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続ー活動の二つの相

 先日の続きである。
 このブログ内の記事「場の音楽」についてコメントをお寄せくださった竹内氏からの感想に次のような一文がある。至極もっともな意見である。

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よい曲が書けたら、もっとよい曲が書きたくなる。よい演奏が出来たら、もっとよい演奏がしたくなる。それが自己発展的な契機とここで呼んでみた事柄です。それは、私には、芸術行為そのものがもつ本質的な要素であると思われます。芸術が本質的にそういう契機を持たないとすれば、人類の芸術がここまで高度に発展することもないのではないか。発展、より高い次元での自己実現を求める性質が、人間の行為である「芸術」には本質的に含まれているのではないか。
 さらに言えば、芸術にとどまらず、スポーツであっても(より速く!より高く!)、ゲームであっても(より巧妙に、確実に相手を負かす!)、およそ人間の「遊び」であるものは、そのような自己発展的な契機を含むのではないか、と感じるのです。
 (これはあくまで、芸術そのもの、遊びそのものが本質的に持つ性質と考えています。ホイジンガの言う「遊びの自己完結性」の内部に、そのような自己発展的な契機があると考えております)
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 人間は場のモードで「遊ん」でいるにしても、そこでは常に「自己発展・自己成長」の目を持っていることは疑いようのないことである。
 そのことについては、次の一文に凝縮させたつもりである。

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 だからこそ、たとえそこに第三者がいなくても「独りピアノに向かって演奏すること」を楽しめるし、「DTMで作成したデータを聴いて」悦に入れるし、「ギターで弾き語りをして」飽きないということができるのだろう。
 しかも第三者を対象としていなくても、そこで表現をおろそかにするということもない。
 対象が自分自身だけであっても、メタ認知は機能するのだ。
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 それは、このブログ内の〈「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」〉という記事にも書いた通りであるが、「よりよいもの」をめざして活動するというあり方は、場のモードが自ずと内包していることなのだ。(多少長くなるが以下引用)

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 私の家のはす向かいに建つ家には小学生の兄弟がいる。二人とも野球が大好きである。 休日ともなると二人でよく家の前の道路に出てきてキャッチボールをする。試合に出るため、あるいは試合で勝つための練習としてのそれではなく、単に遊びとしてするのである。それでも声をかけ合って文字通り一生懸命遊ぶ。兄弟のうちどちらかが何かの具合で欠けると、ブロック塀に向かって一人でボールを投げて的当て遊びのようなことを何時間も飽きずにしている。
 キャッチボールをするにしても的当てをするにしても、「今度はうまくいった」「思い通りに投げられた」「うまくボールをキャッチできた」などと知らず知らずのうちに自己評価しながらしているのであろう。だからこそ飽くことなく何度でも挑戦するように無心で遊べるのだろう。

 この例に見るようにスポーツには「試合に向かうスポーツ」だけではなく「場のスポーツ」の姿があるように、音楽にも「ステージに向かう音楽」だけではなく「場の音楽」があると、思うのである。
それはいわばスポーツや音楽を「PLAY」すること、すなわち「遊び」であり、その場で深く楽しむ姿として現れる側面である。
 そして、私はそうした「遊び」の中でこそ、そして無目的な「遊び」だからこそ、修行や訓練、あるいは誰かに指示されてする練習では得られないであろう大切な能力や資質が知らず知らずのうちに結果として身についていくのではないかと考えている。

 柳生力も次のように指摘している。
   目的をもって遊びを行なおうとするとき、遊びは失われてしまうであろう。
   遊びの夢中と無心と真面目がもたらす結果の大きさに着目すべきである。
             『感受性はどこへ』音楽之友社
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 「自律的な学習」を仕組む上では、こうした視点を抜かすことはできないはずである。
 よさの実現を求めて活動を展開し、自己の活動の成果や方法を絶えずチェックしながら自己の学習をコントロールしていく、という姿が自律的な学習の姿だからである。
 しかし、時とするとそれは独善に陥る危険性を有しているということは誰しもが思うことである。
 
 そこで、一つには「みんなと共に学習をする」ことの意味がいっそう大切なものとして浮き彫りになる。
 友だちの学習の様子を見、成果を見、考えを聞き、めざす方向を伝えあう中で、「なるほど、こんな方法もあるのか」「どうしたらそうできるのか」「自分にできることは何か」など、さまざまな示唆を得たり発見や問いが生じ、それをまた自己の学習活動に生かすことができるからである。
 しかし、他からの批判や批評を常に素直に受け入れることができるかと言えば、その保障はどこにもない。他からの批判や批評が自己のめざす「よさ」、自己の工夫と何の接点もない場合やお門違いの場合はなおのことである。

 そこで、もう一つ大切な提言がある。
 それは「問い返しのある学習環境を」ということである。(拙著『総合学習時代の音楽科教育』に詳述したが、ここでは割愛する。『コンピュータと音楽の学習』にも同じ趣旨の記述をしたのだが、残念ながらこれは絶版になってしまった。)
 従来、学習者の成果や方法について「問い返してきた」のは教師であり、同じ学習課題に取り組む友だちであった。しかし、そこでは自分の学習を自分でコントロールしているという「指し手感覚」を充足させることは困難であった。むしろ、それを阻害するおそれさえあったのである。
 そこで、教師の最大の役目として、学習者の対象への働きかけを鏡のようにリフレクティブにありのままに反映し、学習者がそれを受け止めることで「ついつい自省的に振り返り、さらによいものをめざそうとする」心が動きが生じるような環境を整えることの重要さが考えられるのである。
 「問い返される」とは言いながら、現実に問い返しているのは自分自身である。
 すなわち自己評価しながら、しかも他ならない自分自信の手でより確かな学習の成果をめざせるであろうと考えるゆえんであるが、そこでは感性の働きが重要になる。
 感性(価値観に支えられたよさに気づく感覚)をベースに自己の成果を「問う」ことがなければ「よりよいもの」をめざして粘り強く額に汗して飽かない、深まりを求める活動など期待できないからである。
 マーセルが「音楽教育は聴くことの教育だ」としていること、マチスが「絵を描くのは手ではない。目で描くのだ」としていることは、まさにその点にある。
 感性が育つような学習指導を通し、情操(よさをめざそうとする心の動き)が培えるような教科「音楽科」の学習指導を構想し展開していくことが何より大切なのである。

 しかし、それにしても教科の学習指導は言うほど単純ではない。
 学習者自身が「指し手感覚」を実感しながら、自分で手に入れたものとして学習の成果と新たな問いを手に入れることができるように、どのような視点で授業を構想するか、学習が成立するためにはどのような要素をどう案配するか、それを具体的な学習の場でどう準備をするか、などといったことについて子細に検討・実践・検証する過程を経なければ、ついには「教えなければ育たない」「教えた方が効率的」といった安易な結論にしか行き着かないであろう。

 他者による評価だけでは「感性」も「情操」も育つには不十分であるし、客観的な第三者の評価があれば「感性」や「情操」が必ず育つという保障もない。
 自己評価だけでもそれは同様である。
 両者が複合的にうまく絡み合うことも必要だろうし、学習内容によってはその比重に軽重も異なることも予想される。また、他者による評価であっても、「我がため」として積極的に受け容れることのできるような(あるいは受け容れたくなるような)学習内容として、教師が学習者に提示できるかどうかが大切になるであろう。

 感性を無理なく自然に働かせながら、自己の学習を見つめたくなるような学習、見つめることのできる環境での学習を通して、しかも他者の評価も謙虚に受け容れられる、受け容れたくなるような心の動きが生じるような学習環境をつくりあげていくことがどうしても望まれるのである。


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笹木 陽一

ご無沙汰しております。二回にわたり新たに「場の音楽」を巡って内容の濃い論考をお示しいただき、感謝いたします。思い返せば、私が先生のブログに初めてコメントを書かせていただいたのが、ちょうど1年前でした。実をいうと、あの時は音楽教育のことについて真面目に調べていたわけではなく、吹奏楽部の校内演奏会の曲目解説を書くのに「アマリリス」という曲の作曲者が知りたくてインターネットで検索したところ、先生の「アマリリスが咲いた」という記事にあたり、それで他の記事を見ているうちに「場の音楽」の記事を読む機会を得たのでした。(実は昨日、1年前と同じ校内コンサートを終えたばかりです。)先生が「場の音楽」と「ステージに向かう音楽」を、二項対立ではなく「それぞれのモードを往還しつつ日常的な活動を展開し、体験をしているはず」と捉えていらっしゃるのは、正にその通りだと思います。昨日の演奏会でも、観客を意識して人に聴いてもらう「ステージ志向」でありながらも、もっと上手くなりたいと「解決に向けて夢中で取り組む」中で、「対象(作品や楽器)の持つ価値」や「演奏行為それ自体の価値」に気づき、音楽と自己とのかかわりをさらに深めていく「場のモード」が確かに存在していました。部活動の指導をしていると、「純粋に楽器を吹くのが楽しい」とか、「音楽が好きだ」といった内発的な動機付けが強い分だけ、よりよい自分を求めようとする「自己発展的な契機」(竹内氏)の存在が明らかだと感じることがあります。私はこういった「自己発展・自己成長」を促す場所としての部活動の価値をとても重視しているのですが、昨日の演奏会を終えて反省しているのは、子どもの「指し手感覚」を大切にしたいと思いながらも、本番に間に合わせるために子どもの理解や能力を配慮せずに「教え込んでしまった」部分が多くあったということです。先生が仰る「自分で手に入れたものとしての学習の成果と新たな問い」を大切にしたいと思いながらも、何とか恥ずかしくない状態にさせたいという、教える側のエゴが前面に出てしまいました。「たくさんの時間をかけてやっているのに、これくらいしか吹けないのか」と保護者に言われたくないというのもありました。それこそ「子どもの発達・成長」とは何の関係もないのに、自分の都合で子どもを道具にしてしまったのではないかと、深く反省しています。「教えた方が効率的」と思ったわけではないですが、本番で吹けなくて悔しい思いをさせたくないと、杖をつきすぎてしまった部分があります。「教えすぎない」事によって自らの学びを意識させ、「自ら学ぶ」主体に育って欲しいと口では言いながら、実際には「こう吹きなさい」と指示して、子どもの自発性や主体性を奪っている自分がいます。「対象が自分自身だけであっても、メタ認知は機能するのだ」ということに理念としては共感しながらも、子どもの「メタ認知能力」を信頼し切れていない自分がいるのです。今回、私の妻がこども達の伴奏を引き受けてくれたのですが、彼女のスタンスは私と違って、「どんなに未熟な音楽でも、それを聴き取って寄り添う」というものでした。彼女は決して教えこみません。外側から「こう歌え」というのではなく、音楽を描く基本(拍節感や旋律の力動性、和声感)をしっかり感じさせた上で、「自分で歌える力」を身につけさせなければ意味がないといいます。即ち音楽における「読み書き能力=ソルフェージュ」をまず育てることが先決であり、そういった基盤がないところで高度な要求をしても、子どもも指導者も共に苦しむだけなのではないかというのです。私もそれに全面的に共感しますが、コンクールや演奏会で成果を挙げることが目的化してしまうと、どうしても子どもの発達に寄り添った選曲ではなくなってしまい、お互いに無理をする結果となってしまうのです。今回の選曲も個人コンクールに出場させることを前提に選んだものですから、楽器を持って2年も経っていない中学生に、テレマンやグラナドスといった高度に技巧的な作品を与えることになってしまいました。それでもこども達は意欲的に練習し、めきめきと上達したのですが、本番までに完成するはずもなく、結局最後は私が振り付けをして終わってしまう…。子どもたちは「コンクールに向けて、金賞をとるために歌わせるといった外発的な動機付けでは、結局楽曲の価値やそれを演奏する喜び、といった本質的な物に迫れないと感じていました」と1年前に書きながら、実際には「ステージに向かう音楽」へと外側から彼らを追い込んでいる自分がいます。こども達は「本番でいい演奏がしたい」という目的を持っており、ステージ志向であることを積極的に引き受けているので問題ないようにも思いますが、果たして「いい演奏」とは何なのか。「人から評価される上手な演奏」なのか、「自分が納得のいく演奏なのか」。この2つは決して対立的であるばかりではないのでしょうが、後者を大切にしたいと思うと、どうしても時間がかかり、手っ取り早く「形を整える」ことをせざるを得ない。
「出来が未熟であっても、いつかその人にとって納得の行くものができればよい」と覚悟を決めて、自律的な学び手を育てることに徹することができればよいのですが、限られた時間の中で、どうしても目に見える変化や成果を求めてしまう(学ぶ側も教える側も)。妻には「何をあせっているの、今できなくてもいいじゃない」と言われてしまいました。
by 笹木 陽一 (2007-02-05 19:16) 

笹木 陽一

(続きです)「確かな学力と規範意識」を全ての生徒に身に付けさせる、という安部首相のスローガンを現実のものとするべく、教育基本法が変えられ、教育再生会議も第1次報告を示し、教育関連法案の改正も今国会で目指されているという今日、「子どもの側に立った教育実践」をどこまでも貫こうとする事の難しさを、今さらながら感じています。実は敵は外側にあるのではなく、自分の内側にあるのではないか。子どもの側に立ち切れない「待てない自分」がいて、子どもの健全な発達を阻害しているのではないか。今後ますます教員に対する「評価」の視線が厳しくなり、国が決めた教育内容や目標を実現しているかどうかをチェックする風潮が強まることが予想されます。しかしそんな中でも「できないこともその人の良さである」と、子どもの有り様を認め、励ます教育を求めたいと思います。様々な外圧に負けて「何でできないんだ」と目標管理する、安易な方向に流されそうな自分と戦いながら、目の前にいる子どもの現実に寄り添って、その子の「発達の最近接領域」を見極め、係わり、育てるというスタンスに立ちたい。そのためにはまだまだ教師としての力量形成が必要なようです。「教える論理」からいかに逃れることができるか。自分の中にある成果主義、態度主義、形式主義をいかに乗り越えるか。自分の力量不足を痛感している今だからこそ、しっかりと考えて実践を積み重ねたいと思います。今月末までに本校の3カ年研究のまとめを仕上げなければならない状況の中、言葉だけではなく、実際に子どもと係わる中で、自分の思いと行動が裏腹とならぬよう、気を引き締めてやっていきたいと思います。今回もまとまらず長くなってしまいました。失礼いたします。
by 笹木 陽一 (2007-02-05 19:17) 

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