義務教育諸学校における音楽科教育が「ステージに向かう音楽」の側面にのみとらわれすぎているのではないかと懸念し、もう一つの側面の重要さを見逃してならないし、その側面に光をあてて見直すことで音楽科教育が学習者にとって意味のあるものになるであろうと指摘したものなのである。
 「持つ様式」にばかりとらわれずに「~と共にある様式」もあることに目を向けることで、子どもたちが「みのりある音楽学習」を展開し、自己の音楽的成長に貢献できるような学習指導を工夫できるのではないかと考えているのである。
 そればかりではない。生涯学習社会において各人個々が「楽しい意味のある音楽体験」を通して
自分の世界を広げていく、喜びに満ちた音との触れ合いを体験することの意味を考えたとき、「場の音楽」の重要さはますますその意味を増すであろうと考えているのである。

 それにしてもトラックバックをいただいたことで、改めて自分の言おうとしていること、考えていることを見直し、より確かなものにしていく必要性を実感させられた。
 先にも述べたように、体系的にしっかりと築き上げたものになり得ていないことは百も承知である。
 おぼろげながらたどり着いたこの考えに、こうして感想や意見をいただくことで見直しができるということは本当にありがたいことである。感謝の一言に尽きる。


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学校

nice! 0

コメント 3

竹内一弥

先日トラックバックをさせていただいた竹内一弥と申します。この度は長文の御解説をいただき、感謝したします。
 仁田さんの仰る「表現主体である「自分」も重要な聴衆」ということは、まったくそのとおりだと思います。
 文学においては「書く人」こそ第一の「読み手」であるのと同様、音楽においては演奏者自身が第一の聴衆であります。そのことに疑いはありませんし、それは忘れてならない重要な指摘であると思います。

 また、自己目的的な音楽表現行為である「場の音楽」が、自己に語りかける相を有する、という点において、仁田さんのご認識と私の考えはまったく異ならないと思います。
 その「自己」への問いかけ、それこそが、芸術行為の「核」であると思います。
 自ら楽しむために(すなわち「自己」へ問いかけるために)行うものでないならば、それは芸術行為の名に値しない、と考えます。

 また、「音楽科教育が「ステージに向かう音楽」の側面にのみとらわれすぎている」との懸念、「場の音楽」の側面を見直すことにより、音楽科教育が学習者にとって意味のあるものになるであろう、との御指摘も、まさに同意・共感するところです。

 例えて言えば、「ステージに向かう音楽」や「ステージに向かう絵画」や「ステージに向かう作文」(=第三者への発表を目的として外形を整える作業)を生徒に行わせることは比較的容易であっても、「場の音楽」「場の絵画」「場の作文」すなわち、それ自体を楽しむ、ということを教えることははるかに困難であって、かつ本質的に重要なことであると思われます。
 (多くの心ある教師のみなさんが、教育の場でなさねばならない「ステージに向かう音楽」の実現過程(ex.合唱コンクールなど)に、なんとかして「場の音楽」である自己目的的な音楽の喜びを注ぎ込もうと、日々ご苦労されていることと存じます。)

 もし、仁田さんのお考えと私の考えに、相違点があるとすれば、それは「場の音楽は誰かに聴かれることを求めるか」という論点を巡ってであろうと感じます。

 私の把握が正しいならば、仁田さんのお考えは、自己も重要な聴衆であり、「場の音楽」は自己完結的に成立しうる、ということではないかと考えます。
 私自身、先日の文章でも書きましたとおり、自分(だけ)のために音楽行為を行っておりますし、そこに「場の音楽」は成立している、と思います。
 つまり、仁田さんのお考えに対して反論することは何もありません。
 そのうえで、わたしは何故、「場の音楽」が誰かに聴かれることを要請するのではないか、と感じるのでしょうか。

 その理由は、「場の音楽」すなわち、芸術行為としての音楽の核である「自己目的的な音楽」そのものが、自己発展的な契機を持っていると感じるからです。
 よい曲が書けたら、もっとよい曲が書きたくなる。よい演奏が出来たら、もっとよい演奏がしたくなる。それが自己発展的な契機とここで呼んでみた事柄です。それは、私には、芸術行為そのものがもつ本質的な要素であると思われます。芸術が本質的にそういう契機を持たないとすれば、人類の芸術がここまで高度に発展することもないのではないか。発展、より高い次元での自己実現を求める性質が、人間の行為である「芸術」には本質的に含まれているのではないか。
 さらに言えば、芸術にとどまらず、スポーツであっても(より速く!より高く!)、ゲームであっても(より巧妙に、確実に相手を負かす!)、およそ人間の「遊び」であるものは、そのような自己発展的な契機を含むのではないか、と感じるのです。
 (これはあくまで、芸術そのもの、遊びそのものが本質的に持つ性質と考えています。ホイジンガの言う「遊びの自己完結性」の内部に、そのような自己発展的な契機があると考えております)

 では、人が「音楽」をし、より高い(よい)表現を求めるときに、その成長の方向性を見定め、しかるべき方向へと導くことが出来るのは誰かといえば、それは第三者である聴衆ではないでしょうか。それは、学校現場では教師であり、あるいは友人であるでしょう。あるいは、発表を聴きに来た来賓や保護者も聴衆となるでしょう。
 むろん、表現者自身の内部にも、客観的な判断を行おうとする「第三者的自己=批評意識」が存在します。その意味では、自己の判断だけで、自己を成長させることも可能ではありますが、それは常に「自己満足」に陥る危険性を持つといえるかと思います。

 (仮に、「自己満足」でかまわない、「正しい成長」など不要なのだ、とするならば、そこに「教育/学習」は不要となるでしょう。なぜ、音楽教育があるのかといえば、それは生徒が所持する可能性のある、自己目的的音楽行為(=「場の音楽」)の自己発展的契機を触発する点にこそあるのではないでしょうか。)

 より高い音楽行為を目指す喜びを知った者は(=音楽の自己発展的契機の内面化)、自己の目指す方向性が妥当であるかどうか、どうやって知るのでしょうか。
 おそらく、他者の音楽性との比較対照を通して、自分の音楽性のあり方を位置づけ(マッピングし)、これから進むべき方向性を知ろうと願うのではないでしょうか。そのための一番確実な、あるいはそのために必要不可欠な手順が、「第三者に聴いてもらう事」なのではないか。……以上が、わたしが、「自己目的的音楽行為が、本質的に誰かに聞いてもらうことを要請する」と考えた理由の、道筋であります。

 ……以上は、ほんの一つの着想にすぎず、なんら、実証的に検証されたものではありません。間違っていることも大いにありえます。
 ですが、そういう疑問、問題点を、自分の目の前にたしかに掲げておくために、あの文章を書きました。

 こうして、考えるきっかけを与えてくださった仁田さんへの感謝の意を再度申し述べて、筆を擱きたいと思います。
 ありがとうございました。
by 竹内一弥 (2007-01-20 01:48) 

笹木 陽一

 私が先生の「場の音楽」という記事と偶然出会い、コメントを書かせていただいたのが約1年前。その時の着想が発展して、校内研修や10年者研修につながり、教育基本法改悪という大きな変革の中で、自らの考えを整理して論ずるという機会を与えていただきました。その議論に、私が学生の頃大変お世話になった(知的に大きな影響を受けた)先輩である竹内さんが加わってくださいました。長谷川君の時もそうでしたが、日常は別々の世界で生きている昔懐かしい知人達と、時と場所を越えて、期せずして出会えるインターネットの世界の可能性に改めて驚いています。
 改めて仁田先生と竹内さんの議論を拝読して、鍵となるのは「自己」概念のあり方なのではと思いました。ホイジンガにおける「自己完結性/自己目的性」に「自己発展的契機」の内包を見る竹内さんの思考は、私が秋にまとめた資料の中の「表現力育成と自己実現の関係」に近いのではと感じました。少し長いですが、以下に引用させていただきます。

 小島律子は、表現を「外的なものの働きかけによって生じた自分の『内なるもの』を、素材を通して自分の身体の外に表す事」と定義している。元来「表現」という言葉はEx-pression(英)、Aus-druck(独)の翻訳であり、「外に-押し出す」という意味を持っている。小島によれば、まず外的刺激が知覚され『内なるもの』(内的表象/S.ランガーの「内的経験」)が形成される。それを外に表そうとするのは「自分の心を客観化する事で自分の存在を確認したい」からだという。『内なるもの』が生じると、それを把握・整理する心的作用が働き、それに適した表現形式や技能を通して「表現」として外在化される。こういった「表現過程」の繰り返しは、まさに「問題解決の過程」と言っても良いであろう。この過程を通して外界と自己との相互作用が生じ、そのズレからまた新たな「内なるもの」が生まれ、新たな表現が形成される。まさに「表現」の過程は自己の内面の葛藤を形式化し外在化するという意味で、自己実現の過程に他ならない。アメリカの音楽教育学者マーセルは音楽的能力について「生徒自身によってまず発見されなければならない」としながら、「子どもの内にあるものを子ども自らが発見するような指導」が必要だという。「この漸進的な自己発見を通して、色々な才能が外へ現れ」るのであり、「音楽的自己発見と自己表現を生徒にさせるためには、確実な基礎の上に教育課程が組織されなければならない」ともいう。この言葉はロシアの心理学者ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」という考え方を連想させる。彼曰く「発達は内的要因に規定されつつも、それを先廻りする教育的働きかけによって促される。教育は現在の発達の状況によって規定され、次の働きかけを待って発現する事のできる可能態である発達の最近接領域への働きかけであり、その事によって学習者に適度な背伸びを促す教育こそが追求されなければならない。」 (中略) これらの論を総合し、外界と自己との相互作用の中で「発達」と「教育」を関連させながら「表現」を捉え直す事で、改めて「表現力の育成とは自己実現である」という事がみえてこよう。

 抽象的な物言いでわかりづらくて申し訳ありません。この論考ではその後、市川伸一や伊藤進といった心理学者の動機付け理論を参照しながら、主体形成における内発的な動機(市川伸一のいう「内容関与的動機」)の重要性を論じたのですが、それは竹内さんが言うところの音楽教育の存在理由「生徒が所持する可能性のある、自己目的的音楽行為(=「場の音楽」)の自己発展的契機を触発する」とも関連するのだと思います。仁田先生はもっとシンプルに、神谷美恵子を引用しながら「ホモ・ディスケンス(学ぶ人)」と人間を捉えていらっしゃいます。「人間は元来、知りたがりの好奇心にあふれた存在である」と見ることによって、学習の能動性を担保するその思考に、私自身も大きく影響されています。竹内さんが指摘する「第三者的自己=批評意識」というのは「メタ認知」のことかと思いますが、メタ認知に他者の評価が重要な役割を果たすというのは、多くの学者が指摘しているところです。「自己満足」に陥らずに、「他者」という回路(ジラールの欲望論をイメージしてください)を通して「より良い自己に向かう」為には、竹内さんの指摘する「自己発展的契機」がなければなりません。(「より良い」とか「より正しい」とか「より高い」という言い方に、若干社会進化論的な一元的価値基準の存在を感じ、不適切な気もしますが…)自己発展的契機を触発するものとしての「他者」の存在、より具体的に学習の場において考えるならば、教師による形成的評価や学習者同士の協同的な学び、仁田先生の言葉を借りれば「学習環境のコーディネート」の問題が、より深く論じられるべきなのだと思います。これから先は、今私が取り組んでいる本校校内研究のまとめに譲るとして、竹内さんが指摘された「音楽の自己発展的契機の内面化」を市川伸一のいう「充実指向」と捉え、内発的な動機付けと関連させながら、私の研究テーマである「自ら学ぶ」と関連させて考えてみたいと思います。竹内さんには、秋に私がまとめた研究資料を近日中にお送りしようと思います。もし良ければ私の論考に対しても、ご意見を頂けるとありがたいです。またもまとまりのない長文となってしまい申し訳ありません。今後ともいろいろと教えていただけますよう、重ねてお願いいたします。
by 笹木 陽一 (2007-01-20 19:50) 

竹内一弥

仁田様、笹木君、お世話になっております。竹内一弥です。

さて、笹木君のコメントに関して、いくつかお尋ねしたいことがあります。
しかし、今はそれをまとめる余力がありません。
いずれ近いうちに、自分のブログのほうに掲載したいと思いますので、ご覧いただければ幸いです。
http://montserrat.jugem.jp/

(予断ですが、メールアドレスを持たない笹木君のために連絡所を設けました。ご自由にお立ち寄りくださいませ)
http://montserrat.jugem.jp/?cid=8

駄文にて失礼いたしました。
by 竹内一弥 (2007-01-21 00:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。